碇シンジと最上イズモ 他人を演じるということ   作:最上 イズモ

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人との距離

最初に聞こえたのは、鳥の声ではなかった。

 

細く澄んだ電子音が、夢の縁を一度だけ叩く。柔らかい。だが遠慮はない。起きるべき時刻に、起きるべき人間を静かに起こすためだけに調整された音だった。

 

碇シンジは目を開ける。

 

天井は昨日と同じなのに、昨日より少しだけ現実に見えた。知らない場所のはずなのに、もう完全な異物ではない。異物ではないから安心できるわけでもない。その中間に、自分が押し込まれている感じがする。

 

薄いカーテンの向こうで、都市の朝が始まっていた。

 

朝、と呼んでいいのか迷う光だった。太陽光に似ている。けれど、似せてあるだけかもしれない。高層建築の側面を滑る淡い反射が、空そのものを人工的に整えているようにも見える。

 

シンジはしばらく起き上がらなかった。

 

昨日読んだログの一行が、まだ胸の内側に残っている。

 

あなたは失敗ではない。

 

他人に言われたのに、自分の内側から聞こえてきたみたいな言葉だった。救われた、とは違う。むしろ困った。今まで自分の中で曖昧に濁してきた場所へ、まっすぐ灯りを当てられた感じがする。

 

ベッド脇の端末が、すでに起動していた。

 

昨日閉じたページの続きが、何も要求せずに開かれている。読むかどうかは委ねるのに、逃げ道の先に必ず置いてある。その配置が、妙にイズモらしい気がした。顔も知らないのに、そんなことを思う自分がおかしい。

 

身体を起こす。

 

やはり違う。肩の位置、腰の重さ、脚を下ろす角度。寝起きの癖まで噛み合わない。立ち上がる前に一度、自分の手を見る。昨日ほどの衝撃はない。代わりに、もうこれを一時的な悪夢として切れない現実感がある。

 

扉の方で気配がした。

 

振り向くより先に、KAEDEの声が入る。

 

KAEDE「おはようございます」

 

相変わらず、音量も速度も過不足がない。驚かせない。だが、起きたことを見逃しもしない。

 

シンジは少しだけ喉を鳴らした。

 

碇シンジ「……おはよう」

 

返した声が、まだこの身体の声に馴染まない。

 

KAEDEは部屋の中央までは入ってこない。いつでも必要な距離にいるのに、踏み込みすぎない位置取りだった。

 

KAEDE「睡眠の質は中程度でした。悪夢は軽度。回復率は想定範囲内です」

 

碇シンジ「見てたの」

 

KAEDE「生体情報のみです」

 

それが見ていたうちに入るのかどうか、シンジにはよくわからない。けれど、覗き見された嫌悪感よりも、先に別の感情が浮かぶ。

 

ひどく管理されている。

 

そして同時に、ひどく守られている。

 

この二つが同時に成り立つ世界に、まだ慣れない。

 

KAEDE「朝食を用意しています。食事の前に記録閲覧を継続しても構いません」

 

選択肢が出される。

 

命令ではない。だが、何を選んでも次の段が用意されている感じがする。

 

シンジはベッドから立ち上がり、端末へ手を伸ばした。自分でも、先に読むことを選ぶとは思わなかった。腹は減っている。けれど、空腹より先に気になる言葉がそこにある。

 

画面に触れる。

 

昨日の続きが開く。

 

『自己認識が揺れた時、人は役割名に逃げやすい』

 

『司令、艦長、技術責任者、観測者。そういう肩書は便利だが、自分を説明した気になって終わる』

 

『だから、まず選択を辿れ。何を怖がって、何を切らずに残したか。それが人格の輪郭になる』

 

シンジの指が止まる。

 

文字は硬い。やさしい言い方ではない。慰めるために書かれていない。なのに、やさしさより先に伝わるものがある。逃げ道の形まで見越して、先回りで潰している。

 

昨日から、ずっとそうだ。

 

KAEDEも。ログも。この世界そのものも。先に気づいて、先に処理して、こちらが言葉にできないことを先に置く。

 

それが少し怖い。

 

碇シンジ「……この人、いつもこうなの」

 

KAEDE「かなり」

 

碇シンジ「かなり、って」

 

KAEDE「もっと硬い時もあります」

 

その返答だけ、わずかに人間味があった。

 

