碇シンジと最上イズモ 他人を演じるということ 作:最上 イズモ
警報は、昼休みを途中で切った。
箸を置いた瞬間には、もう身体が立っていた。
教室の窓の外。
第三新東京市の建物が、いつものように地面へ沈み始めている。
遠くで道路が閉じる。
人の流れが変わる。
聞き慣れた避難放送が校内へ流れ込んできた。
惣流・アスカ・ラングレー「ほんっと、食事くらい最後までさせなさいよ!」
アスカが乱暴に弁当箱を閉じる。
最上イズモ「使徒側に食事時間を通知しておきますか」
惣流・アスカ・ラングレー「できるならやりなさいよ!」
最上イズモ「了解です」
惣流・アスカ・ラングレー「できないでしょ!」
朝と変わらない。
そのことに、ほんの少しだけ安心した。
だが。
ネルフへ向かう車内で表示された目標映像を見た瞬間、その安心は消えた。
青空に浮いている。
白と黒。
幾何学模様を貼りつけたような巨大な球体。
表面に陰影らしい陰影がない。
まるで空間に直接描かれた図形だ。
最上イズモは端末を持ったまま動かなかった。
葛城ミサト「どうしたの?」
最上イズモ「……これか」
葛城ミサト「知ってるの?」
反射的に出かかった言葉を止める。
知っている。
少なくとも、知識としては。
だが今まで何度も思い知らされている。
知っていることと、ここで起きることが同じである保証はない。
最上イズモ「似た構造を知ってるだけです」
葛城ミサト「またその言い方?」
最上イズモ「今回は特に断定したくない」
ミサトの目つきが変わった。
からかう空気が消える。
葛城ミサト「何が気になる?」
イズモは映像を拡大した。
球体。
その真下。
地面。
黒い。
円形の影が広がっている。
光源方向と合っていない。
最上イズモ「上じゃない」
葛城ミサト「え?」
最上イズモ「たぶん、見るべきなのは下です」
*
発令所。
主モニターいっぱいに使徒が映る。
赤木リツコはすでに解析結果を並べていた。
赤木リツコ「直径約六百八十メートル。空中に静止。A.T.フィールド確認」
伊吹マヤ「パターン青、間違いありません」
最上イズモ「地面側は?」
リツコの視線がこちらへ来る。
赤木リツコ「現在解析中」
最上イズモ「先にそっちを見た方がいい」
赤木リツコ「理由は?」
最上イズモ「上が目立ちすぎる」
一瞬、沈黙。
アスカが隣で顔をしかめる。
惣流・アスカ・ラングレー「それ理由?」
最上イズモ「理由としては弱い」
惣流・アスカ・ラングレー「弱いんじゃない!」
最上イズモ「でも、あれだけ派手なものを空中に置いて、地面側にも異常があるなら両方見るべきです」
リツコは何も言わず、別ウィンドウを開いた。
地表スキャン。
赤外。
磁場。
重力。
空間歪曲。
数値が並ぶ。
伊吹マヤ「……先生」
マヤの声が変わった。
赤木リツコ「何?」
伊吹マヤ「地表部分、厚みが取れません」
葛城ミサト「厚み?」
伊吹マヤ「はい。深度測定が……いえ、違う。底面反射がありません」
イズモは息を止めた。
来た。
やはり。
だが、それでも断定するには早い。
赤木リツコ「空中目標との相関は?」
伊吹マヤ「不明です。ただ……地表側にもA.T.フィールドに似た境界反応があります」
最上イズモ「出撃するなら、球体を攻撃目標に固定しない方がいい」
ミサトがこちらを見る。
葛城ミサト「三機出す」
最上イズモ「賛成です」
惣流・アスカ・ラングレー「珍しいわね。いつもなら人数増やすとリスク増えるとか言いそうなのに」
最上イズモ「今回は一機で近づく方が怖い」
アスカの口が閉じた。
最上イズモ「地面には絶対入らないでください」
惣流・アスカ・ラングレー「子供じゃないんだから分かってるわよ」
最上イズモ「念のためです」
惣流・アスカ・ラングレー「はいはい」
綾波レイは何も言わず、ただ一度こちらを見た。
*
三機が地上へ出る。
初号機。
零号機。
弐号機。
街は静かだった。
避難が完了した都市は、人がいないだけで別の惑星に見える。
ビルの谷間。
青空。
その中央に、異様な球体。
近くで見ると、さらに現実感がない。
遠近感が狂う。
大きいはずなのに、平面みたいに見える。
惣流・アスカ・ラングレー『気持ち悪いわね』
最上イズモ「同感」
葛城ミサト『全機、距離維持。まず観測するわよ』
アスカが露骨に不満そうな息を吐く。
