碇シンジと最上イズモ 他人を演じるということ   作:最上 イズモ

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イズモの軌跡

KAEDEがその話を持ってきた時、碇シンジは最初、聞き間違いだと思った。

 

静かな作業室だった。

窓の外には第三新東京市とは違う、整いすぎた光の都市が見えている。高層構造。滑る機影。規則正しく動く交通ライン。ここへ来たばかりの頃は、その全部が未来というより“別の現実”に見えた。今は、少しだけ生活の背景に近づいている。

 

KAEDE「混乱期は概ね脱しました」

 

いつもの声。

淡々としていて、でも切る場所を間違えない声。

 

碇シンジ「……混乱期」

 

KAEDE「はい」

KAEDE「あなたの認知負荷、睡眠、対話反応、環境順応を総合して判定しています」

 

シンジは端末から顔を上げる。

 

最近は、資料を読んだり、綾音やパイロットたちと話したりする時間が増えていた。

最初の頃みたいに、ただ怖いものへ次々触れさせられている感じではない。

でも“混乱期を脱した”とまで言われると、少しだけ身構える。

 

碇シンジ「……で?」

 

KAEDEが一拍置く。

 

KAEDE「試験的に業務を割り当てます」

 

やっぱり、と思うより先に、少しだけ喉が乾いた。

 

碇シンジ「僕に?」

 

KAEDE「はい」

 

即答。

 

シンジは椅子の背にもたれる。

向こうの世界では、“やれ”と言われたらそれはだいたいエヴァの話だった。

こっちで“業務”と来ると、逆に想像がつかない。

 

碇シンジ「……何を」

 

KAEDE「致命傷にならない範囲で、あなたにも遂行可能なものです」

碇シンジ「その言い方、安心していいのか分からない」

KAEDE「安心してください。保護を優先します」

 

その返しに、シンジは少しだけ笑いそうになる。

この世界のそういうところは、まだ完全には慣れない。

でも、嫌いでもなかった。

 

KAEDEが端末に新しい画面を出す。

 

『最上イズモ 任務ログ整理 / 一次分類補助』

 

碇シンジ「……ログ整理」

 

KAEDE「はい」

KAEDE「最上イズモの任務ログは、戦闘記録だけでなく、避難対応、保護判断、停止指示、運用修正提案など複数系統にまたがります」

KAEDE「現在、一部のログが整理待ちです」

 

シンジはその文字列を見つめる。

 

任務ログ。

イズモの。

それはつまり、向こうで自分の身体で戦っている人間の仕事の痕跡を、自分がこっちで仕分けるということだ。

 

妙な感じがした。

でも、嫌ではない。

むしろ、少しだけ知りたかった。

 

碇シンジ「僕でいいの」

 

KAEDE「最上イズモの代替は求めていません」

 

その一言が、思っていたより深く入る。

 

KAEDE「碇シンジとして可能な範囲を確認します」

KAEDE「業務内容は一次分類、タグ候補提示、優先度の仮置きまでです」

KAEDE「最終判断は私が行います」

 

そこまで聞いて、ようやく少し呼吸がしやすくなる。

 

全部やれと言われているわけじゃない。

あくまで補助。

致命傷にならない。

失敗しても即座に世界が崩れるわけじゃない。

 

でも同時に、ちゃんと役割ではある。

 

碇シンジ「……やってみる」

 

KAEDEは小さく頷く。

 

KAEDE「了解しました」

 

画面が切り替わる。

 

最初のログが表示された。

 

日時。

地点。

対象。

概要。

 

『居住区画C-7、避難誘導補助。二系統導線のうち西側を閉鎖。高齢者搬送を優先し、車両導線を救護搬送へ転用』

 

シンジは少し目を細める。

 

これは、戦闘ではない。

でも、すごくイズモっぽいと思う。

勝つ話じゃなくて、残す話だ。

 

KAEDE「まずは読んで、仮で分類してください」

 

画面の横に候補タグが並んでいる。

 

戦闘対応。

避難支援。

保護優先。

停止判断。

運用修正。

搭乗者配慮。

外部調整。

記録保持。

 

碇シンジ「……これ、複数つけてもいいの?」

 

KAEDE「はい。主タグと副タグを選択してください」

 

シンジは少し考える。

 

避難支援。

保護優先。

それに、たぶん運用修正も少し入る。

車両導線を救護搬送に変える判断は、その場の動きを変えている。

 

碇シンジは仮で三つ選ぶ。

 

