碇シンジと最上イズモ 他人を演じるということ 作:最上 イズモ
暗闇は消えなかった。
ただ、さっきまで目の前にいた碇シンジの姿だけが、ゆっくりと輪郭を失っていく。
最上イズモ「……終わりか?」
返事はない。
代わりに。
風が吹いた。
イズモは顔を上げる。
あり得ない。
ここには空気の流れなどない。
初号機ごとレリエルの内部へ呑み込まれ、外界との接続もほとんど断たれている。
なのに。
頬を撫でる。
湿り気を帯びた、柔らかな風。
足元に色が戻る。
黒一色だった空間へ、草が広がっていく。
木。
青空。
遠くの建物。
知らない景色。
最上イズモ「……記憶か」
『誰の?』
レリエルの声。
姿は見えない。
最上イズモ「俺のではない」
『なら』
木の下に、人が立っていた。
白い服。
長い髪。
女性。
背中しか見えない。
知らない。
見た覚えはない。
なのに。
心臓が跳ねた。
最上イズモ「……?」
一度。
大きく。
次の鼓動が速くなる。
喉が狭い。
指先が震える。
最上イズモ「待て」
一歩。
脚が前へ出た。
イズモは反射的に止める。
最上イズモ「今のは……」
『あなたが動いた』
最上イズモ「違う」
『あなたの脚』
最上イズモ「身体はな」
女性が振り返った。
柔らかな顔。
静かな笑み。
その瞬間。
視界が滲んだ。
最上イズモ「……は?」
頬を何かが流れる。
手を当てる。
濡れていた。
涙。
最上イズモ「なんで」
悲しいと思っていない。
懐かしいとも思っていない。
会いたかった記憶もない。
それでも。
次から次へと涙が落ちる。
『知らないの?』
最上イズモ「知らない」
『でも泣いてる』
最上イズモ「俺の感情じゃない」
『あなたの脳』
頭の奥が熱くなる。
『あなたの神経』
胸が締めつけられる。
『あなたの心臓』
鼓動が速くなる。
『全部、今はあなたとつながっている』
最上イズモ「だからって、俺のものになるわけじゃない」
女性が近づく。
そのたびに身体が反応する。
逃げない。
むしろ。
近づきたがっている。
『この身体は知っている』
女性の唇が動く。
声。
『シンジ』
イズモの呼吸が止まった。
膝から力が抜ける。
最上イズモ「っ……」
知らない声。
初めて聞いた。
なのに。
身体の奥だけが知っている。
ずっと昔から知っていたかのように。
安心。
喪失。
寂しさ。
触れてほしいという衝動。
全部が、意味になる前に流れ込んでくる。
最上イズモ「……やめろ」
『どうして?』
最上イズモ「その言葉は俺に向けられたものじゃない」
『でも、あなたが聞いている』
最上イズモ「借りてるだけだ」
『本当に?』
景色が揺れる。
ミサト。
アスカ。
レイ。
学校。
食卓。
初号機。
『この身体で暮らした』
最上イズモ「そうだ」
『この身体で戦った』
最上イズモ「そうだ」
『この身体で笑った』
イズモは黙る。
『碇シンジの人生へ、あなたの選択が残っている』
最上イズモ「……分かってる」
『なら』
女性が手を伸ばす。
『この身体は、まだただの借り物?』
答えられない。
少なくとも。
簡単には。
身体は借りている。
それは変わらない。
だが。
この身体で積み上げた時間まで、借り物という言葉一つで切っていいのか。
分からない。
最上イズモ「……だから返すんだよ」
声が掠れる。
『なぜ?』
最上イズモ「本人がいるからだ」
涙を拭う。
最上イズモ「碇シンジは死んでない」
景色が一瞬止まる。
最上イズモ「どこかにいる」
『確認できない』
最上イズモ「それでも」
拳を握る。
最上イズモ「生きてる可能性があるなら探す」
『もし戻らなかったら?』
最上イズモ「探し続ける」
『永遠に?』
最上イズモ「そこまでは約束できない」
レリエルの声が止まる。
イズモは息を吐いた。
最上イズモ「でも、俺が勝手に諦めていい話じゃない」
女性の姿が揺れる。
木々も。
空も。
すべてが黒へ戻り始めた。
『あなたは』
声が重なる。
『碇シンジではない』
最上イズモ「知ってる」
『なら、なぜ守る?』
最上イズモ「本人に返すため」
『その身体を?』
最上イズモ「それも」
一拍。
最上イズモ「人生も」
暗闇。
完全な黒。
女性も消えた。
イズモは一人になる。
涙だけが残っている。
最上イズモ「……今のが碇ユイの記憶か」
『名前を知っている』
最上イズモ「ある程度はな」
『あなたは彼女を知らない』
最上イズモ「知らない」
『彼女もあなたを知らない』
最上イズモ「当然だろ」
その瞬間。
何かが変わった。
イズモが顔を上げる。
レリエルではない。
さっきまでとは違う。
暗闇のさらに奥。
もっと深い場所。
初号機との接続方向。
そこから。
