碇シンジと最上イズモ 他人を演じるということ 作:最上 イズモ
チャイムが鳴り終わるより先に、ざわめきの向きが変わった。
椅子の脚が床を擦る音。鞄の金具が机に当たる硬い音。昼休みへ崩れていく教室の中で、最上イズモは教科書を閉じる手を止めなかった。視線だけが、窓際から一度こちらへ流れてきて、すぐ逸れる。
惣流・アスカ・ラングレー。
朝より近い。けれど、話しかける距離ではない。周囲から見れば、ただ同じ教室にいるだけの間合いだ。
トウジとケンスケが何か言って笑っている。ヒカリがそれを止める声を出す。その全部が耳に入るのに、教室の空気は一箇所だけ薄く張っていた。
綾波レイは今日も静かだった。けれど、静かなだけでは済まない何かを持っている目で、時々こちらを見る。観察ではない。測定でもない。もっと手前の、言葉にする前の確認みたいな見方だ。
鞄へノートを入れ、立つ。
その瞬間、正面に影が差した。
洞木ヒカリ「碇君、今日の日直の確認、先にいい?」
最上イズモ「はい」
すぐ返すと、ヒカリが一拍だけ黙った。断られると思っていたわけではない。ただ、その早さが彼女の想定より少しだけ整いすぎていたらしい。
洞木ヒカリ「……プリント、職員室に持っていくの手伝ってもらえる?」
最上イズモ「分かりました」
洞木ヒカリ「助かるわ」
ヒカリはすぐに立て直した。委員長の顔だ。頼んで、回して、終わらせる人間の動き。だが、その横で赤い髪がぴくりと揺れたのを、イズモは見逃さなかった。
惣流・アスカ・ラングレー「へえ」
短い。けれど、十分だった。
ヒカリが小さく目を見開く。トウジが面白そうな顔をする。ケンスケが机に肘をつきかけて、わざとらしく姿勢を直す。
アスカは壁にもたれたまま、こちらを見ていた。
惣流・アスカ・ラングレー「ほんと便利になったわね、あんた」
最上イズモ「日直業務の範囲なら」
惣流・アスカ・ラングレー「そういうとこよ」
笑っていない声だった。
教室の空気が、少しだけ狭くなる。
ヒカリが何か言おうとして止まる。トウジは口を開きかけたまま黙った。こういう時に割って入ると余計にこじれると、本能で分かる種類の沈黙だった。
イズモはプリントの束を受け取る。紙の角が指に当たる。軽い。だが、今ここで軽いものほど扱いを間違えると散る。
最上イズモ「後で職員室へ持っていきます」
洞木ヒカリ「え、ええ……お願い」
ヒカリが一歩引いた。アスカはその分だけ前へ出る。
惣流・アスカ・ラングレー「逃げないのね」
最上イズモ「今のところは」
惣流・アスカ・ラングレー「今のところ、ね」
アスカはそこでようやく口元だけで笑った。挑発ではない。確かめる笑い方だった。
惣流・アスカ・ラングレー「屋上」
最上イズモ「……昼休みにですか」
惣流・アスカ・ラングレー「嫌なら別にいいわよ」
そう言いながら、嫌だと言わせる気のない目をしている。
イズモは一瞬だけ教室を見た。視線が何本か、もうこちらに向いている。長引けば、話の形が変わる。
最上イズモ「分かりました」
惣流・アスカ・ラングレー「素直すぎるのも腹立つのよね」
アスカはそう言って踵を返した。長い髪が肩で跳ねる。乱暴には見えないのに、通る空気だけが少し荒い。
その背中を見送りながら、イズモはプリントを持ち直した。
怒っている、だけではない。
そこまで分かるのが、少し厄介だった。
屋上の扉は重かった。
鉄の取っ手は日差しで温まりきっておらず、まだ朝の冷えを少し残している。開けると、風が先に入ってきた。校舎の上を渡る春先の風は乾いていて、土と金網の匂いがした。
惣流・アスカ・ラングレー「遅い」
