碇シンジと最上イズモ 他人を演じるということ 作:最上 イズモ
その日は、何も起きないはずだった。
碇シンジは窓際の椅子に座り、端末を膝の上へ置いていた。
画面には、昨日から読み進めている記録。
『SELF─037/帰還不能時の判断』
題名だけ見て、一度閉じたものだった。
今日は開けた。
それだけでも、ここへ来た直後よりは少し進んでいる。
窓の向こう。
都市は静かだった。
遠くを輸送機が横切る。
高層構造体の間を光のラインが流れる。
どれだけ見ても、自分の世界には見えない。
でも。
知らない場所、という感覚は少しずつ薄れていた。
KAEDE「閲覧を中断しますか」
碇シンジ「……まだ大丈夫」
部屋の端に立つKAEDEを見る。
最初は、その姿があるだけで緊張していた。
今は。
いる。
それだけだった。
KAEDE「了解しました」
シンジは端末へ視線を戻す。
『帰れなくなった時に、他人の人生を自分のものとして固定しないこと』
指が止まる。
その一文を読む。
もう一度。
胸の奥に、少し重いものが落ちる。
碇シンジ「……イズモ」
KAEDE「はい」
碇シンジ「こういうこと、最初から考えてたのかな」
KAEDE「どの時点を指しますか」
碇シンジ「もし、自分じゃない場所に行った時」
KAEDEはすぐには答えなかった。
その沈黙にも、もう少し慣れた。
分からないものを埋めるために喋らない。
碇シンジ「ごめん。分からないよね」
KAEDE「本人が現在の事象を予測していた証拠はありません」
碇シンジ「うん」
KAEDE「ただし、本人は以前から、代理行為における権限境界について複数の記録を残しています」
碇シンジ「……それは、イズモっぽい」
少しだけ笑う。
その時だった。
胸が。
強く。
締まった。
碇シンジ「――っ」
端末が膝から滑る。
床へ落ちる前に、KAEDEが受け止めた。
だがシンジは見ていなかった。
胸を押さえる。
痛い。
いや。
違う。
痛みそのものではない。
息が入らない。
何かを失った時みたいに。
胸の奥が急に空っぽになる。
KAEDE「シンジ」
呼び方が変わる。
碇シンジ「待って……」
KAEDE「心拍数上昇。呼吸数上昇。自律神経反応を確認」
碇シンジ「違う」
KAEDE「何が違いますか」
碇シンジ「分からない」
視界が滲んだ。
目を擦る。
濡れている。
碇シンジ「……え」
涙。
シンジは自分の指を見る。
どうして。
悲しくない。
少なくとも、今まで読んでいた記録に泣くほどのことは書いていなかった。
怖くもなかった。
なのに。
また一滴。
KAEDE「涙腺反応を確認」
碇シンジ「そんなの見れば分かるよ」
少し強い声が出る。
でもKAEDEは変わらない。
KAEDE「原因を確認しています」
碇シンジ「ごめん」
KAEDE「謝罪は不要です」
胸の圧迫感が強くなる。
次の瞬間。
何かが。
頭の奥を通った。
声ではない。
映像でもない。
もっと曖昧なもの。
誰かがいる。
遠い。
とても遠い。
それでも。
こちらへ向いている。
碇シンジ「……母さん?」
言ってから。
自分で固まった。
KAEDEも動かない。
碇シンジ「なんで……」
声が震える。
思い出したわけではない。
顔が浮かんだわけでもない。
ただ。
その言葉だけが。
胸の奥から出てきた。
KAEDE「碇ユイに関連する記憶想起ですか」
碇シンジ「違う」
すぐに首を振る。
碇シンジ「思い出してない」
KAEDE「では」
碇シンジ「分からないんだよ」
もう一度。
胸が締まる。
その奥。
別の感覚。
今度は。
誰かが必死に何かを守っている。
それだけ分かる。
何を。
誰を。
どうして。
全部分からない。
でも。
強い。
碇シンジ「……イズモ」
KAEDEの目がわずかに変わった。
碇シンジ「今、イズモに何かあった?」
KAEDE「確認します」
部屋の照明がほんの少し暗くなる。
KAEDEの周囲に複数の表示が開いた。
シンジには読めない速度で情報が流れる。
その間にも。
胸の奥から感覚が来る。
怖い。
痛い。
それでも離さない。
いや。
違う。
離した。
誰かを。
逃がすために。
碇シンジ「……手を」
KAEDE「何ですか」
碇シンジ「誰かの手を離した気がする」
KAEDE「記憶ですか」
碇シンジ「分からない」
またそれだった。
何も分からない。
なのに。
身体だけが知っているような。
自分ではない誰かの出来事が、壁の向こうから響いてくるような。
