碇シンジと最上イズモ 他人を演じるということ 作:最上 イズモ
朝の教室は、戦場よりも曖昧だった。
最上イズモは碇シンジの席に座ったまま、黒板と窓と扉の位置を順番に見て、それから自分で小さく目を伏せた。
やめた方がいい。
そう思っても、最初に視線が行く場所はなかなか変わらない。入口。窓。人の流れ。逃げ道。遮蔽物。教室でそんなものを確認したところで意味は薄い。薄いのに、身体の方が先にやる。
昨日まで海の上で使徒を見ていた。
加持に真実の一部を渡した。
夜は遅くなった。
なのに今は、机と椅子と黒板に囲まれている。
平時。
その単語が、エヴァに乗る時よりずっと扱いづらい。
「おーい、シンジ」
横から声が飛ぶ。
鈴原トウジだった。
その向こうに相田ケンスケもいる。
鈴原トウジ「なんや、朝からぼーっとしとるな」
相田ケンスケ「昨日なんかあったのか?」
イズモは二人を見て、返答を一拍だけ選ぶ。
最上イズモ「少し寝不足です」
嘘ではない。
全部でもない。
トウジが眉を上げる。
鈴原トウジ「珍しいな」
相田ケンスケ「顔色はそこまで悪くないけど、なんか緊張してないか?」
鋭い。
というより、学校での変化はこういう相手の方が早く拾うのだろう。軍人や研究者は行動の理由を探す。クラスメイトは温度のズレを先に見る。
最上イズモ「平時の方が難しい時があります」
二人が同時に黙る。
鈴原トウジ「……何言うとるんお前」
相田ケンスケ「なんか昨日より変な方向に進化してない?」
自分でもそう思う。
授業中はたぶん問題ない。
教師の話を聞き、板書を写し、必要なら答える。それは構造がある。始まりと終わりがあって、何をすればいいか明確だ。
困るのはその間だ。
休み時間。
雑談。
視線の置き場。
沈黙の長さ。
“何もしないでいる”という行為。
平時の方が危なっかしい。
ミサトの言葉が頭の中で少しだけ蘇る。
ホームルームが始まる。
担任が入ってくる。
起立、礼、着席。
そこまではいい。
教師の声。
配布物。
今日の予定。
全部が整っている。
イズモはそれをきちんと受け取る。ノートの取り方も、返事のタイミングも、授業だけ切り取れば十分“問題のない生徒”に見えるはずだった。
けれど、たぶん少しだけ整いすぎている。
隣の席の気配が変わる。
視線が流れる。
小さな違和感が教室の中にある。
授業が終わる。
チャイム。
教師が出ていく。
そこから急に難しくなる。
周囲が一斉に崩れる。
立つ。
喋る。
笑う。
次の授業の準備をしながら別の話をする。
その混ざり方がまだ掴めない。
イズモはノートを閉じて、それから一秒ほど動きを失う。
休み時間に何をしていれば自然か。
その判断だけが遅れる。
ケンスケがすぐにそこへ来る。
相田ケンスケ「ほらやっぱり」
鈴原トウジ「授業終わった途端止まるやんけ」
最上イズモ「……少しだけ、切り替えに時間が」
鈴原トウジ「少しちゃうやろ今のは」
トウジは呆れているようでいて、責めてはいない。
ただ単純に不思議そうだ。
鈴原トウジ「お前、授業中は普通やのに、休み時間なったらなんでそんな“次の指示待ち”みたいになるんや」
相田ケンスケ「分かる」
相田ケンスケ「なんか、教室にいるのに野営地っぽいんだよな」
表現が妙に正確で、イズモは少しだけ目を伏せる。
その時、教室の空気が変わる。
入口側から、はっきりした足音が近づいてくる。
ためらいがない。
周囲に見られていることを最初から前提にした歩き方。
惣流・アスカ・ラングレー。
教室の視線がそこへ集まる。
男子も女子も、教師がいない休み時間特有の無遠慮さで新しい中心を見ている。
それを受け止める側の少女は、少しも揺れない。
アスカが教室をひと目で見渡し、その視線がイズモのところで止まる。
一瞬。
その一瞬で、イズモの中の“何をしていいか分からない平時”が少しだけ薄くなる。
