碇シンジと最上イズモ 他人を演じるということ   作:最上 イズモ

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知らないままではいられない

第三新東京市の夜は、明るすぎるくせに見えない場所が多い。

 

最上イズモは高架下に近い小さな休憩スペースの端で、自販機の光をぼんやり見ていた。人気はない。車の音は遠い。街は生きているのに、この一角だけ少しだけ切り取られたみたいに静かだった。

 

加持リョウジを呼んだのは自分だ。

 

呼ぶ必要があると判断した。

それだけのはずなのに、待っている間、胸の奥に妙なざらつきが残る。

 

自分から誰かに真実を渡すのは、あまり得意ではない。

隠す方が楽だ。

必要な分だけ出して、その場を回す方がずっと簡単だ。

 

でも、加持相手にはもうそれが長く持たないと分かっていた。

 

足音がひとつ、暗い通路の向こうから近づいてくる。

 

加持リョウジ「呼び出しなんて珍しいね」

 

いつもの軽い声だった。

その軽さが、逆にありがたい。

 

イズモは自販機の前から離れ、振り向く。

 

最上イズモ「すみません」

 

加持リョウジ「いや、謝られると逆に怖いな」

加持リョウジ「俺、何かした?」

 

最上イズモ「いえ」

最上イズモ「ただ、少し話しておいた方がいいと思いました」

 

加持はそこで少しだけ目を細める。

 

加持リョウジ「へえ」

 

すぐ近くまでは来ない。

壁に寄りかかるでもなく、逃げ道を塞ぐ位置にも立たない。

あくまで“話すなら聞く”の距離で止まる。

 

やはりこの人は、線の扱いが上手い。

 

しばらく、夜の音だけがある。

 

イズモは先に口を開く。

 

最上イズモ「加持さん」

 

加持リョウジ「うん」

 

最上イズモ「あなたには、少し同じ種類の匂いがあります」

 

加持の口元がわずかに動く。

 

加持リョウジ「口説かれてるわけじゃないよね、それ」

 

最上イズモ「違います」

 

即答すると、加持は小さく笑う。

でも視線は外さない。

 

最上イズモ「表に出せないものを持っていて」

最上イズモ「全部は言わずに立っていて」

最上イズモ「でも、人を雑に扱う側へは行かない」

最上イズモ「そういう匂いです」

 

加持はそこで、少しだけ黙った。

 

軽口で流せる範囲を越えたと判断したのだろう。

夜の自販機の光が、彼の横顔に薄く当たる。

 

加持リョウジ「買いかぶりかもしれないよ」

 

最上イズモ「そうかもしれません」

最上イズモ「でも、少なくともあなたは、僕を“ただの変な少年”では見ていない」

 

今度は加持が答えない。

 

否定しない時点で、もう十分だった。

 

イズモは小さく息を整える。

 

ここから先は、自分で線を越える話だ。

一度言えば戻らない。

言わなくても加持はたぶん近いうちに辿り着く。

なら、自分で選んで渡す方がまだいい。

 

最上イズモ「僕は、この世界の碇シンジではありません」

 

夜の空気が、そこだけ少し硬くなった気がした。

 

加持は動かない。

驚かなかったわけではない。

でも、思ったより静かに受けた。

 

加持リョウジ「……やっぱり、そこか」

 

その返しに、イズモは少しだけ目を上げる。

 

加持リョウジ「確証はなかった」

加持リョウジ「でも、そうとしか繋がらない場面が多すぎた」

 

加持はそこで一度、視線を落としてからまた戻す。

 

加持リョウジ「続けて」

 

最上イズモ「入れ替わりです」

最上イズモ「正確な理屈までは断定できません」

最上イズモ「ただ、今の僕は別の世界から来た人間で」

最上イズモ「向こうでは、たぶん本来の“僕ではない碇シンジ”が、この身体の持ち主としてここにいるはずの人間の代わりに生きています」

 