KAEDE「理由は」

 

碇シンジ「理由もいるの!?」

 

KAEDE「はい」

 

その返しに、シンジは軽く息を詰める。

でも少しだけ笑える。

たしかに、理由なしでタグだけつけても整理としては弱い。

 

碇シンジ「……避難支援は、そのまま」

碇シンジ「保護優先は、高齢者搬送を先にしてるから」

碇シンジ「運用修正は、元の導線を変えてるから」

 

KAEDEはすぐに評価しない。

一拍置いてから言う。

 

KAEDE「妥当です」

碇シンジ「よかった」

 

それだけで、少しだけ肩の力が抜ける。

 

次のログ。

 

『高出力個体対応後、搭乗候補者二名の次任務投入を一時停止。生体値に異常なし。ただし会話反応に遅延あり。本人同意が取れるまで保留』

 

シンジはその文章を読んだ瞬間、少しだけ胸の奥が動く。

 

搭乗候補者。

一時停止。

本人同意が取れるまで保留。

 

向こうでは、そういう言葉がもっと少なかった気がする。

ここでは、それがログとして残っている。

 

碇シンジ「……これ」

 

KAEDE「はい」

 

碇シンジ「搭乗者配慮、かな」

KAEDE「他には」

碇シンジ「停止判断」

少し迷ってから、

碇シンジ「保護優先、も入ると思う」

 

KAEDEが静かに頷く。

 

KAEDE「理由は」

 

シンジは今度は少しだけ早く答えられる。

 

碇シンジ「数値に異常がなくても、会話反応が遅いなら止めてる」

碇シンジ「しかも本人同意を取るまで保留」

碇シンジ「……その場で出せるのに出さないのは、たぶん“乗れる”より“戻れてるか”を見てるから」

 

言ったあと、自分でも少し驚く。

 

これは、たぶん向こうの自分だから出た読み方だ。

エヴァに乗る側の感覚。

数値に出ない疲れ。

そのまま出すと危ない状態。

 

KAEDE「妥当です」

 

今度の返しは、少しだけ前より嬉しかった。

 

ログは続く。

 

『外部技術セクターとの会議。新型兵装案の採用を一時保留。停止系思想が不足。非常時運用権限の所在不明瞭』

 

シンジは少しだけ目を細める。

 

これはもう、かなり分かりやすい。

JAの匂いに近い。

イズモが嫌うタイプのやつだ。

 

碇シンジ「運用修正」

碇シンジ「停止判断」

少し考えてから、

碇シンジ「……外部調整?」

 

KAEDE「理由は」

 

碇シンジ「会議の相手が外部」

碇シンジ「でも大事なのはそこじゃなくて、兵装案そのものを止めてる理由」

碇シンジ「停止系思想が足りないって、たぶん“動く”前提で作ってるからで」

碇シンジ「非常時の権限が曖昧なら、事故じゃなくて構造の問題になる」

 

言いながら、自分の中に少しだけ熱が出るのが分かる。

怒りというほどじゃない。

でも、イズモがJAでキレていた方向が、少しだけ体感として分かる。

 

KAEDE「理解が進んでいます」

 

その言葉に、シンジは少しだけ顔を上げる。

 

碇シンジ「……そうかな」

 

KAEDE「はい」

KAEDE「最上イズモの判断を模倣しているのではなく、あなたの理解で再構成しています」

 

それはたぶん、褒め言葉だった。

少なくとも、この世界における。

 

シンジは端末へ戻る。

 

ログを整理していくうちに、少しずつ分かってくることがあった。

 

イズモは戦っている。

でも、戦闘ログばかりじゃない。

止める。

保留する。

避難を切る。

権限の所在を確認する。

誰かを次へ出さない。

そういうログが、思っていたよりずっと多い。

 

“有能”の中身が、前より少し具体になる。

 

向こうで見ていたのは結果だけだ。

勝つ。

助ける。

異常に落ち着いている。

そのくらいしか見えていなかった。

 

こっちでログを仕分けていると、その下にある地味な判断が見える。

 

派手じゃない。

でも、その地味さがないとたぶん、派手な結果にも辿り着かない。

 

碇シンジ「……これ、すごい量だね」

 

KAEDE「はい」

 

碇シンジ「全部イズモが?」

 

KAEDE「単独ではありません」

KAEDE「ただし、最上イズモの関与記録として残っているものです」

 

シンジは少しだけ息を吐く。

 