対応方法が明確な相手だ。
惣流・アスカ・ラングレー「あんた、また変な顔してるわね」
トウジとケンスケが同時にイズモを見る。
鈴原トウジ「また?」
相田ケンスケ「え、昨日の時点でもう何かあったの?」
最上イズモ「大したことでは」
惣流・アスカ・ラングレー「あるわよ」
アスカは机の横で腕を組む。
惣流・アスカ・ラングレー「海の上でも妙に落ち着いてるくせに、学校だと処理落ちしてるじゃない」
トウジが吹き出しかける。
鈴原トウジ「処理落ちて」
相田ケンスケ「言い方がゲームみたいでぴったりすぎる」
イズモは少しだけ咳払いをしたい気分になる。
否定がしづらい。
惣流・アスカ・ラングレー「授業の方が楽なんでしょ」
最上イズモ「はい」
惣流・アスカ・ラングレー「で、休み時間になると急に“何していいか分からない”」
最上イズモ「……はい」
アスカがそこでふっと鼻を鳴らす。
惣流・アスカ・ラングレー「変なの」
その言い方が妙に自然で、イズモは少しだけ呼吸が戻る。
責めているのではない。
ただ、見たまま言っている。
トウジとケンスケは完全に置いていかれていた。
鈴原トウジ「おい待て待て」
鈴原トウジ「なんで転校初日みたいなやつと、昨日来たばっかのあんたがそんな会話噛み合っとるんや」
相田ケンスケ「それ」
相田ケンスケ「なんか初対面の距離感じゃなくない?」
アスカはそちらを見る。
惣流・アスカ・ラングレー「何よ」
鈴原トウジ「いや、何よちゃうやろ」
相田ケンスケ「シンジ、さっきまでぼんやりしてたのに、惣流さん来た瞬間だけ妙に普通じゃん」
それもまた、かなり正しい。
アスカ相手だと、少なくとも“どう応じるべきか”がはっきりしている。
能力を認める。
子ども扱いしない。
でも全部を譲らない。
そういう枠組みが最初からある。
休み時間の雑談の方が、よほど難しい。
最上イズモ「対応方法が明確なので」
また、三人が黙る。
鈴原トウジ「お前ほんま時々何言うとるか分からん」
相田ケンスケ「でもなんか分かるのが嫌だな」
アスカが机に軽く腰を預ける。
惣流・アスカ・ラングレー「で、休み時間ってそんなに苦手なわけ?」
最上イズモ「授業は構造があります」
惣流・アスカ・ラングレー「うん」
最上イズモ「休み時間は曖昧です」
惣流・アスカ・ラングレー「うん」
最上イズモ「曖昧な場の方が、優先順位が少なくて困ります」
アスカが少しだけ目を細める。
そこに、昨日までの戦場で見たのと近い理解の光があった。
惣流・アスカ・ラングレー「……ああ、なるほど」
トウジがその反応に目を剥く。
鈴原トウジ「分かるんかい」
惣流・アスカ・ラングレー「分かるでしょ、これくらい」
相田ケンスケ「いや、そっちもそっちでなんでそんなに自然なんだよ」
周囲の席でも、ちらちらと視線が飛んでいるのが分かる。
転校生と碇シンジ。
しかも、妙に空気が出来上がっている。
見られるのは分かる。
でも今は、さっきまでよりその視線が少しだけ扱いやすい。
アスカが唐突に言う。
惣流・アスカ・ラングレー「じゃあ、休み時間の課題あげる」
最上イズモ「課題」
惣流・アスカ・ラングレー「そう」
惣流・アスカ・ラングレー「何もしないで固まるくらいなら、購買行って飲み物買ってきなさいよ」
鈴原トウジ「なんやその指導」
相田ケンスケ「でも妙に実践的だな」
イズモは少しだけ考える。
たしかに、明確な目的があれば動ける。
“休み時間を自然に過ごす”は難しい。
でも“飲み物を買いに行く”なら処理できる。
最上イズモ「合理的ですね」
アスカが得意げに顎を上げる。
惣流・アスカ・ラングレー「でしょ?」
トウジが頭を抱える。
鈴原トウジ「なんでそっちで納得するんや!」
相田ケンスケ「しかも惣流さんも、それで満足するんだ……」
アスカはトウジたちの反応を気にせず続ける。