加持リョウジ「……異世界、か」

 

笑わない。

否定もしない。

ただ、言葉の重さだけを測っている声だった。

 

加持リョウジ「随分大きく出たね」

 

最上イズモ「僕もそう思います」

 

その返しで、加持が少しだけ口元をゆるめる。

 

加持リョウジ「そこはちゃんと自覚あるんだ」

 

最上イズモ「あります」

最上イズモ「だから、誰にでも言う気はありませんでした」

 

加持リョウジ「それで俺」

 

最上イズモ「はい」

 

加持は壁へ軽く背を預ける。

夜の中でその姿勢だけが少しだけ崩れる。

 

加持リョウジ「理由を聞いても?」

 

最上イズモ「いくつかあります」

 

一つずつ整理する。

 

最上イズモ「まず、あなたはもうかなり近いところまで来ている」

最上イズモ「隠し切るより、先に渡した方が誤差が減る」

最上イズモ「次に、僕が今後事故を起こした時、引き継げる相手が必要です」

最上イズモ「最後に」

最上イズモ「あなたはたぶん、知ったあとで一番“人として扱う”側に寄れる」

 

加持はそこで、はっきり息を吐いた。

笑いともため息ともつかない音。

 

加持リョウジ「重いなあ」

 

最上イズモ「はい」

 

加持リョウジ「十四歳の顔で渡す話じゃない」

 

最上イズモ「でしょうね」

 

その短いやり取りのあと、加持は少しだけ天井のない夜空を見る。

考えているのだろう。

異世界。

入れ替わり。

本来の碇シンジではない少年。

それを今ここでどう受け取るか。

 

やがて、加持が低く言う。

 

加持リョウジ「一つ確認したい」

 

最上イズモ「はい」

 

加持リョウジ「君は敵じゃない?」

 

直球だった。

 

でも、その問い方が加持らしい。

政治でも、NERVでも、使徒でもなく、最初にそこを切る。

 

最上イズモ「敵ではありません」

 

加持リョウジ「この世界に対しても?」

最上イズモ「はい」

最上イズモ「少なくとも、今ここで守る側に立つ意思はあります」

 

加持はそれを数秒見ていた。

 

加持リョウジ「少なくとも、か」

 

最上イズモ「はい」

最上イズモ「全部を肯定しているわけではないので」

 

加持はそこで小さく笑う。

 

加持リョウジ「そこまで含めて、妙に信用できるな」

 

イズモは答えない。

信用してほしくて話したわけではない。

でも、そう受け取られるなら悪くない。

 

加持リョウジ「もう一つ」

最上イズモ「はい」

加持リョウジ「君、どれくらい死線を越えてきたの」

 

その問いだけは、少しだけ静かに胸へ入った。

 

イズモは夜の向こうを見る。

第三新東京市の光。

遠い車列。

高架を滑る音。

平和そうな街の顔。

 

最上イズモ「数えませんでした」

 

加持は黙って聞いている。

 

最上イズモ「数え始めると、たぶん壊れるので」

最上イズモ「ただ」

最上イズモ「助かる順番と、死ぬ順番を、考えずにいられない程度には」

 

そこで言葉を切る。

 

それ以上を細かく並べる気はなかった。

艦も、機体も、都市も、崩壊も、名前を挙げればきりがない。

だが、それを聞いた加持には十分だったらしい。

 

加持の目が、そこでほんの少しだけ変わる。

 

さっきまでの“面白い観察対象”を見る目ではない。

もう少し深い、嫌な現実を受け取った人間の目だ。

 

加持リョウジ「……そうか」

 

短い。

だが、その二文字だけで軽口の逃げ道が一度消えた。

 

最上イズモ「すみません」

 

加持リョウジ「何が」

 

最上イズモ「年齢に見合わない話をしています」

 

加持はそこで一度だけ、はっきりと苦く笑う。

 

