碇シンジと最上イズモ 他人を演じるということ   作:最上 イズモ

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査問

LCLの匂いが、まだ鼻の奥に残っていた。

 

エントリープラグのハッチが開いた瞬間、冷えた外気が流れ込み、ようやく自分の肺がどこにあるのか思い出す。温い液体から引き上げられる感覚は、何度経験しても生まれ直しとはほど遠い。むしろ逆だ。余計なものを一度全部見せられて、それでも立たされる。

 

最上イズモはシートベルトが外れるのを待たず、自分で留め具を外した。

 

身体が重い。

 

エヴァから降りた後の疲労とは少し違う。筋肉の消耗より、神経を細く裂かれたような鈍い痛みが全身に残っている。肩を回しただけで、初号機が殴られた衝撃の残響が遅れて骨に触れた。

 

足を踏み出す。

 

一歩目は危うかったが、転ぶほどではない。

 

ハッチの向こうに立っていた整備員が、手を伸ばしかけて止めた。支えるべきか迷ったのだろう。支えを拒まれる気配が、たぶんこちらに出ていた。

 

下へ降りるための梯子に手をかける。金属は冷たく、掌に食い込む感触がひどく現実的だった。ここにいる。生きている。勝った。だが、その順番で整理したところで、胸の奥のざらつきは消えない。

 

サキエルの核が砕けた瞬間の抵抗感が、まだ手に残っていた。

 

あれは映像ではない。机上の判断でもない。肉に届くまで押し込んだ感触だ。自分で選び、自分で通した。正しかったかどうかはともかく、もう誰にもなかったことにはできない。

 

梯子を降り切ると、白い廊下の向こうに人が集まっていた。

 

待っていた、というより、逃さない位置取りだ。

 

葛城ミサトが最初に見えた。腕を組んではいない。けれど、今すぐ抱きしめて褒めるような空気でもない。救助して、現場へ連れてきて、結果として街を救った少年のはずなのに、彼女の顔にあるのは安堵と困惑が綺麗に混ざった表情だった。

 

その隣に赤木リツコ。いつも通りの白衣。いつも通りの目。だが、その目の奥の計算はさっきよりずっと速い。

 

後方に伊吹マヤがいる。目を見開いたまま、端末を抱える手だけがまだ仕事をしている。勝利の喜びより、数値の異常が先に焼き付いて離れない顔だった。

 

さらにその先。碇ゲンドウ。冬月コウゾウ。

 

この位置関係だけで、誰がどこまでを問題としているかがわかる。

 

イズモは濡れた髪を指でかき上げ、歩いた。速度を落とさない。急ぎもしない。向こうに先手を取らせると、言葉ではなく立場で押し込まれる。なら、先に距離を決めてしまった方がいい。

 

ミサトが最初に動く。

 

葛城ミサト「……立てる?」

 

最上イズモ「はい」

 

葛城ミサト「そう」

 

彼女はそれ以上すぐには続けなかった。続けるべき言葉がいくつもあるのに、どれを最初に置くべきかまだ決めていない。心配、確認、賞賛、叱責。全部があり得る場面で、どれも最初にはしづらい。

 

リツコが一歩前へ出る。

 

赤木リツコ「バイタル異常、神経接続負荷上昇、A.T.フィールドパターンの独自変形。説明してもらえるかしら」

 

最上イズモ「今は難しいです」

 

赤木リツコ「どうして?」

 

最上イズモ「僕にも、まだ感覚の段階だからです」

 

曖昧な答えだ。だが嘘ではない。

 

理屈を言えと言われれば言葉は並べられる。境界の局所集中。広域展開から一点収束への転換。拒絶の指向性変化。だが、それを今ここで“説明”にすると、次から再現手順として要求される。まだそこまで渡したくない。

 

リツコは表情を変えなかった。変えないまま、一つだけ瞬きを遅らせる。

 

赤木リツコ「感覚であれをやったの」

 

