碇シンジと最上イズモ 他人を演じるということ 作:最上 イズモ
発令所へ走る足音が、昨日までとは違って聞こえた。
二度目だからではない。
二度目になったことで、この組織が何を学習したかが、音の速さと角度に混じっている。
最上イズモは搬送用の通路を歩きながら、壁面モニターを一瞥する。警報表示。パターン青。目標侵入。画像はまだ粗い。だが輪郭だけで十分だった。
鞭状の腕部。細長い上体。地上戦寄りの構造。
シャムシエル。
初見ではない。だが、知っているから楽になる相手でもない。むしろ性質が分かっている分、NERV側が何を期待してくるかまで透けて見える。
昨日のサキエル戦で、こちらは“前例”になってしまった。
それが一番厄介だった。
葛城ミサトが隣を早足で進む。昨日より説明が少ない。説明が少ないということは、彼女の中でも“もう現場へ入る人間”として扱われ始めているということだ。
葛城ミサト「目標は近接寄り。自衛隊の迎撃は期待薄。初号機を先に出すわ」
最上イズモ「陽電子や大型火器の準備は」
葛城ミサト「時間がない」
最上イズモ「了解」
その返事だけで、ミサトが一瞬こちらを見る。
葛城ミサト「……ほんと、そこ疑わないわね」
最上イズモ「疑っても武装が増えないので」
葛城ミサト「そういう割り切り、便利だけど腹立つ時あるのよ」
怒っているわけではない。ただ、こちらの思考があまりに現場仕様すぎて、十四歳の反応に見えないのだろう。
発令所へ入った瞬間、空気の密度が変わる。
オペレーターの声。表示灯。走るデータ。人間が必死に秩序を作ろうとしている時の独特な熱。昨日と同じ場所なのに、視線の集まり方が違った。
見られている。
“来た”ではなく、“来るぞ”という目だ。
伊吹マヤが端末の向こうからこちらを見て、すぐに仕事へ戻る。だがその一拍に、昨日の戦闘記録が全部残っていた。警戒、好奇心、不安。どれも隠しきれていない。
赤木リツコはさらに露骨だった。白衣のまま腕を組みそうで組まない。こちらを研究対象として見ている目と、現場で使うべき戦力として見ている目が同時にある。
赤木リツコ「状態は」
最上イズモ「再接続可能です」
赤木リツコ「昨日の負荷が残っていても?」
最上イズモ「残っているからこそ調整は必要です」
赤木リツコ「調整、ね」
彼女はその単語を口の中で転がすように繰り返す。聞き逃さない。分類し、あとで切り出す気だ。
発令所の奥、碇ゲンドウは今日も変わらない位置にいた。
動かない。揺れない。だが、こちらを見る目だけは昨日よりも露骨に“次”を求めている。
碇ゲンドウ「碇シンジ」
最上イズモ「はい」
碇ゲンドウ「出撃しろ」
来た。
昨日までなら、ここで脅しや圧迫の余地があったはずだ。逃げるか。拒否するか。ためらうか。そうした隙間に、司令の言葉は入り込む。
だが今は、逆だ。
最上イズモ「出ます」
ゲンドウの声より一拍早く返した言葉が、発令所の空気をわずかにずらす。
冬月の視線がわずかに動く。ミサトは小さく息を吐く。マヤは端末へ落とした目を一瞬だけ上げた。リツコだけが、むしろ面白くなさそうだった。
脅しの効かない従順さは、扱いやすいようで扱いにくい。
ゲンドウ「……そうか」
その一言だけで会話が終わる。
昨日と同じだ。
“乗れ”が武器として機能しない。だからこの男は、次に何を支点にしてくるか測り直している。
イズモはその視線を受け流し、リツコへ向き直る。
最上イズモ「エントリープラグ接続前に、初号機側の出力波形を昨日と比較したい」
赤木リツコ「搭乗前に?」
最上イズモ「昨日の逆流がどこまで残っているかで、接触の仕方が変わります」
赤木リツコ「あなた、自分が何を言ってるのか本当に理解してる?」
最上イズモ「していなければ聞きません」
短い沈黙。
リツコはその場で即断する。迷わないのはさすがだった。
赤木リツコ「マヤ、初号機の前回戦闘後ログと現時点の神経接続波形を比較表示」
伊吹マヤ「はい!」
モニターへ数列とグラフが跳ね上がる。
イズモは歩み寄って確認する。昨日より波形の立ち上がりがわずかに鋭い。完全なリセットではない。初号機側にも、こちらの接続痕が残っている。
良くない。
だが、悪いだけでもない。
最上イズモ「……予想より早いですね」
赤木リツコ「何が」
最上イズモ「馴染み方です」
またその単語。
リツコの目が細くなる。だが今は問い詰めるより先に戦闘だと判断したらしい。
赤木リツコ「簡潔に言って」
最上イズモ「昨日より初動は軽い。ただし、同じやり方で無理に境界を尖らせると崩れやすい」
伊吹マヤ「崩れるって」