惣流・アスカ・ラングレー「あと、買ってくるなら私の分も」
最上イズモ「何を」
惣流・アスカ・ラングレー「そこから?」
少し考えてから、
惣流・アスカ・ラングレー「甘い炭酸」
最上イズモ「了解しました」
惣流・アスカ・ラングレー「はい、それ学校でやる返事じゃない」
でも、その言い方は笑っていた。
トウジとケンスケはもう半分呆れている。
鈴原トウジ「なんやろなあ」
鈴原トウジ「お前、普段より変やのに、惣流相手だけ妙にやりやすそうで腹立つわ」
相田ケンスケ「分かる」
相田ケンスケ「昨日までのシンジと別人みたいなのに、そこだけ噛み合ってるの気持ち悪い」
その“別人みたい”の一言が、ほんの少しだけ胸へ引っかかる。
けれど表には出さない。
最上イズモ「購買へ行ってきます」
立ち上がる。
その動作だけは妙に迷いがない。
アスカがそれを見て、ふっと鼻を鳴らす。
惣流・アスカ・ラングレー「ほら」
惣流・アスカ・ラングレー「やっぱり“やること”あると普通」
トウジが後ろから言う。
鈴原トウジ「普通ちゃうけどな」
相田ケンスケ「うん、全然普通じゃないけど、さっきよりマシ」
教室を出る廊下も、学校特有のざわつきに満ちている。
だが、目的がはっきりした途端、さっきまでの処理落ちが少しだけ消える。
購買へ行く。
飲み物を選ぶ。
戻る。
構造がある。
その単純さがありがたい。
購買は混んでいた。
人の流れ。
小銭の音。
パンの匂い。
飲み物の棚。
ここでもやはり、イズモは一瞬だけ止まる。
ただ、その止まり方は教室より短い。
アスカは甘い炭酸。
自分は――少し迷って、水に近いものを選ぶ。
戻る途中、ふと窓の外が目に入る。
平和な学校だ。
チャイムが鳴って、誰かが走って、笑い声が混ざっている。
その平和さが、戦場のあとにはどうしても少し薄く見える。
けれど、だからこそ守る意味もあるのだろうと、いまのイズモなら少しだけ思う。
教室へ戻ると、アスカは当然のようにこちらを見る。
惣流・アスカ・ラングレー「遅い」
最上イズモ「混んでいました」
惣流・アスカ・ラングレー「まあいいわ」
飲み物を渡す。
アスカは受け取って、ラベルを見て、少しだけ口元を上げた。
惣流・アスカ・ラングレー「ちゃんと甘いやつ選んでるじゃない」
最上イズモ「指定通りです」
惣流・アスカ・ラングレー「そういうとこよね」
トウジがそのやり取りをじっと見ている。
ケンスケも同じ顔だ。
相田ケンスケ「……なあ」
鈴原トウジ「うん」
相田ケンスケ「やっぱりこの二人、変な噛み合い方してるよな」
鈴原トウジ「せやな」
惣流・アスカ・ラングレー「何よ」
鈴原トウジ「いや、なんでお前らだけ妙に“任務共有済み”みたいな空気出しとるんやって話や」
危うい言葉の選び方だった。
イズモは反応を出さないように、手の中の飲み物へ少しだけ視線を落とす。
アスカはそんなことを気にせず、ふんと笑う。
惣流・アスカ・ラングレー「そりゃあんたたちより話が通じるからでしょ」
鈴原トウジ「ひど」
相田ケンスケ「でも否定しづらいな……」
その返しで、また教室の空気が少しだけ軽くなる。
チャイムが鳴る。
次の授業だ。
席へ戻る流れが始まる。
その“次に何をするか”が決まっているだけで、イズモの中の処理も少しだけ整う。
席へ座る前、アスカが小さく言う。
惣流・アスカ・ラングレー「休み時間、少しはマシになった?」
イズモは少しだけ考える。
最上イズモ「はい」
最上イズモ「明確な指示があったので」
アスカは一瞬だけ黙って、それから呆れたように笑う。
惣流・アスカ・ラングレー「ほんと、面倒な人」
その言い方が妙に悪くなくて、イズモはほんの少しだけ目を細めた。
授業が始まる。
教師の声が教室に落ちる。
また構造のある時間が来る。
けれど今日の学校は、ただ苦手な平時というだけではなかった。
