碇シンジと最上イズモ 他人を演じるということ 作:最上 イズモ
発令所の空気が、いつもより少しだけ軽かった。
敵性反応の表示がまだ沈黙しているせいかもしれない。あるいは、出撃ではなく回収任務という言葉の響きのせいかもしれない。だが、その薄い油断の下に、誰もが別のものを抱えていた。
赤木リツコ「目標はマグマ層内で休眠状態にある使徒の胚体。現時点では活動兆候なし」
葛城ミサト「回収優先。刺激しない。無駄に起こさない。以上」
惣流・アスカ・ラングレー「簡単じゃない」
アスカは椅子の背にもたれたまま口角を上げた。簡単じゃないと言いながら、その声は少しも重くない。むしろ、自分の出番が回ってきたことを確かめる音だった。
惣流・アスカ・ラングレー「でも、そのくらいがちょうどいいわね」
最上イズモは隣で黙っていた。
モニターに映る断層図。熱源。降下ルート。ケーブル。拘束具。緊急浮上ライン。頭の中ではいくつもの危険が勝手に並ぶ。ケージ損傷。視界不良。熱飽和。足場喪失。回収対象の覚醒。全部、見える。見えるが、それを先に並べた瞬間、この場の重心がまた自分へ寄ることも分かっていた。
ミサトがちらりとこちらを見る。
葛城ミサト「シンジ君、何かある?」
その一言に、発令所の視線が少しだけ寄った。
イズモは一拍だけ置いた。
最上イズモ「ありません」
静かに言うと、空気が止まった。
伊吹マヤが瞬きを一つする。日向が眉を上げる。青葉は端末から目を離さないふりをしたまま、たぶん耳だけ向けていた。
アスカが先に反応した。
惣流・アスカ・ラングレー「へえ」
細い笑いだった。
惣流・アスカ・ラングレー「珍しいじゃない。あんたが黙ってるの」
最上イズモ「今回はアスカが組む方がいい」
惣流・アスカ・ラングレー「許可制みたいに言わないでくれる?」
最上イズモ「取らないだけです」
惣流・アスカ・ラングレー「何を?」
最上イズモ「作戦」
その返答に、アスカの目がわずかに細くなる。
正面から押し返すでもなく、引き下がるでもない。試すような視線だった。そこへ妙な優しさを混ぜたら壊れる。上から見ても壊れる。だからイズモはそれ以上の言葉を足さなかった。
リツコが資料を閉じる。
赤木リツコ「いいの?」
最上イズモ「必要なら止めます」
葛城ミサト「止める線は持ってるのね」
最上イズモ「事故線だけです」
短く落ちたその言葉に、ミサトの目元だけが少し動いた。
葛城ミサト「……分かった。アスカ、作戦立案はあなた。シンジ君は補助待機。口出しは必要最低限」
惣流・アスカ・ラングレー「十分よ」
アスカは端末を自分の方へ引き寄せた。髪が肩を滑る。画面へ落ちる視線が速い。読み飛ばしているようで、必要な場所だけはちゃんと拾っていく目だった。
惣流・アスカ・ラングレー「深度、温度、回収フレームの耐久限界……ふん」
伊吹マヤ「エントリープラグ耐熱は規定内です。ただし長時間滞在は推奨できません」
惣流・アスカ・ラングレー「長居する気ないわよ。起こす前に抱えて戻る」
日向マコト「単純だな」
惣流・アスカ・ラングレー「複雑にして失敗するくらいなら、単純で速い方がいいの」
その言い方に、イズモは少しだけ顔を上げた。
雑ではない。速く決める代わりに、失敗要因を減らす考え方だ。やり方は違っても、芯は弱くない。
アスカは画面を切り替え、降下角を示す線を指先でなぞった。
惣流・アスカ・ラングレー「ここで姿勢を固定。回収フレームは最短で展開。対象が動いたら即離脱。欲張らない」
葛城ミサト「いいわね」
惣流・アスカ・ラングレー「それと、非常時の浮上ラインは一本じゃ足りない。二本。片方が焼けても上がれるようにする」
赤木リツコ「重量が増えるわよ」
惣流・アスカ・ラングレー「落ちるよりマシでしょ」
リツコの口元が、ごく薄く動いた。
その場の流れが、少しずつアスカへ寄っていく。誰かの案に乗せられるのではなく、自分で場を掴む時の空気だった。イズモはそれを見ながら、膝の上で組んだ指をほどく。
何もしていないわけではない。
喉の奥にいくつかの言葉を留めたまま、ただ流れを崩さない場所を選んでいる。今ここで先回りを始めれば、たぶん全部がまた変わる。アスカの速さは、奪われた瞬間に棘へ変わる。そういう種類の速さだと分かる。
