碇シンジと最上イズモ 他人を演じるということ   作:最上 イズモ

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三人分の朝

 

 

 目を開けるより先に、音が聞こえた。

 

 冷蔵庫の低い駆動音。

 

 遠くを走る車。

 

 壁一枚向こうで、布が擦れる小さな音。

 

 最上イズモは目を開いた。

 

 見慣れ始めた天井だった。

 

 枕元の時計へ目を向ける。

 

 六時十四分。

 

 少し早い。

 

 身体を起こす。

 

 昨日までなら、そのまま数分ほどぼんやりしていたかもしれない。

 

 だが今日は違った。

 

 薄い壁の向こうに、人が一人増えている。

 

 だからといって、何か特別にしなければならないわけではない。

 

 ただ、昨日までと同じ動きをすると、どこかでぶつかる可能性がある。

 

 洗面所。

 

 朝食。

 

 着替え。

 

 出発。

 

 狭い住居で三人が同じ時間帯に動けば、当然、経路は重なる。

 

 イズモはベッドから降りた。

 

 廊下へ出る。

 

 アスカの部屋の扉は閉じていた。

 

 触らない。

 

 入らない。

 

 必要なら起こす。

 

 昨夜決めた線を頭の中で一度だけ確認し、そのまま通り過ぎる。

 

 居間では、ミサトがソファの上で毛布に半分埋まっていた。

 

 床には空き缶が一本。

 

 一本だけ。

 

 昨夜「今日は素面でいる」と言っていたことを考えれば、かなり頑張った方なのかもしれない。

 

 最上イズモ「……一本は飲んだんですね」

 

 返事はない。

 

 代わりにペンペンが冷蔵庫の横から顔を出した。

 

 最上イズモ「おはようございます」

 

 ペンペン「クェ」

 

 イズモは台所へ向かった。

 

 冷蔵庫を開ける。

 

 卵。

 

 味噌。

 

 昨日の残り。

 

 野菜が少し。

 

 三人分。

 

 そこまで考えて、手が止まった。

 

 いや。

 

 四人分か。

 

 イズモはペンペンを見る。

 

 ペンペンもこちらを見ていた。

 

 最上イズモ「あなたの分は別ですね」

 

 ペンペン「クェ」

 

 交渉成立らしい。

 

 鍋に火を入れる。

 

 味噌汁を温め直しながら、卵を割る。

 

 フライパンへ流したところで、背後から扉の開く音がした。

 

 足音。

 

 軽い。

 

 だが止まらない。

 

 廊下をまっすぐこちらへ来る。

 

 アスカだ。

 

 惣流・アスカ・ラングレー「……何してんの」

 

 振り返る。

 

 アスカは寝間着姿のまま、廊下の入口に立っていた。

 

 髪はまだ整っていない。

 

 片側だけ少し跳ねている。

 

 昨日よりさらに幼く見えた。

 

 最上イズモ「朝食です」

 

 惣流・アスカ・ラングレー「見れば分かるわよ」

 

 最上イズモ「では質問の意図が」

 

 惣流・アスカ・ラングレー「なんで起きてんのよ!」

 

 イズモは時計を見る。

 

 六時二十八分。

 

 最上イズモ「起きろと言われたので」

 

 惣流・アスカ・ラングレー「そういう意味じゃない!」

 

 声が部屋に響く。

 

 ソファの毛布が動いた。

 

 葛城ミサト「……朝から元気ねえ」

 

 惣流・アスカ・ラングレー「ミサトは寝てなさい!」

 

 葛城ミサト「え、怒られた」

 

 ミサトは毛布から顔だけ出した。

 

 髪がひどい。

 

 アスカが一瞬そちらを見て、眉を寄せる。

 

 惣流・アスカ・ラングレー「というか、何よその頭」

 

 葛城ミサト「休日仕様」

 

 惣流・アスカ・ラングレー「今日平日!」

 

 葛城ミサト「……うそ」

 

 最上イズモ「平日です」

 