最上イズモ「接続側がです」
マヤの喉が小さく鳴る。昨日の“異常”が、今日の“条件付き前提”に変わった瞬間だった。
ミサトが口を挟む。
葛城ミサト「つまり?」
最上イズモ「今日は昨日の勝ち方をなぞらない方がいい」
その一言で、発令所の温度が少し変わる。
昨日の成功を最短の正解として期待していた空気があった。無意識に。組織というのはそういうものだ。一度通った手を、なるべく同じ形で再利用しようとする。
だが、それを本人が先に切る。
赤木リツコ「代案は」
最上イズモ「通常戦闘です」
伊吹マヤが目を瞬く。ミサトがわずかに眉を上げる。冬月は目を細める。
最上イズモ「シャムシエルは腕の射程と切断力が厄介です。A.T.フィールド変形で押し切るより、基本運用の方が損耗を管理しやすい」
赤木リツコ「昨日あれだけ異常なことをしておいて、今日は基本運用?」
最上イズモ「だからです」
昨日の成功が今日の正解になるとは限らない。むしろ、昨日の手を“必殺技”として保存した時点で、次は組織の都合で切り札にされる。
そうなる前に、普通に勝てる相手には普通で勝つべきだ。
ミサトが短く頷く。
葛城ミサト「……それでいいわ。損耗管理優先」
赤木リツコ「珍しく同意ね」
葛城ミサト「昨日の“再現”を今日やらせる方がどうかしてるでしょ」
その言葉に、イズモは少しだけ彼女を見る。
ミサトの視線はモニターへ向いたままだった。だが、その一言だけで十分だった。この人は昨日からこちらの“拒否”の意味をかなり正確に拾っている。
更衣室へ向かう。
扉が閉まり、一人になると、ようやく身体の浅い震えが出る。戦う前の身体反応が、この細い骨格に沿って静かに浮く。
シンジの身体だ。
昨日より馴染んでいる。だからこそ余計に危うい。自分のものではない感覚が減るほど、借りていることを忘れそうになる。
制服を脱ぎ、プラグスーツへ腕を通す。
ぴたりと沿う感触。肌へ密着しすぎる人工素材。首元を閉じた瞬間、身体が戦闘用へ固定される感覚がある。好きにはなれない。だが、嫌悪に時間を使う余裕もない。
鏡を見る。
シンジの顔がある。
少年の輪郭。細い喉。まだ成熟しきっていない目元。その顔に、自分の判断速度だけが載っている。この違和感に慣れてはいけないと、改めて思う。
更衣室を出ると、先導の職員が待っていた。
職員「こちらです」
最上イズモ「ありがとうございます」
ブリッジへ向かう通路を歩きながら、足元の振動が次第に強くなる。初号機の整備音。大型拘束具のロック。発進準備。昨日よりも施設の側がこちらへ合わせてきている。段取りが速い。
エントリープラグの前で立ち止まる。
紫の巨体。拘束具に押さえ込まれながら、それでも眠っているというより待っている感じがする。昨日の接続痕が、まだ向こうにも残っている。そう思った瞬間、胸の奥が少しだけ冷えた。
馴染むな。
慣れるな。
借りているだけだ。
回線が開く。
伊吹マヤ『エントリー準備完了。接続シークエンスに入れます』
最上イズモ「オペレーターさん」
伊吹マヤ『は、はい』
最上イズモ「今日は昨日より通常出力寄りでお願いします。急激な同期補助は不要です」
伊吹マヤ『通常寄り……でも、目標は接近中で――』
赤木リツコ『マヤ、指示に従って』
伊吹マヤ『了解!』
マヤの声はまだ固い。だが、昨日よりこちらの言葉を“あり得ない戯言”としては扱っていない。その変化が良いのか悪いのかは分からない。
プラグへ乗り込む。
閉じるハッチ。狭さ。金属の冷たさ。LCLが満ちる前の数秒間の無音。それだけで、身体が勝手に呼吸を浅くする。
昨日より初動は軽い。
たしかにそうだ。だが軽いことは、楽という意味ではない。接続の入り口がこちらへ寄っているだけだ。警戒を薄くしていい理由にはならない。
LCLが流れ込む。
喉を通る。肺へ満ちる。昨日より咳き込みは少ない。代わりに、その“少なさ”が気持ち悪い。初号機と自分の境界が、昨日より滑らかに接続してくる。
システム音声。拘束解除。神経接続。
頭の奥で世界が一段広がる。
初号機の腕の重さ。装甲の存在感。関節の遅れ。視界の拡張。全部が昨日より自然に流れ込む。それを自然だと思ってしまいそうになる前に、イズモは意識的に一度呼吸を止めた。
伊吹マヤ『同期率安定、神経接続良好……昨日より数値が』
赤木リツコ『読み上げなくていいわ。続けて』
マヤの言い淀みに、リツコがすぐ蓋をする。
余計な期待をここで音にするな、という意味もあるのだろう。ありがたい。
発進シークエンス。カタパルト。地上。
空気が変わる。