シンジは顔を上げる。

 

KAEDEの表情はほとんど変わっていない。それでも今の一言には、単なる事務ではない温度が混じっていた。親しみとまでは言えない。だが、長く見てきた相手に対する理解の色だ。

 

碇シンジ「……君、その人のこと、好きなんだ」

 

言ってから、自分でも何を聞いているんだと思った。

 

KAEDEは否定も肯定もすぐにはしなかった。

 

KAEDE「重要な相手です」

 

その表現は曖昧なくせに、曖昧さの中に逃げていない。

 

シンジは画面へ視線を戻す。

 

自分には、そういうふうに言える相手がいただろうかと一瞬考える。ミサト。綾波。トウジ。ケンスケ。父さん。どれも違う気がして、胸の奥に小さな空白だけが残る。

 

端末を進める。

 

『もし今これを読んでいるのが別人なら、次に確認してほしいことがある』

 

『KAEDEを敵だと思う必要はない。ただし、万能だとも思うな』

 

シンジは思わず顔をしかめる。

 

昨日、まさにそう思いかけた。見抜く。処理する。守る。速すぎる。何でもできそうに見える。そういう相手に対して、人はすぐ依存するか、逆に全部を怖がるかのどちらかに寄る。

 

ログはそこまで見越していた。

 

『あれは勝手に全部解決しない。解決できても、本人の領域へ踏み込みすぎないよう自分で止まる』

 

『その制約を軽いと思うな。守れる強さは、突破する強さより珍しい』

 

シンジはその一文を二度読む。

 

守れる強さ。

 

奇妙だった。強さといえば、戦うこと、耐えること、押し切ること、そういう形でしか考えてこなかった。守るために止まることが強さだと言われると、自分の知っている世界と何もかもずれて見える。

 

KAEDE「食事を先にしますか」

 

碇シンジ「……いや、もう少し」

 

KAEDE「了解しました」

 

急かさない。

 

待つことに慣れている返答だった。

 

シンジは続きを読む。

 

『俺がいない状態で業務に直結すると、大抵ろくなことにならない』

 

『本人に悪意がなくても、期待が向いた時点で人は役割を求めてくる』

 

『だから初動は切れ。止まれ。休め。訳がわからないまま善意に応じるな』

 

そこまで読んだ瞬間、シンジは小さく息を止めた。

 

善意に応じるな。

 

その言い方は少し冷たい。でも、わかる気がした。相手が優しいから断れない。期待されているから引けない。頼られたから動いてしまう。そうやってどこまでも押し出される感覚を、シンジも知っている。

 

違う世界のはずなのに、その一行だけはひどく近い。

 

碇シンジ「……この人も、そういうの苦手なんだ」

 

KAEDE「苦手というより、理解して距離を取ります」

 

碇シンジ「同じじゃないの」

 

KAEDE「似ていますが、違います」

 

KAEDEの声はいつも通り平坦なのに、そこだけは少しだけ訂正の意志が強かった。

 

KAEDE「最上イズモは善意を嫌っていません。善意が圧力へ変わる構造を警戒しています」

 

その言葉が落ちた瞬間、シンジは端末から目を離した。

 

圧力。

 

優しさが、期待が、役割が、気づけば押し付けに変わる。その感覚は、説明されるより先に身体が知っている。父親の命令とも、学校の空気とも、少しずつ違う形で。

 

知らない誰かの世界で、知らない誰かの言葉が、自分の痛い場所だけ正確に触ってくる。

 

それが腹立たしくて、少しだけ救いだった。

 

KAEDE「朝食を再提案します」

 

碇シンジ「……うん」

 

端末を閉じる。

 

食事スペースは、昨日まで壁だった部分が開くことで現れた。テーブルは広すぎない。椅子は二脚あるのに、向かい合う圧を感じない配置になっている。窓の外には朝の都市。食器は白く薄く、どれも軽そうなのに安っぽくない。

 

出された料理は簡素だった。スープ、パン、卵料理、果物。見たことのない加工が入っていそうなのに、見た目は驚くほど普通だ。

 

シンジは席につき、少しだけ迷ってからスプーンを取る。

 

うまい。

 

特別ではない。でも、身体に余計な負担をかけない味がした。味覚で驚かせようとしない。機能と生活の間くらいの食事だ。

 

KAEDEは食べない。

 