アスカがいて、トウジとケンスケがいて、自分のズレにちゃんと反応する人間がいて、それでも教室の一日は進む。
そのこと自体が、少しだけ救いだった。
次の休み時間は、さっきより少しだけましだった。
授業が終わる。
チャイムが鳴る。
教師が出る。
そのあとに来る曖昧さは相変わらず苦手だ。
けれど、さっき一度“購買へ行く”という形で切り抜けたせいか、完全に止まるところまではいかない。机の上を少し整えて、次の授業の教科書を出して、それから呼吸を一つ置く。その手順だけでも、何もしないで固まるよりはいい。
鈴原トウジ「お、今日はちょっと進歩しとるやん」
横から声が飛ぶ。
トウジだった。
相田ケンスケもすぐ後ろに立っている。
相田ケンスケ「確かに」
相田ケンスケ「まだちょっと処理遅いけど、さっきよりは“停止”してない」
最上イズモ「改善はしています」
その返しに、トウジが机へ肘をつきながら笑う。
鈴原トウジ「なんやその業務報告みたいな言い方」
相田ケンスケ「でもこいつ、最近ほんとそういう喋り方多いよな」
そこへ、少し早足の気配が近づく。
洞木ヒカリだった。
委員長らしく、手にはプリントの束を持っている。歩き方にも声のかけ方にも、“ちゃんと回す側”の空気がある。教室という曖昧な場所で、曖昧じゃない仕事を拾うのに慣れている人の動きだ。
洞木ヒカリ「ちょっと、男子」
鈴原トウジ「うわ、委員長や」
相田ケンスケ「何?」
洞木ヒカリ「何、じゃないの。次の提出物、まだ出してないでしょ」
トウジとケンスケが同時に目を逸らす。
その反応があまりに分かりやすくて、イズモは少しだけ目を細める。
洞木ヒカリ「ほら」
鈴原トウジ「いや、今出そうと思っててやな」
洞木ヒカリ「毎回それ言ってる」
ヒカリの視線がそこでイズモへ向いた。
洞木ヒカリ「碇君はもう出してるわよね?」
最上イズモ「はい」
ヒカリが少しだけ頷く。
洞木ヒカリ「ならいいの」
そのやり取りだけで、トウジが大げさに肩を落とした。
鈴原トウジ「なんやねんその信頼の差は」
洞木ヒカリ「当たり前でしょ」
相田ケンスケ「でも最近のシンジ、妙にちゃんとしすぎて逆に怖いんだよな」
洞木ヒカリ「何それ」
そこへ、教室の入口側からアスカが来る。
今日も迷いがない。
休み時間の教室で、誰の許可もなく中心へ入ってこられる人間の歩き方だ。
惣流・アスカ・ラングレー「また固まってないでしょうね」
ヒカリが一瞬だけ目を丸くする。
トウジとケンスケはすぐにニヤついた。
鈴原トウジ「ほら来た」
相田ケンスケ「保護者その2」
惣流・アスカ・ラングレー「誰がよ」
アスカはそう言いながらも、イズモの机の横へ自然に立つ。
その距離感に、ヒカリの視線が少しだけ揺れた。
洞木ヒカリ「……あれ」
惣流・アスカ・ラングレー「何よ」
洞木ヒカリ「いえ、何というか」
少しだけ言葉を探してから、
洞木ヒカリ「もう少しぎくしゃくするかと思ってた」
アスカが腕を組む。
惣流・アスカ・ラングレー「ぎくしゃく?」
洞木ヒカリ「だって、転校してきたばっかりでしょ」
洞木ヒカリ「なのに、碇君相手だけ妙に会話が速いっていうか……」
トウジがすぐ乗る。
鈴原トウジ「せやろ!?」
相田ケンスケ「そうなんだよ」
相田ケンスケ「シンジ、普段は休み時間になるとちょっと処理落ちしてるのに、惣流さん相手だけ妙に噛み合うんだよな」
ヒカリがそこでイズモを見る。
洞木ヒカリ「碇君、本当に大丈夫?」
最上イズモ「何がでしょう」
洞木ヒカリ「何が、じゃなくて」
ヒカリは少しだけ眉を寄せる。
洞木ヒカリ「この二日くらい、ちゃんとしてるのに、なんか変」
鈴原トウジ「それな」
相田ケンスケ「委員長の語彙でもそこなんだ」
ヒカリは二人を軽く睨んでから、またイズモを見る。
洞木ヒカリ「授業中は普通なのよ」
洞木ヒカリ「でも休み時間になると、たまに“次どうしたらいいか分からない”みたいな顔してる」
