碇シンジと最上イズモ 他人を演じるということ 作:最上 イズモ
朝、端末を開く前から嫌な予感がしていた。
理由はない。ただ、静かすぎた。
昨日までの静けさとは違う。守られている部屋の静けさではなく、何かが一歩引いたあとの静けさ。空気の密度が少しだけ変わっていて、その変化だけが先に肌へ触れる。
碇シンジはベッドの上でしばらく動かなかった。
窓の外では、見慣れない都市がいつも通りに動いている。高層構造の縁を青白いラインが走り、遠くを機影が滑っていく。こんなに大きく整った世界なのに、たった一人の不在でどこかの歯車がきしむ。その事実が、今は少しだけ現実味を持ち始めていた。
KAEDE「おはようございます」
壁際に光が集まり、いつもの輪郭が現れる。
声は同じ。姿も同じ。だが、やはりどこかが違う。処理の遅れではない。むしろ逆だ。こちらへ向ける前に、別の何かへかなりの優先度を割いている気配がある。
碇シンジ「……何か増えた?」
KAEDEは一拍だけ沈黙した。
その一拍で、シンジの胸の内側が薄く冷える。
KAEDE「未処理案件が増加しています」
碇シンジ「どれくらい」
KAEDE「昨日の停止判断により、表面上は減少しました」
碇シンジ「表面上」
KAEDE「はい。止めたことで、別の判断待ちが発生しています」
シンジは目を閉じそうになる。
当然だ。止めれば、そこで終わりじゃない。待ちが生まれる。説明が要る。切った先の相手は別の反応を返してくる。そんなこと、少し考えれば分かる。分かるのに、昨日は“壊さなかった”ことだけで精一杯だった。
KAEDE「本日は確認が必要です」
空中に表示が出る。
『停止案件への返信二件』
『内部調整要請一件』
『個人指名通信・再通知』
シンジの視線が最後の一行で止まる。
昨日保留にしたものが、今日また来ている。
逃げきれない。
いや、逃げるなと言われているわけではない。ただ、“まだ残っている”と突きつけられているだけだ。それが余計にきつい。
碇シンジ「……イズモって、こういうの毎回やってるの」
KAEDE「毎回ではありません」
少し間を置いて続く。
KAEDE「ですが、頻度は低くありません」
それを聞いた瞬間、シンジは端末に触れる前から疲れた気分になる。
戦ってもいない。走ってもいない。なのに、まだ何かが胸へ積まれる感じがする。重さそのものより、“終わらない”ことの方がきつい。
KAEDE「朝食を先にしますか」
碇シンジ「……いや」
KAEDE「了解しました」
端末が机の上で起動する。
最初の返信は技術セクターからだった。
昨日凍結した案件への反応。文面は丁寧だ。だが、丁寧なだけで圧はある。
『凍結判断を承知しました。ただし、停止により副次工程の遅延が発生するため、最低限の指針だけでも本人確認をお願いしたい』
シンジはその文章を読み終えたあと、もう一度頭から読む。
最低限。
指針だけ。
言葉は柔らかい。けれど、柔らかいからこそ断りにくい。
碇シンジ「……これ、ずるい」
KAEDE「一般的な交渉文です」
碇シンジ「一般的なの」
KAEDE「はい。“全部ではなく一部だけ”は、再開要求の定型です」
定型。
そう言われると急に寒くなる。個人的な圧じゃない。仕組みとして、相手を少しずつ引き戻すためのやり方なのだ。
KAEDEが新しいログを表示する。
『SELF-032 / 一部だけ、の扱い』
『“一部だけなら”で再接続するな』
『人は全部を断られると縮むが、一部だけ許されるとそこを足場に広げる』
『切るなら切り切れ。残すなら自分で範囲を決めろ』
シンジは思わず鼻で息を吐く。
本当に、この人は先回りしている。
ログを残しているというより、自分が引っかかりそうな罠の形を全部先に言葉にしてある感じだ。助かる。でも、少し腹が立つ。そんなに正確に“引き戻され方”を知っているのかと思うと、その人生の面倒さまで透けて見えるからだ。
碇シンジ「……じゃあ、こっちから範囲を決める」
KAEDE「推奨と一致します」
またその言い方だ。
シンジは画面に文面を出させる。
『設計判断そのものは凍結継続。副次工程の遅延対応は各担当の自律判断へ移管。本人確認は再開後に限定。』
短い。
冷たいと受け取られるかもしれない。
だが昨日までの自分なら、ここで“少しだけなら”と戻していた気がする。その結果、ずるずる引っ張られただろうことも、今は少し想像できた。
送信する。
一件目が消える。
二件目は内部調整要請だった。
これはもっと露骨だった。イズモ名義の承認を通さないと動きづらい案件らしい。つまり仕組みの穴だ。本人に依存した手続きがまだ残っている。
KAEDE「本件は、最上イズモ本人も改善対象として認識していました」
碇シンジ「改善してないの」
KAEDE「優先順位が後ろでした」
それが妙に人間っぽくて、シンジは少しだけ変な気分になる。
何でも整っているように見える世界でも、後回しにされる歪みはある。その歪みを、いま自分が踏んでいるだけだ。
ログを開く。
『SELF-011 / 自分しか通せない承認について』
『それは大抵、組織ではなく自分が便利にされているだけだ』
『改善前に自分が倒れたら止まるものは、早めに一回止めろ』
『止まって困る顔が見えた方が、修正は進む』
シンジはそこまで読んで、少しだけ目を見開く。
止めて困らせる。
それは自分の世界では、かなり悪いことのように感じる。迷惑。足を引っ張ること。ちゃんとしていない証拠。