最上イズモ「必要だったので」

 

伊吹マヤが、小さく息を呑んだ。

 

必要だった。言い方が淡々としすぎた。だが、今さら取り繕っても遅い。マヤの目には、こちらが“初戦で暴走せずに使徒を倒した十四歳”として映っているのではなく、“聞いたことのない判断でオペ室を置き去りにした誰か”として焼き付いている。

 

ゲンドウが口を開く。

 

碇ゲンドウ「なぜ戦えた」

 

短い。

 

感想も賞賛もない。問いだけだ。

 

そこに混じるのは父親の情ではなく、指揮官としての査定だった。使えるのか。危険なのか。制御できるのか。彼が見ているのはその三つだ。

 

イズモは視線を向ける。

 

最上イズモ「戦う以外の選択肢がなかったからです」

 

碇ゲンドウ「それだけか」

 

最上イズモ「十分な理由です」

 

一瞬、空気が薄く硬くなる。

 

冬月が横目でゲンドウを見た。止めるほどではない。だが、ここから先の応酬がどちらに転んでも不毛になる気配は察している顔だ。

 

ミサトが口を挟む。

 

葛城ミサト「ちょっと、今は休ませた方がいいんじゃない? 見たでしょ、数値」

 

赤木リツコ「休ませる前に確認が必要よ」

 

葛城ミサト「確認で倒れられても困るの」

 

赤木リツコ「倒れる程度なら、なおさら情報を取るべきだわ」

 

その二人のやり取りを聞きながら、イズモは自分の呼吸を数える。

 

四。吸う。

 

四。止める。

 

四。吐く。

 

会話の主導権が自分から離れた隙に、背骨の奥へ沈んでいた疲労が浮いてきた。膝が笑うほどではない。けれど、立ち続けているだけで頭痛が少しずつ輪郭を持ち始める。

 

LCLを拭いきれていない首筋に、冷房が触れる。寒い。ようやく自分が濡れたままだと気づく。

 

伊吹マヤ「……あの」

 

場違いなくらい小さな声だった。

 

だが全員がそちらを見ると、マヤは一度だけ唇を噛み、それでも続けた。

 

伊吹マヤ「A.T.フィールドの波形、保存してあります。解析はまだですけど……あれ、通常の押し返しじゃありませんでした」

 

赤木リツコ「わかってるわ」

 

伊吹マヤ「いえ、そうじゃなくて」

 

マヤは端末を抱え直す。細い指先に力が入っていた。

 

伊吹マヤ「局所的に収束していました。刃の前だけ密度が変わってて……その、まるでナイフを通すために境界を削ったみたいに」

 

沈黙。

 

説明したのはマヤなのに、その場で一番驚いているのもマヤだった。言葉にしたことで、見たものの異常さが逆に自分へ返ってきたのだろう。

 

リツコの視線が改めてこちらへ向く。

 

赤木リツコ「否定する?」

 

最上イズモ「しません」

 

葛城ミサト「ちょっと待って。否定しないって何よ」

 

最上イズモ「その通りだからです」

 

葛城ミサト「その通りって……」

 

彼女の声が少しだけ上ずる。怒っているわけではない。理解の追いつかなさが、声の高さとして出ている。

 

葛城ミサト「初めて乗ったのよね、あなた」

 

最上イズモ「はい」

 

葛城ミサト「初めて乗って、A.T.フィールドをそんなふうに使ったの?」

 

最上イズモ「初めて“この身体で”乗りました」

 

言ってから、空気がさらに一段冷えたのがわかった。

 

不用意だった。

 

あるいは、もう隠す余地が薄いから出た言葉だった。

 

ミサトの表情が止まる。リツコの目が細まる。マヤは意味を考えるより先にそのまま受け取ってしまい、はっきり困った顔をした。冬月だけが、ほんのわずかに眉を動かした。

 

ゲンドウは変わらない。

 

変わらないまま、その目だけがこちらの奥へ潜ってくる。

 