加持リョウジ「そこは君が謝る場所じゃないよ」

加持リョウジ「そういう顔の子どもを前線に立たせる世界の方が、たぶん先に何か間違ってる」

 

その言葉に、少しだけ息が抜ける。

 

最上イズモ「……ありがとうございます」

 

加持リョウジ「礼を言われるほどのことでもない」

加持リョウジ「ただ、あれだな」

 

加持は壁から背を離し、少しだけ近づく。

でもやはり、詰めすぎない距離で止まる。

 

加持リョウジ「俺が思ってたより、ずっと大きい秘密だった」

 

最上イズモ「でしょうね」

 

加持リョウジ「うん」

加持リョウジ「もっとこう、裏で誰かに仕込まれたとか、どこかの教育を受けたとか、そのくらいを想像してた」

加持リョウジ「異世界は反則だろ」

 

その言い方が少し可笑しくて、イズモはほんの僅かに口元を緩める。

 

最上イズモ「僕もそう思います」

 

加持がその変化を見て、少しだけ肩の力を抜いた。

 

加持リョウジ「よし、じゃあ次」

最上イズモ「はい」

 

加持リョウジ「その話、俺以外にどこまで?」

 

最上イズモ「KAEDEは知っています」

最上イズモ「綾音も、完全ではないですが近いところまで」

最上イズモ「NERV側では、明確に伝えたのはあなたが初めてです」

 

加持の眉が少しだけ上がる。

 

加持リョウジ「それはまた、随分責任重いな」

 

最上イズモ「そういう相手を選びました」

 

加持は少しだけ目を細める。

 

加持リョウジ「買われたもんだ」

 

最上イズモ「同じ匂いがしたので」

 

加持リョウジ「それ、やっぱり口説き文句じゃないよね」

 

最上イズモ「違います」

 

今度は加持がちゃんと笑った。

その笑いで、部屋ではなく夜の街の空気が少しだけ戻る。

 

だが、次の問いはまた本気だった。

 

加持リョウジ「元の碇シンジ君は」

 

イズモは一拍だけ呼吸を止める。

 

最上イズモ「生きています」

最上イズモ「向こうの世界で、僕の側の人間たちに保護されています」

最上イズモ「少なくとも、雑には扱われていません」

 

加持リョウジ「そっか」

 

その返しの中に、加持が最初にそこを聞いた理由が少しだけ見えた。

敵かどうか。

元の持ち主がどうなっているか。

この人は、秘密そのものより、そこにいる人間の状態から切る。

 

やはり、この人を選んだのは間違いではなかったと思う。

 

加持リョウジ「じゃあ俺は」

 

最上イズモ「はい」

 

加持リョウジ「今ここで、“シンジ君の顔をした別世界からの少年”と話してるわけだ」

 

最上イズモ「その認識で概ね正しいです」

 

加持は少しだけ苦笑した。

 

加持リョウジ「概ね、ねえ」

 

その言い方に、イズモも少しだけ目を伏せる。

 

最上イズモ「全部を綺麗に言い切ると、逆に誤差が増えるので」

 

加持リョウジ「その癖、ほんと筋金入りだな」

 

夜風が少しだけ強く吹く。

自販機の光が、二人の足元を白く切っていた。

 

しばらく無言が落ちる。

けれど、その無言は最初のものよりずっと重くない。

 

加持が最後に低く言う。

 

加持リョウジ「分かった」

最上イズモ「はい」

加持リョウジ「信じるかどうかは、今ここで綺麗に決めない」

最上イズモ「はい」

加持リョウジ「でも、君がわざわざ俺を選んで話したことは受け取る」

加持リョウジ「それと、少なくとも敵としては扱わない」

加持リョウジ「今はそれでいいかい」

 

イズモはそこで、ようやく本当に少しだけ肩の力を抜いた。

 

最上イズモ「十分です」

 

加持は頷く。

 

加持リョウジ「じゃあ一つだけ忠告」

 

