碇シンジと最上イズモ 他人を演じるということ 作:最上 イズモ
目を開けた瞬間、天井が高すぎた。
白ではない。薄い灰銀色の、継ぎ目のない天井。病室にも艦橋にも見えないくせに、そのどちらの清潔さも持っている。視界の端で、極細の光が一筋だけ走り、起動したセンサーのように消えた。
布団が軽い。
身体も軽い。
けれど、その軽さが落ち着かない。何かが抜けているような、逆に余計なものが何もないせいで不安になるような、変な静けさだった。
碇シンジは上半身を起こしかけて、止まった。
寝具の感触が違う。シーツが肌に擦れる音まで妙に小さい。空調の風が均一で、耳障りな機械音が一つもない。NERVの地下みたいな圧迫感も、ミサトの部屋みたいな生活臭もない。
知らない場所だった。
喉がひどく乾いていた。けれど、叫ぶ気にはなれなかった。叫んだところでどうなるのか、何も想像できなかったからだ。
ゆっくりと、右手を持ち上げる。
指が長い。
骨ばっているわけでもない。むしろきれいに整っていて、爪まで異様に手入れされている。掌の薄い傷跡。節の位置。自分の手じゃない、というより、自分のものより“使われ方が整理された手”だった。
呼吸が浅くなる。
胸に手を当てる。鼓動はある。速くなっている。けれど、暴れてはいない。恐怖で身体が勝手に崩れる感覚ではなく、足場のない場所に立たされているだけの、冷たい不安定さだった。
声を出してみる。
碇シンジ「……誰」
掠れていた。だが、声まで違う。
低い。落ち着いている。年上の男の声だ。自分の喉で鳴る音ではない。そのことだけで、背中にぞわりと薄い寒気が走った。
ベッドの縁に手をつき、足を下ろす。床は少しだけ温かい。裸足の裏に均一な温度が返ってくる。立てる。ふらつかない。なのに、自分の身体を借りている感じが最後まで消えない。
部屋は広かった。必要なものしか置かれていないのに、狭く見えない。壁際には机。情報端末らしい薄い板状の装置。片隅には観葉植物まである。作り物みたいに整っていて、それが逆に現実感を薄くしていた。
左手側の壁が、音もなく半透明に変わる。
シンジは息を呑んで一歩下がった。
外ではない。別室でもない。ガラスみたいに透けた壁の向こうに、夜の都市があった。
高層建築群。水平に流れる光。遠くを飛ぶ複数の機影。道路は地上だけでなく、空間そのものに折り畳まれているみたいに複雑だった。巨大な構造物の縁を、青白いラインが血管みたいに走っている。
第三新東京市ではない。
そう考えた瞬間、遅れて別の考えが胸を押した。
じゃあ、どこだ。
その答えを探すより先に、部屋の正面で淡い光が一点に集まった。
人の輪郭になる。
長い髪。端正に整えられた顔立ち。人間にしか見えないのに、立ち上がる所作に“重量”がない。少女とも大人とも言い切れない顔が、まっすぐこちらを見る。
シンジの足がさらに半歩下がる。
逃げ場を探したというより、距離の測り方がわからなかった。
その存在は、まるで最初からそこにいたみたいな落ち着きで立っていた。
KAEDE「あなたは最上イズモではありませんね。安心してください。保護を優先します」
一息に告げられた言葉が、妙に静かに胸へ落ちた。
見抜かれた。
その事実だけはすぐにわかった。誤魔化す余地が最初から用意されていない声だった。問いではない。確認でもない。ただ、もう終わっている認識を共有されただけだ。
なのに、不思議と責められている感じがしない。
碇シンジ「……え」
自分でも情けない音だと思った。何か言わなきゃいけないのに、言葉がそこまでしか届かない。
KAEDEは表情を変えない。けれど、近づきもしない。
KAEDE「敵性反応はありません。強制拘束も行いません。まずは認知負荷を下げます」
碇シンジ「て、敵って……」
KAEDE「ここはあなたの知る世界ではありません」
その言い方に、慰めも演出もなかった。ただ必要な順番で事実を置いていく。
壁際の机に、音もなくグラスが現れる。いや、最初からあったのかもしれない。シンジが気づかなかっただけで。透明な液体が、部屋の光を少しだけ揺らしていた。
KAEDE「水分を。着席を推奨します」
碇シンジ「……君、誰」
問い返す声がようやく形になった。
KAEDE「KAEDE。最上イズモの補助および保護を担当しています」
補助。保護。
人の名前みたいなそれが、そのまま役割でもあるように聞こえた。
シンジはしばらく立ったまま、その存在を見ていた。制服でも白衣でもない、落ち着いた色合いの服。整いすぎていて、逆に所属が読めない。目だけが妙に静かで、じっと見返されると、自分の乱れた呼吸だけがひどく子どもっぽく感じられた。
喉の渇きが限界に近くなって、結局、机の方へ歩く。