碇ゲンドウ「どういう意味だ」

 

最上イズモ「今ここで説明しても、信用されない話です」

 

碇ゲンドウ「話せ」

 

最上イズモ「優先順位が違います」

 

父親に対する口の利き方ではない。だが、今のこれは父と子の会話ではなく、現場の判断優先順位を巡る衝突だった。

 

イズモは一度だけミサトへ視線を向け、それからリツコへ戻す。

 

最上イズモ「初号機と僕の接続記録を封鎖してください」

 

赤木リツコ「何ですって」

 

最上イズモ「少なくとも生データの閲覧権限を限定した方がいい」

 

赤木リツコ「理由は」

 

最上イズモ「再現実験が始まるからです」

 

その場の誰も、すぐには否定しなかった。

 

否定できない、が近い。

 

NERVはそういう場所だ。異常な現象が出れば、理解しようとする。理解できなければ切り分ける。切り分けた先に利用価値があれば、再現しようとする。それ自体は組織として間違っていない。だが、今のデータを“成功例”として扱わせるのは危険だった。

 

初戦で通ったのは、理論の完成ではない。偶然ではないが、安定とも言えない。不安定な人間の境界を、たまたまあの場に合わせて尖らせただけだ。二度目に同じように通る保証はない。

 

リツコは腕を組まない。ただ視線だけで、こちらの意図を解体しにくる。

 

赤木リツコ「あなたは自分が何をしたか、ある程度理解している。そう見えるわ」

 

最上イズモ「ある程度なら」

 

赤木リツコ「なら研究対象として協力してもらう必要があるわね」

 

葛城ミサト「ちょっと!」

 

ミサトが声を荒げるのと、イズモが返すのはほぼ同時だった。

 

最上イズモ「拒否します」

 

また沈黙。

 

拒否そのものより、それを即答したことの方が波紋を広げる。

 

赤木リツコ「理由を聞いても?」

 

最上イズモ「今の状態は戦闘の結果であって、手順ではありません。切り出した瞬間に、形だけ真似される」

 

赤木リツコ「真似されて困るの?」

 

最上イズモ「死人が出ます」

 

ミサトの肩が、ごくわずかに動いた。

 

その一言だけで、彼女はたぶんこちらの拒否が自己保身だけではないと理解した。リツコは理解した上で、なお別の評価軸を動かしている顔だ。危険だから止めるのか。危険でも進めるのか。その境界を引き直している。

 

冬月が初めて口を開いた。

 

冬月コウゾウ「君は、自分がこの組織に対して発言権を持つ立場だと思っているのかね」

 

静かな問いだった。

 

責める調子ではない。だが甘くもない。ここでそれを言うなら、相応の根拠を示せと言っている。

 

イズモはその問いに対して、少しだけ考える。

 

持たない。普通なら。

 

だが、今この場でサキエルを落とした初号機パイロットは自分しかいない。そして、その異常勝利の手順をまだ誰も理解していないなら、少なくとも“拒否権”に近いものは発生する。

 

最上イズモ「持っていない前提で話しています」

 

冬月コウゾウ「なら、なぜ拒否する」

 

最上イズモ「立場がなくても、間違っているとわかることはあります」

 

冬月は一度だけ目を伏せた。面白がったのか、呆れたのかは読めない。ただ、ここで怒鳴らないあたり、この老人は思ったよりも短気ではない。

 

ゲンドウがわずかに顎を上げる。

 

碇ゲンドウ「初号機との再接続は可能か」

 

そこか、とミサトの顔に書いてある。

 

こちらの状態。説明。正体。全部を飛ばして、次に使えるかどうかを確認する。指揮官としては正しい。父親としては最低だが、その評価に意味がない場面でもある。

 

イズモは答える前に、自分の身体を確かめる。

 

指先に力は入る。視界も安定している。だが、神経の奥はまだ焼けている。再接続できるかどうかと、すべきかどうかは別だ。

 

