碇シンジと最上イズモ 他人を演じるということ   作:最上 イズモ

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拒絶反応

発令所へ続く通路は、昼なのに夜みたいに冷えていた。

 

照明が白すぎる。壁の角がやけに鋭く見える。足音が自分のものだけ少し遅れて返ってくる気がして、最上最上イズモは歩幅をわずかに詰めた。

 

訓練用ブロックに入る直前、ガラス越しに見えた模擬試験用エントリープラグは、いつも通り無機質だった。金属の筒。ケーブル。固定アーム。人を受け入れるための形をしているくせに、人の体温を拒むような冷たさだけがある。

 

だが、今日はそこに、説明のつかない引っかかりがあった。

 

視線を向けた瞬間、首の後ろに細い針を差し込まれたみたいに、皮膚がざわつく。

 

止まる。

 

後ろを歩いていた職員が、危うくぶつかりそうになって足を止めた。

 

職員「どうしました」

 

最上イズモは答えなかった。エントリープラグを見たまま、呼吸だけを浅く整える。胸の奥で、何かが小さく軋んだ。嫌な感じだった。恐怖に近いのに、ただの怖さではない。もっと、記憶の外側を爪でひっかかれるような、説明しづらい違和感。

 

ミサト「シンジ君?」

 

振り返ると、葛城ミサトが少しだけ眉を寄せていた。隣の赤木リツコは、表情を動かさないままこちらを見ている。観察する目だ。何かの兆候を測る時の目。

 

最上イズモはもう一度プラグを見た。

 

いやだ。

 

その言葉が先に浮いた。理由は後から追いついてくる気配すらない。

 

最上イズモ「今日は乗らない方がいい」

 

空気が止まった。

 

ミサト「え」

 

リツコ「理由は?」

 

最上イズモ「確認できない。でも、あれの近く、変だ」

 

言った瞬間、自分でも語彙の少なさに舌打ちしたくなった。もっと具体的に言えればいい。波形だとか臭いだとか温度勾配だとか、そういう計器に乗る言葉で。だが、今感じているものは、そういう整理された感覚の手前にある。

 

最上イズモは二歩進んで、手すりの前で立ち止まった。視線をプラグの固定部、ケーブル接続部、床面のメンテナンスハッチへ順に滑らせる。

 

何も見えない。

 

なのに、何かがいる。

 

冬の水面の下を影だけが横切る時みたいに、はっきりしない輪郭だけが感覚に残る。

 

リツコ「検知系には異常なし」

 

最上イズモ「だから嫌なんだよ」

 

リツコの目が、そこで初めてわずかに細くなった。

 

最上イズモ「見えてる異常なら、手順で潰せる。でも見えてないのに、こっちだけが引っかかる時は、たいてい向こうが一歩先にいる」

 

ミサトがプラグと最上イズモを見比べる。軽口を叩く余地を探して、見つからなかった顔だった。

 

その時だった。

 

訓練用ブロックの奥で、短い警告音が一つ鳴った。

 

続いて二つ、三つ。

 

乾いた電子音が、静かな空間に小刻みに刺さっていく。

 

技術部員「ノイズです、いえ、違う……侵入パターン検知、待ってください、これ……」

 

別のモニターが一斉に灯る。待機状態だった画面に幾何学的な線が走り、数値列が滝みたいに流れ始めた。

 

オペレーター「パターン青、発生位置、模擬試験用エントリープラグ付近!」

 

ミサト「なんですって」

 

訓練区画の空気が一気に変わる。人間が慌てたからではない。機械が先に緊張した。閉鎖シャッターが降下準備に入り、隔壁表示が赤へ切り替わる。遠くで重いロック音が連鎖して響いた。

 

リツコが前へ出る。

 

リツコ「映像出して」

 

主モニターに、プラグ周辺の拡大映像が表示される。最初は何もないように見えた。だがノイズ除去をかけた途端、床の継ぎ目、ケーブル被膜、金属フレームの境界に沿って、青白い滲みがじわりと浮かぶ。