全部一人でやっているわけじゃない。

でも、関わっている範囲が広い。

それが逆に、こっちでのイズモの立ち位置を見せる。

 

碇シンジ「……前より少し分かるかも」

 

KAEDE「何がですか」

 

碇シンジ「なんで、あの人があんなに“止める”のを気にするのか」

 

作業室の光は静かだ。

窓の外の都市も、整ったまま動いている。

 

その中で、シンジはイズモのログを一つずつ見ながら、向こうで自分の身体を使っている人間の輪郭を、前より少し具体的に拾っていた。

 

勝つ人、じゃない。

残す人、に近いのかもしれない。

 

それは向こうの世界にいた時には、ちゃんと見えていなかった部分だった。

 

KAEDE「本日の割り当てはここまでです」

 

気づけば、それなりの時間が経っていた。

 

シンジは端末から顔を上げ、少しだけ目を瞬く。

 

碇シンジ「もう?」

 

KAEDE「はい」

KAEDE「初回としては十分です」

 

シンジは椅子にもたれ、長く息を吐く。

 

疲れている。

でも、嫌な疲れ方じゃなかった。

情報を一方的に流し込まれた時の疲れとは違う。

少しだけ、自分で何かを持った疲れだ。

 

KAEDE「どうでしたか」

 

シンジは少し考える。

 

碇シンジ「……難しかった」

碇シンジ「でも、できない感じではなかった」

 

KAEDEは小さく頷く。

 

KAEDE「次回も同系統で調整可能です」

 

シンジはその言葉を聞いて、少しだけ嬉しくなる自分に気づく。

“次回”と言われること。

役割が一度きりの気休めではなく、ちゃんと続く可能性として扱われること。

 

碇シンジ「……うん」

少し迷ってから、

碇シンジ「またやってもいい」

 

KAEDE「了解しました」

 

その返しのあと、KAEDEは一拍置いてから静かに続ける。

 

KAEDE「これは最上イズモの代替ではありません」

KAEDE「ただし、碇シンジがこの環境で自分の位置を持つための一歩にはなります」

 

シンジはその言葉を、すぐには返せなかった。

 

自分の位置。

 

そうかもしれない。

いままでは、守られ、説明され、話を聞く側の時間が多かった。

それは必要だった。

でも、今日は少しだけ違った。

 

ログを読んで、仕分けて、理由をつけた。

小さい。

でも、ちゃんと業務だった。

 

碇シンジ「……そうならいいな」

 

KAEDEはそれに何も飾らず頷く。

 

作業室の外へ出る時、シンジは一度だけ振り返って、端末の消えた画面を見る。

そこにはもう文字は出ていない。

でも、さっきまで読んでいたログの一部が、まだ頭の中に残っていた。

 

避難支援。

保護優先。

停止判断。

搭乗者配慮。

 

それらのタグは、ただの分類じゃない。

イズモが何を大事にしてきたかの輪郭みたいだった。

 

その輪郭に、少しだけ自分の手で触れられた気がして、

シンジは廊下へ出たあとも、いつもより少しだけ足取りが軽かった。

作業室を出たあとも、碇シンジの手の中には、さっきまで触っていたログの重さが少し残っていた。

 

避難支援。

保護優先。

停止判断。

搭乗者配慮。

 

最上イズモの仕事は、思っていたよりずっと地味で、思っていたよりずっと人の近くにあった。

戦って終わりじゃない。

勝って終わりでもない。

止める。残す。保留する。出さない。そういう判断の積み重ねで、やっと前線に一つの勝ちが乗る。

 

その輪郭へ少しだけ触れたあとだと、廊下の静けさまで前より違って見えた。

 

KAEDEが半歩前を歩く。

いつも通りの距離。

けれど今日は、保護者というより業務引率に近い空気があった。

 

碇シンジ「……これで終わり?」

 

KAEDE「初回としては終了です」

 

シンジは少しだけ肩を落とす。

疲れている。

でも、まだもう少しやれそうな感じもあった。

 

その反応を読んだのか、KAEDEが続ける。

 

KAEDE「ただし、次の段階として環境を変更します」

 

碇シンジ「環境?」

 

KAEDE「はい」

KAEDE「これまでの食事は個室提供が優先されていました」

 

そこでようやく、シンジは少しだけ顔を上げる。

 

たしかにそうだった。

ここへ来てから、食事はほとんど個室で受け取っていた。静かで、落ち着いていて、誰にも見られない。最初の頃はそれが助かった。資料や会話で頭がいっぱいの時に、食事まで人の気配の中で取る余裕はなかった。