最上イズモ「可能です」

 

ミサトがこちらを見る。止めろ、と顔に出ている。

 

最上イズモ「ただし、今すぐは推奨しません」

 

碇ゲンドウ「理由は」

 

最上イズモ「初号機側も、まだ馴染んでいない」

 

その表現に、リツコの目がわずかに動く。人間側ではなく、エヴァ側の状態まで踏み込んでいることに気づいたのだろう。

 

赤木リツコ「馴染む、ですって」

 

最上イズモ「同調ではなく、接続です。だから負荷の逃がし方がまだ荒い」

 

言いながら、これ以上は出しすぎだと自分でもわかる。

 

だが、完全に黙ると今度は向こうが勝手な解釈を始める。なら少しだけ“危険”の輪郭を見せて、むやみに触らせない方がまだましだ。

 

マヤが端末を見ながら、小さく呟く。

 

伊吹マヤ「……だから、あのとき神経接続の逆流が」

 

リツコがそれを聞き、短く息を吐いた。

 

赤木リツコ「医療チェックが先ね」

 

葛城ミサト「最初からそう言ってるでしょ」

 

赤木リツコ「でも、単独にはしない」

 

それは妥協だった。休ませる。ただし放置はしない。保護ではなく監視寄りの条件付き休息。

 

ミサトはそれに不満そうだったが、ここで完全に切るのは無理だと判断したらしい。肩の力をわずかに抜き、それでもこちらへ寄る。

 

葛城ミサト「歩ける?」

 

最上イズモ「歩けます」

 

葛城ミサト「じゃあ歩いて。倒れそうになったら言って」

 

その言い方は、命令と気遣いのちょうど中間にある。彼女らしい位置取りだと思う。

 

移動を始めると、後ろから視線がついてくるのがわかる。

 

ゲンドウの視線は刺すというより測る。冬月は記憶している。リツコは分解したい。マヤはまだ理解できていない。ミサトだけが、理解より先にこちらの足取りを見ていた。

 

廊下に出ると、施設の空調音が少しだけ大きくなる。

 

戦闘直後のNERVは、いつもより静かだ。誰もが仕事をしているのに、その仕事の中身だけが重い。勝ったから浮く場所ではない。次の襲来までの猶予を、誰も休息とは呼ばない場所だ。

 

医療区画までの通路で、ミサトが小声で言った。

 

葛城ミサト「……ねえ」

 

最上イズモ「はい」

 

葛城ミサト「さっきの、“この身体で”って何」

 

足は止めない。止めると余計に重くなる。

 

最上イズモ「そのままの意味です」

 

葛城ミサト「はぐらかしてる?」

 

最上イズモ「整理してます」

 

ミサトは小さく鼻で息を吐く。怒っているというより、答えを待つことにした時の癖みたいな音だった。

 

葛城ミサト「整理が終わったら、話すの」

 

最上イズモ「必要なら」

 

葛城ミサト「必要よ」

 

即答。

 

そこに迷いはなかった。職務だからではない。彼女自身が知りたいのだ。目の前にいる“碇シンジ”の振る舞いが、自分の知っているものと違いすぎる。その理由を知らないまま次へ進むのが気持ち悪い。たぶん、それが一番大きい。

 

医療区画の扉が開く。

 

白い。あまりに白い。NERVの白は安心の色ではない。汚染を目立たせるための白だ。血も、損傷も、異常も隠さないための白。

 

ベッドへ座るよう促され、イズモは従う。医療スタッフがセンサーを貼り、瞳孔を確認し、採血の準備をする。その手つきは慣れている。エヴァパイロットの扱いに慣れている手つきだ。

 

シンジの身体は細い。

 

さっき戦っていた時には巨大な初号機の感覚が上書きしていて忘れかけていたが、こうして座らされると露骨だった。肩幅。手首。首筋。必要以上に無防備で、必要以上に少年だ。

 