最上イズモはそちらを見る。

 

加持リョウジ「ミサトさんには、まだ言うな」

最上イズモ「……同感です」

加持リョウジ「だろうね」

加持リョウジ「あの人は受け止めようとする。でも近すぎる」

加持リョウジ「君が思ってる以上に、自分の責任として抱え込む」

 

その指摘はかなり正しいと思った。

 

ミサトに話せないのは信頼していないからではない。

むしろ逆だ。

受け取ってしまうからこそ、今は重すぎる。

 

最上イズモ「ありがとうございます」

 

加持リョウジ「礼はまだ早いよ」

加持リョウジ「俺だって、これからどう動くか少し考える」

 

そして少しだけ笑う。

 

加持リョウジ「にしても、異世界か」

加持リョウジ「ほんと、面倒な子を見つけたもんだ」

 

最上イズモ「否定しません」

 

加持はそれに小さく肩をすくめる。

 

加持リョウジ「でも、嫌いじゃない」

 

その言葉は軽く置かれた。

軽いのに、妙に残る。

 

イズモは少しだけ目を伏せ、それから顔を上げる。

 

最上イズモ「……良かったです」

 

加持はそこで、ほんの少しだけ驚いた顔をした。

たぶん、今の返答が思っていたよりずっと年相応だったのだろう。

 

加持リョウジ「君さ」

 

最上イズモ「はい」

 

加持リョウジ「そういう顔、もっと出した方がいいよ」

最上イズモ「難易度が高いですね」

加持リョウジ「知ってる」

 

その返しで、ようやく今日の会話の終わり方が見えた。

 

大きすぎる真実を渡した。

それでも世界は今のところ崩れていない。

夜の街は相変わらず明るく、見えない場所が多いままだ。

 

だが、その見えない場所に一人だけ、こちらの秘密を知った人間が増えた。

それは危険でもある。

同時に、少しだけ心強くもあった。

 

加持が先に歩き出す。

 

加持リョウジ「じゃあ帰ろうか」

最上イズモ「はい」

 

並んでは歩かない。

半歩ずれたまま、同じ方向へ戻る。

 

その距離が、今はちょうどよかった。

夜道は思ったより静かだった。

 

第三新東京市は明るい。明るいのに、少し裏へ入ると音の密度が急に薄くなる場所がある。高架の下。閉まった店舗の並び。自販機の光だけが妙に浮いている歩道。加持リョウジと最上イズモは、そういう中途半端な静けさの中を並ばずに歩いていた。

 

半歩ずれた距離。

 

近すぎない。

でも、もう完全な他人でもない距離。

 

加持が先に口を開く。

 

加持リョウジ「しかしまあ」

加持リョウジ「異世界って言われても、納得するにはだいぶ度胸が要るね」

 

最上イズモ「でしょうね」

 

加持リョウジ「もうちょっとこう、手頃な秘密はなかったのかい」

最上イズモ「僕もそう思います」

 

その返しに、加持は少し笑う。

笑いながらも、横目ではちゃんとこちらを見ている。

 

加持リョウジ「君、時々ほんとに“こっちの常識が薄い人”の返しをする」

 

イズモは夜の信号を見る。

赤。

横断歩道の向こうにコンビニの灯り。

誰も急いでいない街の速度。

 

最上イズモ「そういうつもりはありません」

 

加持リョウジ「つもりの話じゃないんだろうね」

 

信号が変わる。

 

二人で渡る。

歩幅は違うのに、不思議と歩く速さは合っていた。

 

しばらく黙ってから、加持がまた言う。

 

加持リョウジ「さっきの話で、一つだけ引っかかってる」

最上イズモ「はい」

加持リョウジ「君、自分がどこから来たかはぼかした」

最上イズモ「はい」

加持リョウジ「でも、“何をしてきたか”の匂いは消せてない」

 

イズモは答えない。

 