 

染みのようでいて、違う。

 

それは広がっているのではなく、選んでいた。金属の継ぎ目、信号線、接続端子。回路の匂いがするところだけを嗅ぎ分けるように、薄い青が滑っていく。

 

イズモの肩が硬くなる。

 

見えた瞬間、さっきまで輪郭のなかった違和感が、ようやく形を持った。

 

生きている。

 

いや、人間的な意味ではない。ただ、増殖と侵入の意思だけを持った、冷たい生命の動きだった。

 

リツコ「汚染じゃない。侵食……自己複製型」

 

技術部員「回線切断しても別系統に飛びます!」

 

オペレーター「ダミープラグ制御系に接触、いえ、学習してる……!」

 

ミサト「こんなタイミングで」

 

最上イズモ「タイミングじゃない。たぶん、ここを選んでる」

 

全員の視線が集まる。イズモはモニターを見たまま続けた。

 

最上イズモ「閉じた系で、制御が密で、しかも模擬試験だから接続確認が多い。学習相手として都合がいい」

 

リツコ「……続けて」

 

最上イズモは一度だけ息を吸った。頭の中で散っていたものが、ようやく線になり始める。

 

最上イズモ「単純な防壁で押し返すと、たぶん適応する。熱に耐性がある細菌に抗生物質を雑に打つのと同じだ。強い圧だけかけると、生き残ったやつが次で厄介になる」

 

リツコ「ならどうするの」

 

最上イズモはモニターの青い滲みを見つめる。線路の上を這う霜みたいに、それは静かに回路を渡っていく。

 

最上イズモ「生物の免疫みたいに段階を分ける。侵入検知、隔離、識別、排除、記憶。単一の正解を当てにしない」

 

ミサト「免疫?」

 

最上イズモ「白血球、NK細胞、マクロファージ、樹状細胞、補体系。役割を分ける。全部が全部、直接殴るわけじゃない。見つけるやつ、囲うやつ、食うやつ、危険情報を回すやつがいる」

 

リツコの視線が鋭くなる。興味と警戒が一緒に乗った目だった。

 

リツコ「あなた、それを今この場で設計できるの」

 

最上イズモ「完成品は無理。でも、骨組みなら」

 

数秒の沈黙。

 

警報音だけが、一定の間隔で鳴り続ける。

 

その間にも青い侵食は広がっていた。ゆっくりなのに、止まらない。急げと言われなくてもわかる速度だった。

 

リツコは白衣の裾を翻し、指示卓へ向かう。

 

リツコ「技術一課、情報制御班、バイオシミュレーション班を回しなさい。訓練区画は完全隔離。外部回線は監視付き片方向のみ。赤木班臨時対策プロトコルを立ち上げる」

 

ミサト「採用するのね」

 

リツコ「座して食われるよりましよ」

 

そして振り返る。

 

リツコ「来なさい、最上最上イズモ。口だけで終わらせるなら、今のうちにやめておいた方がいい」

 

最上イズモは小さくうなずいた。

 

発令所脇の臨時作業卓は、数分で戦場みたいになった。

 

半透明のモニターが何枚も立ち上がり、回路図、侵食マップ、ログ列、擬似コード、信号モデルが空中に重なる。白衣の技術者たちが行き交い、キーボードの打鍵音と短い報告が空気を削る。

 

イズモは椅子に座らず、立ったまま一枚目の画面を引き寄せた。

 

既存のセキュリティは、明確な侵入と既知の異常に強い。だが、相手は固定的な攻撃者ではない。観測されながら変わる。閉じれば別の継ぎ目を探し、遮断すれば接触の痕跡から構造を逆算する。まるで、傷口から入り込んだ後に体温と血流を読んで動きを変える病原体だった。

 

リツコが隣に立つ。

 

リツコ「どう分ける」

 

最上イズモ「第一層は自然免疫。速度優先。署名がなくても、挙動の逸脱だけで引っかける」

 

