碇シンジと最上イズモ 他人を演じるということ 作:最上 イズモ
誰も答えなかった。
ノイズだけが回線の中を流れている。
最上イズモ『……もしもし?』
葛城ミサト「聞こえてる」
ようやく返った声は、妙に硬かった。
最上イズモ『ならよかった』
葛城ミサト「よくない」
即答。
イズモは目を瞬いた。
最上イズモ『どっち』
葛城ミサト「生きてるのはよかった。今の話は全然よくない」
発令所では、リツコがモニターから目を離していた。
正確には。
別の場所を見ている。
司令席。
碇ゲンドウ。
冬月コウゾウ。
二人とも何も言わない。
だが。
黙り方が違った。
葛城ミサト「とりあえず帰投。話はそれから」
最上イズモ『了解』
惣流・アスカ・ラングレー『ちょっと待って』
アスカの声が割り込む。
葛城ミサト「アスカ?」
惣流・アスカ・ラングレー『シンジ』
最上イズモ『はい』
惣流・アスカ・ラングレー『……あんた』
そこで止まる。
さっきまで怒鳴っていた声ではない。
惣流・アスカ・ラングレー『本当に大丈夫なの?』
イズモは少し黙った。
頭が痛い。
全身が重い。
涙の跡がまだ頬に残っている。
知らない女性に呼ばれた感覚も。
身体が勝手に動きかけた感覚も。
全部残っている。
最上イズモ『分からない』
アスカの呼吸が止まった。
最上イズモ『だから帰って確認する』
惣流・アスカ・ラングレー『……そう』
短い。
それ以上は言わなかった。
*
エントリープラグが排出された。
ハッチが開く。
冷たい空気。
LCLの匂い。
イズモは縁へ手をかけた。
腕に力が入らない。
立とうとして。
膝が折れた。
整備員「危ない!」
支えられる。
最上イズモ「すみません」
整備員「無理しないでください」
最上イズモ「無理してるつもりは」
葛城ミサト「してる人は大体そう言うの」
聞き慣れた声。
顔を上げる。
ミサトが立っていた。
その後ろ。
アスカ。
レイ。
リツコ。
全員いる。
最上イズモ「……出迎え多くないですか」
惣流・アスカ・ラングレー「うるさい」
最上イズモ「はい」
惣流・アスカ・ラングレー「あと」
一歩近づく。
拳。
イズモは反射的に少し身構えた。
だが。
殴られなかった。
アスカの手が、肩を掴む。
惣流・アスカ・ラングレー「勝手に手離すんじゃないわよ」
声が低い。
最上イズモ「二機巻き込むより」
惣流・アスカ・ラングレー「それは分かってる!」
指に力が入る。
惣流・アスカ・ラングレー「分かってるけど!」
そこで止まった。
続きが出ない。
イズモも何も言わなかった。
数秒。
アスカが手を離す。
惣流・アスカ・ラングレー「……バカ」
最上イズモ「はい」
惣流・アスカ・ラングレー「そこ肯定すんな!」
少しだけ。
いつもの声に戻った。
そのことに、イズモは小さく息を吐いた。
だが。
リツコは笑っていない。
赤木リツコ「医務室へ」
最上イズモ「その前に確認したいことが」
赤木リツコ「医務室」
最上イズモ「はい」
反論できる余地がなかった。
*
白い天井。
心電図。
脳波。
血圧。
採血。
いくつものセンサーが身体へ貼り付けられる。
イズモはベッドに横になったまま、天井を見ていた。
最上イズモ「身体的には?」
赤木リツコ「軽度の神経疲労。脱水。ストレス反応。同期後負荷としては重いけど、生命に関わる値ではない」
最上イズモ「じゃあ大丈夫」
赤木リツコ「大丈夫ではない」
最上イズモ「今日二回目だ」
赤木リツコ「便利な言葉だと思わないことね」
リツコは端末を閉じる。
その顔が。
まだ硬い。
最上イズモ「……碇ユイ」
空気が止まった。
やはり。
名前そのものが地雷だ。
最上イズモ「実在人物ですね」
赤木リツコ「どうしてそう思うの」
最上イズモ「反応」
リツコの眉がわずかに動く。
最上イズモ「発令所全体が止まった。特にあなたと司令と副司令」
赤木リツコ「よく見てるわね」
最上イズモ「見える範囲は」
赤木リツコは椅子を引いた。
座る。
すぐには話さない。
最上イズモ「言えないなら無理には聞かない」
赤木リツコ「……そういうところが面倒なのよ」
最上イズモ「なんで」
赤木リツコ「普通なら聞くところよ」
最上イズモ「聞いて答えられないなら意味ないだろ」
リツコが小さく息を吐く。
赤木リツコ「碇ユイ博士」
イズモの視線が動く。
赤木リツコ「初号機の開発に深く関わった人物」
短い。
必要最低限。
最上イズモ「碇」
そこで繋がる。
最上イズモ「シンジの母親」
リツコは否定しなかった。
イズモの喉がゆっくり動く。
最上イズモ「……なるほど」
それだけ。
だが。
胸の奥がまた痛んだ。
理由を知ったからではない。
身体が。
名前へ反応している。
最上イズモ「これ」
右手を胸へ置く。
赤木リツコ「何?」
最上イズモ「まただ」
赤木リツコ「何が」
最上イズモ「感情が先に出る」