加持は無理に続きを促さなかった。

ただ、少し先の街灯の影を見ながら、軽い声で続ける。

 

加持リョウジ「別に根掘り葉掘り聞きたいわけじゃない」

加持リョウジ「でも、君の“必要が先に出る”って癖が、どこでついたのかくらいは知っておきたい」

加持リョウジ「付き合う側としてね」

 

付き合う側。

 

その言い方に、イズモは少しだけ目を伏せた。

組織ではなく、人として言っているのが分かる。

 

最上イズモ「……人を逃がす仕事が多かったです」

 

加持は視線を向けるが、口は挟まない。

 

最上イズモ「前線で勝つことより、どこまで崩れたら撤退線を引くか」

最上イズモ「誰を先に下げるか」

最上イズモ「何を切り捨てれば全体が残るか」

最上イズモ「そういう判断の方が多かった」

 

加持の顔から、軽い笑いが少しだけ引く。

 

加持リョウジ「救助屋、ってわけでもなさそうだ」

 

最上イズモ「救助だけでは済まない場が多かったので」

 

それだけで十分重いはずなのに、自分の口から出るとどうしても説明文みたいになる。イズモは少しだけ苦く思う。たぶん、綾音ならもっと短く言う。KAEDEならもっと正確に言う。自分はその中間で、どうしても人間の感触が薄くなる。

 

加持リョウジ「たとえば?」

 

イズモは少しだけ考える。

 

全部は言えない。

言っても伝わらないものもある。

でも何も出さないのも違う。

 

最上イズモ「都市の避難です」

最上イズモ「間に合うと思っていた導線が、途中で崩れたことがある」

最上イズモ「最初は全員を外へ出す前提だった」

最上イズモ「でも、途中で切り替えました」

 

加持は前を向いたまま聞いている。

 

最上イズモ「地上退避をやめて、地下隔壁を閉じた」

最上イズモ「外へ出せない人間を内側で生かす方へ切り替えた」

最上イズモ「遅れたら全員死んでいたと思います」

 

夜風が少しだけ冷たい。

 

加持は何も言わない。

ただ、歩く速さだけがほんの少し落ちる。

 

最上イズモ「別の時は、艦を捨てました」

加持リョウジ「……艦を」

最上イズモ「はい」

最上イズモ「沈めた方が後方船団が助かる配置になったので」

最上イズモ「最後まで残る班を先に決めて、退避艇を切り離して、残った船体を壁にした」

 

加持の呼吸がわずかに変わる。

 

加持リョウジ「君が決めたのかい」

 

最上イズモ「最終判断は僕でした」

 

その一言だけで、街の夜景が少し遠くなる。

 

加持は煙草を吸いたそうな顔をしたが、火をつけなかった。

代わりに、ひどく静かな声で聞く。

 

加持リョウジ「何人残した」

 

最上イズモ「三十二名です」

 

数字にすると、逆に乾く。

その乾き方が嫌いだ。

だが曖昧にすると、それはそれで現実感を失う。

 

加持リョウジ「助かったのは」

最上イズモ「千を超えています」

 

加持はそれ以上すぐには何も言わなかった。

 

車が一台、交差点をゆっくり曲がっていく。

信号の音。

遠いエンジン音。

平和な街の雑音が、会話のあとへ遅れて戻ってくる。

 

加持リョウジ「……なるほどね」

 

短い。

だが、その二文字の中に、さっきまでより重い理解が入っている。

 

加持リョウジ「そりゃ、死ぬ順番を先に見るようにもなる」

 

イズモは少しだけ目を伏せる。

 

最上イズモ「なりたくてなったわけではありません」

 

加持リョウジ「知ってるよ」

 

その返しが思ったより柔らかくて、胸の奥のどこかが少しだけ緩む。

 

歩道橋の階段を上がる。

上から見る第三新東京市はきれいだった。

きれいすぎて、余計に遠い。

こういう街を見るたび、守る側の判断はいつも街の外から見ると乱暴に見えるのだろうと思う。

 

