碇シンジと最上イズモ 他人を演じるということ   作:最上 イズモ

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異なる解

加持は、廊下の角を曲がってから一度だけ足を止めた。

 

窓の外は、もう夕方を越えかけている。校庭の白線は薄く沈み、部活の掛け声も遠くなった。手の中の缶コーヒーはまだ半分以上残っているのに、妙に軽かった。

 

シンジ君。

 

口の中で名前だけ転がす。

 

碇シンジとしてそこにいる。年齢も、立場も、制服も、何もかもその形に収まっている。だが、さっき廊下で喋っていたのは、あの年齢の子供が背負うには少し重すぎる種類の沈黙だった。

 

人を一つに寄せようとする方の話。

 

ぼかして言った。あえて名を出さなかった。なのに通じる前提で置いてきた。あの言い方は、噂をかじっただけの人間のものじゃない。輪郭を知っている。しかも、言葉ではなく中身の方を見ている。

 

加持は小さく息を吐く。

 

ゼーレ。ゲンドウ。ネルフ。使徒。アダム。リリス。

 

つながっている。つながっているが、同じではない。そこまでは分かる。誰もが同じ計画を見ているようで、実際には少しずつ別の結末を抱えている。ゼーレは人類全体の形を変えたがっている。碇ゲンドウは、その言葉を使いながらもっと個人的な場所を見ている。自分はその間を歩かされている。覗き込み、確かめ、どちらにも飲まれないように立っているつもりだ。

 

つもり、だ。

 

だが、あの子はそこへ別の線を引いてきた。

 

一つに戻すんじゃなくて、つないだまま立てる方です。

 

加持は眉間を指で軽く押さえる。

 

理想論だ。子供っぽい綺麗事だ。普通ならそう片づけて終わる。けれど、あの声で言われると妙に片づかない。綺麗事を飾る熱がなかった。ただ、そうでなければならないものを確認するみたいに言った。

 

壊して混ぜるのは雑です。

 

あの一言が、まだ耳に残っている。

 

雑、か。

 

ゼーレの計画も、ゲンドウの執着も、規模だけ見れば巨大だ。人類の先を決める、神話じみた企てだ。だが、たしかにその過程だけ見れば、乱暴だ。境界を壊し、違いを溶かし、痛みごと均して、一つへ寄せる。救済の言葉を使うには、ずいぶん手触りが荒い。

 

あの子はそこを嫌った。

 

何を知って、そこまで嫌うんだ。

 

加持は歩き出しかけて、また止まる。

 

見たくないものを見たからです。

 

あれは答えになっていないようで、たぶん一番本当のことだった。

 

使徒との戦いをくぐった子供は何人も見てきた。壊れる子もいる。黙る子もいる。尖る子もいる。けれど、ああいう方向へ目が伸びるのは珍しい。ただ恐れるんじゃない。拒むだけでもない。別の形を考えてしまう。しかも、その別の形が自分の都合のいい逃げ道じゃなく、世界の構造そのものへ向いている。

 

厄介だ。

 

本当に厄介だ。

 

加持は苦笑した。

 

年上を試すような目をしながら、言葉だけは静かだ。挑発するようでいて、誇示しない。知識を見せびらかすんじゃなく、確かめるために置いてくる。あれでは相手の方が勝手に深読みする。

 

そして、深読みしたくなるだけのものがある。

 

この時点で報告するべきか、と一瞬考える。

 

だが、何を報告する。

 

シンジが補完の輪郭を知っている。別案めいた思想を持っている。危険かもしれない。使えるかもしれない。

 

そんなものを誰に渡す。

 

ゼーレに渡せば、異物として処理されかねない。ゲンドウに渡せば、利用価値の有無で切り分けられる。どちらにせよ、ろくなことにならない気がした。

 

加持は缶コーヒーを口に運ぶ。ぬるくなりかけた苦味が舌に残る。

 

まだ、引き返せるので。

 

あの言葉は、自分に向けたものだったのかもしれない。

 

補完の輪郭を追ってここまで来た。真実に近づけば近づくほど、どこまで踏み込んでいいのか分からなくなる。ミサトのこともある。リツコの立場もある。ネルフの底に沈んでいるものが、人間の手に余ると分かっていて、それでも手を離せない。

 

引き返せる。

 

本当にそうか。

 

もう十分奥まで来ている気もする。だが、あの子はまだそう言った。こちらが自分で選べる側に残っていると、そう見たのだろうか。

 

加持は低く笑う。

 

子供にそんなことを言われる年になったかと思うと、少しだけ情けない。

 

けれど、嫌な感じはしなかった。

 

むしろ救われたような気さえしたのが、いちばんまずい。

 

廊下の先では蛍光灯が一本、遅れて点いた。白い光が床に伸び、夕方の色を少しずつ押し出していく。

 

混ざらなくても、隣に立つ方法はあります。

 

加持はその言葉を頭の中でもう一度なぞる。

 

補完は、孤独を消すための計画なのかもしれない。分断を終わらせるための思想なのかもしれない。けれど、境界を消すことと、距離を越えることは同じじゃない。

 

違うまま並ぶことを諦めた時点で、たしかに何かを失う。

 

あの子は、そこを先に見ている。

 

なら問題は、どこまで見えているかじゃない。

 

どこまで見た上で、なおそれを選ぶのかだ。

 

加持は歩き出した。今度は止まらない。

 

少なくとも、当面は見ておくべきだろう。監視でも、保護でも、評価でもない。観測に近い。あの子が誰の駒になるのかではなく、最後まで誰の駒にもならないのかを。

 

それはたぶん、今のネルフでいちばん危うい立ち位置だ。

 

加持は階段の手前で、ふと肩越しに振り返る。

 

もう廊下には誰もいない。窓の外の空だけが、夜へ沈みながら細く青い。

 

シンジ君。

 

あの答え、嫌いじゃない。

 

口にした時は半分流したつもりだった。だが今は、思ったより本気だったと分かる。

 

嫌いじゃない、では済まないのかもしれない。

 

あれはたぶん、希望の形をしている。

 

だからこそ危ない。

 

希望は、人を動かす。計画より厄介なものを生むことがある。誰かの筋書きの外で、勝手に世界の形を変えてしまう。

 

加持は目を伏せ、短く息を吐いた。

 

さて。

 

この厄介な子供を、誰に渡さずにどこまで見ていられるか。

 

それがしばらく、自分の仕事になるのかもしれなかった。

 

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