碇シンジと最上イズモ 他人を演じるということ 作:最上 イズモ
目が覚めた時、最初に気づいたのは静けさだった。
昨日までなら、もう少し音があった。端末の起動音。自動調整された空調の微かな変化。部屋そのものがこちらの覚醒に合わせて整う、あの先回りするような静かな気配。
今日は違う。
音がないわけじゃない。ある。遠くの駆動音。都市の低い振動。壁の向こうを流れる何かの気配。けれど、部屋そのものがこちらを見ている感じが、少し薄い。
碇シンジはベッドの上で上体を起こし、その違和感を確かめるように周囲を見た。
同じ部屋だ。天井も窓も机も端末も変わらない。だが、空気だけがほんの少し違う。昨日まで“支えられている”場所だったのが、今日は“自分で動かなければ何も始まらない”場所に見える。
胸の奥が少し冷える。
KAEDE。
名前を頭の中で呼んだ瞬間、壁際に淡い光が集まる。人の輪郭。長い髪。変わらない顔。けれど、出現のタイミングがいつもよりわずかに遅い気がした。
KAEDE「おはようございます」
碇シンジ「……おはよう」
返しながら、シンジはその遅れの正体を考える。
ただの気のせいかもしれない。だが、気のせいで済ませるには、KAEDEは普段あまりに正確すぎた。
KAEDE「睡眠の質は中程度。覚醒後の自律神経反応は昨日より安定しています」
いつもの報告。いつもの声。なのに、どこかで処理の優先順位が変わっている感じがする。
碇シンジ「……何かあった?」
KAEDEは即答しなかった。
その一拍だけで、シンジの背中に薄い緊張が走る。
KAEDE「エヴァ側で再接続が発生した可能性が高いです」
言葉の意味が、すぐには胸へ落ちてこない。
再接続。
エヴァ側。
つまり。
碇シンジ「……イズモが、またエヴァに乗ったの」
KAEDE「はい」
短い肯定。
その瞬間、胃の底がゆっくり重くなる。昨日の夜から、心のどこかでずっと想像していたことだ。向こうの自分の身体で、イズモがまた戦うかもしれない。戦わされるかもしれない。理屈では分かっていたのに、こうして確定すると別の重さになる。
窓の外で、見たことのない都市の朝が静かに流れている。
こっちはこんなに静かで、向こうはまた戦っている。
その非対称さが、胸の内側をざらつかせた。
碇シンジ「……無事なの」
KAEDE「現時点では生存確率が高いと推定しています」
推定。
確実じゃない。
シンジは無意識にベッドの縁を掴む。指先に力が入る。自分が向こうにいた時、誰かに無事かどうかを推定で話される側だったことを思い出す。
KAEDE「不安定化の兆候があります」
碇シンジ「どっちが」
KAEDE「両方です」
その答えに、シンジは少しだけ息を止めた。
両方。
イズモだけじゃない。こっちも、向こうも。入れ替わったまま、それぞれの世界で無理をしている。そのことを、今さらみたいに身体が理解する。
KAEDE「本日の予定を再構成します」
空中に予定表が浮かぶ。昨日までと少し違う。記録閲覧、安定化確認、そのあたりは同じだが、午後の“接触”予定が削られている。代わりに、新しい項目が一つ入っていた。
『権限委任確認 / イズモ業務の最低限継続可否』
シンジの目が止まる。
碇シンジ「……これ、何」
KAEDE「最上イズモ不在時に、どこまで外部業務を切るかの確認です」
碇シンジ「切れてないの」
KAEDE「かなり切っています」
KAEDEの声はいつも通りだが、その裏にわずかな負荷が乗っているのがわかる気がする。
KAEDE「ですが、最上イズモ個人への依存が強い領域があるため、完全停止は波及が大きい」
シンジは言葉を失う。
依存。
強い領域。
昨日まで、自分はこの世界の広さと優しさに圧倒されていた。けれど、その広い世界の中にも、イズモ一人に寄りかかって回っている場所がある。その事実が急に見えてくる。
