碇シンジと最上イズモ 他人を演じるということ 作:最上 イズモ
教室の空気が、そこで一度だけきれいに割れた。
担任が黒板の前で配布物を持ち上げ、修学旅行の日程を読み上げる。行き先、集合時間、班編成、持ち物。窓の外から差し込む昼の光に紙の端が白く反って、教室のあちこちで椅子がきしんだ。ざわめきはすぐに熱を持ち、誰と回るだの、どこの土産がどうだの、まだ始まってもいない旅の輪郭だけが先に膨らんでいく。
その中で、担任が一枚だけ別の紙を抜いた。
教師「なお、碇、綾波、惣流。この三名は日程の都合により校外行事には参加しない」
教師「代替として、校内施設の使用許可が下りている。詳細は別途伝える」
わずかな間。
空気はすぐに戻った。誰かが「えー」と言い、別の誰かが「またかよ」と笑う。大きな波にはならない。エヴァのパイロットが一般の生徒と同じ扱いをされないこと自体は、もう教室のどこかで半ば了解事項になっていた。
だが、紙の表面を見つめたまま、最上イズモは指先の力をほんのわずかに強めた。
代替。
その言葉だけが、妙に乾いて聞こえた。
教師「三人は放課後、職員室へ来い。以上」
それで終わった。教室は何事もなかったように次の話題へ流れていく。修学旅行のしおりが回され、ページをめくる音が重なる。笑い声。足音。机に肘をつく音。鉛筆が転がる音。
イズモは紙を受け取ったまま、視線だけを落とした。
温度の違う場所へ一瞬だけ押し出されて、周囲の時間がまた元の速さへ戻る。そういう感覚には慣れている。慣れているはずだった。
隣の席の男子が後ろを振り返りながら騒ぎ、前の列では女子たちが宿の写真を見て声を上げている。綾波は前方で静かに座ったまま紙を机に置いていた。アスカだけが明確に不機嫌そうに椅子へ深くもたれ、鼻先で笑った。
アスカ「代替ってなによ、代替って」
アスカ「人を部品みたいに言って」
誰に向けた言葉でもなかったが、教室のざわめきに飲まれず、そこだけ妙にまっすぐ届いた。
最上イズモ「……施設使用、って言ってたな」
アスカが横目で見る。
アスカ「どうせプールとかトレーニングルームとか、そのへんでしょ」
アスカ「息抜きさせる気があるなら、最初から旅行に行かせなさいっての」
綾波は答えない。窓の向こうを見たまま、指先だけでしおりの角を揃えている。
昼休みの終わりを告げる鐘が鳴る。教室の熱が少しずつ席に戻り、雑談は切れ、誰もが自分の前の時間へ戻っていく。
イズモは配布物を二つ折りにした。
紙の折り目が妙に正確についた。
放課後、職員室で渡された紙は、予想通りだった。
校内プール使用許可。
監督者付き。時間制限あり。器具使用可。飲食禁止。許可範囲外への立ち入り禁止。
印刷された文面の整い方が、妙に冷たい。
アスカ「ふざけてる」
アスカ「ほんとにプールじゃない」
ミサトはその紙を持ちながら、悪びれた様子もなく肩をすくめた。
ミサト「まあまあ。たまにはこういうのもいいじゃない」
ミサト「修学旅行の代わりって言われるとアレだけど、息抜きにはなるでしょ」
アスカ「ならないわよ」
アスカ「なんで一般生徒はちゃんと泊まりで出かけるのに、あたしたちだけ校内で水浴びなのよ」
ミサト「そこはほら、いろいろ事情が」
アスカ「いろいろで済ませるなっての」
リツコは書類の束を閉じ、表情も変えずに言った。
リツコ「嫌なら使わなくてもいいわ。ただ、外出許可は出ない」
リツコ「待機よりはまし、という程度の提案よ」
それは提案の顔をした固定だった。
アスカが舌打ちし、綾波は小さく紙を受け取る。イズモも最後に一枚を手にした。インクの匂い。薄い紙。角の揃い方。監督者欄に記された名前を見て、視線が一度だけ止まる。
加持リョウジ。
そこをミサトが覗き込んで、軽く笑った。
ミサト「ちょうど加持くんも空いてるしね」
ミサト「監視役にはちょうどいいでしょ?」
加持「監視って言い方はやめてくれよ」
加持「俺だって傷つくんだぜ」
軽い声。軽い顔。だが、その目だけは書類の上を一度なぞるように三人を見た。
その一瞬だけ、イズモは紙を畳む指を止めた。
加持は何も言わない。だが、見ている位置が少し違う。