指先で画面に円を描く。ネットワーク図の一部が色分けされた。

 

最上イズモ「マクロファージ役。怪しい領域を切り離して、丸ごと飲み込む隔離プロセス。正常判定は後回しでいい。まず広げない」

 

技術者「誤検知で自壊します」

 

最上イズモ「局所に限定する。重要系は二重化。食わせるのは捨てられる仮想層だけだ」

 

リツコ「続けて」

 

最上イズモ「NK細胞役。自己認証が欠けたもの、ふるまいが急変したものを優先処理する。完璧な本人確認じゃなくていい。“いつもの自分じゃない”を叩く」

 

別の技術者が眉をひそめる。

 

技術者「挙動監視だけじゃ学習されたら抜けられます」

 

最上イズモ「だから単独じゃ使わない」

 

最上イズモは二枚目の画面を開く。侵食ログを時系列で重ね、変化率を抽出する。

 

最上イズモ「樹状細胞役を置く。接触した断片から特徴量を抜く。配列じゃなくて癖を集める。増え方、逃げ方、選ぶ経路、反応時間。たとえ姿を変えても、性格までは急に変わらない」

 

リツコの指が止まった。

 

その一言が気に入ったのか、危ういと思ったのか、表情からはわからない。

 

ミサトは少し離れた位置からそのやり取りを見ていた。少年が、年齢に似合わない速度で人員とモニターの中心に立っている。焦っていないわけじゃない。肩は固いし、まばたきも減っている。だが、その固さをそのまま前へ押し出していた。

 

オペレーター「侵食速度上昇、模擬回路第三層突破!」

 

技術部員「隔離領域で自己複製、食わせた仮想層を足場にしてます!」

 

最上イズモ「食うだけじゃだめだ。補体系を入れる」

 

リツコ「マーキングね」

 

最上イズモ「そう。危険と判定した断片にタグを付ける。次に見た時、誰でも即座に危険扱いできるようにする。役割ごとの認識差を減らす」

 

リツコが即座にコードウィンドウを開く。指が走る。文字列が高速で積み上がっていく。

 

リツコ「タグの偽装は」

 

最上イズモ「あり得る。だから自己証明には使わない。攻撃対象の優先順位付けだけ」

 

二人の間に無駄な言葉はなかった。技術者たちが補完し、接続し、走らせる。互いの不足を一歩早く埋める感覚だけが、短い指示の奥にある。

 

マヤが席から顔を上げる。

 

マヤ「先生、これ……敵性パターンが、こちらの監視ルーチンそのものを観察してます」

 

リツコ「見返しているのね」

 

最上イズモ「じゃあ見せるものを増やす」

 

ミサト「増やす?」

 

最上イズモ「免疫系って、全部が一か所に集まってるわけじゃない。局所で見張るやつと、全体に知らせるやつがいる。だったら監視も分散させる。囮も混ぜる」

 

技術部員「ハニーポットか」

 

最上イズモ「ただの囮じゃ足りない。食えると思わせる餌場を作る。そこで観察する」

 

リツコ「仮想細胞群……いいえ、仮想組織層の方が近い」

 

最上イズモ「侵入された前提で作る。ゼロ侵入を目指さない」

 

その言葉に、数人が一瞬だけこちらを見る。敗北主義と受け取られてもおかしくない響きだった。

 

だが最上イズモは画面から目を離さない。

 

最上イズモ「全部防ぐのは無理だ。入られた後に、どこで止血するかの方が大事だろ」

 

短い沈黙の後、リツコが口角だけで笑った。

 

リツコ「嫌いじゃない発想ね」

 

マヤ「新規パッチ、第一層投入します!」

 

画面上で、侵食領域の縁が一瞬だけ揺れた。青い滲みが広がり方を変える。一直線だった伸びが途切れ、分岐し、回り込みを始めた。

 

最上イズモの喉がわずかに鳴る。

 

やはり学習している。

 

だが同時に、こちらの見たい動きも増えた。

 