加持が階段の途中で言う。

 

加持リョウジ「君、勝つ話より、間に合わせる話の方が多いんだな」

 

最上イズモ「そうかもしれません」

 

加持リョウジ「英雄の経歴じゃないね」

 

イズモは少しだけ口元を動かす。

 

最上イズモ「英雄をやると、たいてい後ろが死ぬので」

 

その言い方に、加持は少しだけ顔をしかめる。

嫌そうに。

でも、否定はしない。

 

加持リョウジ「嫌な現実主義だ」

 

最上イズモ「はい」

 

階段を降りる。

夜の街灯が近くなる。

 

加持は少し間を置いてから、今度はもっと軽い調子で聞く。

 

加持リョウジ「戦ったこともあるだろ」

最上イズモ「あります」

加持リョウジ「何と」

最上イズモ「色々です」

 

その返しに、加持が横を見る。

 

加持リョウジ「そこはぼかすんだ」

最上イズモ「ここで具体名を出しても、たぶん加持さんの常識を壊すだけです」

加持リョウジ「もうだいぶ壊れてるんだけどな」

 

少しだけ可笑しくなって、イズモはほんの僅かに息を漏らす。

 

最上イズモ「では」

最上イズモ「人の形をしていて、人よりかなり大きくて」

最上イズモ「兵器でもあり、生体でもあり、理屈で読める部分と読めない部分が混ざる相手です」

 

加持はそこで、歩く足をほんの一瞬だけ止めた。

 

加持リョウジ「……エヴァみたいだ」

 

最上イズモ「近いものもあります」

 

その答えで、加持はもうそれ以上深くは聞かなかった。

聞けば聞くほど、今の自分の世界の単位がずれていくと分かったのだろう。

 

代わりに、加持は別の方向へ切る。

 

加持リョウジ「君はさ」

最上イズモ「はい」

加持リョウジ「何回くらい、“間に合わなかった”を見た?」

 

イズモは少しだけ呼吸を浅くする。

 

その問いは、数字では答えたくない種類のものだった。

 

最上イズモ「覚えています」

 

加持は黙っている。

 

最上イズモ「全部ではないです」

最上イズモ「でも、大きいものは」

最上イズモ「間に合わなかった顔とか、声とか、最後まで残った選択とか」

最上イズモ「そういうのは、だいたい残ります」

 

加持の目が、夜の明かりの下で少しだけ伏せられる。

 

加持リョウジ「それで、今の君ができたわけだ」

 

最上イズモ「……たぶん、はい」

 

しばらくの間、どちらも何も言わなかった。

 

街は静かだ。

でも、その静けさの中で、今の会話だけが少しだけ場違いだった。

こんな何でもない夜道で、沈んだ艦や閉じた隔壁や、助けられなかった順番の話をしている。

 

それでも、イズモは不思議と苦しくなかった。

全部を説明しているわけではない。

組織名も、世界の名も、技術の固有名も出していない。

なのに、加持は必要なところだけをきちんと受け取っている。

 

それが助かった。

 

加持リョウジ「なるほどねえ」

 

今度の“なるほど”は、前よりずっと疲れた音だった。

 

加持リョウジ「ミサトさんが放っておけないわけだ」

最上イズモ「……そうですか」

加持リョウジ「そりゃそうだよ」

加持リョウジ「子どもの顔してるのに、喋ってる中身が時々“残す側”の人間だ」

加持リョウジ「それでいて、人を切り捨てる方へは行ってない」

加持リョウジ「危なっかしいに決まってる」

 

イズモは答えない。

 

答えなくても、その評価はたぶん正しい。

自分でも、平時の方が崩れやすいと分かっている。

戦場では優先順位が少ない。

日常は曖昧なものが多すぎる。

 

加持はそんなこちらを横目で見ながら、少しだけ口元を緩める。

 