シャムシエルは既に市街地へ侵入していた。高架を薙ぎ、ビルの壁面を切り裂く長い腕。サキエルのような重量感ではない。もっと鞭に近い。間合い管理を誤れば、一瞬で装甲ごと削られる。
初号機が踏み出す。
地面の反力が昨日より掴みやすい。足首。膝。重心の移動。だが、それに気を取られると遅れる。
シャムシエルがこちらを認識した。
腕がしなる。
来る。
イズモは初号機の左腕を上げる。反応は間に合う。衝突の瞬間、装甲を叩くような衝撃と共に、腕部へ細長い圧が走る。重い打撃ではない。切られる手前の滑るような力。
距離を取る。
後退一歩。すぐ右へ。二撃目が空を裂き、直前までいた位置の路面が深く削れた。
伊吹マヤ『腕部の先端、高エネルギー反応! 切断機能持ちです!』
最上イズモ「見ればわかります」
言ってから、少し強かったと思う。
だがマヤはへこむ余裕もなく仕事へ戻る。今はそれでいい。
シャムシエルの長所は射程だ。こちらの長所は質量とA.T.フィールド。だが、下手に防御へ寄りすぎると街が削れる。間合いを詰めて、腕の振りを殺す必要がある。
最上イズモ「パレットライフル」
右手に武装が渡る。重量。照準。昨日のナイフよりずっと“兵器”らしい感触だった。
伊吹マヤ『射線クリア、撃てます!』
最上イズモ「撃ちます」
トリガー。
発砲音。薬莢。反動。砲弾は一直線に飛ぶが、シャムシエルは上体をしならせて躱す。完全回避ではない。肩部をかすめる。だが決定打にはならない。
予想通りだ。
牽制に使うしかない。
二射目。今度は回避方向を制限する位置へ撃つ。シャムシエルが腕を振る。砲弾と腕がぶつかり、爆炎が一瞬だけ視界を遮る。
その隙に前進。
初号機が踏み込む。巨体がアスファルトを砕きながら間合いを詰める。シャムシエルの腕が再びしなる。今度は低い。足を狙っている。
最上イズモ「っ」
左脚を引く。完全には避けきれない。脛装甲の表面が削れ、遅れて痛みが脚へ走る。切断ではない。浅い。まだいける。
距離は詰まった。
シャムシエルの長い腕が、今は逆に邪魔になる位置だ。
パレットライフルを投げる。
伊吹マヤ『えっ』
最上イズモ「ナイフ」
右肩ウェポンラック。プログレッシブナイフが抜ける。短い。だが、近い今なら十分だ。
シャムシエルが頭部を引き、上体ごと後退しようとする。その退き際へ、初号機の左手を伸ばす。掴むのは腕そのものではない。A.T.フィールドの“押し”で一瞬だけ軌道を乱す。
局所変形はしない。
今日はそこへ行かない。
ただ、通常の押し合いとして前へ圧をかける。それだけで、シャムシエルの退きが半拍遅れる。
その半拍で十分だった。
ナイフを振り上げ、腕の付け根へ叩き込む。
金属と肉の中間みたいな手応え。硬い。深くは入らない。だが動きは止まる。シャムシエルのもう一方の腕が、至近距離から初号機の肩へ叩きつけられる。
衝撃。
視界が揺れる。
建物の壁面へ横から押し込まれ、コンクリート片が砕け散る。肋骨に相当する位置へ鈍い痛みが走る。シンクロ痛。昨日より鮮明だ。接続が滑らかになった分、返ってくる。
最上イズモ「……っ、まだ」
息を押し出すように言い、初号機を無理やり起こす。
シャムシエルも近い。互いに崩れた姿勢のまま、押し合いの距離。ここで離すとまた射程差に戻る。
なら離さない。
ナイフを捨てる。
右手が空く。空いた腕で、シャムシエルの腕部根元へ食らいつくように組みつく。力任せではない。自分の重さを相手へ預けて、軸を崩す。
伊吹マヤ『近すぎます! そのままだと腕部切断軌道が――』
最上イズモ「分かってます!」
今度は自分も少し強く返す。
マヤが黙る。リツコもミサトも何も言わない。口を挟めない距離だ。
シャムシエルの腕先が初号機の背面へ回り込もうとする。その前に、初号機の頭を低くし、肩から相手の胸部へ突っ込む。巨体同士の体当たり。路面が沈む。双方の足元が滑る。
シャムシエルが倒れた。
完全にではない。片膝をつく形だ。だが十分。
最上イズモ「武装搬送、次!」
伊吹マヤ『搬送中!』
間に合わない。
搬送を待てば立て直される。だから待たない。
初号機の右手を開く。掴む。シャムシエルの伸びた腕の一部。高エネルギーの刃先を持つ危険な部位。掴めばこちらも無傷では済まない。
それでも。
初号機の掌にA.T.フィールドを厚く張る。変形ではない。集中でもない。ただ、防御を掌へ寄せて“掴める形”にする。
熱い。
焼ける。
掌から前腕にかけて痛みが走るが、切り落とされるほどではない。
掴んだ。
そのまま引く。
シャムシエルのバランスがさらに崩れる。巨体が横へ流れ、胸部がこちらへ晒される。