アスカ「別に見張られなくても溺れないわよ」
アスカ「ねえ、あんたたちもそうでしょ?」
綾波は小さく頷いた。
イズモは一拍遅れて、紙を封筒へ戻す。
最上イズモ「……使用自体は問題ありません」
ミサト「ほら、シンジくんもそう言ってるし」
その呼び方に、イズモは何も返さなかった。
加持だけが、わずかに視線を上げた。
当日、プールサイドは妙に明るかった。
屋内だというのに、ガラス越しの光が水面に反射し、天井へゆっくりと揺れ模様を投げている。塩素の匂いが鼻に張り付き、遠くで循環装置の低い唸りが続いていた。
修学旅行へ向かった生徒たちのいない校舎は静かで、その静けさがここでは逆に水音を目立たせていた。誰かが少し歩くだけで響く。扉が閉まるだけで残る。
アスカは早々に荷物をベンチへ放り、腕を組んで周囲を見回した。
アスカ「ほんっと、盛り上がらない」
アスカ「これで気分転換になると思ってるのが腹立つわ」
ミサト「そう言わないの。貸し切りよ? 悪くないじゃない」
アスカ「貸し切りの意味が違うのよ」
綾波は返事もなく更衣室へ向かう。足音が静かで、水音とほとんど区別がつかない。
アスカがくるりと振り返った。
アスカ「ほら、シンジも行くわよ」
イズモはプールサイドの端で立ち止まっていた。白いタイルの目地。非常口までの距離。監視台の位置。器具庫の扉。浅い側、深い側。人が少ないぶん、空間の輪郭がやけにはっきりして見える。
アスカ「ちょっと」
アスカ「聞いてる?」
最上イズモ「……遠慮しときます」
アスカが眉をひそめる。
アスカ「は?」
最上イズモ「見学で十分です」
最上イズモ「君の単機運用でも問題ない」
アスカ「単機運用って何よ」
アスカ「遊びの話してんの」
ミサト「シンジくん、せっかくなんだし入ればいいじゃない」
ミサト「泳げないわけじゃないでしょ?」
最上イズモ「泳げます」
最上イズモ「ただ、必要性が薄いので」
その場の空気が、ほんの少しだけ止まる。
必要性。
アスカの顔が露骨にしかめられた。
アスカ「だからそういう言い方なのよ、あんたは!」
アスカ「修学旅行の代わりに遊べって言われてんのに、なんで必要性とか効率とかの話になるのよ!」
最上イズモ「……失礼」
アスカ「謝ればいいと思ってるでしょ」
ミサトが乾いた笑みを浮かべ、加持は自販機の横で缶コーヒーを手にしたまま様子を見ている。口は出さない。ただ、その目だけがイズモの立ち位置と足の向きと、視線の動きを拾っていた。
アスカは一歩で距離を詰めた。
アスカ「いいから来なさい」
アスカ「こういう時まで変な気を使われると腹立つのよ」
最上イズモ「惣流、私は」
アスカ「私は、じゃない!」
腕を掴まれる。細い指なのに、妙に強い。
咄嗟に振り払うことはできた。できる。だが、やらない。
その一瞬の迷いを、アスカは許さなかった。
アスカ「ほら!」
そのまま更衣室の扉が開き、押し込まれる。白いタイルとロッカーの列。冷えた空気。背後で閉まる扉の音が、やけに硬く響いた。
一人になった空間で、イズモは数秒だけ立ち尽くした。
ベンチ。鏡。非常用の赤い表示灯。ロッカー番号。濡れた気配のない床。逃げ道はある。出ること自体は簡単だ。だが、今ここで出れば余計な説明が増える。説明は増えるほど精度を要求される。精度を上げれば、輪郭が漏れる。
イズモは目を閉じた。
浅く息を吸う。止める。吐く。
感情ではなく、手順へ落とす。
制服の第一ボタン。第二ボタン。袖。順番。布地の折り方。机の上に置くように乱れを消す。ロッカーに収める角度。視線は落とし、呼吸だけ一定に保つ。
鏡の前に立った時、自分の輪郭が一瞬だけ遅れて見えた。
借りている身体。呼ばれている名前。そこにいると求められている位置。
どれも間違ってはいない。どれも自分のものではない。
イズモは視線を切った。
水着の紐を結ぶ動作まで行って、ようやく外の時間へ戻る準備が終わる。
扉を開ける。
光が少し強い。
アスカ「遅い!」
振り返ったアスカが一瞬だけ口を閉じる。綾波も浅い側で立ったまま、こちらを見た。ミサトが「あら」と小さく言い、加持は缶を口元で止めた。