イズモは少しだけ答えに詰まる。
ミサトに言われたことと、ほとんど同じだ。
ただ、それを学校で委員長に言われると、少しだけ別の重さがある。
最上イズモ「……平時の方が、判断材料が少ないので」
ヒカリが黙る。
トウジとケンスケも一瞬だけ止まる。
惣流・アスカ・ラングレー「でしょ?」
その返しに、ヒカリがそちらを見る。
洞木ヒカリ「何で惣流さんが納得してるの」
惣流・アスカ・ラングレー「分かるもの」
鈴原トウジ「なんでやねん」
相田ケンスケ「そこが一番分からない」
ヒカリは少しだけ考え込むように、アスカとイズモを見比べた。
洞木ヒカリ「……なんか変な感じ」
惣流・アスカ・ラングレー「だから何が」
洞木ヒカリ「うーん」
少し迷ってから、
洞木ヒカリ「初対面なのに、“前から知ってる人同士”みたいな間があるのよね」
かなり危ないところを突かれて、イズモは一瞬だけ視線を落とす。
表には出さない。
でも、トウジやケンスケより、ヒカリのこういう観察の方が時々鋭い。
アスカはそれを深く受けず、ふっと鼻を鳴らした。
惣流・アスカ・ラングレー「話が通じるだけよ」
洞木ヒカリ「そういうものかな」
鈴原トウジ「いや、ちゃうと思う」
相田ケンスケ「俺もそう思う」
そこでケンスケが、ふと何かに気づいたみたいにイズモの横顔を見る。
相田ケンスケ「……あ」
全員の視線がそちらへ向く。
鈴原トウジ「何や」
洞木ヒカリ「どうしたの」
惣流・アスカ・ラングレー「何よ急に」
ケンスケは少しだけ首をひねったまま、イズモを見る。
相田ケンスケ「いや」
相田ケンスケ「なんか今、ちょっとだけ分かったかも」
イズモの胸の奥で、ほんの少しだけ嫌な予感がする。
鈴原トウジ「何がや」
相田ケンスケ「シンジが最近変って言われる理由」
洞木ヒカリ「え、何?」
相田ケンスケ「……綾波に似てるんだ」
空気が、一瞬だけ静かになる。
イズモは動かない。
動かないようにする。
アスカの目が少しだけ細くなる。
ヒカリは意味を測るような顔をする。
トウジは露骨に首を傾げた。
鈴原トウジ「は?」
洞木ヒカリ「綾波さん?」
相田ケンスケ「うん、いや、顔とかじゃなくて」
ケンスケは言葉を探す。
相田ケンスケ「なんていうか……静かで、反応薄そうで、でも急に本質だけ返してくる感じ」
相田ケンスケ「前のシンジって、もっとこう、普通に困って普通に引いてたじゃん」
相田ケンスケ「今はなんか、“綾波がシンジの顔で喋ってる”みたいな時がある」
トウジがすぐさま反応する。
鈴原トウジ「それは言いすぎやろ」
でも少し考えて、
鈴原トウジ「……いや、でも分からんでもないな」
ヒカリも少しだけ目を伏せる。
洞木ヒカリ「静かな感じは、たしかに近い時あるかも」
その評価が、妙に刺さる。
向こうの綾波。
今ここにいる綾波。
どちらとも違うはずなのに、“似てる”という言葉が学校の雑談の中で不意に出ると、境界が少しだけ揺れる。
アスカがそこで、少しだけ不機嫌そうに口を開く。
惣流・アスカ・ラングレー「一緒にしないで」
相田ケンスケ「え」
惣流・アスカ・ラングレー「こいつはもっと面倒」
鈴原トウジ「そっち?」
洞木ヒカリ「フォローになってないわよ、それ」
アスカは腕を組んだまま、イズモを見る。
惣流・アスカ・ラングレー「綾波みたいに静かでも、こいつ平時だと妙に処理落ちするし」
惣流・アスカ・ラングレー「変なところだけ異常に具体的だし」
惣流・アスカ・ラングレー「あと、分かってるくせにいちいち“はい”って返してくるのが地味に腹立つ」
鈴原トウジ「細か」
相田ケンスケ「観察が進んでる……」
洞木ヒカリ「何だかんだ、見てるのね」
その言葉に、アスカが少しだけ言葉を詰まらせる。
でもすぐに顎を上げる。
惣流・アスカ・ラングレー「当たり前でしょ」
惣流・アスカ・ラングレー「同じクラスで、しかも使えそうなら見るわよ」