誰かに見られている。
最上イズモ「……?」
『何』
レリエルの声にも変化が生まれる。
『これは』
空間が歪んだ。
イズモは動かない。
動けない。
だが。
怖さはなかった。
さっきの記憶とは違う。
押しつけてこない。
読み取ろうともしてこない。
ただ。
そこにいる。
暗闇の中へ。
女性の姿が浮かんだ。
同じ顔。
同じ髪。
同じ輪郭。
それでも。
イズモには分かった。
最上イズモ「……違う」
『何が?』
最上イズモ「さっきのじゃない」
レリエルが沈黙する。
女性はこちらを見ている。
そして。
口を開いた。
碇ユイ「……あなたなのね」
イズモの呼吸が止まった。
最上イズモ「……え?」
名前を呼ばれない。
シンジとも。
イズモとも。
女性はただ、こちらを見ていた。
碇ユイ「この子を、帰そうとしてくれている人」
何も言えなかった。
頭の中で。
何かが完全に止まった。
最上イズモ「……分かるんですか」
碇ユイ「ええ」
即答だった。
最上イズモ「俺がシンジじゃないことも」
碇ユイ「ええ」
最上イズモ「本人が別の場所にいることも?」
そこで。
ユイはわずかに目を伏せた。
碇ユイ「そこまでは、私にも分からない」
イズモは息を吐いた。
妙に安心した。
分からないことを。
分からないと言った。
最上イズモ「……そうですか」
碇ユイ「でも」
視線が戻る。
碇ユイ「あなたが、この子の場所を自分のものにしようとしていないことは分かる」
胸の奥が詰まった。
最上イズモ「そんなの」
声がうまく出ない。
最上イズモ「当然でしょう」
ユイが少し笑う。
碇ユイ「そうね」
責めない。
褒めもしない。
ただ。
確認するような声だった。
碇ユイ「アスカを助けたのも」
イズモの目が動く。
碇ユイ「レイを下がらせたのも」
最上イズモ「見えてたんですか」
碇ユイ「少しだけ」
最上イズモ「……なら」
イズモは一歩近づく。
最上イズモ「シンジが戻ってきたら」
言葉を選ぶ。
最上イズモ「俺がここで変えたものを、どうすればいいと思いますか」
ユイはすぐには答えなかった。
長い沈黙。
そして。
碇ユイ「あなたが決めることではないと思う」
イズモの目が少し開く。
碇ユイ「シンジが決めること」
胸の奥へ。
静かに落ちた。
最上イズモ「……なるほど」
その時。
空間が激しく揺れた。
『接触を停止』
レリエル。
白い線が無数に走る。
『対象外情報』
『遮断』
『排除』
ユイの姿へ黒いものが伸びる。
イズモが反射的に前へ出た。
最上イズモ「待て!」
だが。
ユイは動かなかった。
黒い線を見る。
その表情から。
柔らかさが消える。
『排除する』
最上イズモ「ユイさん」
碇ユイ「大丈夫」
声だけは静かだった。
碇ユイ「あなたは、この子を帰そうとしている」
黒い線が迫る。
碇ユイ「なら」
初号機の奥から。
音がした。
低い。
巨大な。
身体の芯を揺らす音。
最上イズモ「……これは」
咆哮。
レリエルの世界全体が震えた。
『外部干渉』
『違う』
『内部』
黒い線が千切れる。
ユイの髪が、存在しない風に揺れる。
碇ユイ「あなたを、ここで失わせるわけにはいかない」
最上イズモ「待って」
もう一度。
轟音。
黒い世界へ亀裂が走る。
最上イズモ「これ」
亀裂の向こう。
紫色の巨大な指が突き出す。
掴む。
黒い空間そのものを。
レリエルの声が初めて乱れた。
『停止』
『制御不能』
『何故』
イズモはユイを見る。
碇ユイはもう何も言わなかった。
ただ。
ほんの少しだけ。
笑った。
そして消える。
最上イズモ「……ああ」
イズモはようやく理解した。
最上イズモ「そういうことか」
世界が裂ける。
初号機の腕が。
内側から。
レリエルを引き裂き始める。
『これはあなたではない』
最上イズモ「そうだよ」
神経接続の向こうから。
巨大な力が流れ込んでくる。
だが。
操縦入力は一つも入れていない。
最上イズモ「俺じゃない」
レリエルの悲鳴。
黒い空間が崩壊する。
最上イズモは。
その向こうに消えた女性がいた場所を一度だけ見た。
最上イズモ「……ありがとうございます」
返事はない。
代わりに。
初号機が咆哮した。
最上イズモ「ただ」
次の瞬間。
両腕へ凄まじい感覚が返ってくる。
何かを掴んだ。
裂いている。
最上イズモ「っ痛……!」
さらに。
引き裂く。
最上イズモ「いや待って!」
止まらない。
最上イズモ「助けてくれるのはありがたいんですけど!」
咆哮。
最上イズモ「感覚共有まで必要ですか!?」
返事はない。
レリエルの世界が。
内側から。
完全に崩れ始めた。
最上イズモ「……ですよね!」
そして。
今度こそ。
使徒の悲鳴が響いた。