伊吹マヤ『武装到達!』
遅れて搬送された新しいナイフが視界へ入る。
右手は塞がっている。左手で取る。普段のシンジなら慣れていないだろう。だが今は、エヴァ側の巨体感覚が判断を補助する。
最上イズモ「通す」
シャムシエルのA.T.フィールドが前面に張られる。
ここで昨日の手を使えば、たぶん抜ける。
けれどそれはしない。
今日は普通で勝つ。
左腕のナイフでA.T.フィールドに真正面から圧をかける。押し合い。見えない壁。重い拒絶。腕が軋む。接続痛が肩口まで跳ね上がる。
通らない。
なら、押し続ける。
右手で掴んだ腕をさらに引き、相手の姿勢を崩す。シャムシエルのフィールド出力が胸部正面へ寄る。その偏りを見て、ナイフの角度をほんの少しだけずらす。局所変形ではない。ただ、相手の押し方の薄いところを探る。
そこだ。
最上イズモ「……そこ」
刃が一段だけ沈む。
手応え。
さらに押し込む。胸部装甲。内部組織。コアへ届くまで、シャムシエルの身体が暴れる。掴んだ腕から高熱が走り、初号機の掌装甲が裂ける。痛みが左胸まで跳ね返る。
それでも離さない。
最後に、初号機の全身重心を前へ乗せる。
刃がコアへ届いた。
シャムシエルが絶叫のような振動を放つ。空気が震え、窓ガラスが周囲で一斉に砕ける。遅れて光が裂け、敵の身体が崩れていく。
爆ぜる。
熱風。破片。白い煙。
初号機はその場で膝をついた。
視界が明滅する。手の感覚がひどく遠い。右手も左手も痛い。胸が重い。だが、昨日のような“踏み込みすぎた境界の焼け”はない。
普通に勝った。
いや、普通ではない。エヴァ同士の戦闘そのものが普通ではない。だが少なくとも、昨日の異常手段に頼らず勝てた。
回線の向こうが静かだ。
まただ。
勝った直後の数秒間、NERVはいつも少しだけ言葉を失う。結果を喜ぶ前に、“今何を見たか”を揃える時間だ。
伊吹マヤ『……し、シャムシエル、活動停止確認!』
その声で、ようやく世界が再起動する。
葛城ミサト『初号機現状維持! 周辺被害確認、二次崩落に注意!』
赤木リツコ『両手部損傷、胸部フィードバック増大……でも昨日の逆流パターンは出てない』
最上イズモ「出していません」
赤木リツコ『聞いてないわよ』
その返しが、少しだけ人間らしくて助かった。
イズモはLCLの中で浅く息を整える。
痛い。
かなり痛い。だが、接続がまだ自分の側に残っている。持っていかれていない。そこだけで十分だった。
葛城ミサト『碇君、聞こえる?』
最上イズモ「はい」
葛城ミサト『立てる?』
最上イズモ「時間をもらえれば」
葛城ミサト『いいわ。今日はそれで十分』
その一言で、胸のどこかが少しだけ緩む。
今日はそれで十分。
昨日のように“次も同じことができるのか”ではなく、今日やったことの輪郭をそのまま受け取る言い方だ。
初号機を回収しながら、発令所では評価が走っているだろう。
昨日の異常勝利。
今日の通常寄り撃破。
この二つが並んだ時、ようやく“再現不能な怪物”ではなく、“条件で戦い方を変えるパイロット”として見られ始める。そうなれば少しだけやりやすい。
プラグ回収。減圧。LCL排出。
ハッチが開いた瞬間、外気が肺へ流れ込む。昨日よりも苦しい。掌の痛みが遅れてはっきり上がってくる。左肩も重い。
梯子を降りる途中で、一度だけ膝が笑う。
下で待っていた整備員が、今度は迷わず支えに入った。昨日よりこちらも遅れたし、向こうも遠慮が減った。そのどちらも悪くない。
医療区画へ向かう通路で、ミサトが追いつく。
葛城ミサト「昨日みたいな無茶はしなかったわね」
最上イズモ「今日は必要なかったので」
葛城ミサト「ほんと、その“必要”で全部動いてる感じすごいわ」
最上イズモ「危ないですか」
葛城ミサト「便利で危ない」
正直だ。
ミサトは横を歩きながら、少しだけ声を落とす。
葛城ミサト「でも今日のは、助かった。昨日の勝ち方を“正解”にされる前に切ったの、かなり大きい」
最上イズモ「あなたが支持してくれたからです」
葛城ミサト「そういうの、さらっと言うのね」
最上イズモ「事実なので」
ミサトは少しだけ笑って、それからすぐ真顔へ戻る。
葛城ミサト「ただし、リツコはたぶん余計に興味持ったわよ」
最上イズモ「でしょうね」
昨日の異常さより、今日の制御の方が研究者には厄介だ。手品ではなく、判断で使い分けているとわかった時点で、切り分けたい対象になる。
医療区画へ入ると、案の定リツコが先回りしていた。
赤木リツコ「掌部損傷、胸部フィードバック、左肩過負荷。で、聞くけど」
最上イズモ「はい」
赤木リツコ「今日は“普通に勝った”ように見せたわね」