シンジは目を閉じた。
暗い。
その瞬間。
さらに深い場所から。
あたたかいものが触れた。
胸。
喉。
目。
碇シンジ「……母さん」
今度は。
さっきより自然に出た。
涙が増える。
KAEDE「シンジ」
碇シンジ「大丈夫」
KAEDE「大丈夫とは判断していません」
碇シンジ「……そういうところ、イズモと似てるね」
KAEDE「本人から学習した部分はあります」
少しだけ。
呼吸が戻る。
だが。
次の瞬間。
全身を。
巨大な衝撃が通り抜けた。
碇シンジ「――っ!」
椅子から落ちる。
床へ手をつく。
KAEDEがすぐ横へ来る。
だが触らない。
手を伸ばせば届く距離で止まる。
KAEDE「接触して構いませんか」
碇シンジ「……うん」
肩を支えられる。
その瞬間。
遠くで。
何かが。
叫んだ。
聞こえたわけではない。
でも。
分かった。
巨大な。
人間ではないもの。
怒っている。
何かを壊している。
碇シンジ「初号機……?」
KAEDE「現在の発言を記録します」
碇シンジ「なんで分かるんだよ」
誰に聞いたのか自分でも分からない。
KAEDEにも。
自分にも。
あるいは。
遠い場所にいる誰かにも。
そして。
突然。
全部が切れた。
静かになった。
胸の圧迫感。
涙。
意味のない懐かしさ。
巨大な怒り。
全部。
潮が引くように消えた。
碇シンジ「……」
呼吸音だけが残る。
KAEDE「心拍数低下」
シンジは床に座ったまま動かなかった。
自分の胸へ手を当てる。
普通。
さっきまでが嘘だったみたいに。
碇シンジ「終わった」
KAEDE「何がですか」
碇シンジ「分からない」
シンジは顔を上げる。
碇シンジ「でも、終わった」
KAEDEは数秒黙った。
KAEDE「今回の生理反応について、通常の記憶想起のみでは説明が困難です」
碇シンジ「……うん」
KAEDE「発生時刻を保存しました」
碇シンジ「イズモと関係あると思う?」
KAEDE「現時点では未確認です」
やっぱり。
そう答える。
でも。
少しだけ間があった。
KAEDE「ただし」
シンジが見る。
KAEDE「あなたが最上イズモの名を発した直前から、複数の身体反応に通常の記憶想起とは異なる特徴がありました」
碇シンジ「それって」
KAEDE「相関は因果を意味しません」
碇シンジ「分かってる」
以前なら。
その言葉で落ち込んでいたかもしれない。
今は違う。
ゼロではない。
それだけでいい。
シンジはゆっくり立ち上がる。
机へ戻る。
落ちかけた端末は、KAEDEが元の位置へ置いていた。
画面はまだ開いたまま。
『帰れなくなった時に、他人の人生を自分のものとして固定しないこと』
シンジはその文章を見た。
少し前とは。
意味が違って見えた。
碇シンジ「……帰そうとしてるんだ」
KAEDE「誰がですか」
碇シンジ「イズモ」
確証はない。
何も見ていない。
何も聞いていない。
それでも。
さっき。
ほんの一瞬。
分かった気がした。
碇シンジ「僕を」
声にすると。
また少しだけ目が熱くなった。
今度の涙は。
さっきとは違う。
理由が分かる。
嬉しい。
怖い。
帰りたい。
でも。
帰った時にどうなるかも怖い。
全部。
自分のものだった。
碇シンジ「……僕の場所、まだあるんだね」
KAEDEは。
すぐには答えなかった。
その代わり。
端末の横へ。
新しい表示を一つ開いた。
『異常生理反応記録』
『発生時刻保存』
『原因:未確認』
そして。
その下。
『異世界人格交換事象との関連――検証対象』
シンジは目を見開く。
碇シンジ「KAEDE」
KAEDE「可能性を記録しただけです」
碇シンジ「うん」
それで十分だった。
昨日までは。
帰るという言葉は。
希望だった。
今日は。
まだ細い。
触れれば切れそうなほど細い。
それでも。
初めて。
観測できるかもしれない何かになった。
シンジは端末へ指を置く。
碇シンジ「消さないで」
KAEDE「削除予定はありません」
碇シンジ「……よかった」
窓の外では。
何も知らない都市が。
いつも通り静かに動いていた。
その遥か遠く。
別の世界で何が起きたのか。
シンジはまだ知らない。
知らない女性が誰だったのかも。
初号機が何をしたのかも。
イズモが何を見たのかも。
何一つ。
知らない。
それでも。
胸の奥に残った小さな感覚だけは。
なぜか。
消えなかった。
遠い場所に。
誰かがいる。
そして。
その誰かも。
こちらへ帰ろうとしている。