立ったままではなく、少し離れた位置に静かにいる。

 

碇シンジ「君は食べないの」

 

KAEDE「必要ありません」

 

碇シンジ「……そう」

 

必要ありません、という言い方の冷たさより、そこに寂しさを感じてしまった自分の方が妙だった。

 

スープを口に運ぶ。温かい。胃がようやく起きてくる。空腹が遅れて輪郭を持ち、少しだけ現実に引き戻される。

 

碇シンジ「この人、普段どうしてるの」

 

KAEDE「どの範囲を指しますか」

 

碇シンジ「どの範囲って……生活とか」

 

KAEDE「起床、記録確認、通信処理、設計作業、会議、観測報告、現地判断、再設計、記録整理」

 

また、それだった。

 

並ぶ単語の密度が高すぎる。息をするみたいに多くの役割を回している人間の生活。シンジには想像が追いつかない。

 

碇シンジ「休まないの」

 

KAEDE「休ませています」

 

その答えに、シンジは少しだけ目を上げる。

 

KAEDE「私はそのためにもいます」

 

静かな断言だった。

 

補助であり、保護だと昨日言っていた。その意味が、少しだけ具体的になる。単なる秘書でも監視者でもない。過剰に動く相手を、止めるための存在でもあるのだ。

 

碇シンジ「……君、すごいんだね」

 

KAEDE「そう設計されています」

 

碇シンジはそこで、変に笑いそうになった。

 

褒めても謙遜しない。誇りもしない。ただ仕様として返す。それがおかしくて、けれど嫌ではなかった。むしろ、妙に楽だ。

 

パンをちぎる。

 

指先の動きが、まだ自分のものじゃない。けれど食事をしているうちに、この身体の使い方が少しずつ見えてくる。無駄な力を入れなくても安定する。長く座っても疲れにくい。背筋が自然に伸びる。整えられた身体だ。

 

この身体で生きるのは、きっと便利だ。

 

思った瞬間、喉の奥に鈍い引っかかりが生まれる。

 

便利だから、じゃない。

 

ここにいるのは、誰かの生活を借りているだけだ。

 

KAEDE「あなたが気に病む必要はありません」

 

また見抜かれた。

 

シンジは少しきつくスプーンを置く。

 

碇シンジ「……何でもわかるみたいに言うなよ」

 

声が少し強く出た。

 

部屋の空気がわずかに張る。けれどKAEDEは一歩も引かないし、一歩も詰めない。

 

KAEDE「失礼しました」

 

その謝罪に防御の色がなかった。

 

言い返されると思っていた。正しい分析をしただけだと返されると思っていた。なのに、先に引いたのはKAEDEの方だった。

 

シンジの中で、怒りの置き場が一瞬でなくなる。

 

碇シンジ「……いや」

 

謝るつもりはなかった。自分でも何に苛立ったのかわかっていない。ただ、わかられてしまうことそのものが苦しかっただけだ。

 

KAEDE「把握はしますが、決めつけは避けます」

 

碇シンジ「違いあるの、それ」

 

KAEDE「あります」

 

即答。

 

KAEDE「把握は、次の選択肢を誤らないためです。決めつけは、あなたの選択肢を奪います」

 

シンジは黙る。

 

その違いは、たぶん大きい。大きいのに、今まで何度も混ざってきた気がする。理解したつもりの言葉が、そのまま押し付けに変わることを、シンジは知っている。

 

でも今のKAEDEの言葉は、少なくともそこから一歩引こうとしていた。

 

食事を終える頃には、胃が落ち着いていた。

 

端末がテーブルの端へ自動で移動してくる。昨日見たのと同じものなのに、今はもう少しだけ手を伸ばしやすい。

 

KAEDE「本日の予定を提示します」

 

碇シンジ「予定」

 

KAEDE「緊急休暇中です。必須項目は少ない」

 

空中に淡い表示が現れる。

 

午前、安定化確認。記録閲覧継続。軽負荷環境適応。

午後、希望があれば居住区案内。低圧接触一件。拒否可能。

夜、自由時間。

 

文字列だけで眩暈がしそうになった。休暇なのに、完全に何もしなくていい時間ではない。だが過密でもない。ギリギリ耐えられる程度に整理されている。

 

碇シンジ「低圧接触って何」

 

KAEDE「人と会います」

 