言い方が嫌味っぽい。だが観察は正確だ。
最上イズモ「見せたのではなく、そうしました」
赤木リツコ「昨日の手を封じた理由は」
最上イズモ「封じた方が良かったからです」
赤木リツコ「その判断基準を聞いてるの」
イズモはベッドへ腰掛け、検査器具をつけられながら少しだけ考える。
隠してもいい。だが、全部を隠すと今度は“なぜ出さなかった”が別の疑念になる。
最上イズモ「昨日のやり方は、接続側の境界を削って通してます。今日は敵の特性上、そこまでの代償を払う価値がなかった」
赤木リツコ「価値」
最上イズモ「はい。シャムシエルなら通常運用で十分落とせる」
リツコは黙ってこちらを見る。
その目は、答えを受け取ったというより、新しい問いを増やした顔だった。
赤木リツコ「つまりあなたは、手段ごとに代償を計算してる」
最上イズモ「していないと死にます」
伊吹マヤがその横で、なぜか少しだけ顔をしかめた。
言い方が刺さったのだろう。だが、現実だ。感覚的に戦えば済む相手ではないし、感情で組織に飲まれて済む場所でもない。
リツコは腕を組み、白衣の袖をわずかに引く。
赤木リツコ「……ますます十四歳らしくないわ」
最上イズモ「年齢で死ににくくなるなら便利ですが」
その返答で、ミサトが小さく吹き出す。
葛城ミサト「ちょっと、そういうとこよ」
医療スタッフが掌部の処置を始める。消毒。人工皮膚。圧着。痛みはあるが、昨日のような深部まで焼ける感じではない。
普通に勝った代償としては、まだ安い。
処置の途中で、冬月が入ってくる。
昨日と同じようでいて、今日は目の置き方が違った。異物を見る目から、使い方を考える目へ少し寄っている。
冬月コウゾウ「司令は結果に満足している」
最上イズモ「そうですか」
冬月コウゾウ「君は満足していない顔だな」
イズモは少しだけ視線を上げる。
たしかに、勝利そのもので満足してはいない。今日は“昨日の再現をさせられなかった”ことに意味がある。勝ったことよりそちらの方が大きい。
最上イズモ「今日は、まだ被害を抑えられたので」
冬月コウゾウ「まだ、か」
冬月はその一言を妙に静かに受け取る。たぶん、この少年の物差しが普通のパイロットではないことを、ようやく正面から認め始めている。
冬月コウゾウ「次も同じようにいくと思うかね」
最上イズモ「相手次第です」
冬月コウゾウ「逃げたな」
最上イズモ「正確に言いました」
冬月の口元が、ほんの少しだけ動く。笑いではない。だが、完全な否定でもない。
冬月コウゾウ「厄介だ」
またそれだ。
この言葉は、たぶんここでは半分評価でもある。
冬月が去った後、ミサトがベッド脇の壁にもたれる。
葛城ミサト「ねえ、碇君」
最上イズモ「はい」
葛城ミサト「今日、学校でまた綾波に何か言われてたでしょ」
最上イズモ「準備しておいて、と」
葛城ミサト「……あの子、変に勘がいいのよね」
最上イズモ「あなたもです」
葛城ミサト「私は勘じゃないわ。違和感よ」
最上イズモ「同じでは」
葛城ミサト「違うの。勘はたまたま当たる時もあるけど、違和感はずっと残るから」
その言い方に、少しだけ考えさせられる。
たしかに彼女は、こちらの正体を暴こうとしているわけではない。ただ、自分の知っている碇シンジとのズレが残り続けていて、それを放置できないのだ。
葛城ミサト「でも今日は、昨日より“碇シンジ”っぽかった」
最上イズモ「そうですか」
葛城ミサト「全部じゃないけどね。少なくとも、昨日ほど怖くなかった」
その評価は少し意外だった。
異常性を薄めたつもりはない。ただ、今日は組織に合わせて“切るべき線”を引いただけだ。だが、それが結果として人間らしさに見えたのかもしれない。
医療処置が終わる。
部屋が少し静かになったところで、イズモはふと窓のない白い天井を見上げた。
向こう側。
シンジは今、何をしているだろう。
ピースギアの世界で、KAEDEに見守られながら、知らない役割の重さに触れているはずだ。こちらが戦っている間、あちらも別の形で削られている。
自分だけが前線にいるわけではない。
その事実が、なぜか少しだけ支えになる。
ミサトがその横顔を見て、声を落とす。
葛城ミサト「……また別のこと考えてるでしょ」
最上イズモ「はい」
葛城ミサト「聞いても答えない?」
最上イズモ「たぶん」
葛城ミサト「正直ね」
彼女はそこで、それ以上は聞かない。
代わりに、いつものように命令でも慰めでもない声で言う。
葛城ミサト「今日は休みなさい。次のこと考えるのは、そのあと」
最上イズモ「必要なら」
葛城ミサト「必要なの」