それっぽく振る舞うつもりだった。
だが、出てきたイズモの動きは、どうしてもどこか整いすぎていた。肩の線。歩幅。視線の置き方。肌を見せることへのためらいではなく、露出した状態でなお外界へ応答し続ける者の緊張が、表情の裏で静かに残っている。
アスカ「……なによ、その顔」
最上イズモ「問題ありません」
アスカ「問題ない顔じゃないんだけど?」
最上イズモ「支障はありません」
アスカは露骨に眉をしかめたが、それ以上は言わなかった。言葉にしにくい違和感は、怒鳴るほど形を持たない。
ミサトが手を叩く。
ミサト「はいはい、せっかく着替えたんだから気楽にね」
ミサト「競争でもする? それとも自由に泳ぐ?」
アスカ「競争!」
綾波「……どちらでも」
最上イズモ「自由で構いません」
アスカ「ほんっとノらないわね」
水へ入る。
最初の一歩で冷たさが脛をなぞり、二歩目で膝へ上がり、三歩目で重さが変わる。そこまでは自然だ。だがその先、イズモの身体は遊びの速度にならなかった。
姿勢は無駄なく安定し、足裏は底の抵抗を確かめ、腕は水を散らさない。周囲との距離を保ち、背後を壁に預けられる位置を選び、深い側へ寄りすぎない。楽しむより先に、崩れない場所を確保する動き。
綾波が静かに泳ぎ出し、アスカは派手に水を蹴って先へ出る。ミサトが「きゃっ、冷たい」と笑い、プールサイドにしぶきが飛ぶ。
その中で、イズモだけが水の中でも妙に静かだった。
アスカ「シンジ、遅い!」
アスカ「あんた泳げるって言ったでしょ!」
最上イズモ「泳げます」
アスカ「だったらもっと来なさいよ!」
言われて、イズモは浅い側から一度だけ身体を前へ流した。
速い。
水を裂く音が短い。余計な跳ね方がない。三掻きで距離を消し、四掻き目で止まる。だが、その泳ぎにも妙な癖があった。見せるためではなく、沈まないための軸が最初から決まっている。呼吸も、身体の開きも、最短で乱れないように組まれている。
アスカが目を細めた。
アスカ「……上手いっていうか」
アスカ「なんか、変」
最上イズモ「そうですか」
アスカ「そうよ」
アスカ「遊んでる泳ぎじゃないの」
イズモは答えない。
綾波が水面から顔を上げる。赤い目が一度だけこちらを見て、何も言わずまた視線を落とした。分かっているのか、いないのか、そのどちらとも取れない静けさだった。
しばらくして、アスカは競争を諦めたように一人でターンの練習を始め、ミサトはプールサイドに上がってタオルで髪を拭き、綾波は静かに浮かんでいた。
イズモは壁際へ寄る。
背中にタイルの冷たさが触れた瞬間、身体のどこかがようやく一段だけ緩む。だがそれも長くは続かない。光、水音、誰かの気配。完全に外すことはできない。
加持が監視台の影からこちらを見ていた。
視線が合う。
加持は何も言わず、缶を少し持ち上げるだけだった。
その軽さが、かえって厄介だった。
先に上がったのはイズモだった。
アスカが「もう?」と不満そうに声を飛ばしたが、引き止めはしなかった。水滴を払ってプールサイドを歩く。濡れたタイルは滑りやすい。だが足運びは崩れない。手すり、ベンチ、タオル。順番に拾っていく。
更衣室で身体を拭き、髪の水気を落とし、服を着る。今度は早い。やるべきことが定まっている時の方が、処理は滑らかだ。
外へ出ると、校舎の自販機前に加持がいた。
薄い影。午後の終わりかけた光。冷えた缶の白い水滴が、指先からゆっくり落ちる。
加持「早いな」
最上イズモ「十分でした」
加持「十分、ね」
自販機の低いモーター音が鳴る。校舎の奥は静かで、遠くから水音だけがまだ微かに届いていた。
加持が隣のボタンを指で二度叩く。
加持「飲むかい」
最上イズモ「お気遣いなく」
加持「そう言うと思った」
それでも一本落とす。缶の落ちる硬い音が、今度は更衣室の時よりも少しだけ柔らかく聞こえた。
加持はそれを差し出さず、自分の横のベンチへ置く。
加持「なあ、さっき断ったの」
加持「恥ずかしいから、じゃないだろ?」
イズモは答えなかった。
答えないこと自体は否定にも肯定にもならない。だが、加持は急がない。急かされない沈黙は、それだけで少し珍しかった。
