碇シンジと最上イズモ 他人を演じるということ 作:最上 イズモ
白い廊下の静けさが、まだ耳の奥に残っていた。
碇シンジは扉の前で立ち尽くしたまま、指先に残る金属の感触を見失えずにいた。向こう側では、子どもたちの声が小さく重なっている。騒がしいわけではない。けれど、黙っているよりずっと落ち着かない。
ここでは、誰も怒鳴らない。
そのことが逆に、足を止めた。
KAEDEは一歩後ろで待っていた。急かさない。見守る、というより、選択の外へ自分を置いている立ち方だった。
KAEDE「入らないという選択も可能です」
シンジは扉を見たまま、少しだけ眉を寄せた。
碇シンジ「……そう言われると、余計に困る」
KAEDE「はい」
それだけだった。
否定もしない。励ましもしない。ただ、困ること自体を変なものとして扱わない。
シンジは息を吸う。吐く。もう一度、ガラス越しに中を見た。
円く置かれた机。端末の表示。年齢のばらつく子どもたち。立って話している年上の少女は、教師に見えない。けれど、生徒にも見えなかった。誰かを管理する空気ではなく、場を持たせている空気だ。
その中の一人、小さな男の子がまたこちらを見た。
今度は手を振らない。
ただ、見ている。
知らない人を見る目なのに、警戒しきっていない。あの目に、シンジは少しだけ息が詰まった。
碇シンジ「……何て言えばいいの」
KAEDE「何も定型はありません」
碇シンジ「そういうのが一番困るんだよ」
言ってから、自分でも少し驚いた。
文句みたいな言い方になったのに、KAEDEの表情は変わらない。
KAEDE「承知しています」
承知、という言葉が妙に硬くて、少しだけおかしかった。
笑うところじゃないのに、喉の奥がわずかに緩む。けれどそれもすぐに消えて、シンジは取っ手へ手をかけた。
扉を開ける。
室内の空気は思ったより温かかった。機械の熱と、人の体温と、紙の匂いが混ざっている。どこか病院にも似ているのに、ずっとやわらかい。
何人かの視線がこちらへ向く。
一斉に、ではない。
気づいた人から順番に、という感じだった。
それが少しだけ救いだった。
年上の少女が話を止め、こちらへ顔を向ける。黒髪を後ろで束ねた、落ち着いた顔立ちの人だった。白衣ではない。制服でもない。けれど、場に対して自然に立っている。
ユナ「見学?」
KAEDE「はい。外部保護対象です」
その言葉に、シンジの肩が固くなる。
外部。保護対象。
間違ってはいない。たぶん、扱いとしても必要な言葉だ。だが、自分がラベルになる時の感じは、どうしても好きになれない。
年上の少女――ユナは、シンジではなくKAEDEを一度見て、それからすぐに視線を戻した。
ユナ「了解。なら、無理には混ぜない」
KAEDE「助かります」
ユナはそれで終わらせた。
説明もしない。気を遣いすぎる様子もない。ただ、場の中でどう置くかだけを決めて、押しつけない。
その簡潔さに、シンジは少しだけ拍子抜けする。
小さな女の子が椅子から身を乗り出した。銀色に近い薄い髪。年は、自分よりずっと下だ。だが、こちらを見上げる目が妙にまっすぐだった。
ミオ「見学って、転校とは違う?」
シンジは口を開きかけて止まる。
分からない。
自分が何に当たるのか、自分でも決められていない。
KAEDEは答えない。代わりに、シンジの横で少しだけ立つ位置を変えた。それだけで、答えるかどうかをこちらへ戻していると分かる。
碇シンジ「……違う、と思う」
ミオ「ふうん」
それで終わった。
もっと聞かれると思っていたのに、少女は端末へ視線を戻した。興味が消えたわけではない。ただ、答えがそれなら今はそれで置いておく、という感じだった。
この世界の人間は、みんなこうなのだろうか。
踏み込まないのに、引きもしない。
距離の測り方が、自分の知っているものと少し違う。
ユナ「空いてる席、使う?」
シンジは部屋の奥を見る。円い机の一角に、確かに一つだけ空席があった。誰かのために空けていたわけではないだろう。ただ、空いているから空いている。そういう席だ。