昨日と同じやり取り。
けれど、昨日より少しだけ柔らかい。
イズモは目を閉じ、浅く息を吐く。
シャムシエル戦は終わった。だが、本当に厄介なのはここからだ。二度の戦闘で、NERV側はこちらを“再現不能な異常”ではなく、“条件付きで高精度に戦術を選ぶパイロット”と見始める。
そうなれば次は、期待の質が変わる。
圧は、より静かに、より細かくなる。
それでも今日、昨日の勝ち方を前例にされなかっただけで十分だと思う。
少なくとも今は。
白い天井の向こうには何も見えない。
それでもイズモは、その向こうの知らない都市を一度だけ思い浮かべた。
シンジが、自分の代わりに“切る”を覚え始めているのなら。
この入れ替わりは、まだ完全な災厄では終わらないかもしれなかった。
シェルターの空気は乾いているのに、息をするたび胸の奥が少しずつ湿って重くなる気がした。
蛍光灯の白さ。人のざわめき。泣く子どもをあやす声。どこかで響く金属音。全部が地下に押し込められて、逃げ場のないまま反響している。
鈴原トウジは壁に背を預けたまま、何度目か分からない溜息を喉の奥で潰した。
じっとしているのがきつい。
それだけならまだいい。きつい理由が自分でも分かっているのが余計に鬱陶しかった。
妹の顔が浮かぶ。病院の白い天井。包帯。怒ってもどうにもならない相手。どこへ向けていいのか分からない熱だけが残って、それをこの地下の空気が冷ましてくれない。
隣では相田ケンスケが膝を立てて座っていた。普段ならもっと落ち着きなく喋るくせに、こういう時だけ妙に黙る。黙って、目だけが何かを追い続ける。
鈴原トウジ「……なあ」
相田ケンスケ「ん」
鈴原トウジ「いつまでここおるんや」
相田ケンスケ「安全確認出るまで」
鈴原トウジ「それは分かっとる」
吐き捨てるように言ってから、少しだけ顔をそらす。
怒鳴りたいわけではない。八つ当たりだと自分でも分かる。分かるから余計に腹が立つ。
ケンスケはしばらく黙っていたが、やがて小さく言った。
相田ケンスケ「……上、どうなってるか気になるよな」
トウジは返事をしなかった。
気になるに決まっている。気にならないふりをしているだけだ。昨日の街。今日の警報。自衛隊がまた出ているのか。あの紫の巨人は本当にいるのか。昨日来た転校生とNERVの女の繋がりは何なのか。
分からないまま待たされるのが、一番きつい。
ケンスケが少しだけ身を寄せる。
相田ケンスケ「非常口、見張り薄いとこあると思う」
鈴原トウジ「お前なあ……」
呆れた声を出したはずなのに、そこに本気の拒絶は混ざらなかった。
ケンスケはそれを感じ取った顔で続ける。
相田ケンスケ「確認するだけ。上の様子だけ見て、やばかったらすぐ戻る」
鈴原トウジ「そういうのが一番戻られへんやつやろ」
相田ケンスケ「でも、何も分からないままは嫌だ」
その一言が、妙にまっすぐ刺さった。
トウジは膝に置いた手を一度だけ強く握る。
何も分からないまま待つ。誰かが決めた安全に押し込まれて、外で起きていることを想像だけで受ける。守られていると言われても、納得は別だ。
トウジは立ち上がる。
鈴原トウジ「見て、戻るだけやぞ」
ケンスケがすぐに立つ。
相田ケンスケ「うん」
その返事の速さがあまりに怪しくて、トウジは少しだけ眉をしかめたが、もう自分も同罪だった。
人が多いと、管理は雑になる。
シェルター職員の視線が別方向へ向いたタイミングで、二人は人波の影を抜けて非常口側の通路へ滑り込んだ。足音を立てないように歩くと、逆に自分の呼吸ばかり耳につく。
階段を上がる。
非常灯の緑。コンクリートの壁。時折、上から響く低い振動。
途中でケンスケが立ち止まる。
相田ケンスケ「……聞こえる」
トウジも耳を澄ます。
重い。爆発音とも違う。巨大な何かが街の骨組みそのものを揺らしているような音だった。
鈴原トウジ「戻るか」
自分で言いながら、足が下を向かない。
ケンスケも返事をしない。その沈黙だけで十分だった。
最後の扉へ手をかける。重い金属扉がきしみ、細い光が差し込む。地上の熱が地下の冷たさを押し返すみたいに流れ込んできた。
外は、昨日の街の続きだった。
壊れたガードレール。ひび割れた歩道。散ったガラス。焦げた匂い。何もかもが“日常の途中で無理やり止められた”形のまま残っている。
そして、その向こう。
ケンスケが息を呑む。
相田ケンスケ「……いた」
トウジも見る。
紫の巨人がいた。
高層ビルの間に立つその姿は、遠くから見てもサイズ感が狂っている。昨日より近い。近すぎる。建物と並んでなお、人の形をしていること自体が異常だった。