 葛城ミサト「シンジくんまで裏切った」

 

 最上イズモ「暦は私の管轄ではありません」

 

 ミサトは呻きながら毛布へ沈んだ。

 

 アスカはため息をつき、洗面所へ向かおうとして止まる。

 

 イズモも同時に動こうとしていた。

 

 二人の視線が合う。

 

 狭い廊下。

 

 洗面所の入口。

 

 進路が完全に重なっている。

 

 一秒。

 

 イズモが半歩下がった。

 

 最上イズモ「どうぞ」

 

 惣流・アスカ・ラングレー「……何」

 

 最上イズモ「先に使うと思ったので」

 

 惣流・アスカ・ラングレー「なんで」

 

 最上イズモ「髪に時間がかかりそうです」

 

 空気が止まった。

 

 アスカの目が細くなる。

 

 最上イズモ「違いましたか」

 

 惣流・アスカ・ラングレー「合ってるけど言い方!」

 

 洗面所の扉が閉まる。

 

 イズモは数秒その扉を見てから、台所へ戻った。

 

 たぶん正解ではあった。

 

 表現が最適ではなかっただけだ。

 

 フライパンの卵を返す。

 

 背後でミサトが笑いを堪えている気配がした。

 

 最上イズモ「起きてますね」

 

 葛城ミサト「寝てる寝てる」

 

 最上イズモ「では笑わないでください」

 

 葛城ミサト「無理」

 

 数分後。

 

 テーブルには朝食が並んだ。

 

 味噌汁。

 

 卵。

 

 焼いた野菜。

 

 昨夜の残り。

 

 豪華ではない。

 

 だが朝としては十分だった。

 

 アスカが戻ってくる。

 

 髪は整っている。

 

 さっきまで寝起きだった人物とは思えない。

 

 そのまま椅子へ向かい、止まった。

 

 昨日、自分が座った位置。

 

 そこだけコップが少し外側へ寄せてある。

 

 肘が当たらない程度に。

 

 アスカの視線がコップからイズモへ移る。

 

 惣流・アスカ・ラングレー「これ」

 

 最上イズモ「昨日当たっていたので」

 

 惣流・アスカ・ラングレー「……覚えてたの」

 

 最上イズモ「はい」

 

 アスカは何も言わず座った。

 

 味噌汁を取る。

 

 一口。

 

 少し熱かったのか、眉がわずかに動く。

 

 最上イズモ「熱いですか」

 

 惣流・アスカ・ラングレー「分析しないで」

 

 最上イズモ「確認です」

 

 惣流・アスカ・ラングレー「同じよ」

 

 葛城ミサト「シンジくん、だんだん扱い分かってきたわね」

 

 惣流・アスカ・ラングレー「扱いって言うな!」

 

 最上イズモ「扱ってはいません」

 

 惣流・アスカ・ラングレー「そこ真面目に否定するのね」

 

 最上イズモ「人なので」

 

 アスカの箸が、一瞬だけ止まった。

 

 だが何も言わない。

 

 代わりに卵を一口食べる。

 

 葛城ミサト「で、今日どうする? 三人とも大体同じ時間でしょ」

 

 惣流・アスカ・ラングレー「私は七時二十分には出る」

 

 最上イズモ「では七時十五分に玄関を空けます」

 

 惣流・アスカ・ラングレー「何それ」

 

 最上イズモ「靴と荷物で混むので」

 

 葛城ミサト「そこまで考える?」

 

 最上イズモ「三人同時に出ようとすると狭いです」

 

 惣流・アスカ・ラングレー「別に押しのければいいじゃない」

 

 最上イズモ「毎朝やる理由がありません」

 

 アスカが何か言おうとして、やめる。

 

 味噌汁を飲む。

 

 その横でミサトがぼんやりとイズモを見ていた。

 

 葛城ミサト「……シンジくんさ」

 

 最上イズモ「はい」

 

 葛城ミサト「こういうの、妙に得意よね」

 

 最上イズモ「こういうの?」

 