 

KAEDE「本日から、希望するなら食堂利用へ移行可能です」

 

シンジは少しだけ黙る。

 

食堂。

急に“生活”の匂いがする言葉だと思った。

 

碇シンジ「……急だね」

 

KAEDE「混乱期を脱したためです」

KAEDE「個室提供は保護として有効でしたが、恒常的隔離は推奨しません」

 

その言い方は、やっぱりこの世界らしかった。

守る。

でも、守ることがそのまま閉じ込めることにならないようにもする。

 

碇シンジ「……人、多い?」

 

KAEDE「時間帯によります」

少しだけ間を置いてから、

KAEDE「現在は比較的少なめです」

 

その付け足しがありがたい。

いきなり満席の中へ放り込むつもりはないらしい。

 

シンジは少し考える。

 

個室は楽だ。

誰にも見られないし、疲れている時は助かる。

でも、ここでまた個室を選ぶと、少しだけ前へ進み損ねる感じもある。

 

碇シンジ「……行ってみる」

 

KAEDEはそれをそのまま受け取る。

 

KAEDE「了解しました」

 

食堂エリアは、思っていたより明るかった。

 

病院の食堂とも、学校の食堂とも違う。

広い。

でも広すぎて寒い感じではない。

光は柔らかく、席の間隔も少し余裕がある。任務施設なのに、妙に“休ませるための空間”として設計されているのが分かった。

 

人はいた。

でも確かに少なめだ。

数人が静かに食事をしていて、会話も小さい。こちらへ露骨に視線を向ける者もいない。そのことだけで、シンジは思っていたより呼吸しやすいことに気づく。

 

そして、食堂の奥にあるものを見て足を止めた。

 

壁面に組み込まれた、大きな装置。

 

厨房というより端末に近い。

調理場の熱や油の気配が薄い代わりに、清潔な機械音と淡い表示光がある。数台並んだコア装置に、人が一人ずつ立って何かを選んでいる。

 

碇シンジ「……これ、何」

 

KAEDE「食糧供給システムの一部です」

 

シンジは装置を見る。

画面。

選択欄。

認証表示。

料理名らしきものの並び。

でもそれだけではない。栄養構成、温度、調理スタイルみたいな項目まで見える。

 

碇シンジ「調理場、って感じじゃない」

 

KAEDE「はい」

KAEDE「このセクターでは、トリジン食物再構成装置を中核とした供給系を採用しています」

 

その名前だけで、いきなり未来っぽくなる。

 

KAEDEはいつもの速度で説明を始める。

だが今日は、ただの技術説明というより、シンジが目の前の景色を理解できるように、少しだけ順番を崩している感じがした。

 

KAEDE「簡易分子複製装置です」

KAEDE「長期航行や辺境環境での安定した栄養供給を目的として開発されました」

KAEDE「現在は生活セクターの標準装備に近い扱いです」

 

シンジは装置の前に立つ利用者を見る。

 

何かを入力する。

少し待つ。

そのあと、皿が出てくる。

 

けれど、ただの機械食には見えない。

湯気も立っているし、匂いもする。食堂の空気が不自然に無機質じゃないのは、そのせいかもしれない。

 

碇シンジ「……これ、どうやって作ってるの」

 

KAEDE「要求プロファイルを起点に、内部の分子構成演算系が構造ライブラリから必要要素を選定し、再構築します」

KAEDE「味、香り、触感まで調整対象です」

 

シンジは少しだけ顔をしかめる。

 

碇シンジ「そこまでやるの」

KAEDE「食事は栄養摂取だけではないためです」

 

その返しが妙にこの世界らしい。

 

KAEDE「なお、通常利用者が再構成禁止項目へアクセスする経路はありません」

碇シンジ「禁止項目?」

KAEDE「アルコール、麻薬、軍事用毒物などです」

 

シンジは装置を見ながら、思わず少しだけ笑いそうになる。

 

碇シンジ「……そこはちゃんと禁止なんだ」

KAEDE「はい」

KAEDE「かなり早い段階で封印されています」

 

いかにも、と思う。

こういう世界は、便利な分だけそういう制限もはっきり作るのだろう。

 

二人で空いている端末の前へ行く。

 

KAEDEが認証を通すと、画面が静かに切り替わる。

そこに出たのは単なるメニューではなかった。

 

推奨摂取量。

本日の負荷。

回復優先度。

消化器官負担。

気分安定補助。

 