碇シンジ「……僕が入っても、邪魔にならない?」
教室の空気が、そこでほんの少しだけ止まった。
誰かが気を悪くしたのではない。ただ、その問いがここでは少し珍しいらしかった。
やがて、床へ座っていた少年が顔を上げる。年は同じくらいか、少し下。癖のある黒髪に、片耳だけ光る補助端末をつけている。
レオ「邪魔かどうかは、入ってからじゃないと分からない」
あまりにそのままの返事で、シンジは反応が遅れた。
ユナもKAEDEも止めない。
レオは続ける。
レオ「でも、入る前から決めるのは変じゃない?」
責める口調ではなかった。純粋に、手順として不思議だという言い方だった。
シンジは視線を落とす。
靴先。磨かれた床。自分の影。
入る前から邪魔かもしれないと思うのは、たぶん癖だ。先に悪い可能性を置いておけば、傷が浅くて済む。
けれど、そのやり方はここでは共有されていないらしい。
碇シンジ「……そうかもしれない」
レオ「うん」
それも、それで終わりだった。
勝った負けたみたいな顔をしない。ただ、会話がそこまで進んだと納得した人間の顔だ。
シンジは空席を見る。
行けるかどうかではない。行くかどうかだ。
たったそれだけのことが、やけに重い。
だが、背中の後ろでKAEDEが待っている。この人は押さない。押さないまま、選んだ結果だけを受け取る。
だから逃げにくい。
シンジは一歩だけ踏み出した。
それだけで、床の感触が変わった気がした。
席へ近づく。視線がまた少し集まり、すぐ散る。観察されている。でも、裁かれてはいない。
椅子へ手をかける。
引く音が、思ったより大きかった。
座る。
それで終わるはずなのに、胸の奥が妙に騒がしい。
ユナ「今、ちょうど進路設計の基礎やってる」
碇シンジ「進路」
ユナ「何ができるか、じゃなくて、何を選ぶと何が増えて何が減るかの話」
シンジは顔を上げる。
それは学校で聞く進路とは少し違っていた。得意不得意や成績の話ではないらしい。
ユナは表示板を軽く叩く。いくつかの図が並ぶ。航路図みたいにも見えるし、樹形図にも見える。枝分かれした線の先に、それぞれ別の数字や記号がある。
ユナ「万能は前提にしない。時間も集中力も有限。だから、取るものがあれば捨てるものも出る」
教室の誰かが頷く。
誰も驚いていない。常識として聞いている顔だ。
シンジはその図を見る。枝分かれ。選択。増えるもの、減るもの。
胸のどこかが、少しだけ痛んだ。
自分の世界では、選ぶ前に流されることの方が多かった。少なくとも、そう感じることが多かった。乗る。戦う。待つ。怒鳴られる。終わる。そういう流れの中で、自分の選択がどこにあったのか、見えない時がある。
ミオ「見学の人」
銀髪の少女がこちらを見る。
ミオ「何か、やりたいことある?」
また、まっすぐだった。
悪意がない分だけ、逃げ場がない。
シンジはすぐには答えられなかった。
やりたいこと。
嫌なことなら言える。怖いことも言える。逃げたいことも、たぶん言える。
でも、やりたいこととなると、急に手元が空白になる。
碇シンジ「……分からない」
ミオ「今は?」
碇シンジ「今も」
ミオ「そっか」
その返し方が、少しだけ助かった。
失望でも励ましでもなく、ただ受け取る。そこから何かを足す気配もない。
だが、今度は別のところから声が飛んだ。
レオ「じゃあ、やりたくないことは?」
シンジはそちらを見る。
レオは端末をいじりながら、こちらを見ていない。質問だけを置いた感じだった。
けれど、その問いは妙に引っかかった。
やりたいことは分からない。
でも、やりたくないことなら。
碇シンジ「……誰かが決めたことを、そのまま自分のことみたいに引き受けるのは」
言いかけて、止まる。
教室が静かになった。
KAEDEは動かない。助け舟も出さない。
だから、最後まで言うしかない。
碇シンジ「……たぶん、もう嫌だ」
自分の声なのに、少しだけ遠く聞こえた。