針が刺さる瞬間、反射的に指先が強く握られる。

 

医療スタッフがそれを見て、ほんの一瞬だけ表情を柔らかくした。

 

医療スタッフ「痛いですか」

 

最上イズモ「少し」

 

それだけ答えると、スタッフは何も言わなかった。変に励まさないのは助かる。

 

モニターに数値が並ぶ。脈拍。血圧。神経反応。

 

リツコが後ろから覗き込む。

 

赤木リツコ「戦闘直後にしては安定しすぎてる」

 

葛城ミサト「それ、褒めてる?」

 

赤木リツコ「褒めてないわ」

 

イズモは数値を見ない。見たところで、この身体の平常値はまだ掴み切れていない。シンジの緊張の出方が、自分とずれている。心は落ち着いていても、身体だけが遅れて反応する。逆もある。扱いにくいが、無理もない。

 

採血が終わる。

 

額にセンサーが貼られ、神経系の簡易検査に移る。その間、ミサトは壁際にもたれ、腕を組みそうで組まない微妙な姿勢でこちらを見ていた。怒っていない。安心もしていない。判断保留のまま、目だけ離さない。

 

やがて、リツコがモニターから視線を外す。

 

赤木リツコ「過負荷はある。でも即時危険域ではない」

 

葛城ミサト「じゃあ休ませられる?」

 

赤木リツコ「監視付きで」

 

またそれだ。

 

だが今のNERVで、完全な自由を期待する方が間違っている。むしろ監視付きで済むなら軽い。

 

最上イズモ「条件があります」

 

リツコとミサトが同時にこちらを見る。

 

赤木リツコ「あなた、交渉する気なの」

 

最上イズモ「必要なので」

 

葛城ミサト「聞くだけ聞くわ」

 

最上イズモ「まず、僕の監視は人を限定してください」

 

赤木リツコ「なぜ?」

 

最上イズモ「監視対象が増えるほど、解釈も噂も増えるからです」

 

赤木リツコ「自意識過剰ね」

 

最上イズモ「実際に異常でしょう」

 

その返しに、ミサトが吹き出しかけて耐えた。

 

リツコは眉一つ動かさない。だが、完全に切り捨てるでもない。

 

最上イズモ「次に、初号機の戦闘生データは当面凍結」

 

赤木リツコ「それはさっき却下していない」

 

最上イズモ「なら明文化を」

 

赤木リツコ「あなた、ほんとうに十四歳?」

 

葛城ミサト「今それ聞く?」

 

その会話の端で、医療スタッフが少しだけ困った顔をした。自分の職場で、自分以外の全員が話を進めている時の顔だ。

 

イズモはスタッフへ一度だけ頭を下げる。申し訳ない。だが、ここで流すと後で面倒になる。

 

赤木リツコ「他には」

 

最上イズモ「監視役に葛城一尉を含めてください」

 

ミサトが目を丸くした。

 

葛城ミサト「え、私?」

 

最上イズモ「迎えに来た人なので」

 

それだけ言うと、ミサトの顔に妙な間が生まれる。理由としては薄い。だが、薄いからこそ本音に近い。少なくとも、今この場で一番“人として話せる”可能性があるのは彼女だ。

 

リツコはそのやり取りを見て、ほんの少しだけ唇の端を動かした。笑ったわけではない。観察者の興味がわずかに傾いた程度だ。

 

赤木リツコ「いいわ。私も入る」

 

葛城ミサト「そっちは入らなくてよくない?」

 

赤木リツコ「必要よ」

 

最上イズモ「赤木博士が入るのは想定内です」

 

赤木リツコ「腹立つ言い方ね」

 

その言葉で、ようやく空気が少しだけ人間寄りになる。

 

だが長くは続かなかった。

 

医療区画の自動扉が開き、冬月が入ってくる。背後にゲンドウの姿はない。代わりに、それだけで十分という顔をしていた。

 

冬月コウゾウ「司令は席を外された」

 

