碇シンジと最上イズモ 他人を演じるということ   作:最上 イズモ

45 / 47
その後の碇シンジ

 

 朝。

 

 目覚ましが鳴る前に、碇シンジは目を開けた。

 

 天井。

 

 見慣れている。

 

 白い。

 

 少しだけ染みがある。

 

 空調の音も均一じゃない。

 

 どこかで配管が鳴っている。

 

 第三新東京市。

 

 葛城ミサトの部屋。

 

 自分の世界。

 

 シンジはしばらく天井を見たまま動かなかった。

 

 以前なら、そのままもう一度目を閉じていたかもしれない。

 

 今日は。

 

 右手を上げた。

 

 細い指。

 

 十四歳の手。

 

 拳を握る。

 

 開く。

 

 碇シンジ「……僕の手」

 

 誰に聞かせるでもなく呟く。

 

 ちゃんと。

 

 自分の声だった。

 

 隣の部屋から、大きな物音がした。

 

 葛城ミサト「痛ったぁ!」

 

 続いて。

 

 何かが転がる。

 

 冷蔵庫が開く。

 

 ペンペンの鳴き声。

 

 全部。

 

 あまりにもいつも通りだった。

 

 シンジは。

 

 少し笑った。

 

     *

 

 葛城ミサト「ねえ」

 

 朝食の途中。

 

 味噌汁を飲んでいたシンジへ、ミサトが言った。

 

 葛城ミサト「ほんとに大丈夫?」

 

 碇シンジ「うん」

 

 葛城ミサト「ほんとに?」

 

 碇シンジ「……たぶん」

 

 葛城ミサト「そこは前より信用できる返事ね」

 

 シンジは箸を止めた。

 

 言われてから気づく。

 

 以前なら。

 

 大丈夫じゃなくても。

 

 大丈夫。

 

 と言ったかもしれない。

 

 心配されたくない。

 

 迷惑をかけたくない。

 

 それ以上聞かれたくない。

 

 いろんな意味をまとめて。

 

 碇シンジ「まだ、変な感じはする」

 

 ミサトの表情が少しだけ真面目になる。

 

 碇シンジ「でも、それはたぶん普通だから」

 

 葛城ミサト「普通?」

 

 碇シンジ「他人の身体で何日も生活して、戻ってきたんだから」

 

 葛城ミサト「……基準がおかしいわね」

 

 碇シンジ「うん」

 

 今度は。

 

 素直に頷いた。

 

 ミサトが少し笑う。

 

 それから。

 

 言いにくそうに視線を落とした。

 

 葛城ミサト「イズモ君は」

 

 名前が出る。

 

 胸の奥が。

 

 少しだけ動く。

 

 碇シンジ「帰ったと思う」

 

 葛城ミサト「分かるの?」

 

 シンジは考える。

 

 以前は。

 

 痛みが来た。

 

 感情が流れてきた。

 

 遠くに。

 

 誰かがいる感じがした。

 

 今は。

 

 ない。

 

 静かだ。

 

 碇シンジ「分からない」

 

 一度区切る。

 

 碇シンジ「でも」

 

 胸に手を置く。

 

 碇シンジ「いない感じがするから」

 

 ミサトが。

 

 ほんの少しだけ目を細めた。

 

 葛城ミサト「寂しい?」

 

 シンジはすぐには答えなかった。

 

 味噌汁から。

 

 湯気が上がる。

 

 碇シンジ「少し」

 

 今度は。

 

 それを否定しなかった。

 

     *

 

 学校へ向かう道。

 

 何も起きない。

 

 警報もない。

 

 NERVからの呼び出しもない。

 

 歩道を自転車が通る。

 

 信号が変わる。

 

 小学生が走る。

 

 いつもの街。

 

 でも。

 

 以前より。

 

 一つずつ見える。

 

 イズモなら。

 

 道路幅を見るだろうか。

 

 車両の流れを見るだろうか。

 

 避難経路を確認するだろうか。

 

 そんなことを考えて。

 

 シンジは首を振った。

 

 碇シンジ「……違う」

 

 前を向く。

 

 自分なら。

 

 どう見る。

 

 それでいい。

 

     *

 

 教室へ入る。

 

 相田ケンスケ「お、シンジ!」

 

 鈴原トウジ「遅いやないか」

 

 碇シンジ「まだチャイム鳴ってないよ」

 

 鈴原トウジ「細かいこと言うなや」

 

 いつもの声。

 

 トウジはもう松葉杖を使っていない。

 

 完全に元通りではない。

 

 でも。

 

 自分の脚で立っている。

 

 そのことを。

 

 何度見ても確認してしまう。

 

 鈴原トウジ「……なんや」

 

 視線に気づいた。

 

 碇シンジ「いや」

 

 鈴原トウジ「また心配しとんのか」

 

 碇シンジ「少し」

 

 トウジが目を丸くする。

 

 鈴原トウジ「お前、そこ認めるようになったんやな」

 

 碇シンジ「悪い?」

 

 鈴原トウジ「いや」

 

 口元が緩む。

 

 鈴原トウジ「ええんちゃう」

 

 それ以上。

 