碇シンジ「誰と」

 

KAEDE「現時点では伏せます」

 

シンジは顔をしかめた。

 

碇シンジ「なんで」

 

KAEDE「先入観で消耗する可能性があるためです」

 

理屈は通っている。でも、やられていることとしては少しずるい。

 

碇シンジ「じゃあ拒否する」

 

KAEDE「可能です」

 

さらりと返される。

 

逃げ道を塞いでいるようで、ちゃんと残してある。そのせいで、逆に即拒否しきれない。

 

シンジは椅子にもたれた。

 

碇シンジ「……居住区案内は」

 

KAEDE「希望しますか」

 

碇シンジ「見るだけなら」

 

KAEDE「了解しました」

 

そうして決まっていく。無理やりではない。だが、迷いの時間が長すぎない。選ばせ方に慣れている進め方だった。

 

食後、服が用意された。

 

昨日の寝間着とは違う。落ち着いた色味の、体に合った服。イズモの身体に合わせてあるのだから当然なのに、自分が袖を通すたび盗みをしている気分になる。鏡の前に立つと、そこには完全に知らない男がいる。若い。整っている。けれど、整っているからこそ自分の表情が浮いて見える。

 

KAEDE「視認負荷が高いようなら、鏡面表示を抑制します」

 

碇シンジ「……いや、いい」

 

逃げると余計に慣れない気がした。

 

居住区は静かだった。

 

静かすぎて、最初は誰もいないのかと思った。だが違う。人はいる。すれ違う。遠くで話し声もする。けれど、誰もが必要以上に他人の時間を食わない速度で動いている。

 

廊下は広い。採光が自然で、壁や床の材質も冷たすぎない。どこか艦内にも研究施設にも似ているのに、生活の場として整えられている。窓の向こうには都市の層が幾重にも見えた。歩行路の外を、小型の輸送機が音もなく滑る。

 

シンジは歩きながら、何度も視線を奪われた。

 

すごい、と思う前に疲れる。情報量が多いのに、どれも整いすぎていて、何に驚けばいいのか迷う。NERVの圧迫感とは別の意味で、人間一人の感覚に対して広すぎる世界だ。

 

碇シンジ「……みんな、ここで普通に暮らしてるの」

 

KAEDE「はい」

 

碇シンジ「普通、の基準おかしくならない?」

 

KAEDE「なります」

 

思わぬ即答に、シンジは少しだけ笑ってしまった。

 

KAEDE「そのため、意図的に生活密度を調整しています」

 

碇シンジ「生活密度」

 

KAEDE「過剰な選択肢、過剰な接触、過剰な期待を減らします」

 

また、その言葉だ。期待。

 

この世界には、期待が多いのだろう。技術も人も仕組みも整っている分、できることが多い。できることが多い場所ほど、できるはずだと見なされる圧も増える。

 

知らない世界なのに、その構造だけは嫌というほど理解できる。

 

通路の先で、一人の女性がこちらへ気づいた。

 

足を止める。こちらを二度見する。表情の奥で、確信と違和感がぶつかるのがわかった。

 

年上だ。落ち着いた服装。職員証らしきものが胸元にある。イズモを知っている人間だ。

 

シンジの背中がわずかに固くなる。

 

KAEDEが半歩だけ前へ出た。

 

それだけで、空気の流れが少し変わる。

 

女性は近づきすぎず、丁寧に頭を下げた。

 

女性「イズモさん。……おはようございます」

 

碇シンジ「あ……」

 

返事が遅れる。

 

その一拍で、もうわかる。この人はイズモの違和感に気づいている。少なくとも、いつもと違うことは察している。

 

女性の視線がほんのわずかに揺れた時、KAEDEが言う。

 

KAEDE「現在、緊急休暇中です。低負荷対応にご協力ください」

 

女性「……承知しました」

 

それで終わった。

 

追及も、世間話も、心配の押し売りもない。女性はもう一度だけ頭を下げて去っていく。気を遣われたのだとわかる。でも、蔑ろにされた感じはしない。

 

シンジはその背中を見送りながら、胸の奥で小さく息をつく。

 

碇シンジ「……助かった」

 

KAEDE「はい」

 

碇シンジ「今の人、気づいてたよね」

 

KAEDE「違和感は検出していました」

 

碇シンジ「なのに聞かないんだ」

 