惣流・アスカ・ラングレー『観測だけ?』
赤木リツコ『目標構造が分からない状態で近接戦闘する方が馬鹿よ』
惣流・アスカ・ラングレー『はいはい』
イズモは初号機の視線を下へ向けた。
黒い円。
いや。
円ではない。
わずかに揺れている。
表面。
波紋。
道路の白線が、境界へ近づいた部分だけ不自然に歪んでいる。
最上イズモ「ミサトさん」
葛城ミサト『何?』
最上イズモ「地表側、広がってる」
伊吹マヤ『え?』
直後。
警告音。
伊吹マヤ『影状領域、直径増加! 毎秒十二メートル!』
惣流・アスカ・ラングレー『ちょっと!』
葛城ミサト『全機後退!』
初号機を下げる。
零号機も動く。
弐号機が跳ぶ。
黒い領域が道路を飲み込む。
だが壊れない。
沈む。
道路標識。
ガードレール。
街路樹。
すべてが音もなく黒へ消えていく。
最上イズモ「物理的な穴じゃない」
赤木リツコ『ディラックの海……?』
その単語に、発令所の空気が変わった。
空中の球体が動く。
初めて。
ゆっくりと。
こちらへ。
惣流・アスカ・ラングレー『来る!』
最上イズモ「上は囮!」
弐号機がライフルを構える。
最上イズモ「アスカ、撃たないで!」
惣流・アスカ・ラングレー『なんでよ!』
最上イズモ「反応を見せるな!」
遅かった。
銃声。
弾丸が球体へ突き刺さる。
表面が歪む。
いや。
歪んだように見えただけだ。
弾丸が消える。
惣流・アスカ・ラングレー『……何よ、これ』
その瞬間。
地面が跳ねた。
黒い領域が弐号機の足元へ伸びる。
最上イズモ「アスカ!」
初号機を踏み込ませる。
弐号機が跳ぶ。
わずかに遅い。
片足が黒へ沈んだ。
惣流・アスカ・ラングレー『なっ――』
弐号機の身体が傾く。
イズモは初号機の腕を伸ばした。
掴む。
弐号機の前腕。
重い。
黒い面の向こうから、巨大な力で引かれている。
惣流・アスカ・ラングレー『離しなさい!』
最上イズモ「黙って上がって!」
惣流・アスカ・ラングレー『誰に向かって――』
最上イズモ「今はいいから!」
初号機の背中で拘束具が軋む。
脚部を踏ん張る。
道路が砕ける。
零号機が横から弐号機を掴んだ。
綾波レイ『支援します』
三機の力が一点へ集まる。
少しずつ。
弐号機の足が黒から抜ける。
最上イズモ「そのまま!」
次の瞬間。
足元が消えた。
警告。
視界の下半分が黒になる。
最上イズモ「――っ」
自分の方へ来た。
最初から。
弐号機ではない。
掴みに来る機体を待っていた。
そう理解した時には遅かった。
初号機の右脚が沈む。
腰。
腹部。
惣流・アスカ・ラングレー『シンジ!』
イズモは弐号機の腕を離した。
最上イズモ「離れて!」
惣流・アスカ・ラングレー『馬鹿! 掴みなさい!』
最上イズモ「二機持っていかれる!」
黒が胸まで来る。
零号機が手を伸ばす。
最上イズモ「レイも下がって!」
綾波レイ『でも』
最上イズモ「下がれ!」
自分でも驚くほど強い声が出た。
零号機が止まる。
一瞬。
その一瞬で十分だった。
最上イズモ「二人とも生き残って」
そして。
世界が黒くなった。
音が消える。
重力が消える。
上下が消える。
通信表示が一斉に赤へ変わった。
葛城ミサト『シンジ君!』
伊吹マヤ『初号機、信号ロスト!』
惣流・アスカ・ラングレー『シンジ!!』
最後に聞こえたのは、アスカの声だった。
そこで完全に回線が切れた。
静寂。
エントリープラグの非常灯だけが赤く点滅している。
イズモは息を吐いた。
手を開く。
握る。
身体はある。
意識もある。
初号機も、まだいる。
電源残量表示。
生命維持系。
LCL循環。
確認する。
問題は。
外がない。
最上イズモ「……やっぱり、こうなるか」
声が妙に近く聞こえた。
返事はない。
だが。
数秒後。
暗闇の中に。
自分の声がした。
『やっぱり?』
イズモの指が止まった。
通信ではない。
スピーカーでもない。
『知ってたんだ』
暗闇の向こう。
人影が立っている。
細い肩。
白いシャツ。
黒い髪。
見慣れた。
今、自分が借りているはずの姿。
碇シンジがこちらを見ていた。
『じゃあ、どうして入ったの?』
最上イズモは答えない。
シンジの姿をした何かが、一歩近づく。
『碇シンジを演じて』
また一歩。
『みんなを騙して』
近づく。