最上イズモ「職員室へ寄っていました」
惣流・アスカ・ラングレー「そういう報告いらない」
アスカはフェンスの前にいた。腕を組み、街の方を向いている。けれど本気で景色を見ているわけではない。来る足音を待っていた姿勢だ。
最上イズモは扉を閉める。金属音が響き、逃げ道みたいに一度だけ空に抜けた。
距離を取りすぎず、近づきすぎず、数歩手前で止まる。
惣流・アスカ・ラングレー「で」
最上イズモ「はい」
惣流・アスカ・ラングレー「あんた、誰」
直球だった。
風が吹く。アスカの前髪が目元へかかり、すぐ流れた。逸らさない。逃がさない。けれど、答えを急かしてもいない。雑に聞いているようで、その実いちばん深いところだけを狙っている。
最上イズモ「碇シンジとして扱われています」
惣流・アスカ・ラングレー「そういうの、今いちばん嫌い」
アスカが振り向く。目が真正面からぶつかる。
惣流・アスカ・ラングレー「名前の話してないの、分かるでしょ」
分かっている。
だから答えづらい。
イズモはわずかに息を入れた。ここで黙り続ければ、彼女はさらに踏み込む。誤魔化せば、たぶんそれも見抜く。
最上イズモ「あなたが見ている違和感は、たぶん正しいです」
惣流・アスカ・ラングレー「たぶん?」
最上イズモ「全部を言うには、まだ材料が足りません」
惣流・アスカ・ラングレー「へえ。自分だけ分かった顔して、こっちは待てって言うんだ」
アスカは歩み寄る。靴音が乾いている。フェンス際の影から出た分だけ、日差しが彼女の輪郭を硬くした。
惣流・アスカ・ラングレー「最近のあんた、変よ。最初からだけど、今はもっと変」
最上イズモ「自覚はあります」
惣流・アスカ・ラングレー「それも腹立つの」
アスカの手が一瞬だけ上がり、胸ぐらを掴む寸前で止まった。
止めたのは理性だけではない。触れた時に何かが決まりそうで、それを嫌がった動きだった。
その指先が、空中で少しだけ震える。
惣流・アスカ・ラングレー「前から気に食わなかったはずなのに、最近のあんたは別の意味で引っかかるのよ」
最上イズモは黙っていた。
惣流・アスカ・ラングレー「見たことあるみたいで、でも思い出せない。そういうの、気持ち悪いの」
その言葉が落ちた瞬間、風の音だけが妙にはっきりした。
アスカ自身も、口にしたものの形をまだ測りきれていない顔をしていた。怒っている。苛立っている。けれど、それだけでは届かない場所を、自分の言葉が掠めたことに気づいている目だった。
最上イズモ「……そうですか」
惣流・アスカ・ラングレー「なによ、その返し」
最上イズモ「軽く扱うべき話じゃないと思ったので」
惣流・アスカ・ラングレー「だったら誤魔化さないで」
最上イズモは答えを選ばなかった。選べなかった、に近い。ここで慰めれば軽い。否定すれば嘘になる。
風が二人の間を通り抜ける。
下のグラウンドから、遠い笛の音がした。
惣流・アスカ・ラングレー「でも」
アスカが視線を落とす。落として、すぐ戻す。
惣流・アスカ・ラングレー「前より話は通じる」
最上イズモ「それは、良い意味で」
惣流・アスカ・ラングレー「調子乗らないで」
ぴしゃりと返したあと、アスカは小さく息を吐いた。
怒鳴らない。その代わり、目だけが正直だった。
惣流・アスカ・ラングレー「あんた、たまに綾波みたいな顔するのよ」
最上イズモはそこで初めて、ほんのわずかに反応が遅れた。
それを見て、アスカの目が細くなる。
惣流・アスカ・ラングレー「ほら。今の」
最上イズモ「未確認ですが、興味深い指摘です」
惣流・アスカ・ラングレー「ほんっとそういうの」