シンジは思わず瞬きをする。

 

碇シンジ「……食事、だよね」

 

KAEDE「はい」

KAEDE「ただし、この系統では任務支援要素も含みます」

 

画面の一角に、小さく“栄養管理中枢接続済”の表示がある。

 

KAEDE「食堂エリアの供給系は、Q-NET経由で栄養管理中枢と連携しています」

KAEDE「健康記録、任務内容、直近の負荷、必要に応じて心理分析結果も参照されます」

KAEDE「その上で、最適な栄養構成、調理スタイル、食事タイミングが提案されます」

 

シンジは無意識に画面から少しだけ顔を離した。

 

それは合理的だ。

すごく合理的。

でも、合理的すぎて少し怖い。

 

碇シンジ「心理状態まで見るの」

 

KAEDEはその反応を予想していたらしい。

 

KAEDE「強制ではありません」

KAEDE「ただし、任務支援として有効です」

KAEDE「精神負荷が高い時には、回復を促す構成へ寄せられます」

 

シンジは少しだけ黙る。

 

向こうの世界で、エヴァに乗ったあとに“回復を促す食事”が最初から運用へ組み込まれていたことはない。

ミサトさんが気をつかってくれたことはある。

でもそれは個人の気づかいであって、システムではなかった。

 

こっちは違う。

最初から、壊れたあとの戻し方まで、食堂の中に入っている。

 

碇シンジ「……変な感じ」

 

KAEDE「どの点がですか」

 

シンジは少し迷ってから言う。

 

碇シンジ「優しい」

それから少し間を置いて、

碇シンジ「でも、優しいだけじゃない感じもする」

 

KAEDEはすぐに否定しなかった。

 

KAEDE「妥当な認識です」

 

その答えが、逆に助かる。

 

KAEDE「この系統は、食事を生活の一部としてだけでなく、任務遂行支援としても扱います」

KAEDE「そのため、情緒と合理性が同時に組み込まれています」

 

シンジは画面の端にある別の項目に気づく。

 

『記憶味覚プロファイル』

『郷土の味登録』

『個別嗜好再現』

 

碇シンジ「……これ何」

 

KAEDE「個別記憶に基づいた味の再構成です」

KAEDE「利用者の“郷土の味”や“記憶の味”を登録し、必要に応じて提供できます」

 

シンジはそこで完全に手を止めた。

 

記憶の味。

 

その言葉だけで、急に装置の見え方が変わる。

さっきまで未来の便利装置だったものが、少しだけ別のものになる。

 

KAEDE「移住者や喪失経験を持つ隊員に対して、心理的安定へ寄与する場合があります」

 

その説明はたぶん正しい。

でも、その“正しさ”より先に、シンジの中では別のものが動いていた。

 

向こうの世界の味。

ミサトさんの家の食卓。

味噌汁。

インスタントの匂い。

カレー。

学校の弁当。

そういうものが、言葉になる前に一瞬だけ胸の奥へ戻ってくる。

 

碇シンジ「……そんなのまで、ここはやるんだ」

 

KAEDE「はい」

 

短い肯定。

 

シンジは少しだけ目を伏せる。

この世界は、やっぱり優しい。

でもその優しさは、ふわっとした善意だけじゃない。

“喪失した人間が何で少し戻るか”を、ちゃんと技術の対象にしている種類の優しさだ。

 

KAEDE「試しますか」

 

シンジは顔を上げる。

 

碇シンジ「今?」

 

KAEDE「可能です」

KAEDE「ただし、初回は軽い構成を推奨します」

 

迷う。

かなり迷う。

 

いきなり向こうの味をここで再現されるのは、たぶん少し怖い。

でも、どこかで試してみたい気持ちもある。

 

その迷いを見て、KAEDEが少しだけ声を落とす。

 

KAEDE「今でなくても構いません」

KAEDE「本日は標準推奨と軽い嗜好補正のみでも十分です」

 

その逃げ道の置き方が、ありがたい。

 

碇シンジ「……今日は、普通の方で」

 

KAEDE「了解しました」

 

画面に推奨候補が三つ出る。

 

高回復構成。

低刺激構成。

軽食型。

その中で、KAEDEが一番上の一つを示す。

 

KAEDE「任務ログ整理後のため、消化負担を抑えつつ、糖質とタンパク質をやや補強した構成が推奨されています」

 

シンジは少しだけ可笑しくなる。

 

碇シンジ「食事なのに、報告書みたい」

 