 何も言わない。

 

 シンジも。

 

 言わなかった。

 

     *

 

 昼休み。

 

 屋上へ続く階段。

 

 以前。

 

 イズモが逃げ込んでいた場所。

 

 シンジは壁へ背中を預けていた。

 

 足音。

 

 一人。

 

 規則的。

 

 綾波レイ。

 

 綾波レイ「碇君」

 

 碇シンジ「綾波」

 

 レイは少し離れた位置で止まる。

 

 以前と同じ。

 

 近づきすぎない。

 

 碇シンジ「……あの人にも、ここで会った?」

 

 綾波レイ「うん」

 

 碇シンジ「何話したの」

 

 綾波は少し考えた。

 

 綾波レイ「誰なのか聞いた」

 

 シンジの肩が僅かに固まる。

 

 碇シンジ「……答えた?」

 

 綾波レイ「碇シンジだと言った」

 

 碇シンジ「そっか」

 

 綾波レイ「でも」

 

 一拍。

 

 綾波レイ「違うと思った」

 

 シンジは。

 

 苦笑した。

 

 碇シンジ「やっぱり分かってたんだ」

 

 綾波レイ「少し」

 

 沈黙。

 

 風が。

 

 階段の小さな窓から入る。

 

 綾波レイ「碇君」

 

 碇シンジ「うん」

 

 綾波レイ「今は違わない」

 

 シンジが顔を上げる。

 

 綾波は。

 

 いつもの表情。

 

 でも。

 

 言葉だけは。

 

 はっきりしていた。

 

 綾波レイ「今は碇君」

 

 胸の奥で。

 

 小さな何かがほどける。

 

 碇シンジ「……ありがとう」

 

 綾波は。

 

 少しだけ首を傾けた。

 

 それでも。

 

 碇シンジ「なんとなく」

 

 綾波レイ「そう」

 

 それだけで。

 

 十分だった。

 

     *

 

 放課後。

 

 ネルフ。

 

 検査室。

 

 赤木リツコが大量の波形を前にしている。

 

 赤木リツコ「異常なし」

 

 碇シンジ「本当に?」

 

 赤木リツコ「少なくとも医学的には」

 

 碇シンジ「……その言い方怖いよ」

 

 リツコが一瞬だけ手を止める。

 

 以前なら。

 

 シンジはそういうことを口にしなかった。

 

 赤木リツコ「言うようになったわね」

 

 碇シンジ「何が」

 

 赤木リツコ「嫌なこと」

 

 シンジは黙る。

 

 リツコは椅子へ座り直す。

 

 赤木リツコ「人格照合は完全一致」

 

 モニターを指す。

 

 赤木リツコ「記憶にも欠落なし。A.T.フィールドパターンも、本来のあなたに戻っている」

 

 碇シンジ「イズモのものは?」

 

 リツコの指が止まる。

 

 赤木リツコ「残っていない」

 

 すぐに続ける。

 

 赤木リツコ「少なくとも、独立した人格情報としては」

 

 碇シンジ「じゃあ」

 

 少しだけ。

 

 息を吸う。

 

 碇シンジ「僕が覚えてることは?」

 

 赤木リツコ「記憶よ」

 

 碇シンジ「僕の?」

 

 赤木リツコ「今はね」

 

 シンジは。

 

 少し不思議な気持ちになる。

 

 イズモが見たもの。

 

 話したこと。

 

 決めたこと。

 

 全部を共有しているわけではない。

 

 でも。

 

 断片はある。

 

 人との距離。

 

 止まること。

 

 選ぶこと。

 

 身体を返すこと。

 

 その記憶が。

 

 今は。

 

 自分の中にある。

 

 赤木リツコ「シンジ君」

 

 碇シンジ「はい」

 

 赤木リツコ「あなたはイズモ君ではないわ」

 

 碇シンジ「分かってます」

 

 即答した。

 

 リツコが。

 

 ほんの少しだけ目を見開いた。

 

 碇シンジ「だから」

 

 自分の手を見る。

 

 碇シンジ「イズモがやってたことを、そのまま真似するつもりはありません」

 

 赤木リツコ「そう」

 

 碇シンジ「でも」

 

 顔を上げる。

 

 碇シンジ「使えそうなものは使います」

 

 リツコが。

 

 小さく息を吐いた。

 

 赤木リツコ「それも本人に言われた?」

 

 碇シンジ「はい」

 

 少し考える。

 

 碇シンジ「……最後に」

 

     *

 

 発令所。

 

 シンジは。

 

 久しぶりに。

 

 父親の前へ立っていた。

 

 碇ゲンドウ「初号機への搭乗を継続する」

 

 それだけ。

 

 いつもの。

 

 命令。

 

 以前なら。

 

 胸が縮んだ。

 

 拒否したらどうなる。

 

 嫌われる。

 

 必要とされなくなる。

 

 逃げる。

 

 でも。

 

 今日は。

 

 少し違う。

 

 碇シンジ「条件があります」

 

 発令所の空気が。

 

 ほんの少し止まった。

 

 冬月がこちらを見る。

 

 ミサトも。

 

 リツコも。

 