向かい合っている敵は、さらに気味が悪い。
細長い上体。しなる長い腕。刃物みたいな光を持った先端。生き物にしては形が不自然で、不自然なはずなのに街の中にいるせいでひどく現実味がある。
鈴原トウジ「なんや……あれ……」
相田ケンスケ「昨日のと違う……」
ケンスケの声には、恐怖と興奮が両方混じっていた。軍事オタクらしい目で見ているのに、膝のあたりは少し震えている。
トウジの喉が乾く。
遠いはずなのに、近い。音も、揺れも、全部こっちまで来る。もしあれが少し向きを変えれば、自分たちのいるこのあたりだって簡単に消し飛ぶのだと、理屈より先に身体が理解していた。
紫の巨人が踏み込む。
敵の長い腕がしなる。建物の間を走る。ぶつかる。壁面が削れ、破片が遅れて空に散る。
トウジは思わず肩をすくめた。
こんなの、戦いじゃない。災害の中で別の災害が殴り合っているみたいだった。
それでも目が離せない。
紫の巨人は撃った。
大きな銃。火花。反動。だが敵は躱す。完全には避けきれず、肩を掠める。あれで掠めた扱いなのか、と頭のどこかでおかしな感想が浮かぶ。
ケンスケが小さく前のめりになる。
相田ケンスケ「詰める気だ……」
鈴原トウジ「分かるんかよ」
相田ケンスケ「分かるっていうか……射程差ある相手に、あのまま離れてたら街がもたない」
トウジは返せなかった。
自分にそこまでの判断はできない。だが、言われてみればそう見える。敵の腕は長い。遠くから振り回されるたびに、ビルも道路も巻き込まれていく。なら近づくしかない。近づけば危ない。でも近づかなければもっと危ない。
そのせめぎ合いが、遠目にも分かる。
紫の巨人がさらに前へ出る。
敵の腕が足元を薙ぐ。脛のあたりに一撃が入ったように見え、トウジの心臓が嫌な音を立てる。だが紫の巨人は止まらない。銃を投げ捨て、短い刃を抜き、無理やり間合いを潰しに行く。
鈴原トウジ「……あほやろ」
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。
ただ、あんなものへ自分から組みつきに行くのは正気じゃない。正気じゃないのに、正気じゃないからこそ雑に突っ込んでいる感じでもない。
変に落ち着いている。
その動きが妙に嫌だった。
ケンスケがぽつりと言う。
相田ケンスケ「……中に人がいる」
トウジの胸が一瞬、重く沈む。
言われなくてもそうだ。分かっていた。けれど口にされると別の現実味になる。
あの中には誰かがいる。
誰かが街の中で、あんな巨大な身体を必死に制御している。
そして、その“誰か”に昨日から一人の顔がまとわりついて離れない。
碇シンジ。
昨日来たばかりの転校生。痩せていて、妙に静かで、妹のことで腹を立てた自分に変な返しをしたやつ。
あり得ない。あり得ないはずだ。なのに、目の前の戦い方を見ていると、どうしても思い出してしまう。
昨日のあいつは、変に落ち着いていた。
今日、あの巨人の動きも、変に落ち着いている。
嫌な一致だった。
敵の長い腕が再びうねる。今度は横から、強く。紫の巨人の肩口へ叩きつけられ、そのまま建物側へ押し込むように見えた。
その瞬間、トウジの全身に冷たいものが走る。
まずい。
言葉より先にそう思う。
もしあのまま崩れれば、倒れる向きによってはこの辺りまで被害が来る。ビルの破片も、衝撃も、何が飛んでくるか分からない。ここへ出てきたのが完全に間違いだったと、遅すぎるタイミングで実感する。
トウジは反射的にケンスケの腕を掴む。
鈴原トウジ「下がるぞ!」
相田ケンスケ「ま、待っ――」
その言葉の途中で、紫の巨人が踏みとどまった。
押し込まれながらも完全には流されず、建物側へ倒れ切る前に体勢を捻っている。敵に組みついたまま、崩れる向きを変えた。派手ではない。ほんの少し、重心が逸れただけだ。
だが、その“少し”のせいで瓦礫の飛び方が変わる。
二人のいる側には、大きな破片が一つも来なかった。
トウジは息を止めたまま、その光景を見た。
偶然かもしれない。
そう思おうとする。思うのに、次の動きがそれを許さない。
紫の巨人は敵の腕を掴んだ。危ない部位だと素人目にも分かるそこを、躊躇なく、でも力任せではなく。逃がさないためだけに使っている動きだった。
そのまま引く。
敵の体勢が崩れる。
敵の長い腕が、今度は二人のいる方向ではなく、街路の奥へ流れる。切断軌道が逸れる。もしほんの少し違えば、もっと広い範囲が薙ぎ払われたはずだ。
ケンスケの声が震える。
相田ケンスケ「……今の」
鈴原トウジ「分からん」