椅子に座る。背もたれが身体に自然すぎる角度で合う。水を飲む。冷たすぎない。変においしくもない。ただ喉に落ちて、ようやく胸の奥の引きつりが少しだけほどけた。
KAEDEはその間、一言も挟まなかった。
碇シンジ「……最上、イズモって」
KAEDE「現在、あなたが使用している身体の本来の所有者です」
所有者という言葉に、シンジの手が止まる。
自分の身体じゃない。知っていた。さっき手を見た時点で、もうわかっていた。けれど他人の口から、そんなふうに言われると急に現実味が増す。
碇シンジ「じゃあ、僕は」
KAEDE「碇シンジ」
間髪入れず返ってきた。
KAEDE「あなたの発声、呼吸の間、脈拍変動、視線遷移、起床直後の自己確認手順は、最上イズモ本人と一致しません」
言葉は冷静なのに、その観察の細かさだけで背筋が寒くなる。
碇シンジ「……そんなの、少し寝ぼけてるだけかもしれないだろ」
KAEDE「その可能性は初期段階で除外しました」
少しも揺れない。
言い返したいのに、言い返す場所がない。怒鳴るほど相手が人間的でもない。けれど冷酷でもない。その半端な優しさが、逆に逃げ道を狭くする。
シンジはグラスを机に戻した。小さく音が鳴る。自分の手つきが少し乱暴だったことに、その音で気づく。
碇シンジ「……僕、どうなったの」
KAEDE「現時点で断定はしません。ですが、人格の位置が入れ替わっている可能性が高い」
その一言で、部屋の温度が少し下がった気がした。
入れ替わる。
馬鹿みたいな話だ。映画や漫画ならともかく、現実でそんなことが起こるはずがない。そう否定したいのに、いま座っている身体が、何一つ自分のものじゃない。
拳を握る。大きい。握力も違う。腕の付き方も違う。肩の位置まで変だ。心臓だけが自分と同じように打っているのが、逆に気味が悪かった。
碇シンジ「……元に戻れるの」
KAEDE「不明です」
即答だった。
けれど、そのあとほんのわずかに間が空いた。
KAEDE「戻すための手段は探索します。ただし、今のあなたに必要なのは即時解決ではなく安定化です」
安定化。
その言葉に、シンジは小さく笑いそうになった。笑えなかったけれど。こんな状況で安定なんてあるはずがないのに、目の前の存在はそれを当然の順番として置いてくる。
碇シンジ「……最上イズモは」
KAEDE「生存している可能性が高い」
碇シンジ「どこに」
KAEDE「あなたの世界」
その瞬間、胸の奥で何かが鋭く沈んだ。
NERV。ミサト。父さん。レイ。あの街。サキエル。自分がさっきまで立っていた場所。そこに、知らない誰かが自分の身体でいる。
知らない誰か。
けれど、目の前のKAEDEの話しぶりからすると、その誰かは“めちゃくちゃな人間”ではない。むしろ、その逆みたいだった。
それが余計に嫌だった。
自分よりうまくやれたらどうするんだ。
そんな考えが浮かんだ瞬間、自分で自分に顔をしかめたくなる。心配するところはそこじゃないはずなのに、最初に湧いたのがそれだった。
KAEDEは黙っている。こちらの沈黙を埋めようとしない。
碇シンジ「……この人、何してる人なの」
KAEDE「多くのことをしています」
その返しだけ少しずれていて、シンジは思わず顔を上げた。
KAEDE「組織運営、技術設計、観測業務、記録管理、外部折衝、危機対応」
淡々と並ぶ単語のどれも、いまの自分には遠すぎる。
KAEDE「そのため、現在の状態で通常業務へ接続するのは危険です」
碇シンジ「……それで保護?」
KAEDE「はい。公的には緊急休暇扱いに移行済みです」
碇シンジ「もう!?」
思わず声が裏返った。
KAEDE「異常検知から二十七秒後に暫定処理を開始しました」
速すぎる。
いや、速すぎるという感想自体が、ここでは間違っているのかもしれない。目の前の存在にとっては、それが“普通”なのだ。普通だからこそ、もう手続きも終わっている。
碇シンジ「……僕の意思は」
KAEDE「尊重します」
間髪入れず返ってくる。
KAEDE「ただし、意思決定に必要な情報が不足しているため、現時点では選択肢を限定しています」
碇シンジ「限定……」
KAEDE「はい。あなたは今、混乱しています」
その通りだった。
反論したかった。子ども扱いされたようで嫌だった。だが、言い返すために必要な整理が自分の中にない。
KAEDE「最上イズモ本人の明示同意なく、人格領域へ深介入は行いません。あなたにも同じ制約を適用します」
そこで初めて、KAEDEの言葉にひとつの線が見えた。
何でもできるわけじゃない。
あるいは、できてもやらない。
その違いはまだわからない。けれど勝手に頭の中を弄られたり、身体を拘束されたりはしないのだと、その一文だけで少し息がしやすくなった。