 ゲンドウの表情だけは変わらない。

 

 碇ゲンドウ「何だ」

 

 碇シンジ「ダミーシステムを僕の意思に反して使わないこと」

 

 ゲンドウの目が僅かに細くなる。

 

 碇シンジ「僕が搭乗できない時は、勝手に僕の代わりとして使わないでください」

 

 碇ゲンドウ「戦況による」

 

 碇シンジ「じゃあ乗りません」

 

 自分で言って。

 

 一番驚いたのは。

 

 シンジだった。

 

 心臓が。

 

 速い。

 

 怖い。

 

 逃げたい。

 

 それでも。

 

 言葉は戻さない。

 

 ゲンドウが。

 

 こちらを見る。

 

 長い。

 

 沈黙。

 

 碇ゲンドウ「脅しのつもりか」

 

 碇シンジ「違います」

 

 声は。

 

 少し震えていた。

 

 碇シンジ「僕の身体と初号機をどう使うかの話です」

 

 静かになる。

 

 どこかで。

 

 誰かが息を呑む。

 

 碇シンジ「僕が乗るなら」

 

 一度。

 

 息を吸う。

 

 碇シンジ「僕にも決める権利があると思います」

 

 ゲンドウは。

 

 何も言わない。

 

 シンジも。

 

 退かない。

 

 怖い。

 

 でも。

 

 それでいい。

 

 怖くても。

 

 残れる。

 

 長い沈黙のあと。

 

 冬月が。

 

 小さく息を吐いた。

 

 冬月コウゾウ「条件として記録しておこう」

 

 ゲンドウが。

 

 横目で冬月を見る。

 

 冬月は。

 

 見返さない。

 

 碇シンジ「……ありがとうございます」

 

 その瞬間。

 

 身体から。

 

 力が抜けそうになった。

 

 でも。

 

 立っていた。

 

     *

 

 帰り道。

 

 ミサトの車。

 

 助手席。

 

 夕方の街。

 

 葛城ミサト「怖かった?」

 

 碇シンジ「すごく」

 

 葛城ミサト「でしょうね」

 

 碇シンジ「足、今も震えてる」

 

 葛城ミサト「見れば分かるわ」

 

 少し。

 

 沈黙。

 

 葛城ミサト「でも言った」

 

 碇シンジ「うん」

 

 葛城ミサト「イズモ君みたいに?」

 

 シンジは。

 

 窓の外を見る。

 

 少し考えて。

 

 首を振った。

 

 碇シンジ「違う」

 

 葛城ミサト「そう?」

 

 碇シンジ「僕が言いたかったから」

 

 ミサトの横顔が。

 

 少しだけ笑う。

 

 葛城ミサト「そっか」

 

 車が走る。

 

 空が。

 

 赤から青へ変わっていく。

 

     *

 

 夜。

 

 自室。

 

 シンジは机へ向かっていた。

 

 一枚のノート。

 

 何を書こうか。

 

 しばらく迷う。

 

 イズモの世界には。

 

 ログがあった。

 

 何かが分からなくなった時。

 

 自分へ戻るための記録。

 

 でも。

 

 同じものを作る必要はない。

 

 シンジは。

 

 ノートの最初のページに書いた。

 

『碇シンジ』

 

 そこで。

 

 手が止まる。

 

 次。

 

『エヴァ初号機パイロット』

 

 書きかけて。

 

 消す。

 

 父さんの息子。

 

 中学生。

 

 ネルフ所属。

 

 どれも。

 

 自分ではある。

 

 でも。

 

 全部ではない。

 

 少し考えて。

 

 新しく書く。

 

『今日は、父さんに条件を言った』

 

『怖かった』

 

『それでも言った』

 

 読む。

 

 少し恥ずかしい。

 

 でも。

 

 消さない。

 

 次。

 

『トウジが学校にいた』

 

『綾波がおかえりと言った』

 

『ミサトさんの味噌汁は少し薄かった』

 

 そこで。

 

 少し笑う。

 

 最後。

 

 何を書こう。

 

 窓の外を見る。

 

 夜。

 

 街の明かり。

 

 遠く。

 

 遠すぎて。

 

 もう声も届かない場所。

 

 そこに。

 

 一人。

 

 知っている人がいる。

 

 シンジは。

 

 ゆっくり書いた。

 

『イズモは帰った』

 

『僕も帰った』

 

 少し。

 

 間。

 

『だから、これからは僕がやる』

 

 ペンを置く。

 

 誰かのように。

 

 強くなる必要はない。

 

 全部を理解する必要もない。

 

 逃げる日も。

 

 きっとある。

 

 迷う。

 

 怖がる。

 

 失敗する。

 

 それでも。

 

 その時。

 

 また選べばいい。

 

 シンジはノートを閉じた。

 

 電気を消す。

 

 ベッドへ入る。

 

 天井を見る。

 

 知らない天井ではない。

 

 自分の。

 

 見慣れた天井。

 

 碇シンジ「おやすみ」

 

 返事はない。

 

 それでいい。

 

 目を閉じる。

 

 明日も。

 

 自分として。

 

 ここで起きる。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。