KAEDE「聞くべきでない状況だと判断したのでしょう」

 

そういう文化なのか。そういう訓練なのか。どちらにせよ、シンジには奇妙だった。知らない相手に詮索されないことが、こんなに楽だとは思わなかった。

 

歩きながら、シンジはぽつりとこぼす。

 

碇シンジ「……ここ、やさしいね」

 

KAEDE「やさしさだけでは維持できません」

 

すぐ返ってくる。否定ではない。補足だ。

 

KAEDE「境界管理の結果です」

 

境界。

 

また知らない言葉ではないのに、ここではずいぶん違う意味で使われる。触れないこと。踏み込みすぎないこと。必要な距離を測ること。それを仕組みとして持っている世界。

 

羨ましいと思った瞬間、胸のどこかが少し痛んだ。

 

もし自分の世界にそれがあったら、と考える前にわかる。ない。少なくともNERVには。家庭にも。学校にも。どこにも、きれいな形ではなかった。

 

だから、この世界のやさしさは少し眩しすぎる。

 

そのまま歩いて、居住区の端にある小さな展望スペースへ出る。

 

都市が一望できた。

 

高層のレイヤーのさらに外側に、広大な構造体が見える。軌道エレベーターの一部みたいな巨大柱。空中を走るライン。遠方に浮かぶ、艦にも都市にも見えるシルエット。視界の端から端まで、人が作ったものなのに空を圧迫していない。

 

シンジは手すりに近づき、しばらく何も言えなかった。

 

圧倒される、というより、自分の小ささの測り方がわからなくなる。NERVでエヴァを見上げた時の怖さとも違う。こちらは恐怖より、距離感の喪失に近い。

 

碇シンジ「……イズモは、こんなの見て、平気なの」

 

KAEDE「平気ではありません」

 

意外な答えだった。

 

KAEDE「ただし、平気でない状態で動く訓練をしています」

 

シンジは手すりに置いた指へ力を入れる。

 

それは、少しわかる。怖くなくなるのではない。怖いまま、必要なことをする。自分にも、ほんの少しだけ覚えがある。エヴァに乗る前。乗った後。逃げたくて、それでも戻るしかなかった時の感覚。

 

知らない人間だと思っていた輪郭が、少しだけ近づく。

 

その時、KAEDEが静かに言った。

 

KAEDE「接触要請が一件あります」

 

碇シンジ「……さっきのやつ」

 

KAEDE「はい」

 

シンジは顔をしかめた。

 

断る、とすぐ言うつもりだった。なのに、ここまで歩いて少しだけ思う。この世界でイズモがどう扱われているのか、自分の目で見ておいた方がいいのではないかと。

 

それは好奇心というより、防衛に近かった。

 

碇シンジ「誰」

 

KAEDE「技術セクター所属。イズモの近しい協力者です」

 

近しい。

 

その単語だけで、シンジの腹の底が少し重くなる。よく知らない誰かが、自分の違和感に傷つくかもしれない。逆に、自分がその人との距離感を壊すかもしれない。

 

碇シンジ「……会いたくないって言ったら」

 

KAEDE「中止します」

 

逃げ道はある。

 

あるのに、シンジはすぐには使えなかった。

 

端末の一文が頭に残っている。

 

訳がわからないまま善意に応じるな。

 

でも今のこれは、応じることと、見に行くことのどちらだろう。

 

碇シンジ「……短くなら」

 

KAEDE「調整します」

 

返答が早い。だが、押し切られた感じはしない。

 

接触場所は、居住区に併設された小さなラウンジだった。

 

広くない。開放的すぎない。窓から光は入るが、逃げ場がないほど明るくもない。会話のために設計された空間だとすぐにわかる。

 

そのこと自体が少し怖い。

 

先に来ていたのは、二十代後半くらいの女性だった。

 

濃い色の髪を後ろでまとめ、機能的な服を着ている。研究者にも技術者にも見える。立ち上がった瞬間、彼女の顔に浮かんだ表情を、シンジはすぐに読み切れなかった。

 

安堵。

 

違和感。

 

そして、かなり強い心配。

 

彼女は一歩だけ近づきかけて、止まった。止まれる人だった。

 

女性「……イズモ」

 

呼び方に、説明されていない距離が滲んでいる。

 

シンジの喉が乾く。

 

どう返すべきかわからないまま、視線だけが揺れる。

 