アスカは額を押さえた。呆れている仕草なのに、笑いそうになるのを止めているようにも見えた。
しばらくして、彼女は手を下ろす。
惣流・アスカ・ラングレー「……いい」
最上イズモ「はい」
惣流・アスカ・ラングレー「今すぐ全部言えとは言わない」
最上イズモは黙って聞く。
惣流・アスカ・ラングレー「でも、あんたがあんたの事情で何か隠してるなら、そのせいでこっちを勝手に守った気になるのはやめて」
風が止んだ。
その一言だけ、屋上の空気から余計なものが全部落ちた気がした。
アスカはまっすぐこちらを見る。
惣流・アスカ・ラングレー「選ぶのは、こっちもやる」
最上イズモの喉がわずかに狭くなる。
それは、この世界でよく聞く種類の言葉ではなかった。もっと鋭く、もっと個人的で、だからこそ外せない線の引き方だった。
最上イズモ「……分かりました」
惣流・アスカ・ラングレー「軽いのよ、その返事」
最上イズモ「軽くはないです」
惣流・アスカ・ラングレー「じゃあ見せなさいよ」
アスカはそれだけ言って、今度こそ完全に背を向けた。
扉へ向かう足取りは速い。けれど逃げる速さではない。言うだけ言って、自分で選んだ速度だ。
手が取っ手にかかる直前、彼女は振り向かないまま言った。
惣流・アスカ・ラングレー「次、誤魔化したら殴る」
最上イズモ「できれば別の方法でお願いします」
惣流・アスカ・ラングレー「考えといてあげる」
扉が開き、閉じる。
金属音のあと、屋上には風だけが残った。
イズモはしばらくその場を動かなかった。フェンスの向こうで、街は何も知らない顔で広がっている。電車の音。校庭の声。遠くの道路を走る車の鈍い唸り。
日常だ。
だが、その輪郭の内側で、もう何人かが気づき始めている。
隠し通せる段階は、たぶん長くない。
それでも、今の会話の最後に残ったのが疑いだけではなかったことを、身体が先に覚えていた。
イズモは空を見上げる。
高く、薄い雲が流れている。
向こうの空ではない。
けれど、誰かが同じように別の空を見ている気がして、視線を下ろすまでに少しだけ時間がかかった。
その頃、碇シンジは白い廊下の前で立ち止まっていた。
壁も床も静かだった。磨かれているのに冷たく見えない。照明は明るいのに眩しくない。足音だけが、自分のものだとはっきり分かるくらい、周囲が整いすぎていた。
透明な仕切りの向こうに、いくつもの机が並んでいる。
教室、に近い。けれどNERVの会議室とも、自分の学校とも違った。
誰かが前を向いて一斉に座る形ではない。円く置かれた席。開いた表示板。立ったまま話している年上の少女。床へ直接座って端末を見ている子ども。年齢も、姿勢も、揃っていない。
なのに、散らかって見えなかった。
KAEDE「基礎教育区画です」
シンジはガラス越しに中を見る。誰も騒いでいない。静かなのに、止まってもいない。必要な音だけが流れている場所だった。
碇シンジ「……学校」
KAEDE「近いですが、同一ではありません」
その答え方が、少しだけこの世界らしかった。似ているものを似ていると言っても、同じにはしない。
中の一人がこちらに気づいた。小さな子だ。けれど驚いて駆け寄るでも、怯えて隠れるでもない。見て、目が合って、それから手を振る。
シンジは反射で肩を強ばらせた。
KAEDEは何も言わない。代わりに、扉の横へ一歩だけ退く。
入るかどうかは、こちらに残されていた。
シンジは自分の手を見る。長い指。まだ慣れない、他人の手。
その手が、取っ手に伸びるまで少し時間がかかった。
けれど、止まったままではいなかった。