最上イズモ「今。逃走経路を記録。選び方に癖が出てる」

 

マヤ「取りました!」

 

リツコ「第二層、NK処理起動。異常自己変動率の高いノードを切る」

 

技術部員「切断開始!」

 

いくつものノードが暗転する。青い滲みの一部がそこで霧みたいに散った。だが残りはすぐに別経路へ潜る。

 

オペレーター「まだ生きてる!」

 

最上イズモ「生きてるなら追える」

 

言いながら、指先がわずかに震えた。冷えではない。頭だけが先に走りすぎて、体があとからついてくる時の震えだ。

 

その時、視界の端で模擬試験用エントリープラグの映像が拡大された。

 

開いたハッチの縁。艶のない金属。内部を這う青。あの中に乗っていたかもしれない自分の姿が、一瞬だけ脳裏に浮く。

 

背中に冷たいものが落ちる。

 

もし遅れていたら。

 

もし違和感を無視していたら。

 

その像はそこまでで切った。切らなければ、指が止まる。

 

リツコ「最上君」

 

低い声だった。

 

振り向くと、リツコは画面を見たまま言った。

 

リツコ「今は考えないこと。あとで考えなさい」

 

最上イズモは一度だけまばたきして、うなずいた。

 

見られている。感情の中身までではない。止まりかけたことだけを、正確に拾われた。

 

だから助かった。

 

最上イズモ「第三層。獲得免疫側もどき、いける?」

 

リツコ「完全な学習系は時間が足りない」

 

最上イズモ「記憶細胞の簡易版でいい。今回取れた特徴量を圧縮して、次の接触時に優先展開する」

 

マヤ「テンプレ化します!」

 

技術部員「補体系タグと連動させれば初動短縮できます」

 

リツコ「やりなさい」

 

作業卓の上を、命令が火花みたいに飛び交う。

 

青い侵食はなおも残っている。だが、もう最初みたいな一方的な広がり方ではない。食われたふりをした仮想層に誘導され、マクロファージ役の隔離プロセスに押し込まれ、タグを付けられ、挙動を抜かれ、NK処理に追われる。そのたびに形を変え、逃げ、また見つかる。

 

生き物同士の争いに似ていた。

 

静かなのに、どちらも容赦がない。

 

オペレーター「侵食領域、閉じます! 第三、第四隔離域で封じ込め成功!」

 

マヤ「残存個体……いえ、残存パターン群、局所化!」

 

リツコ「焼くわよ」

 

最上イズモ「待って。全部焼く前に断片を保存。ワクチン側の種に使える」

 

リツコがほんの一拍だけ考える。

 

リツコ「保存領域は完全独立。観察権限は私と伊吹、あと最上最上イズモに限定」

 

マヤ「了解!」

 

ミサトがそこでようやく大きく息を吐いた。肩から力が抜ける音が、ここまで聞こえそうだった。

 

ミサト「ひとまず最悪は止まった、でいいのよね」

 

リツコ「まだ終わってないわ。けれど、喉元は過ぎた」

 

そして正面の大画面に向けて、冷たく告げる。

 

リツコ「残存パターン群に対し、段階的消去開始」

 

青が縮む。

 

逃げ場を失った染みが、少しずつ輪郭を失っていく。最後まで抵抗するように枝分かれし、細く伸び、回路の隙間へ潜ろうとして、そこで止まる。

 

やがて、モニターの青は完全に消えた。

 

発令所に残ったのは、冷却ファンの低い唸りと、誰もすぐには口を開かない沈黙だった。

 

戦闘が終わった時とは違う。歓声も高揚もない。ただ、自分たちの中に入ってこようとした何かを、ぎりぎりで押し返した後の、乾いた静けさだけがある。

 

ミサト「……助かったわね」

 

誰に向けた言葉か曖昧なまま、彼女はつぶやいた。

 

リツコは白衣の袖を直し、ようやく最上イズモへ向き直る。

 