ユナが表示板から手を離す。
ミオが小さく瞬きをする。
レオは端末を閉じ、今度はちゃんとこちらを見た。
レオ「それ、十分材料じゃない?」
シンジは返事をしない。
心臓だけがうるさい。
十分材料。
そんなふうに言われたことは、たぶんなかった。
足りないものではなく、もうあるものとして扱われる感じが、まだうまく飲み込めない。
ユナ「最初の線引きとしては悪くない」
碇シンジ「線引き」
ユナ「選ばないものを決めると、選べるものが見えやすくなる」
それは、簡単そうでいて、ずいぶん乱暴にも聞こえた。
でも乱暴なだけではない。何かを守るための切り方にも思えた。
シンジは指先を握る。自分でも気づかないうちに、少しだけ強く。
やりたくないことを決める。
それは逃げではないのか。
そう聞き返しかけて、やめた。ここではたぶん、その問い自体が少し違う。
逃げるかどうかではない。
何を自分の線にするかだ。
KAEDE「補足します」
初めて、彼女が会話へ入った。
室内の何人かがそちらを見る。
KAEDE「拒否は能力不足の証明ではありません。選択です」
シンジの喉がわずかに動く。
その言葉を、すぐに信じられるわけではない。
けれど、聞き流すには真っ直ぐすぎた。
レオが机に肘をつき、少し考える顔をした。
レオ「じゃあ、見学の人の今日の課題、それでよくない?」
ミオ「なに」
レオ「やりたいことを出すんじゃなくて、引き受けたくないものを一個だけ決める」
ユナはすぐには止めなかった。クラス全体を見て、それからシンジへ視線を戻す。
ユナ「嫌なら断っていい」
また、それだ。
断っていい。
逃げ道があると、逆に真正面から問われる。
シンジは席の縁を握る。頭の中で、いくつかの場面が浮かぶ。父親の横顔。エヴァの拘束具。病院の白さ。ミサトの部屋の天井。誰かの命令。自分の返事。返事の後で来る、息苦しさ。
引き受けたくないもの。
一つだけ。
碇シンジ「……自分で選んでないことを」
言葉が、途中でつかえる。
それでも続ける。
碇シンジ「それを、最初から僕の役目だったみたいに言われるのは、嫌だ」
教室は静かだった。
静かなまま、止まってはいない。誰かがその言葉を頭の中で置き直している。そんな沈黙だった。
ミオが小さく頷く。
レオが端末へ何か打ち込む。
ユナは表示板に一行だけ何かを書き加えた。
選択しないものは、境界を作る。
その文字列が、画面の端に浮く。
シンジはそれを見ていた。
自分が言ったことが、誰かに勝手に加工されたわけではない。けれど、ただの弱音でもなく置かれた。その感じに、胸の中の何かが少しだけ動く。
KAEDE「初期設定としては妥当です」
碇シンジ「……設定って言い方、機械みたい」
KAEDE「不快でしたか」
碇シンジは少し考える。
嫌ではない。たぶん、少しだけ違和感があるだけだ。
碇シンジ「いや……変なだけ」
KAEDE「承知しました。以後、調整します」
レオが吹き出しかけて咳払いをした。
ミオも口元を押さえる。
ユナは小さく目を細めただけだったが、教室の空気がほんの少しだけ緩んだ。
シンジはそこでやっと、自分が椅子から逃げていないことに気づく。
座っている。
まだ、ここにいる。
何かをうまくやれたわけじゃない。馴染めたわけでもない。けれど、入って、座って、言葉を一つ置いた。
それだけだ。
それだけなのに、今までの自分にはやけに重い。
窓の外では、遠くを小さな機影が横切っていく。空路を移動する輸送艇だろうか。白い筋を引いて、すぐ見えなくなった。
シンジはその消えた空を見たまま、息を吐く。
別の世界。
別の学校みたいな場所。
別の問い。
でも、今ここで言ったことだけは、たぶん借り物じゃない。
その感触が胸の奥へ沈みきる前に、ユナが表示板を軽く叩いた。
ユナ「じゃあ次。選ばないものが決まった人から、その代わりに守りたい条件を一個だけ出して」
シンジは目を戻す。
今度はすぐには答えられない。
けれど、さっきよりは、少しだけ逃げる理由が減っていた。