『その身体で暮らして』
赤い非常灯が消える。
最後の光が消える直前。
シンジの顔だけが見えた。
『ねえ』
暗闇。
『あなたは誰?』
その問いに。
最上イズモは、すぐには答えられなかった。
最上イズモ「あんたレリエルだろ? 人間の精神構造を測ろうとしてる」
暗闇の中で、碇シンジの姿をした何かが止まった。
返事はない。
ただ、その輪郭だけが少し揺れる。
水面に映った人影へ、小石を落とした時みたいに。
『知ってるんだ』
最上イズモ「ある程度は」
『僕のことも?』
最上イズモ「それは違う」
即答した。
目の前にいるものが一瞬、瞬きを忘れたように見える。
最上イズモ「知ってるのはレリエルという存在についての情報だ。今ここで何を考えて、何を見てるかまでは知らない」
『でも、名前は知っている』
最上イズモ「名前と人格は別だろ」
沈黙。
暗闇に床はない。
なのに、シンジの姿をした何かは確かにそこへ立っている。
イズモも立っている。
それが物理なのか、精神の側がそう解釈しているだけなのかは分からない。
『じゃあ』
シンジが首を傾ける。
『僕は誰?』
最上イズモ「その質問には答えない」
『分からないから?』
最上イズモ「違う」
一歩。
イズモは近づいた。
距離が縮む。
逃げる気配はない。
最上イズモ「こっちに答えを作らせたいだけだろ」
『どうして?』
最上イズモ「言葉にした瞬間、それを基準に次の質問を組めるから」
黒い空間の奥で、何かが動いた。
光ではない。
景色でもない。
記憶の断片。
葛城ミサトの部屋。
食卓。
三人分の食器。
アスカの声。
『あんた、人と暮らすの慣れてるわけじゃないでしょ』
朝の光景が浮かぶ。
イズモは視線だけを向けた。
最上イズモ「なるほど」
『何が?』
最上イズモ「質問じゃなく記憶から反応を見る方式か」
映像が切り替わる。
エントリープラグ。
赤木リツコ。
『あなた何者?』
最上イズモ「同じところばっかり突くな」
『答えてないから』
最上イズモ「答えが一個だと思ってる?」
シンジの顔が、わずかに動いた。
最上イズモ「名前、役割、所属、身体、記憶、選択。人間一人でも定義なんていくらでもある」
『逃げてる』
最上イズモ「分類を拒否してる」
『同じだよ』
最上イズモ「違う」
声が少し低くなる。
最上イズモ「分からないものを分からないまま置くのと、怖いから見ないのは違う」
暗闇が波打った。
次の景色。
ネルフ。
初号機。
その中に座る自分。
碇シンジの身体。
『じゃあこれは?』
イズモは見上げる。
『あなたの身体じゃない』
最上イズモ「そうだな」
『あなたの家じゃない』
最上イズモ「そうだな」
『あなたの学校じゃない』
最上イズモ「そうだな」
『あなたの友達じゃない』
一拍。
最上イズモ「そこは勝手に決めるな」
空間が止まる。
『違うの?』
最上イズモ「少なくとも、こっちがそう思う可能性は残ってる」
『でもあなたは碇シンジじゃない』
最上イズモ「知ってる」
『なのに』
アスカ。
ミサト。
レイ。
トウジ。
ケンスケ。
加持。
リツコ。
人の姿が周囲へ浮かんでいく。
『この人たちは、碇シンジに向けて話している』
最上イズモ「最初はな」
『今は?』
イズモは黙った。
景色が近づく。
アスカの声。
『前より、なんか馴染んでるわよね。あんた』
ミサト。
『シンジくんさ、こういうの妙に得意よね』
リツコ。
『次に同じことが起きたら、私はまたあなたの判断を使う』
加持。
『シンジ君』
名前は全部同じ。
碇シンジ。
なのに。
向けられている視線は、最初とはもう違う。
『あなたに向いてる』
レリエルの声が近くなる。
『碇シンジじゃなく』
『最上イズモに』
イズモの喉がわずかに動いた。
最上イズモ「……そうかもな」
『嬉しい?』
最上イズモ「分からない」
『怖い?』
最上イズモ「それもある」
『どうして?』
今度はすぐに返さなかった。
暗闇の中で、自分の手を見る。
十四歳の少年の手。
細い指。
この身体で何度も武器を握った。
食器も持った。
ノートも書いた。
アスカの荷物も支えた。
最上イズモ「戻った時に残るからだ」
『何が?』
最上イズモ「関係が」
声が少しだけ掠れた。
最上イズモ「身体は返せる。立場も返せる。名前だって返せる」
息を吐く。