惣流・アスカ・ラングレー「で、あんた」
急に名指しされ、イズモは視線を向けた。
惣流・アスカ・ラングレー「黙ってるなら最後まで黙ってなさいよ」
最上イズモ「止める時は止めます」
惣流・アスカ・ラングレー「それ以外は?」
最上イズモ「見ています」
アスカは数秒だけ黙り、それから鼻で笑った。
惣流・アスカ・ラングレー「結構。じゃあ見てなさい」
マグマの赤は、映像で見るより濁っていた。
エントリープラグの外壁を叩く熱の圧が、液体とも気体ともつかない重さでまとわりついてくる。弐号機の装甲越しでも分かるほど、下は生き物みたいに脈打っていた。
アスカは前方モニターを睨んだまま、口の端だけを動かす。
惣流・アスカ・ラングレー「視界最悪」
葛城ミサト『当然よ。だから余計なことしないで、最短で行って戻る』
惣流・アスカ・ラングレー「はいはい」
イズモは別モニターからその降下を見ていた。主画面には弐号機。脇の熱分布。拘束ラインの張力。遅れて流れる数値。どれも正常域の中にある。だが正常という字面は、こういう環境ではあまり信用できない。
マヤの声が飛ぶ。
伊吹マヤ『深度、予定値まであと百』
日向マコト『回収フレーム展開準備』
赤木リツコ『ケーブル温度上昇傾向。許容内だけど、長引かせないで』
アスカは答えない。
返事の代わりに、弐号機の手が静かに伸びる。赤い濁流の奥、岩棚に半ば埋もれるようにそれはあった。まだ動かない。まだ眠っている。だが眠っているから安全という感じは、最初から一つもなかった。
惣流・アスカ・ラングレー「見えた」
その声が少しだけ低くなる。
弐号機が身を沈め、片腕で岩壁を掴み、もう片方でフレームを展開する。無駄のない動きだった。勢い任せではなく、熱と浮力の癖を読んでいる。イズモは画面越しに、その細かい修正の速さを見る。
速い。
そして、上手い。
回収フレームが対象の周囲へ回り込む。固定。引き上げ角、調整。数字はまだ許容内。ここまでは想定通り。だが、その時だった。
警報が短く鳴いた。
伊吹マヤ『熱源反応、変化!』
青葉シゲル『目標内部出力上昇!』
発令所の空気が一気に締まる。
画面の中で、胚体だったものの輪郭が脈打った。殻のような表面がひび割れ、内側から鈍い光が滲む。マグマが揺れる。弐号機の足元の岩肌が崩れ、赤い流れが噴き上がった。
葛城ミサト『アスカ、即離脱! 回収中止!』
惣流・アスカ・ラングレー『まだ固定できる!』
赤木リツコ『だめよ、起きる!』
惣流・アスカ・ラングレー『起きる前に押さえる!』
弐号機が踏み込む。片腕で拘束具を押し込み、もう片腕で対象を押さえつける。光が一気に強くなる。マグマが爆ぜ、画面に赤いノイズが散った。
イズモの指先が机の縁に触れる。
まだだ。
まだ越えていない。
目は熱分布ではなく、姿勢制御の数字へ落ちる。足場喪失率。拘束ライン偏荷重。右脚の沈下。左肩の熱飽和。危ない。だが、まだ戻れる。まだ本人の制御下だ。
アスカの呼吸が回線に混じる。
短い。速い。だが乱れていない。
惣流・アスカ・ラングレー『こっちは取れてる! 上引いて!』
日向マコト『引き上げ開始!』
ワイヤーが唸る。弐号機と目標がわずかに浮く。次の瞬間、使徒の胚が大きく身をよじった。
固定具が一つ、弾け飛ぶ。
伊吹マヤ『拘束フレーム一番、断裂!』
青葉シゲル『対象、活動開始!』
モニターの向こうで、赤黒い体が殻を破るように伸びた。まだ完全な姿ではない。だが、その未完成さが逆に不気味だった。生まれ切っていないものの力任せの暴れ方は、軌道が読みにくい。
アスカが舌打ちする。
惣流・アスカ・ラングレー『だから二本にしろって言ったのよ』
葛城ミサト『二本目は維持してる! アスカ、離して!』
惣流・アスカ・ラングレー『離したら上に行く前に暴れる!』
最上イズモ「右下がりです」
声を出した瞬間、発令所の何人かが振り向いた。
イズモは画面を見たまま続ける。
最上イズモ「右脚側の地盤が死にます。三秒後」
惣流・アスカ・ラングレー『分かってる!』
その返答とほぼ同時に、弐号機の右脚下の岩棚が崩れた。