加持「泳げないわけじゃない」
加持「水が嫌いなわけでもない」
加持「でも、入る前の君はあれを遊びの場所として見てなかった」
最上イズモ「……観察が細かいですね」
加持「仕事柄ね」
軽く笑う。だが、その目は笑っていない。正確には、笑いで覆わずに見ている。
加持「更衣室に押し込まれる前の顔と、出てきた後の顔が違った」
加持「観念したって感じじゃない」
加持「切り替えた顔だ」
イズモの指先がわずかに止まる。
風はない。だが、濡れた髪の先だけが冷える。
最上イズモ「……そう見えましたか」
加持「見えたよ」
加持「水に入ってからもそうだ」
加持「泳ぎはきれいだった。でも、あれは遊ぶ人間の動きじゃない」
加持「溺れないための動きだ」
しばらく、イズモは自販機のランプを見ていた。
青。赤。白。規則的な光。選べるように見えて、実際には押した分しか落ちてこない。
最上イズモ「慣れていないんです」
加持「水に?」
最上イズモ「違います」
最上イズモ「ああいう場所にいることに、です」
それだけ言って、口を閉じた。
加持も追わない。そこが賢い。問い詰めればもっと出ると分かっていても、出した情報の輪郭を自分で整える時間を待つ。
最上イズモ「気を抜いていい、という前提が」
最上イズモ「長く、なかった」
加持「学校も同じか」
イズモは横目で加持を見る。
加持は壁にもたれ、缶を傾けながら、こちらを正面から見なかった。尋問ではないという形を崩さない。その半歩のずらし方が、妙に染みる。
最上イズモ「……ええ」
加持「なるほどね」
加持「そりゃ浮く」
その言い方に棘はない。ただ、事実として置くだけだ。
最上イズモ「不快でしたか」
加持「誰が?」
最上イズモ「周囲が」
加持は少しだけ考えるように視線を上げ、すぐに笑った。
加持「不快ってより、落ち着かないんだろうさ」
加持「人は自分と違う規格で動くものを見ると、理由もなく身構える」
加持「君はちょっと、それが多い」
最上イズモ「……でしょうね」
加持「でもまあ」
そこで加持はベンチに置いたままの缶を指で軽く押した。
加持「それでも、全部が敵ってわけじゃない」
加持「少なくとも、無理やりプールに放り込まれる程度には構われてる」
イズモの喉奥で、小さく息が揺れた。
笑いに近いものだったが、音にはならない。
最上イズモ「救いになりますか、それは」
加持「案外ね」
加持「雑に引っ張る相手がいるのは、悪いことばかりじゃない」
プールの方から、アスカの声が遠く響いた。何かに腹を立てている調子だが、内容までは聞こえない。ミサトの笑い声が続き、綾波の声は聞こえない。
校舎の静けさの中で、その遠い水音と人の声だけが、妙に小さな日常に思えた。
加持「シンジくん、って呼ばれるの」
不意にそう言われ、イズモは視線を戻した。
加持「まだ慣れないか」
最上イズモ「……慣れる必要はあります」
加持「必要は、ね」
加持は頷くでもなく、否定するでもなく、その言葉をそこで止めた。
最上イズモ「それでも、応答はできます」
加持「できるだろうな」
加持「君はたぶん、できすぎるくらいだ」
その言葉の後に、少し長い沈黙が落ちた。
自販機の唸り。遠い水音。タイルのひんやりした匂い。ベンチの冷たさ。濡れた髪の先。誰も急がせない時間。
最上イズモ「加持さん」
加持「ん?」
最上イズモ「……ありがとうございます」
加持は肩をすくめた。
加持「礼を言われるほどのことはしてないさ」
加持「ジュースもまだ渡してないしな」
イズモはベンチの缶を見る。
少し考えて、それを手に取った。冷たさが掌へ移る。開ける音が静かな廊下に短く響く。
一口だけ飲む。
甘さは薄い。だが、喉を通る温度が、ほんの少しだけ現実の側へ引き戻した。
加持「どうだい」
加持「修学旅行の代わりには、ほど遠いだろ」
最上イズモ「ええ」
加持「だろうな」
最上イズモ「でも」
加持が視線だけで先を促す。
イズモは缶を見たまま、少しだけ言葉を選んだ。
最上イズモ「代替でも」
最上イズモ「何もないよりは、たぶん」
加持は笑った。
今度は目元まで、少しだけ。
加持「そいつは前進だ」
プールの扉が勢いよく開く音がした。