最上イズモ「でも、人との関係まで元通りに戻せるとは限らない」
レリエルは黙る。
最上イズモ「俺がここで何かを選ぶたび、その結果は碇シンジの人生にも残る」
『それが嫌?』
最上イズモ「怖い」
初めて、はっきり言った。
暗闇の中で、その一言だけが妙に長く残った。
『失敗するのが?』
最上イズモ「違う」
『嫌われるのが?』
最上イズモ「違う」
『じゃあ』
イズモは目を閉じる。
最上イズモ「奪うことだよ」
声が落ちた。
最上イズモ「本人が戻った時、自分の居場所が別人の形に変わってたらどうする」
アスカの笑い声。
ミサトの食卓。
リツコの視線。
レイの静かな声。
全部が一瞬だけ遠くなる。
最上イズモ「俺が上手くやればやるほど、あいつが帰りづらくなる可能性だってある」
『だから演じる?』
最上イズモ「最初はそのつもりだった」
『今は?』
また。
止まる。
最上イズモ「……演じきれてないな」
シンジの姿をしたレリエルが近づく。
もう腕を伸ばせば届く距離だった。
『じゃあ』
顔が同じ高さに来る。
『あなたは誰?』
最上イズモ「またそれか」
『答えが変わったから』
イズモは目を細める。
否定できなかった。
以前なら言えた。
最上イズモ。
それだけで終わった。
今は、それだけでは説明できない。
だが。
そこで、ふと思う。
説明できないからといって、消えるわけではない。
名前が揺れても。
役割が混ざっても。
身体が違っても。
選んだものは残っている。
朝、コップを少しずらした。
アスカを引き上げた。
二機を巻き込まないために手を離した。
怖くても。
分からなくても。
その時ごとに選んだ。
最上イズモは顔を上げる。
最上イズモ「今ここで選んでるやつだよ」
レリエルが止まった。
最上イズモ「それ以上でも、それ以下でもない」
『名前は?』
最上イズモ「必要なら最上イズモ」
『身体は?』
最上イズモ「碇シンジから借りてる」
『役割は?』
最上イズモ「状況次第」
『所属は?』
最上イズモ「今はネルフ」
『本当のあなたは?』
イズモは少しだけ笑った。
最上イズモ「質問が雑になってるぞ」
初めて。
レリエルの姿が崩れた。
シンジの顔が縦に割れる。
その奥に黒。
さらにその奥に、無数の白い線。
人間の神経網みたいに伸び、分岐し、絡まり合っている。
『測れない』
声が重なる。
一人ではない。
何十もの声。
『固定できない』
『矛盾している』
『不完全』
最上イズモ「人間なんてそんなもんだろ」
『矛盾は不安定』
最上イズモ「安定するために全部同じにする方が危ない」
白い線が震える。
『境界は孤独を作る』
最上イズモ「境界があるから隣に立てる」
『完全には分かり合えない』
最上イズモ「それでいい」
答えた瞬間。
暗闇の奥から、巨大な圧が来た。
頭蓋の内側を直接押される。
記憶。
感情。
恐怖。
喜び。
知られたくないもの。
まだ自分でも名前を付けていないもの。
全部を一度に開かせようとする圧。
イズモの膝が落ちる。
最上イズモ「っ……!」
『理解する』
『すべて』
『あなたを』
最上イズモ「それは……理解じゃない」
手を地面らしきものへつく。
冷たい感触はない。
それでも立つ。
最上イズモ「解析だ」
『違いは?』
息を吸う。
痛い。
頭の奥が焼ける。
それでも。
最上イズモ「理解するなら、相手に閉じる自由を残せ」
圧が止まる。
ほんの一瞬だけ。
最上イズモ「全部開かせて読んだ結果を、理解なんて呼ぶな」
黒い世界に亀裂が走った。
『なぜ』
最上イズモ「嫌だからだよ」
『非合理』
最上イズモ「人間だもの」
亀裂が増える。
遠くで何かが聞こえた。
ノイズ。
通信。
声。
『――ジ!』
イズモが顔を上げる。
『――シンジ! 聞こえる!?』
ミサト。
遠い。
だが確かに外側から来ている。
別の声が重なる。
『シンジ! 返事しなさいよ!』
アスカ。
イズモの口元がわずかに動く。
最上イズモ「ほら」
『何』
最上イズモ「外にまだ俺を呼ぶやつがいる」
『碇シンジと呼んでいる』
最上イズモ「それでもいい」
立ち上がる。
最上イズモ「帰ってから訂正するかどうかは、俺が選ぶ」
暗闇が大きく揺れた。
レリエルの声が、初めて遠ざかる。
『あなたは』
『分からない』
最上イズモ「奇遇だな」
イズモは前を見る。
最上イズモ「俺もだよ」