“使えそう”。
その言い方がいかにもアスカらしくて、イズモはほんの少しだけ呼吸を楽にする。
トウジがイズモをじっと見てくる。
鈴原トウジ「で、実際どうなんや」
最上イズモ「何がですか」
鈴原トウジ「だから、その……綾波っぽいって話や」
相田ケンスケ「自覚ある?」
洞木ヒカリ「難しい聞き方しないでよ……」
イズモは少しだけ考える。
下手に否定しすぎると不自然だ。
肯定もできない。
なら、少しだけずらす。
最上イズモ「静かな相手の方が、対応はしやすいかもしれません」
ケンスケがすぐ反応する。
相田ケンスケ「あー」
鈴原トウジ「何やその納得」
相田ケンスケ「いや、分かる」
相田ケンスケ「感情で押してこない相手の方が、今のシンジは処理しやすいんだろ」
洞木ヒカリ「……それはあるかも」
アスカがそこで眉を上げる。
惣流・アスカ・ラングレー「ちょっと待って」
惣流・アスカ・ラングレー「じゃあ私が話しやすいのって何で?」
鈴原トウジ「そこ聞くんや」
相田ケンスケ「自分で行くの強いな」
イズモはアスカを見る。
これも、下手な言い方をすると面倒になる。
でも誤魔化しすぎると不自然だ。
最上イズモ「惣流さんは」
少しだけ言葉を選んで、
最上イズモ「反応が明確なので」
一秒、沈黙。
それからトウジが吹き出す。
鈴原トウジ「めっちゃそれっぽい!」
相田ケンスケ「うわ、納得した」
洞木ヒカリ「たしかに……曖昧じゃないものね」
惣流・アスカ・ラングレー「何よそれ!」
アスカは不満そうに言うが、完全に怒ってはいない。
むしろ少しだけ図星を踏まれた顔だ。
惣流・アスカ・ラングレー「もっと他に言い方あるでしょ」
最上イズモ「頼もしい、とか」
惣流・アスカ・ラングレー「それは前に聞いた」
鈴原トウジ「前に聞いたんかい」
相田ケンスケ「やっぱり進んでるだろこの二人」
ヒカリがそこで、少しだけ呆れたように笑う。
洞木ヒカリ「なんかもう、転校生と碇君が変に噛み合ってるのは分かった」
鈴原トウジ「せやな」
相田ケンスケ「で、シンジは綾波みたいな静かさがある時もある」
惣流・アスカ・ラングレー「でも綾波ほど安定してない」
洞木ヒカリ「そこまで分析するの?」
イズモは机の上の飲み物を見下ろす。
平時の学校。
雑談。
クラスメイト。
転校生。
綾波の名前。
アスカの距離感。
かなり危うい材料が並んでいるはずなのに、今のところ致命傷にはなっていない。
むしろ、こういう他愛ない会話の中にいる方が、少しだけ“碇シンジとしてここにいる”感じが出る。
ヒカリがプリントの束を持ち直す。
洞木ヒカリ「それより、次の授業の準備しなさいよ」
鈴原トウジ「うわ、出た委員長」
相田ケンスケ「話広がりかけたのに」
洞木ヒカリ「広げなくていいの」
アスカが自分の席へ戻る前に、イズモを見て小さく言う。
惣流・アスカ・ラングレー「綾波に似てるって言われても、あんまり気にしなくていいわよ」
その一言が少し意外で、イズモは顔を上げる。
惣流・アスカ・ラングレー「似てるっていうより、たぶん“静かな時の方向”が近いだけ」
惣流・アスカ・ラングレー「でも、こっちはもっと面倒だから」
それだけ言って、アスカは自分の席へ戻る。
トウジがそれを聞いて、半笑いで言う。
鈴原トウジ「フォローのつもりなんか?」
相田ケンスケ「独特すぎるだろ」
洞木ヒカリ「でも、ちょっと優しいわね」
チャイムが鳴る。
次の授業が始まる。
クラスの空気がまた少しずつ整っていく。
イズモは席につきながら、さっきの“綾波に似てる”という言葉を完全には追い出せずにいた。
けれど、アスカの最後の一言で、それが少しだけ丸く収まった気もする。
似ているのかもしれない。
似ていないのかもしれない。
たぶんそのどちらでもない。
ただ、静かな時の方向が近い。
それくらいの曖昧さで、今は十分だった。