すぐに否定した。否定したのに、心の中では別の言葉が浮かんでいる。
見えていたのか。
自分たちが。
いや、そんなはずはない。遠い。瓦礫も多い。たまたまこの辺りに人が出てきていると分かる位置じゃない。
なのに、戦い方があまりにも“こっちへ転がさない”形をしている。
ギリギリで助かった、には見えない。
そもそもギリギリの事故になる手前で、向きごと変えられているように見える。
それが分かった瞬間、怖さの質が変わった。
ただ強いんじゃない。
見えていないものまで、最初から入れて戦っている。
そんな戦い方をする相手が、本当にあの転校生だとしたら。
トウジの胸の奥に、昨日までの怒りと別の重さが落ちる。
敵の胸へ刃が沈む。
光。振動。絶叫みたいなもの。建物の窓ガラスが一斉に割れ、遅れて白い煙が上がる。
シャムシエルが崩れた。
終わった、と理解するより先に、紫の巨人がその場で膝をついたのが見えた。
ケンスケが呟く。
相田ケンスケ「……勝った」
鈴原トウジ「……ああ」
声が掠れていた。
勝った。たしかに勝った。だが、その事実がすぐ安心には繋がらない。膝をついている。動きが止まっている。あの中の誰かは、今たぶん無傷じゃない。
トウジの手はまだケンスケの腕を掴んだままだった。
力を抜くのが少し遅れる。
相田ケンスケ「痛い、痛いって」
鈴原トウジ「あ……悪い」
手を離す。
それでも二人とも、その場からすぐ動けない。
遠くの煙の向こうで、回収部隊らしき車両が動き始めている。サイレンも近い。ここに長くいていい理由は一つもない。
なのに、トウジの頭の中では別のことばかりが回っていた。
昨日、自分はあいつに何を言った。
殴ってやろうかと思っていた。
妹が怪我した怒りを、そのままぶつける相手にしようとしていた。
もし、本当にあの中に碇がいるのだとしたら。
ケンスケが低い声で言う。
相田ケンスケ「……碇、かもしれない」
今度はトウジもすぐには否定しなかった。
否定したい。でも、無理だ。
昨日の教室での静けさ。
怒りを受けても妙にぶれなかった声。
ミサトの車。
NERVの匂い。
今日の、この戦い方。
全部が嫌なくらい繋がる。
鈴原トウジ「……あいつやったら、最悪や」
相田ケンスケ「最悪って」
鈴原トウジ「だって、昨日あんな顔しといて、今日あんなん乗っとるとか意味分からへんやろ」
ケンスケは返さない。
返さないまま、遠くの膝をついた紫の巨人を見ている。好奇心だけじゃない目だった。初めて、自分と同じ学校にいる誰かが、世界の裏側にいるかもしれないという現実へ触れた顔だ。
トウジも同じだった。
怖い。
でも、単純に嫌うにはもう遅い。
もしあれが碇なら、昨日の怒りをそのままぶつけるのは少し違う気がしてくる。違うからといって許せるわけでもない。その中間が一番厄介だった。
サイレンがまた近づく。
ケンスケがようやく現実へ戻る。
相田ケンスケ「戻ろう。今ならまだ……」
鈴原トウジ「怒られるんは確定やけどな」
相田ケンスケ「それでも今ここよりマシ!」
来た道を戻る。非常口。階段。地下へ続くコンクリートの冷たさ。
さっきまで地下の空気は重かったのに、今は逆に少しだけ安心してしまう。壁の向こうにいる限り、あの巨人の膝や、あの中にいるかもしれない誰かを直視しなくて済むからだ。
シェルターの扉の前で、ケンスケが足を止める。
相田ケンスケ「……なあ」
鈴原トウジ「なんや」
相田ケンスケ「今の、偶然だと思う?」
問いの意味は分かる。
倒れ込む向き。腕の流し方。こっち側へ被害が来ないように見えたあの数秒間。
トウジは扉の前で黙り込む。
偶然だ、と言えば楽だ。
たまたま運がよかった。
自分たちが勝手に意味を見ているだけ。
その方がずっと楽だ。
けれど、目に焼き付いたものがそれを許さない。
鈴原トウジ「……知らん」
吐き捨てるように言ってから、少しだけ続ける。
鈴原トウジ「でも、もし見えてへんのにあれやっとるなら、もっと嫌や」
ケンスケはその言葉を聞いて、小さく息を呑んだ。
意味は同じだった。
見えていて避けたなら、まだ分かる。
見えていないかもしれない人間まで込みで、最初から事故にならんよう戦っていたなら、その方がずっと異常だ。
扉を開ける。
地下の白い光と、人のざわめきが二人を包む。すぐに職員に見つかり、案の定ひどく怒鳴られた。
だが、トウジはその怒声の半分も聞いていなかった。
頭の中には、膝をついた紫の巨人と、こっちへ来なかった瓦礫の軌道だけがずっと残っていた。
その中に碇がいるかもしれないと思ってしまった時点で、もう昨日までと同じ顔では、あいつを見られない気がしていた。