碇シンジ「……君が全部やればいいんじゃないの」
KAEDE「可能です」
あまりにあっさり言うので、シンジは一瞬だけ苛立ちかける。だが、次の言葉がすぐに来た。
KAEDE「ただし、やるべきではない」
その一文で、怒りの行き場が変わる。
KAEDE「最上イズモ名義での判断を、本人不在のまま過剰代行すると、外部との境界が破綻します」
また境界だ。
でも今度は、少し分かる。これは感情の距離だけじゃない。責任の輪郭でもある。誰が、どこまで、何を決めるのか。その線を曖昧にしたまま賢い補助者が全部片づけると、たぶん後で人も仕組みも歪む。
碇シンジ「……だから、僕にやれって?」
KAEDE「強制はしません」
だが、必要性は置かれる。
それがこの世界のやり方だ。
シンジは立ち上がり、窓際まで歩く。都市の上層を滑る輸送機の軌跡が、朝の光の中で静かに走っている。こんな世界でも、誰か一人が抜けるだけで波が立つ。それが少しだけ意外で、少しだけ当然にも思えた。
碇シンジ「……僕がやったら、余計ひどくなるかもしれない」
KAEDE「その可能性はあります」
否定してくれない。
でも、続きがある。
KAEDE「だからこそ、範囲を限定します」
シンジは振り向く。
KAEDE「全面代行ではなく、停止判断の補助です」
碇シンジ「停止判断」
KAEDE「はい。続けるか切るか。誰に説明するか。どこまで待てるか。その選択だけでも、本人性の代替になります」
言っている意味は分かる。全部をこなせと言われたら無理だ。だが、止めるかどうかだけなら、まだ考えられるかもしれない。
それでも胸の中には、重いものが残る。
自分が失敗したらどうする。
イズモの世界を、自分の判断で削ってしまうかもしれない。
その怖さを、KAEDEは先に拾う。
KAEDE「最上イズモ本人のログにも、同種の判断基準があります」
碇シンジ「……またログ」
KAEDE「はい」
逃げ道を塞ぐというより、逃げる先に必要な灯りを置いてくる感じだ。
端末が机の上で起動する。新しいログタイトル。
『SELF-014 / 不在時の切断手順』
数字だけで気が遠くなりそうになる。
シンジは椅子に座り、端末を開く。
『自分が処理できない時、善意と責任感は一番危険な燃料になる』
『だから、まず切れ』
『切っても壊れない関係だけ残せ。それで壊れるなら、最初から設計が悪い』
シンジは画面を見つめたまま、しばらく動けなかった。
極端に見える。でも、ログ全体の流れを知り始めた今だと、ただの冷たさではなく構造の話だと分かる。人に優しくするためにも、全部を抱えない。壊れない仕組みだけ残す。そのために切る。
NERVには、あまりない発想だった。
向こうでは切れない。逃げても呼び戻される。乗れと言われる。必要だと突きつけられる。だからこそ、この考え方がひどく遠くて、少し羨ましい。
KAEDE「本件は三件あります」
空中に三つの通知が浮かぶ。
技術セクター照会。外部観測班定例。個人指名通信。
シンジの呼吸が少し浅くなる。
知らない。何も知らない。だが、画面は待ってくれない。
KAEDE「優先順位順に並べています」
碇シンジ「……一番上は」
KAEDE「技術セクター照会。設計判断の継続可否確認です」
シンジは喉を鳴らす。
技術。設計。自分とはもっとも遠い単語のひとつだ。
KAEDE「ただし、内容は単純です。会議の継続ではなく、中止判断への同意要請」
少しだけ息がしやすくなる。
決めることが“進める”じゃなく“止める”なら、まだ考えられる。
碇シンジ「……イズモならどうする」
KAEDE「ログ該当箇所を表示します」
端末がすぐに反応する。
『自分が五分で理解できない案件は、その時点で止めろ』
『理解不足のまま首を縦に振るのが一番高くつく』
読みながら、シンジは思わず目を閉じる。
分かりやすい。乱暴なくらい分かりやすい。