だが、弐号機は倒れない。崩れる一歩前に身をひねり、左膝を岩壁へ叩き込み、上半身を回して使徒の暴れる向きをずらした。浮き上がるのではなく、流れへ逃がす。荒いようでいて、理にかなっている。
マグマが大きく巻き上がり、映像が赤一色になる。
日向マコト『映像飛ぶ!』
伊吹マヤ『弐号機信号維持!』
葛城ミサト『アスカ、応答して!』
数秒。
その数秒が、妙に長い。
やがてノイズの奥から、荒い息が聞こえた。
惣流・アスカ・ラングレー『……まだいる』
その一言で、発令所の空気がぎりぎり繋がる。
画面が戻る。弐号機は使徒の首に相当する部位を左腕で押さえ込み、右手で予備拘束具を叩き込んでいた。装甲表面は熱で白く掠れ、周囲のマグマが泡立っている。
リツコが声を鋭くする。
赤木リツコ『限界が近い! 長く保たない!』
惣流・アスカ・ラングレー『十分よ!』
葛城ミサト『何をする気!?』
惣流・アスカ・ラングレー『持って帰るのはやめた。ここで黙らせる』
発令所が一瞬だけ沈黙する。
回収任務のはずだった。生け捕りのはずだった。だが画面の中の弐号機と使徒の距離は、もうそんな言葉で整えられる場所にいない。
アスカは迷っていない。
最初の目的を捨てる判断が速い。欲を切るのが遅れない。そこが強さだと、イズモは思う。
葛城ミサト『……許可する! 生存優先!』
惣流・アスカ・ラングレー『最初からそう言って』
弐号機が体を沈める。使徒を抱え込むようにして、マグマ流の深い側へ押し込む。暴れる方向をわざと下へ向け、噴出を上へ逃がさない。自分の脚場も削れるやり方だ。だが上に被害を出さないためには、その方がいい。
イズモは喉の奥に上がりかけた言葉を噛み殺した。
危ない。
だが間違ってはいない。
アスカの呼吸が、今度は少しだけ重い。肩で息をしているのが、回線越しにも伝わる。それでも弐号機は押し切る。拘束具が食い込み、使徒の体が熱と圧に軋む。次の瞬間、使徒が弐号機の胸元へ喰らいつくように頭部を跳ね上げた。
警報。
数値が跳ねる。
伊吹マヤ『胸部装甲損耗! 内部温度上昇!』
赤木リツコ『これ以上近づけると危険よ!』
惣流・アスカ・ラングレー『今さら!』
最上イズモ「左です」
短い声だった。
アスカが即座に反応する。
弐号機の上体がわずかに左へ流れる。直後、使徒の顎のような部位が右側を噛み砕いた。半拍遅ければ、もっと深く入っていた。
惣流・アスカ・ラングレー『……ふん』
礼でもなく、拒絶でもない音だった。
そのまま弐号機は膝を滑らせ、使徒を真下へ叩き込む。岩盤へ押しつけ、熱流の圧をまともに浴びせる。暴れる。軋む。押し返す。だが浮かない。上がらせない。その一点だけを守るみたいに、アスカは押し続けた。
ミサトの手がコンソール端を掴んでいる。
葛城ミサト「アスカ、長すぎる……」
イズモの目は数値を追っていた。
胸部損耗。肩部高熱。脚部沈下。神経接続の負荷。全部、危ない。だが、もう少しで終わる。終わる形が見えている。ここで止めると逆に崩れる。だから言わない。
ただ一つだけ、視線が引っかかった。
拘束ライン二番。摩耗率。急上昇。
最上イズモ「上がります」
葛城ミサト「何」
最上イズモ「離す前に跳ねます」
惣流・アスカ・ラングレー『だったら跳ねる前に潰す!』
アスカの声と同時に、弐号機の頭部がわずかに引かれる。姿勢制御。重心移動。次の瞬間、弐号機の額が使徒の上半身へ叩きつけられた。鈍い衝撃。続いて両腕で一気に押し込み、膝で岩盤へ固定する。
使徒が跳ねる。
だが上ではなく、横へずれた。
そこへ熱流がまともにかぶさり、白い泡が一気に広がる。光が乱れ、動きが止まる。もう一度、小さく痙攣して、それから完全に沈黙した。
誰もすぐには喋らなかった。
マヤが最初に声を出す。
伊吹マヤ『……敵性反応、減衰。停止確認』
青葉シゲル『活動反応、消失』
日向マコト『弐号機、回収可能域』
ようやく発令所の音が戻る。
ミサトは息を吐いたのか、それとも詰まらせたのか、自分でも分からない顔で前を向いた。
葛城ミサト『アスカ、浮上して。ゆっくりでいい』
数秒遅れて、返事が返る。
惣流・アスカ・ラングレー『言われなくても』