アスカ「ちょっと! シンジ、どこ行ったのよ!」
声が真っ直ぐ飛んでくる。苛立っているくせに、探すこと自体はやめていない声だ。
加持が小さく笑い、顎でそちらを示した。
加持「ほら、呼ばれてる」
加持「無理に馴染まなくていい。でも、戻る場所があるなら、完全には切るなよ」
イズモは缶を軽く握り直した。
遠くからもう一度、アスカの声。ミサトの「そんな怒らないの」と呑気な声。
最上イズモ「……善処します」
加持「それで十分さ」
イズモは頷き、プールの方へ歩き出した。
背後で加持が何か言う気配がしたが、結局、声にはならなかった。
扉の向こうからこぼれる水音は相変わらず明るい。その明るさの中へ戻る足取りはまだ少し硬い。けれど、さっきよりは、ほんのわずかだけ遅くなかった。
最上イズモ「……たぶん、修学旅行なんて行ってたら」
最上イズモ「もっと変な人だった」
缶を持つ指先に残った冷たさが、妙に現実的だった。
加持はすぐには何も言わない。イズモの言葉が軽口か本音か、そのどちらでもあると分かっているような間だった。
加持「今でも十分、変わってるけどな」
最上イズモ「否定はしません」
加持「しないんだな」
最上イズモ「集団行動、自由時間、宿泊、会話の持続」
最上イズモ「今より事故要因が増えます」
加持が吹き出した。
加持「事故要因、ねえ」
加持「普通の中学生は、修学旅行を作戦環境みたいに言わないぞ」
最上イズモ「だからです」
最上イズモ「行っていたら、たぶん今以上に隠しきれなかった」
加持は缶を傾けながら、廊下の先を見た。水音はまだ続いている。向こうではアスカが何かに怒り、ミサトが笑い、綾波は多分その少し外側にいる。
加持「案外、助かったかもな」
最上イズモ「何がですか」
加持「君が」
加持「修学旅行に行ってたら、周りは“変なやつ”で済まなかったかもしれない」
加持「今はまだ、シンジくんがちょっとぎこちない、で止まってる」
イズモは小さく息を吐いた。
最上イズモ「それも、時間の問題です」
加持「かもな」
否定しない。
その代わり、加持は少しだけ笑った。
加持「でもまあ、修学旅行で壊れるより」
加持「プールで変な泳ぎ方してる方が、まだ平和だろ」
イズモは缶を見下ろしたまま、わずかに口元を緩めた。
最上イズモ「比較対象としては、かなり低いですね」
加持「平和ってのは、大体そんなもんさ」
向こうからまたアスカの声が飛んだ。
アスカ「シンジー! 聞こえてんでしょ!」
加持が肩をすくめる。
加持「ほら、平和的なお呼び出しだ」
最上イズモ「……平和、ですか」
加持「少なくとも、君を探して怒鳴る余裕がある」
イズモは一瞬だけ目を閉じた。
修学旅行のしおりを囲んで笑う教室。
行き先の話題。
班決め。
夜更かし。
土産。
写真。
雑魚寝。
そういうものの中に、自分が紛れる光景を思い浮かべようとして、途中でやめる。
たしかに、もっと変だった。
うまく笑えず、間を外し、沈黙の使い方を間違え、誰かの何気ない好意に適切な温度で返せない。多分それだけで済まない。夜の部屋割りや、風呂上がりの雑談や、枕元で交わされるどうでもいい会話の方が、使徒よりよほど処理が難しい。
最上イズモ「……たぶん、無理でした」
加持「何が」
最上イズモ「普通の学生の顔を、二日も三日も続けるのは」
加持は缶を持ったまま、少しだけ顎を引いた。
加持「それを無理って言えるなら、まだ大丈夫だ」
最上イズモ「そういうものですか」
加持「そういうもんさ」
加持「壊れるやつは、大体そこを無理じゃないって言い始める」
プールの扉の向こうで水が大きくはねる音がした。すぐあとにミサトの慌てた声と、アスカの苛立った声が重なる。
加持は笑い、イズモは小さく視線を上げた。
最上イズモ「……戻ります」
加持「おう」
加持「次はもう少し、遊んでるふりをうまくやれよ」
最上イズモ「善処します」
加持「できないだろ」
イズモは答えず、缶をベンチに置いた。
その沈黙を、加持は追わなかった。
扉へ向かう足取りはまだ硬い。だが、さっきのような切り替えの鋭さではなく、少しだけ人のいる場所へ戻る歩き方だった。