リツコ「あなた、最初に何を感じたの」

 

最上イズモはすぐには答えなかった。訓練区画の映像に映る、無人の模擬試験用エントリープラグを見る。あれはただの機械に戻っている。さっきまでの気配はもうない。

 

それでも、皮膚の裏にはまだ薄く残っていた。嫌な予感の名残が。

 

最上イズモ「……確認できない」

 

リツコの眉がほんの少しだけ上がる。

 

最上イズモ「でも、乗ったらだめだと思った。理屈じゃなくて、先に体が止まった」

 

ミサトがじっと彼を見る。茶化さない。慰めない。ただ聞いている。

 

最上イズモは視線を落とした。

 

床に伸びるケーブルの影が、妙に黒い。

 

最上イズモ「たぶん、たまたまじゃない。でも再現できるとも言えない」

 

リツコ「未確認の感覚情報、ということね」

 

最上イズモ「そうなる」

 

リツコは少しだけ考え、やがてうなずいた。

 

リツコ「いいわ。わからないものを、わかったふりで固定する方が危ない」

 

その言葉は、評価というより整理だった。だから最上イズモも受け取れた。

 

ミサトが間に入るように一歩寄る。

 

ミサト「それで、当分は模擬プラグ試験は止める?」

 

リツコ「止めるしかないわね。パッチの再編、観察領域の維持、隔離系の見直しが先」

 

そして最上イズモを見る。

 

リツコ「あなたには引き続き協力してもらう。今回の“免疫系”の発想、使えるところが多い」

 

最上イズモ「了解」

 

短く答えたあと、自分の声が少し掠れていることに気づいた。

 

張り詰めていたものが、そこで少しだけ緩む。

 

ミサト「じゃあまず、水分取りなさい。顔色が戦闘後みたいになってる」

 

最上イズモ「そこまでじゃ」

 

ミサト「なってる」

 

言い切られて、反論が半歩遅れた。

 

その遅れに、自分でも少し引っかかる。

 

前ならもっとすぐに返していた気がする。いや、違うか。返せなかったのではなく、返す前に言葉の角を丸めようとした。そんな些細な変化が、喉の奥に小さく残る。

 

ミサトはすでに水のボトルを押しつけてきていた。

 

最上イズモは受け取る。冷たい。掌がようやく自分の温度を思い出す。

 

リツコはその様子を横目で見ていたが、何も言わなかった。代わりに、新しいウィンドウを開く。

 

そこにはさっき組み上げた緊急パッチの構造図が表示されている。隔離、識別、排除、記憶。生き物の免疫を真似た、不格好で、しかししぶとい防壁。

 

金属と論理で作られた城の中に、妙な形の白血球を放した気分だった。

 

最上イズモはボトルの水を飲みながら、その図を見つめた。

 

完全じゃない。穴もある。次に同じものが来たら、また違う顔で来るかもしれない。それでも、今回ここでやったことは無意味じゃないとわかる。

 

侵入をゼロにはできない。

 

だが、入られた後に食い尽くされない仕組みは作れる。

 

その実感だけが、まだ冷えの残る胸の奥で、小さく熱を持っていた。

 

遠くで、訓練区画のシャッターがゆっくり閉じきる音がした。

 

模擬試験用エントリープラグは、厚い隔壁の向こうへ消える。

 

最上イズモはその方向を見たまま、ほんの一瞬だけ目を細めた。

 

乗らなかった。

 

乗れなかった、ではない。

 

その選択が何を避けたのか、どこまで正しかったのかは、まだ確認できない。

 

だが、少なくとも今は、生きたまま次へ進める。

 

それで十分だった。

 

リツコ「もう慣れたけど私でもとっさにあの判断は思いつかないわあなた何者?」

 

イズモは手にしたボトルを少しだけ傾けて、残っていた水を喉へ流し込んだ。

 

冷たさが落ちていく。その間だけ、発令所の視線が少し遠のく。

 

ボトルを下ろす。

 