つまり、今はお前たちで扱えということだ。

 

投げたのではない。必要以上に表へ出ないための後退。ゲンドウらしい。

 

冬月はベッド脇まで来ると、イズモの顔をまっすぐ見た。

 

冬月コウゾウ「君は碇シンジでありながら、碇シンジではないように見える」

 

ミサトが小さく息を止めた。リツコは反応しない。だが、耳は完全に向いている。

 

冬月コウゾウ「否定するかね」

 

イズモは数秒、答えなかった。

 

ここでどう返しても、完全な安全地帯はない。否定すれば次からは観察が深くなる。肯定すれば即座に隔離候補だ。なら、その中間ではなく、別の軸へずらすしかない。

 

最上イズモ「いま重要なのは、僕が誰かより、何を優先するかです」

 

冬月コウゾウ「それは逃げだ」

 

最上イズモ「はい」

 

あっさり認めると、今度は冬月の方が少しだけ黙った。

 

最上イズモ「でも、意味のある逃げ方はあります」

 

冬月コウゾウ「例えば」

 

最上イズモ「今の段階で正体を議論しても、使徒は待ってくれません。次に備える方が先です」

 

その言葉は、自分を守るためでもあり、本心でもあった。

 

ここで“入れ替わり”のような話を出しても、NERVはそれを理解する前に利用可能性へ繋げる。父親の問題も、シンジ本人の問題も、全部が余計にこじれるだけだ。

 

冬月は長くこちらを見たあと、小さく息を吐いた。

 

冬月コウゾウ「厄介な少年だ」

 

その言い方には、断罪よりも事実認定の色が強い。

 

ミサトが肩をすくめる。

 

葛城ミサト「それは同意」

 

赤木リツコ「同意する部分が違うけどね」

 

イズモはそこで、ようやく少しだけ目を閉じた。

 

会話が切れた隙に疲労が押し寄せる。大丈夫だと思っていたが、思っていたより深い。まぶたの裏で、さっきの戦闘の断片がまだ残っている。サキエルの腕。衝撃。刃の先でこじ開けた見えない境界。

 

次に乗れば、また同じように通るだろうか。

 

通るとして、それは本当に“正しい”のか。

 

考えかけた瞬間、ミサトの声が少しだけ近くなる。

 

葛城ミサト「……休みなさい」

 

最上イズモ「寝られる気はしません」

 

葛城ミサト「それでも横になるの」

 

その言い方は強いのに、押しつけがましさがなかった。命令でありながら、逃げ道も残している。嫌なら無視できる程度の力加減。だからこそ、従う気になる。

 

イズモは素直にベッドへ身体を預ける。

 

天井の白が視界いっぱいに広がる。

 

ミサトとリツコと冬月の声が、少し離れた位置で続いている。内容までは追わない。追えば眠れなくなる。今は追わない方がいい。

 

腕にまだ貼られたセンサーの感触がある。

 

この身体は細い。だが、思っていたより折れない。逃げたがるくせに、必要な場面ではきちんと残る。その扱いにくさを、少しだけ理解し始めていた。

 

シンジ。

 

心の中でその名を呼ぶ。

 

返事があるわけではない。ただ、その名前を自分の内側で発音した瞬間、胸のどこかが静かになった。

 

借りている。

 

奪っているのではなく、いまは借りているだけだ。

 

だから返す。

 

返すために、壊さない。

 

その順番だけを、眠りに落ちる直前の意識で細く握る。

 

遠くでまた警報が鳴った気がした。現実か、頭の中かはわからない。だが、この世界ではどちらでも大差ない。

 

目を閉じる直前、ミサトの声が最後に一つだけ落ちてきた。

 

葛城ミサト「……ほんとに、誰なのよ」

 

今度も、イズモは答えなかった。

 

答えがないからではない。

 

まだ、それを言葉にした瞬間に壊れるものの方が多いとわかっていたからだ。

 

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