KAEDEが間に入る。

 

KAEDE「低負荷対応を前提にしてください。現在、本人は不安定です」

 

女性はその言葉を聞いて、小さく息を吐いた。怒らない。問い詰めない。代わりに、自分の立ち位置を一段引き直す。

 

女性「……わかった」

 

それから彼女は、さっきより柔らかい声で言った。

 

女性「おはよう。顔色は、いつもより悪くない」

 

奇妙な挨拶だった。

 

普通なら「悪い」か「大丈夫?」が来るはずなのに、彼女は“いつもより悪くない”と言った。イズモが普段から無理をする人間だと知っている言い方だ。

 

シンジは一瞬だけ、少し楽になる。

 

完璧な人ではないのだと、他人の口からわかる。

 

碇シンジ「……おはよう」

 

女性はその一言だけで、さらに何かを察した顔をした。だがそれでも踏み込まない。

 

女性「今日は仕事の話はしない。KAEDEにも釘を刺されたし」

 

KAEDE「事実です」

 

女性がわずかに苦笑する。

 

そのやり取りを見て、シンジは少しだけ肩の力を抜く。ここで求められているのは“いつものイズモ”の再現ではないらしい。

 

女性「座ってもいい?」

 

自分の席なのに許可を取るような聞き方だった。

 

シンジは頷く。

 

三人が座る。KAEDEは少し離れた位置。女性は真正面ではなく、斜めの席を選んだ。視線がぶつかりすぎない配置。

 

それだけで、この世界の人間は本当に距離の取り方を学んでいるのだとわかる。

 

女性「……名前、言わない方がいい?」

 

その問いに、シンジは少し迷う。

 

知った方がいい気もする。けれど、知らない方が楽な気もする。

 

碇シンジ「……言って」

 

女性「綾音」

 

短い名乗りだった。

 

綾音。イズモがよく呼ぶ名前なのかもしれない。あるいは、そうでもないのかもしれない。何もわからないのに、その名前だけが静かに部屋へ置かれる。

 

綾音「今日は確認だけ。会えてるか、座れてるか、食べられてるか。それだけ見に来た」

 

碇シンジ「……それだけ?」

 

綾音「それだけ」

 

言い切る。

 

それが本当かどうか、今のシンジには判断できない。けれど少なくとも、いま彼女は嘘をついていないように見えた。

 

綾音「KAEDEが保護優先って言った時点で、こっちが勝手に聞きたいことは後回しにする」

 

その言葉で、シンジの中の緊張がまた少しだけ緩む。

 

聞きたいことはあるのだ。たくさん。なのに、この人はそれを止めている。

 

碇シンジ「……イズモって、どんな人」

 

聞いた瞬間、KAEDEの視線がわずかにこちらへ向いた。

 

綾音はすぐには答えなかった。考えている。軽い紹介ではなく、今の自分に届く形を選ぼうとしている沈黙だった。

 

綾音「雑に強い人じゃない」

 

最初の一文がそれだった。

 

綾音「整理が速い。判断も速い。でも、なんでも平気なわけじゃない。むしろ危ないと思ったものにはすごく敏感」

 

シンジは黙って聞く。

 

綾音「で、敏感だから先に線を引く。引き方がうまい時もあるし、冷たく見える時もある」

 

綾音の声に、責める色はない。ただ、長く見てきた人間だけが言える具体さがある。

 

綾音「でも、完全に切ってるわけじゃない。助ける時はちゃんと助ける。頼まれたら、かなり本気で動く」

 

その輪郭が、少しずつ立ち上がる。

 

便利な万能人間ではない。境界を引く。危なさに敏感。頼まれたら動く。ログの言葉とも繋がる。

 

綾音「たぶん、自分が壊れやすいことも知ってる」

 

その一言が、いちばん強く残った。

 

シンジは無意識に指先を握る。

 

他人の強さは、たいてい自分から遠い。けれど壊れやすさを知っている強さなら、少しだけわかる気がしてしまう。

 

綾音はそれ以上、きれいにまとめなかった。まとめないことで、かえって本当っぽくなる。

 

綾音「だから、今のあんたが全部できなくても、それで比較しなくていい」

 

シンジの視線が揺れる。

 

まただ。また、見抜かれる。

 

今日だけで何度目だろう。

 