だが、その強がりの奥に、少しだけ重さがあった。弐号機が使徒から手を離し、姿勢を立て直す。さっきまでの勢いより半拍遅い。それだけで十分だった。無傷ではない。余裕でもない。ぎりぎりで押し切ったのだと分かる。
イズモはそこで初めて、握っていた右手を開いた。爪の跡が薄く残っている。
ミサトが横目で見る。
葛城ミサト「止めなかったのね」
最上イズモ「越えなかったので」
葛城ミサト「線を?」
最上イズモ「はい」
その返答に、ミサトは何も言わなかった。ただ前を向き直す。
浮上中の弐号機を見つめる画面の中で、赤い機体は熱の揺らぎに歪んでいた。それでも折れていない。崩れていない。自分で決め、自分で押し切った姿だった。
帰投後、ブリーフィングルームにはまだ熱が残っていた。
実際の温度ではない。マグマの映像と警報音が、誰の耳にもまだ貼りついているだけだ。
アスカは椅子へ浅く座り、腕を組んでいた。シャワーを浴びたはずなのに、髪の先がまだ少しだけ湿っている。視線は前。誰にも預けない顔だった。
赤木リツコ「結果だけ言えば成功よ。現場判断も間違ってない」
惣流・アスカ・ラングレー「でしょうね」
赤木リツコ「でも、限界まで踏み込みすぎた」
惣流・アスカ・ラングレー「引いたらもっと面倒だったわ」
葛城ミサト「それも正しい」
ミサトはそこで言葉を切る。
葛城ミサト「ただし、正しいと安全は別」
アスカは答えず、視線だけで返した。
言い返す気はある。だが、完全には切れない。さっき自分の中で何本かの線を跨いだことを、本人が一番分かっている顔だった。
その時、リツコがイズモを見る。
赤木リツコ「シンジ君」
最上イズモ「はい」
赤木リツコ「あなた、途中までほとんど何も言わなかったわね」
最上イズモ「今回は、アスカが組んだ方がよかったので」
惣流・アスカ・ラングレー「よかったので、って何よ」
最上イズモ「そのままです」
惣流・アスカ・ラングレー「上から聞こえるんだけど」
最上イズモ「見えていたので」
惣流・アスカ・ラングレー「何が」
最上イズモ「勝ち筋です」
部屋が静かになる。
アスカは数秒、何も言わない。その沈黙がそのまま反発になるかと思ったが、違った。視線が少しだけ逸れる。テーブルの上へ落ちた指先が、ほんのわずかに動く。
惣流・アスカ・ラングレー「……だったら、最初から言いなさいよ」
最上イズモ「言うと変わるので」
惣流・アスカ・ラングレー「何が」
最上イズモ「アスカの動きが」
それは慰めでも賞賛でもなかった。ただ事実だけを置くみたいな声だった。
アスカは椅子の背へ深くもたれ、天井を一度だけ見る。それから鼻で笑った。
惣流・アスカ・ラングレー「感じ悪い」
最上イズモ「たぶん」
惣流・アスカ・ラングレー「でも」
そこで止まる。
言うかどうかを一瞬だけ測る間があった。
惣流・アスカ・ラングレー「……左って言ったのは、助かった」
イズモは瞬きを一つする。
最上イズモ「はい」
惣流・アスカ・ラングレー「それだけ」
最上イズモ「十分です」
アスカはもうそっちを見なかった。
だが、その言葉の置き方は最初の刺さるだけのものとは少し違っていた。壁が消えたわけではない。線が消えたわけでもない。ただ、ぶつかった時の硬さがほんの少し変わった。それだけの差が、妙に大きかった。
ミサトがその空気を横目に拾い、軽く肩をすくめる。
葛城ミサト「じゃあ今日はここまで。反省は各自まとめて提出。あとシンジ君」
最上イズモ「はい」
葛城ミサト「あなたの言う事故線、今度ちゃんと最初に共有して」
最上イズモ「……努力します」
葛城ミサト「努力じゃなくてやるの」
最上イズモ「はい」
アスカがそこで小さく笑った。
本当に小さい、息に近い笑いだった。
イズモはその音にだけ少し遅れて気づく。
戦いは終わった。
回収任務は回収の形では終わらなかった。予定通りでもなかった。綺麗でもない。それでも、残ったものは失敗だけではない。
アスカは自分で掴んだ。ミサトはそれを最後まで見た。リツコは危うさごと記録した。自分は止める線だけを持ったまま、最後まで奪わなかった。
それでよかったのかどうかは、まだ分からない。
だが、少なくとも一つだけは確かだった。
次に同じ部屋へ入った時、惣流・アスカ・ラングレーという名前の重さは、今日の前とは少し違って見える。