加持リョウジ「でも安心したよ」

 

最上イズモ「何がですか」

 

加持リョウジ「君が、世界の外から来た化け物みたいなものじゃなくて」

加持リョウジ「ちゃんと、嫌な目に遭って、嫌なものを見て、それで今の形になった人間だって分かったこと」

 

その言葉が、思っていたより深く入る。

 

化け物ではない。

人間だと。

そう言われることが、今の自分にとってどれだけ大きいか、少し遅れて分かる。

 

最上イズモ「……ありがとうございます」

 

加持は少しだけ肩をすくめる。

 

加持リョウジ「礼を言われるのも変な話だけどね」

 

道路脇の自販機がもう一つ見える。

加持が立ち止まり、ポケットを探る。

 

加持リョウジ「何飲む」

最上イズモ「水で」

加持リョウジ「ほんとブレないな」

 

缶が落ちる音が二つ。

一本は水。

もう一本は缶コーヒー。

 

JA戦後にミサトと似たようなことをしたな、とイズモは少しだけ思う。

こういう大人は、どの世界でもたまにいるのかもしれない。

 

加持は缶を渡しながら言う。

 

加持リョウジ「君さ、たぶんまだ“助かった後”が下手だろ」

 

イズモは缶を受け取ったまま、少しだけ黙る。

 

最上イズモ「否定しません」

 

加持リョウジ「だろうね」

加持リョウジ「間に合わせることに慣れすぎると、終わったあと何していいか分からなくなる」

 

缶コーヒーを開ける音。

甘い匂い。

 

加持は一口飲んで、少しだけ笑う。

 

加持リョウジ「だから、たまにはこういう無駄話もしときな」

加持リョウジ「死線の話でもいいし、魚雷の話でもいい」

加持リョウジ「君の場合、何か喋ってる方がまだ人間っぽい」

 

イズモはその言葉に、ほんの少しだけ口元を緩めた。

 

最上イズモ「魚雷の話は人間っぽいですか」

加持リョウジ「そこは微妙だな」

 

二人で少しだけ笑う。

 

笑い終わったあとも、夜道は変わらず静かだった。

でも、最初に比べると静けさの質が違う。

ただ秘密を抱えたまま歩く夜ではなくなっていた。

 

加持は缶を持ったまま、前を向いて言う。

 

加持リョウジ「また今度、その“間に合わなかった話”の続きでも聞かせてよ」

最上イズモ「聞いて面白いものではありません」

加持リョウジ「面白さで聞くほど悪趣味じゃない」

少しだけ間を置いてから、

加持リョウジ「一人で持つには重いだろ、そういうの」

 

イズモはすぐには返せなかった。

 

その通りだったからだ。

 

最上イズモ「……考えておきます」

 

加持リョウジ「うん。それでいい」

 

もうすぐ別れ道だった。

高架の向こうと、住宅区画へ入る道。

加持はそこで足を止める。

 

加持リョウジ「じゃあ、今日はここまで」

最上イズモ「はい」

 

加持リョウジ「シンジ君の顔した別世界の少年くん」

最上イズモ「長いですね」

加持リョウジ「名前で呼ぶには、もう少し整理が要る」

 

その言い方に、イズモは少しだけ目を細める。

 

加持リョウジ「でもそのうち、ちゃんと呼べるようになるさ」

 

そう言って、加持は軽く手を上げて去っていく。

 

イズモはその背中を見送りながら、水の缶を少しだけ握り直した。

 

組織名は言わなかった。

世界の名も出さなかった。

それでも、やってきたことの一部と、潜り抜けた死線の輪郭だけは渡した。

 

それで十分だった気がする。

 

夜の第三新東京市はまだ明るい。

見えない場所は多い。

けれど、その見えない場所の中に、一人だけこちらの重さを少し知っている人間がいる。

 

その事実だけで、帰り道の静けさは、ほんの少しだけましだった。

 

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