リツコの目が鋭くなる。
最上イズモ「頭では今聞いたばかりなのに」
心拍数が少し上がる。
モニターの電子音が速くなる。
最上イズモ「身体だけ、前から知ってる」
赤木リツコ「……身体記憶」
最上イズモ「それだけ?」
赤木リツコ「断定できない」
最上イズモ「ですよね」
リツコは画面を確認する。
脳波。
自律神経。
ホルモン値。
どれも単純には説明できない。
赤木リツコ「問題はそこじゃない」
最上イズモ「他にも?」
赤木リツコ「あるわ」
端末がこちらへ向けられる。
初号機のログ。
活動限界後。
電源ゼロ。
操作入力ゼロ。
それでも続く運動。
最上イズモ「……本当に俺の入力ないな」
赤木リツコ「ない」
最上イズモ「同期は?」
赤木リツコ「維持されていた」
最上イズモ「つまり」
言葉を選ぶ。
最上イズモ「俺が初号機を動かしてないのに、初号機が動いて、その感覚だけ俺に返ってきた」
赤木リツコ「そう」
最上イズモ「最悪ですね」
赤木リツコ「そこ?」
最上イズモ「痛かったので」
リツコが額を押さえる。
赤木リツコ「あなたね……」
その時。
医務室の扉が開いた。
葛城ミサト「入るわよ」
惣流・アスカ・ラングレー「もう入ってるじゃない」
後ろからアスカ。
さらにレイ。
三人。
最上イズモ「面会時間?」
葛城ミサト「監視」
最上イズモ「信用ないな」
惣流・アスカ・ラングレー「あると思ってたの?」
最上イズモ「少し」
惣流・アスカ・ラングレー「図々しい」
だが。
アスカはベッドの横へ来る。
いつもより近い。
最上イズモ「……アスカ」
惣流・アスカ・ラングレー「何」
最上イズモ「さっきは悪かった」
惣流・アスカ・ラングレー「何が」
最上イズモ「手を離した」
アスカが黙る。
惣流・アスカ・ラングレー「結果だけ見れば正解だった」
最上イズモ「でも怖かっただろ」
アスカの目が少し開く。
ミサトも。
リツコも。
レイも。
イズモは続ける。
最上イズモ「こっちは落ちる側だったからやることがあった。でも残された側は何もできない」
アスカの視線が下がる。
最上イズモ「だから」
惣流・アスカ・ラングレー「……もういい」
最上イズモ「はい」
惣流・アスカ・ラングレー「次は」
一拍。
惣流・アスカ・ラングレー「勝手に決める前に、一秒くらい相談しなさい」
最上イズモ「できる状況なら」
惣流・アスカ・ラングレー「そこで条件つける!?」
最上イズモ「守れない約束したくないので」
惣流・アスカ・ラングレー「腹立つ!」
ミサトが笑う。
短い。
疲れた笑い。
その隣。
レイだけが。
イズモを見ていた。
綾波レイ「碇君」
最上イズモ「はい」
綾波レイ「中で」
間。
綾波レイ「お母さんを見たの?」
部屋の空気が。
また止まった。
イズモは少し考える。
最上イズモ「そう見えた」
綾波レイ「そう」
それだけ。
だが。
レイの顔に。
ほんの一瞬。
何かが通った。
イズモには読み取れなかった。
疑問。
痛み。
懐かしさ。
そのどれでもあり得る。
綾波レイ「どんな人だった?」
今度こそ。
リツコが息を止めた。
イズモはレイを見る。
最上イズモ「……優しそうだった」
綾波レイ「そう」
また。
同じ返事。
なのに。
今度は少し違った。
レイは視線を落とす。
自分の手を見る。
最上イズモはその様子を見て。
胸の奥に。
また別の違和感が生まれる。
碇ユイ。
初号機。
綾波レイ。
碇ゲンドウ。
何かが繋がっている。
だが。
まだ線を引くには情報が足りない。
最上イズモ「……今は考えない方がいいな」
赤木リツコ「賢明ね」
葛城ミサト「珍しく素直」
惣流・アスカ・ラングレー「熱あるんじゃない?」
最上イズモ「正常です」
赤木リツコ「あなたの正常は信用しない」
最上イズモ「ひどい」
医務室に。
小さな笑いが落ちた。
それでも。
部屋の外。
観察窓の向こう。
誰にも見えない位置で。
碇ゲンドウは一人、足を止めていた。
ガラス越しに。
ベッドの上の少年を見る。
碇シンジの顔。
だが。
そこにいるのは。
シンジではない。
その少年が。
ユイを見た。
名前まで口にした。
ゲンドウの指が。
ほんのわずかに。
震えた。
冬月コウゾウ「……碇」
後ろから声。
ゲンドウは振り返らない。
冬月コウゾウ「どうする」
長い沈黙。
碇ゲンドウ「何もしない」
冬月コウゾウ「珍しいな」
碇ゲンドウ「今はな」
ガラスの向こう。
イズモがアスカに何か言い返している。
ミサトが笑う。
レイが静かに見ている。
その光景を。
ゲンドウは数秒だけ見続けた。
碇ゲンドウ「ユイが」
言葉が止まる。
やがて。
低く。
碇ゲンドウ「……あれを守ったのなら」
冬月は答えなかった。
答えられなかった。
ゲンドウも。
それ以上は何も言わない。
二人はただ。
医務室の向こうで生きている。
碇シンジの姿をした異物を。
しばらく。
見ていた。