リツコの目は冗談を言う時のものではなかった。観察と、計算と、その奥にわずかな興味がある。試験管の中身を見るような目つきではない。だが、油断すればすぐに分類棚へ入れられそうな鋭さがあった。

 

イズモは乾いた唇を親指で軽く拭った。

 

イズモ「その質問、今ここで一番答えにくいやつだな」

 

ミサトが小さく息を漏らす。笑いかけて、やめたような音だった。

 

リツコ「はぐらかすの」

 

イズモ「はぐらかしてるんじゃない。整理できてない」

 

主モニターの光が、三人の横顔を白く切り分ける。さっきまで青く侵されていた訓練区画は、今はただの無人の設備に戻っていた。なのに、空気だけはまだ戦闘のあとみたいに張っている。

 

リツコ「整理できていない人間が、白血球だのNK細胞だのを即座に持ち出して、あの場で実装の骨格まで切る?」

 

イズモ「知ってることと、自分が何者かって話は別だろ」

 

リツコ「普通はそう簡単に切り分けられないわ」

 

イズモは視線を落とした。床を走るケーブルの束が、血管みたいに見える。さっきまで侵食されていた系統。冷たい人工物のくせに、今は妙に生き物じみていた。

 

イズモ「……慣れてるんだよ」

 

リツコ「何に」

 

少しだけ間が空く。

 

イズモは答える前に、一度だけ指先を握った。自分の皮膚の感触を確かめるみたいに。

 

イズモ「壊れる前提で考えるのに」

 

その言葉で、ミサトの表情がほんのわずかに変わった。

 

リツコは動かない。続きを待っている。

 

イズモ「完璧に守るとか、全部止めるとか、そういう設計は嫌いじゃない。でも現実は、だいたいそこまで都合よくできてない。だから入られた時にどこで止めるか、どこまで捨てるか、どうやって本体を残すかを先に考える」

 

リツコ「悲観的ね」

 

イズモ「保険だよ」

 

ミサト「中学生の保険にしては、だいぶ物騒だけど」

 

イズモは肩をすくめかけて、やめた。

 

その動きが途中で止まったことに、自分で少しだけ引っかかる。以前ならもう少し雑に流していた気がする。言葉も仕草も、いちいちどこかで選別が入る。喉の奥に残るその違和感を、今はまだ名前にしない。

 

リツコはそんな彼を見て、ふっと視線を細めた。

 

リツコ「慣れてる、ね」

 

イズモ「そうとしか言えない」

 

リツコ「便利な言い方だこと」

 

イズモ「未確認を確認済みみたいに話すよりはましだろ」

 

一瞬だけ、発令所の空気が静まる。

 

その返しに怒るでもなく、リツコはむしろ口元だけで笑った。

 

リツコ「ええ。そこは評価するわ」

 

ミサトが腕を組む。

 

ミサト「で、結局どうなの。何者って聞かれて、“壊れる前提で考えるのに慣れてる人”で通すの?」

 

イズモ「少なくとも今は」

 

ミサト「なんか企業の危機管理担当みたいな答え方ね」

 

イズモ「それで助かるなら、だいたい何でもいいよ」

 

言ってから、少し遅れて自分の声の温度に気づく。突き放したわけではない。ただ、距離の取り方がどこか年齢に合っていない。

 

ミサトもそれを感じたのか、すぐには返さなかった。

 

代わりに、机の端に腰を預けてイズモを横から見る。

 

ミサト「助かったのは事実よ」

 

イズモ「それはよかった」

 

ミサト「でもね、助け方が可愛くないのよ」

 

イズモはようやく小さく息を漏らした。笑いに近いが、笑いきらない音だった。

 

そのわずかな緩みを見て、ミサトの肩からも少し力が抜ける。

 

リツコは画面を操作しながら続けた。

 

リツコ「何者かは、ひとまず保留にしてあげる」

 

イズモ「助かる」

 

リツコ「その代わり、あなたの頭の使い方は借りるわ。今回のパッチ、暫定で終わらせる気はないもの」

 