怒る気力もなく、代わりに小さな疲れだけが胸へ落ちる。比べている。ずっと。昨日からずっと。イズモの世界。イズモの身体。イズモの言葉。イズモの周囲。自分はそこにうまく入れないと、どこかで先に決めつけている。

 

綾音「……図星っぽい顔した」

 

少しだけ笑うように言う。

 

その軽さに救われる。KAEDEのような正確さではなく、人間の観察として言われると少し違う。

 

碇シンジ「だって……」

 

言いかけて、止まる。

 

何を言えばいいのかわからない。すごい人の場所に、自分がいることが嫌だ。怖い。壊したくない。比較したくないのにしてしまう。そんな言葉を、そのまま出していい相手なのかまだわからない。

 

綾音は待つ。急かさない。

 

シンジは視線を落とし、テーブルの木目を見た。

 

碇シンジ「……ここ、みんなちゃんとしてるから」

 

それが、ようやく出た言葉だった。

 

綾音の表情が少しだけやわらぐ。

 

綾音「ちゃんとして見えるだけだよ」

 

碇シンジ「でも、僕のいた場所よりは」

 

そこで口が止まる。

 

比べるつもりはなかった。でも、出た。

 

綾音はそれ以上聞かない。聞かないまま、わずかに頷く。

 

綾音「そういう時は、とりあえず壊さないことだけ考えればいい」

 

その言い方が、ログと似ていた。

 

借りている。

 

返す。

 

壊さない。

 

まだ口に出していないのに、同じ方向の言葉が外から来る。

 

碇シンジ「……イズモも、そう言う?」

 

綾音「もっと面倒くさい言い方する」

 

その返答で、シンジはとうとう少し笑った。

 

笑った瞬間、胸の奥で硬く固まっていたものがほんの少しだけほどける。完全ではない。でも、笑える程度には息が入った。

 

綾音はそれを見て、少し安心した顔をした。

 

KAEDEは何も言わない。ただ、その場の負荷が下がったことを確認している気配だけがある。

 

短い会話のあと、綾音は本当にそれ以上踏み込まなかった。

 

立ち上がり、椅子を戻し、静かに言う。

 

綾音「今日はそれで十分」

 

碇シンジ「……また来るの」

 

綾音「必要なら」

 

その言い方も、この世界らしかった。約束で縛らない。拒否されても壊れない位置に置く。

 

綾音「来てほしいなら、KAEDEに伝えて」

 

シンジは返事をしなかった。できなかった。でも、その沈黙を綾音は拒絶とは取らない。

 

軽く手を上げて、去っていく。

 

扉が閉まった後、ラウンジはまた静かになる。けれどさっきまでの静けさとは少し違った。人がいた後の温度が、ほんの少しだけ残っている。

 

碇シンジ「……疲れた」

 

本音だった。

 

KAEDE「想定範囲内です」

 

碇シンジ「なんか、全部想定範囲内って言うね」

 

KAEDE「想定外もあります」

 

碇シンジ「例えば」

 

KAEDE「あなたが自分から会話を続けたこと」

 

シンジは目を瞬く。

 

そんなことまで数えているのかと思うと少し嫌で、でも少しだけ嬉しい。

 

碇シンジ「……それ、褒めてるの」

 

KAEDE「評価しています」

 

相変わらず言い方は硬い。だが、今はその硬さがちょうどよかった。

 

帰り道、シンジは窓の外を見ながら歩く。

 

この世界は大きい。整っている。やさしい。でも、そのやさしさは勝手に全部を許してくれる甘さではない。線を引き、止まり、距離を測り、それでも必要なら近づく。そういう難しい優しさだ。

 

自分の世界には、あまりなかった形。

 

部屋へ戻ると、端末がまた静かに待っていた。

 

閉じたままでもいい。今日はもう十分だと思う。けれど、シンジは少しだけ迷ってから、それを開く。

 

次のログのタイトルが出る。

 

『SELF-001 / 他者との距離』

 

画面に触れる前に、窓の外で光がゆっくり傾いていくのが見えた。

 

一日が終わるにはまだ早い。

 

でも、昨日の朝よりは少しだけ、この場所で呼吸ができている。

 

それだけで十分だとは言えない。けれど、ゼロではなかった。

 

シンジは椅子に座り、見慣れない自分の指で、静かに次の記録を開いた。

 

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