自分の世界では、分からないまま頷いてしまうことが多かった。怒られたくない。流れを止めたくない。失望されたくない。その全部が先に来て、分からないと言うのが遅れる。
このログは、その逆を先に固定してくる。
碇シンジ「……じゃあ、止める」
KAEDE「承認処理へ移行します」
空中に文面が出る。短い。簡潔だ。
『現在の本人判断能力が設計基準に達していないため、本件は一時凍結。再開時期は追って通知。』
シンジはその文を見て、変な気持ちになる。
自分が書いたわけではない。けれど、自分の意思で送る。知らない誰かの立場を借りて、知らない誰かたちへ“止める”を通知する。
KAEDE「送信確認を」
碇シンジ「……送る」
指先で承認する。
通知が消える。たったそれだけで、何かが一つ片づいた感覚がある。嬉しいわけじゃない。でも、崩れなかった。
KAEDE「一件処理完了です」
碇シンジ「一件だけで疲れるんだけど」
KAEDE「正常です」
その返答に、少しだけ笑いそうになる。何でも正常扱いしすぎじゃないかと思うのに、今はその雑な肯定がありがたい。
二件目は観測班の定例報告だった。
こちらはもっと簡単だった。ログ上でイズモは、定例会議を“本人がいない時に無理に出る価値の低いもの”と分類していた。理由まで短い。
『雰囲気で埋まる情報は、後から記録を読んだ方が速い』
それを見て、シンジは本当にこの人は会議が嫌いなんじゃないかと思う。だが嫌いというより、無駄を嫌うのだろう。
二件目も止める。
三件目だけが残る。
個人指名通信。
名前は伏せられている。
シンジは画面を見たまま、すぐに決められなかった。
KAEDE「これはログ分類上、機械処理推奨外です」
碇シンジ「……人だから?」
KAEDE「はい。関係性負荷が高い」
関係性負荷。
便利な言い方だと思う。だが、意味は分かる。要するに、人間関係が絡んで面倒なやつだ。
碇シンジ「誰なの」
KAEDE「本人の設定により、事前開示制限があります」
シンジは眉を寄せる。
碇シンジ「そこまで?」
KAEDE「はい」
イズモは自分の不在時まで想定して、関係の扱いに鍵をかけている。その周到さに少し呆れて、少し助けられる。
端末の下に、別のログが示される。
『SELF-021 / 個人指名通信の扱い』
『迷ったら即応答するな』
『相手が大事でも、今の自分に余裕がないなら時間を買え』
『本当に壊れない関係なら、それで切れない』
シンジは指先で画面をなぞる。
また同じだ。切る。止める。時間を買う。優しさより先に、壊れない構造を作る。イズモという人間は、たぶんそうしないと自分がもたないとよく知っている。
碇シンジ「……保留にしたい」
KAEDE「推奨と一致します」
碇シンジ「推奨と一致って、言い方」
KAEDE「事実です」
三件目も、短い文で保留通知を送る。
これで終わりのはずなのに、妙な疲労が残る。戦ってもいない。走ってもいない。ただ、知らない肩書で“切る”を三回やっただけだ。
なのに、変に足が重い。
KAEDE「負荷が表面化しています」
碇シンジ「……分かるよ、それは」
声が少し荒くなる。
怒っているわけではない。自分でも分かることを、わざわざ言われたくないだけだ。
KAEDEは一拍だけ黙る。
それから、いつもより少し低い声で言う。
KAEDE「では、休みましょう」
その言い方が、妙にまっすぐだった。
分析じゃない。処理でもない。ただ、そこで一回切ろうとする声だった。
シンジは椅子にもたれ、天井を見る。
疲れた。
それはもう認めるしかない。エヴァに乗ったわけじゃないのに、別の意味で神経が削れている。誰かの場所で、誰かの名前を使って、誰かの関係に“待ってくれ”を出す。それは思っていたよりずっと怖い。
碇シンジ「……向こうは、どうなってるかな」
声に出してしまってから、少し後悔する。
でもKAEDEは責めない。