イズモ「こっちもそのつもり」

 

リツコ「ならいい」

 

数秒、キーボードの打鍵音だけが続く。

 

新しく開かれた構造図の上で、免疫模倣パッチの各階層が整理されていく。隔離層、観測層、処理層、記憶層。白血球じみた仮想防壁が、NERVの無機質な制御系の中に不格好に根を張り始めていた。

 

リツコ「でもね、最上君」

 

イズモ「何」

 

リツコは手を止めずに言った。

 

リツコ「とっさにあの判断ができる人間は、知識があるだけじゃ足りないの。失敗を知ってるか、失敗する構造を先に嗅ぎ取る癖があるか、そのどちらかよ」

 

イズモの視線がわずかに止まる。

 

リツコ「あなたは後者に見える」

 

ミサト「……私もそう思う」

 

その一言だけで、胸の奥に薄く張っていた膜が少し軋んだ。

 

見透かされた、とは違う。

 

もっと嫌な感じだ。まだ言葉になっていない自分の輪郭を、先に外からなぞられる感覚。

 

イズモは視線を模擬試験用エントリープラグの消えた隔壁の方へ向けた。もう何も見えない。ただ、厚い壁の向こうに、乗らなかった機械がある。

 

もし乗っていたら。

 

その像がまた浮きかけて、今度は自分で切る。

 

イズモ「……失敗する構造を放置する方が怖いだけだよ」

 

リツコ「それも十分異常よ」

 

ミサト「うわ、否定しないんだ」

 

リツコ「否定する理由がないもの。正常な中学生の反応ではないわ」

 

イズモ「そこはせめて、褒めてる体裁を取ってくれ」

 

ミサトが今度こそ吹き出した。短く、乾いた笑いだった。張り詰めきった場には、そのくらいの音がちょうどよかった。

 

ミサト「大丈夫大丈夫、一応褒めてるのよ、これでも」

 

リツコ「ええ。かなり」

 

イズモ「かなりでそれか」

 

言い返しながら、ようやく肩の力が少し落ちる。

 

発令所の照明は相変わらず白い。機材の音も変わらない。それでも、さっきまでの切迫した空気は、わずかに形を変えていた。

 

危機は去った。

 

だが、別のものが残っている。

 

リツコの興味。ミサトの引っかかり。そして、自分の中にまだ説明のつかない違和感。

 

リツコは端末から目を上げた。

 

リツコ「何者かなんて、今すぐ決めなくていいわ。でも、次に同じことが起きたら、私はまたあなたの判断を使う」

 

イズモ「……了解」

 

リツコ「だからせいぜい、壊れる前に言いなさい。あなた、自分で止まらないでしょう」

 

その言葉に、返事が一拍遅れた。

 

遅れたことに自分で気づく。

 

ミサトもたぶん気づいた。けれど、何も言わなかった。

 

ただ、机の上のボトルを指で軽く叩く。

 

ミサト「とりあえず今日は、頭脳労働の英雄様もここまで。続きは休んでから」

 

イズモ「まだいける」

 

ミサト「そう言うと思った」

 

リツコ「休ませなさい、葛城三佐。働きすぎた神経は、次の判断を鈍らせる」

 

イズモ「赤木博士までそっち側か」

 

リツコ「効率の話よ」

 

逃げ道のない言い方だった。

 

イズモは諦めたように小さく息を吐き、もう一口だけ水を飲む。

 

冷たさが、今度はちゃんと体の内側に落ちていった。

 

主モニターには、青の消えたシステム図が静かに広がっている。

 

守り切ったわけじゃない。追い返しただけだ。次はもっと別の顔で来るかもしれない。

 

それでも今は、この場に立っていられる。

 

リツコの問いは、まだ答えになっていないまま残る。

 

あなた何者。

 

その言葉だけが、隔壁の向こうに置き忘れた気配みたいに、胸の奥に薄く引っかかっていた。

 

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