 葛城ミサト「誰がどこでぶつかるとか、何置いたら邪魔とか」

 

 アスカも視線を上げる。

 

 逃げ道が二方向から塞がれた。

 

 最上イズモ「見れば分かる範囲です」

 

 惣流・アスカ・ラングレー「普通そこまで見ないでしょ」

 

 最上イズモ「そうですか」

 

 惣流・アスカ・ラングレー「そうよ」

 

 即答だった。

 

 イズモは少し考える。

 

 コップ。

 

 椅子。

 

 洗面所。

 

 玄関。

 

 朝食。

 

 別に特別なことをしている感覚はない。

 

 どこで詰まるか。

 

 どこでぶつかるか。

 

 何を先に動かせば、全体が止まらないか。

 

 それだけだ。

 

 惣流・アスカ・ラングレー「昨日もそうだったけど」

 

 アスカが箸を置く。

 

 さっきまでより少しだけ声が低い。

 

 惣流・アスカ・ラングレー「あんた、人と暮らすの慣れてるわけじゃないでしょ」

 

 最上イズモ「たぶん」

 

 惣流・アスカ・ラングレー「たぶんって何よ」

 

 最上イズモ「少なくとも、こういう生活には」

 

 アスカはしばらくこちらを見る。

 

 観察する目だった。

 

 怒っているわけではない。

 

 昨日、荷物を運んでいた時と同じ。

 

 こちらがどこまで届く人間なのかを測る目。

 

 惣流・アスカ・ラングレー「じゃあ、なんでこういう調整だけ上手いのよ」

 

 その言葉で、指が止まった。

 

 箸を持ったまま。

 

 ほんの一瞬だけ。

 

 イズモはテーブルを見る。

 

 三人分の食器。

 

 少し外へずらしたコップ。

 

 歩きやすいよう端へ寄せた椅子。

 

 廊下へ出したままにしなかった鞄。

 

 全部、理由は説明できる。

 

 だが。

 

 なぜそこへ最初に目が行くのか。

 

 その問いは別だった。

 

 最上イズモ「……事故になる場所を先に見てるだけです」

 

 言ってから、自分で少し違和感を覚えた。

 

 生活の話に使う言葉ではない。

 

 アスカも同じことを思ったらしい。

 

 惣流・アスカ・ラングレー「事故?」

 

 最上イズモ「揉める場所とか、邪魔になる場所とか」

 

 惣流・アスカ・ラングレー「それを事故って呼ぶの?」

 

 最上イズモ「似たようなものなので」

 

 惣流・アスカ・ラングレー「全然違うでしょ」

 

 葛城ミサトは何も言わなかった。

 

 さっきまで眠そうだった目が、少しだけ起きている。

 

 イズモはその視線に気づいたが、追わなかった。

 

 代わりに時計を見る。

 

 六時五十八分。

 

 最上イズモ「あと二十二分です」

 

 惣流・アスカ・ラングレー「何が」

 

 最上イズモ「出発まで」

 

 惣流・アスカ・ラングレー「話そらした」

 

 最上イズモ「時間は進むので」

 

 惣流・アスカ・ラングレー「ほんっと、そういうとこずるいわよね」

 

 だが、アスカはそれ以上追わなかった。

 

 箸を取り直す。

 

 食事が再開する。

 

 ミサトが大きなあくびをして、ペンペンがテーブルの下を横切った。

 

 コップは倒れない。

 

 椅子もぶつからない。

 

 誰も怒鳴らない。

 

 少なくとも、今のところは。

 

 それだけで、十分うまくいっている朝に見えた。

 

 窓の外では、第三新東京市の建物が朝日に照らされ始めていた。

 

 三人分の生活音が、狭い部屋の中で少しずつ重なっていく。

 

 まだ馴染んだとは言えない。

 

 けれど昨日までとは違う。

 

 最上イズモは空になった味噌汁の椀を見て、ふとそんなことを思った。

 

 その変化が、自分自身にも起きていることには。

 

 まだ、気づかないままで。

 

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