KAEDE「断片的観測では、再戦闘後の医療監視下にある可能性が高いです」
医療監視。
少なくとも、生きてはいるらしい。
少しだけ息が戻る。完全じゃない。でも、ゼロよりはずっといい。
KAEDE「通信試行は推奨しません」
碇シンジ「分かってる」
本当は分かっていない。できるなら今すぐ向こうへ呼びかけたい。自分の身体を返してほしいとか、無事かとか、変なことするなとか、たぶん言いたいことはいくらでもある。
でも、それができないから、ここでこうして端末を握っている。
午後は予定通り、安定化確認と軽い環境適応だけになった。
運動と呼ぶには軽すぎるストレッチ。短い散歩。水分と食事。KAEDEが出すメニューは、全部が“壊れない範囲”を細かく守るためのものに見えた。
途中、窓際で立ち止まった時、シンジはふと口にする。
碇シンジ「……イズモって、こういうの素直にやるの」
KAEDE「やらない時もあります」
碇シンジ「あるんだ」
KAEDE「その場合は私が止めます」
あまりに当然のように言うので、シンジは少しだけ笑う。
その笑いが出たこと自体に、自分で少し驚く。
KAEDE「今、少し楽になりましたか」
碇シンジ「……少しだけ」
KAEDE「それで十分です」
十分。
その言葉を、この世界はよく使う。足りないものが山ほどある時でも、“まずはここまででいい”と区切るために使う。その感覚に、シンジはまだ慣れない。けれど嫌いでもなかった。
夕方、端末に新しい通知は来なかった。
三件を止めたことで、外からの流れも少し細くなったのだろう。都市の光が徐々に夜へ寄っていく。部屋の中は静かで、昨日より少しだけ自分の居場所として形を持ち始めていた。
シンジは机に座り、ログの続きを開く。
『不在時に他人が自分の位置へ立つなら、最初に教えるべきは“できること”じゃない』
『“切っていい”を先に渡せ』
『それがないと、善意の人間ほど潰れる』
文字を追いながら、シンジはふと手を止める。
これ、自分に向けて書いていたんじゃないか。
そう思った瞬間、胸の奥が少しだけ熱くなった。偶然かもしれない。元々はイズモ自身のためのログかもしれない。けれど今ここで、自分が読むことまで想定していたようにすら感じる。
碇シンジ「……ずるいな」
KAEDE「何がですか」
碇シンジ「こういうの先に残してるの」
KAEDEは少しだけ沈黙した。
KAEDE「彼は、先に壊れた経験があるからです」
その一言が、静かに落ちる。
詳しい説明はない。ないのに十分だった。だからこんなふうに残す。切る基準も、止まる許可も、先に言葉へしておく。自分のためにも、誰かがそこへ立たされた時のためにも。
シンジは窓の外を見る。
知らない都市の夜景が広がっている。遠くのラインが青く光る。巨大な世界の中で、自分はまだ小さい。場違いだ。借り物だ。分からないことだらけだ。
それでも今日、自分は三つ止めた。
全部は守れない。でも、全部抱えずに済ませることはできた。
その小さな実感だけが、胸の奥に残っている。
碇シンジ「……明日も、これやるのかな」
KAEDE「必要なら」
いつもの返答。
けれど今日は、その言い方が少しだけ救いに聞こえた。
必要なら。
必要がなければ、やらなくていい。
その境界が最初から用意されていることが、こんなにも楽だとは思わなかった。
シンジは端末を閉じ、椅子に深く座り直す。
向こうでは、たぶんまた別の重さがイズモにのしかかっている。こちらでは、自分がイズモの重さの一部を預かっている。完全には支えられない。けれど、何もできないわけでもない。
夜の静けさの中で、そのことだけを細く掴む。
部屋の照明が少しだけ落ちる。KAEDEは変わらず、必要な距離にいる。
シンジは目を閉じる前に、一度だけ小さく息を吐いた。
今日、自分は誰かの世界を壊さなかった。
それだけで、眠る理由としては十分だった。