KAEDE「この系統はそういう側面があります」

 

選択すると、装置が静かに動き出す。

 

内部のごく低い作動音。

光の変化。

待ち時間は長くない。

それなのに“ただ機械が出力している”感じは薄い。

 

やがて、トレイが出てくる。

 

湯気。

香り。

温かいスープ。

主食。

少しだけ柔らかそうな副菜。

見た目はちゃんと食事だ。

未来の固形栄養食みたいなものを想像していた分、少し驚く。

 

碇シンジ「……普通だ」

 

KAEDE「はい」

KAEDE「“食事に見えない食事”は継続利用率が下がるため、意図的に避けられています」

 

それはすごく納得できる。

 

二人で席へ着く。

個室ではない。

でも、完全に人混みの中でもない。

近くの席には別の隊員がいて、静かに食べている。それだけで少しだけ“ここで食事をしていい”感じが出る。

 

シンジは一口、スープを飲む。

 

温かい。

ちゃんとおいしい。

しかも、ただ薄く正しい味じゃなくて、人が“ほっとする”方向へ少し寄せている感じがある。

 

碇シンジ「……おいしい」

 

KAEDE「良かったです」

 

それだけのやり取りなのに、少しだけ胸がゆるむ。

 

シンジは食堂を見回す。

 

誰かが話している。

誰かは一人で食べている。

端末を見ながら食べる人もいる。

そこに特別な劇的さはない。

でも、この“普通の食堂”の中に、量子通信や心理分析や記憶味覚プロファイルが入っているのだと思うと、やっぱり妙な感じがする。

 

碇シンジ「……みんな、これ使ってるの」

 

KAEDE「はい」

KAEDE「標準利用率は高いです」

KAEDE「長距離航行者、隔離環境勤務者、前線帰還者ほど依存度が上がる傾向があります」

 

依存度。

少し嫌な言葉にも見える。

でも、ここでの依存は“壊れないための支え”に近いのだろう。

 

KAEDE「特に、任務後の回復食と記憶味覚再構成は有効性が高いとされています」

 

シンジはトレイの上の副菜を見ながら、ぽつりと言う。

 

碇シンジ「……イズモも使ってるのかな」

 

KAEDEは短く頷く。

 

KAEDE「はい」

 

シンジは少しだけその返事を待つ。

 

KAEDE「ただし、最上イズモは推奨構成を受け入れる一方で、“食事を作業化しやすい”傾向があります」

KAEDE「そのため、嗜好補正と摂食時間の管理が別途必要です」

 

思わず少し笑ってしまう。

 

碇シンジ「……なんか分かる」

 

KAEDE「あなたは理解が早いです」

 

シンジは首を振る。

 

碇シンジ「理解っていうか」

少しだけ考えてから、

碇シンジ「……あの人、食べることまで“必要だから”で済ませそうだから」

 

KAEDEはそれを否定しない。

 

KAEDE「近いです」

 

その会話が、妙におかしい。

妙におかしいのに、同時に少しだけ安心もする。

イズモが完璧に未来的な人間ではなくて、食事を作業化しがちな困った人としても扱われていることが分かるからだ。

 

しばらく二人とも食べる。

 

食堂の光は静かだ。

ここには戦闘の警報も、向こうのNERVみたいな息苦しい緊張もない。

もちろん、裏にはいろんなシステムが走っているのだろう。

でも表面の手触りはちゃんと“食堂”だった。

 

そのことが、いまはありがたい。

 

シンジはもう一口食べてから、小さく言う。

 

碇シンジ「……次は、試してみてもいいかも」

 

KAEDEが視線を向ける。

 

碇シンジ「記憶の味」

少しだけ目を伏せて、

碇シンジ「まだちょっと怖いけど」

 

KAEDEはすぐに頷く。

 

KAEDE「では、準備だけ進めておきます」

KAEDE「強制はしません」

 

その返しで十分だった。

 

シンジはトレイの湯気を見ながら、少しだけ思う。

 

個室で一人で食べていた時より、

食堂でKAEDEとこうして座っている方が、

ずっと“ここで生きている”感じがする。

 

大げさな変化じゃない。

でも、たぶんこういう小さい移行の積み重ねで、混乱期から抜けていくのだろう。

 

食事を終える頃には、最初に食堂へ来た時の緊張はかなり薄れていた。

代わりに、次は記憶の味をどうするか、そんなことを少し考えている自分がいる。

 

それだけで、今日の食堂は十分に意味があった。

 

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