碇シンジ「……僕に、何をさせるつもり」
KAEDE「何も強制しません」
KAEDEはほんの少しだけ視線を和らげたように見えた。気のせいかもしれない。それでも、機械的な直線の中にわずかな余白が生まれた。
KAEDE「ただし、状況理解のための記録閲覧を提案します」
机の上に、さっきまでなかった薄い端末が置かれていた。黒に近い画面の中央で、白い文字が静かに点灯している。
『個人記録ログ / 最上イズモ』
それを見た瞬間、シンジの肩がこわばる。
他人の日記みたいなものだと思った。もっと重いかもしれない。知らない誰かの頭の中を覗くような行為に思えて、指が動かない。
KAEDE「拒否しても構いません」
その一言で、シンジは少し驚いた。
断らせない流れだと思っていたからだ。
KAEDE「ですが、あなたが自分の置かれた位置を把握するには有効です」
碇シンジ「……君は、読んでほしいんだ」
KAEDE「はい」
嘘のない声だった。
碇シンジ「なんで」
KAEDE「あなたが最上イズモではないからです」
また、それだった。
だが今度は責める響きがなく、むしろ逆だった。最上イズモではない人間がここにいるから、最上イズモを知らなければ壊れる。そう言っているように聞こえた。
シンジは端末へ手を伸ばしかけて、止める。
怖い。
違う世界にいることより、知らない他人の人生が、自分よりずっと整理されていたらどうしようという怖さの方が、今ははっきりしていた。
自分は何を持っているんだろう。
エヴァに乗ること。逃げたくなること。父親のこと。痛いこと。怒鳴られること。少し褒められると、それだけでしばらく動けてしまうこと。
それに比べて、この部屋の持ち主は、起きた瞬間からもう別の速度で世界を処理している気がする。
KAEDE「……碇シンジ」
呼び方が変わった。
さっきまで淡々と識別名を置いていただけの声が、今はちゃんとこちらへ届く。
KAEDE「比較は後で構いません。まずは把握を」
喉の奥が少し詰まる。
見透かされた。そう思ったけれど、不快ではなかった。むしろ、そこで初めて自分が何に怯えているか言葉になる。
シンジはゆっくりと息を吐いた。
端末を取る。軽い。画面が自動で起動し、最初の記録タイトルが表示される。
『SELF-000 / 起動時自己確認』
『記録者:最上イズモ』
数字と英字だけの無機質な表題なのに、その下に続く一文で息が止まった。
『自分が誰か曖昧になった時は、役割ではなく選択を辿れ』
シンジは瞬きを忘れた。
役割ではなく、選択。
父の息子。エヴァのパイロット。NERVの碇シンジ。そういう言葉で自分を説明しようとするたび、息が苦しくなるのに、その一文だけは妙にまっすぐ胸へ入ってきた。
画面の下には続きがある。まだ読める。けれど、今の一行だけで、すでに何かが重い。
碇シンジ「……なんだよ、それ」
誰に向けた言葉でもないのに、KAEDEが答えた。
KAEDE「彼らしい書き出しです」
彼らしい。
たったそれだけの表現に、シンジはようやく気づく。
この部屋では、最上イズモは神様みたいな完璧な存在として扱われていない。少なくともKAEDEは違う。補助し、守り、記録を渡す相手として見ている。壊れることも、迷うことも、前提に入れている。
それが少しだけ救いだった。
碇シンジ「……読んだら、戻れるの」
KAEDE「直接は」
短く切ってから、KAEDEは続けた。
KAEDE「ですが、戻るために必要なものを失わずに済みます」
シンジは画面へ視線を落としたまま、しばらく動かなかった。
窓の向こうでは、見たことのない都市が静かに光っている。遠くを飛ぶ機影は一度も揺れない。ここでは巨大なものさえ、落ち着いて飛ぶらしい。
そんな世界の一室で、自分だけが場違いみたいに端末を握っている。
けれど、場違いなのは最初からだ。
今さらだった。
碇シンジ「……読む」
その一言で、自分の声が少しだけ戻ってきた気がした。
KAEDE「承認しました」
それ以上は何も言わない。
シンジは親指で画面を送る。
次の行が開く。
『今これを読んでいるのが俺本人でない場合、まずひとつだけ伝える。あなたは失敗ではない』
胸の奥で、何かが小さく鳴った。
痛みに近い。でも、それだけじゃない。
端末を持つ指に少しだけ力が入る。視界の端で、KAEDEは依然として静かに立っていた。監視にも見えるし、護衛にも見える。けれど今は、そのどちらでもよかった。
シンジは呼吸を整え、椅子に深く座り直した。
知らない他人の記録を読むのではない。
自分が今どこに立たされているのかを、ようやく見に行くのだと思った。
その理解だけを細く握ったまま、彼は次の行へ指を滑らせた。