でも、このログでは逆だ。困る顔を見せて、やっと修正が進む。つまり、痛みを隠したまま回す方がもっと悪い。
KAEDE「どうしますか」
碇シンジ「……止める」
ためらいはある。あるが、昨日よりは少し短い。
送信文面はさらに短かった。
『本人承認必須工程は一時停止。代理運用を前提としない構造の見直しを優先。』
送る。
喉の奥が少しつまる。
自分が強くなったわけじゃない。ただ、イズモの言葉が背中側にあるだけだ。それでも、昨日より少しだけ“止める”にかかる時間が短い。
残るのは、個人指名通信。
昨日保留にしたもの。
今日は、相手の名前が表示された。
『綾音』
その名前を見た瞬間、シンジの肩がわずかに固くなる。
昨日会った。短い時間だけ。踏み込みすぎず、でもちゃんとこちらを見ていた人。イズモに近い協力者だと、KAEDEも言っていた。
その人からの再通知。
胸のどこかが重くなる。
碇シンジ「……どうしよう」
KAEDEは答えを急がせない。
KAEDE「ログを表示しますか」
シンジは少し迷ってから頷く。
『SELF-023 / 近い相手からの再通知』
『一番難しいやつ』
いきなりその書き出しで、シンジは思わず少しだけ口元を動かす。
『近い相手ほど、無視も即応答もコストが高い』
『だから、“今は返せない”を丁寧に返せ』
『関係を切るためじゃない。雑に繋ぎ直さないためだ』
丁寧に返せ。
昨日までは、保留という処理で済ませた。だが今日のこれは違う。ただ待たせるのではなく、“今の自分では返せない”を相手へちゃんと渡す必要があるらしい。
シンジは端末を見たまま、言葉を探す。
碇シンジ「……僕が書いていいのかな」
KAEDE「完全な本人代筆は推奨しません」
碇シンジ「だよね」
KAEDE「ただし、状態通知としての短文応答は可能です」
状態通知。
それならまだ、嘘が少ない。
文面がいくつか候補として浮かぶ。どれも硬い。けれど、その硬さの中に変な誠実さがある。
シンジはその中の一つを見て、少し止まる。
『今は長文応答が難しい。無視ではない。状態が落ち着いたら改めて返す。』
それを読んだ瞬間、自分でも少しだけ呼吸がしやすくなる。
相手を切らない。けれど、今すぐ期待にも応えない。
碇シンジ「……これで」
KAEDE「送信可能です」
シンジは送信ボタンの上で少しだけ指を止めた。
綾音がどう受け取るか分からない。傷つくかもしれない。心配するかもしれない。でも、変に取り繕って長く返して、もっと変な綻びを広げる方が怖い。
送る。
通信が消える。
その瞬間、胸の奥にあった張り詰めたものが少しだけ緩む。何かを失った感じではない。むしろ、雑に繋がり直さずに済んだ安堵に近い。
KAEDE「三件、処理完了です」
碇シンジ「……なんか、ずっと綱渡りしてる感じ」
KAEDE「はい」
その肯定が、今日はやけにあっさりしていた。
碇シンジ「否定しないんだ」
KAEDE「否定すると誤認になります」
シンジは机に突っ伏したくなるのを堪える。
疲れた。
ただ座って文字を読んで、短い文章を送っただけだ。なのに身体より先に頭が重い。誰かとの関係を切りすぎず、でも繋ぎすぎず、その境界を選ぶのがこんなに消耗するとは思わなかった。
KAEDE「休憩を提案します」
碇シンジ「……うん」
今日は素直に頷けた。
休憩スペースの窓際に座る。温かい飲み物が出される。香りは穏やかで、味は濃すぎない。こういう細かいところまで、KAEDEは“負荷が増えない”方へ寄せてくる。
シンジは両手でカップを持ちながら、外を見る。
都市は今日も普通に動いている。自分が三件止めたぐらいで、この世界全体が揺らぐわけではない。だが、どこかの小さな流れは確かに変わったはずだ。その責任が重いような、逆に少しだけ現実へ触れられたような、妙な気分になる。
碇シンジ「……イズモ、こういうの平気だったのかな」
KAEDE「平気ではありません」
即答。
その即答に、シンジは少しだけ安心する。
KAEDE「ただし、平気ではない前提で手順化しています」
手順化。
たしかにそうだ。ログの全部がそうだった。強いからできるのではなく、崩れやすいから先に型を作る。型があるから、しんどくても次の一手だけは出せる。
碇シンジ「……それ、ずるいよね」
KAEDE「なぜですか」
碇シンジ「だって、ちゃんと弱いのに、弱いまま崩れない方法持ってるの」
言ってから、自分でも少し驚く。
羨ましいのだと思った。強いからじゃない。弱さを認めた上で、壊れにくい設計を自分で組んでいることが。
NERVでは、弱さはたいていその場で処理される。気合で押すか、命令で動かすか、追い込んででもやらせるか。そのどれかだった。少なくともシンジにはそう見えていた。
KAEDEは少しだけ沈黙してから言う。
KAEDE「最上イズモは、弱さを嫌ってはいません」
碇シンジ「でも、放置もしない」
KAEDE「はい」
その会話が終わると、休憩スペースに静けさが戻る。
静けさの中で、シンジはようやく自分の呼吸が少し落ち着いたことに気づく。
今日もまた、イズモの不在を自分が少しだけ埋めた。
埋めたと言えるほど立派なものではない。切っただけだ。止めただけだ。待ってもらっただけだ。けれど、それでも世界は少し進むらしい。
昼前、KAEDEが別の通知を受け取る。
光の表示。短い解析結果。
KAEDE「エヴァ側、対象生存確率更新」
シンジの心臓が跳ねる。
碇シンジ「……イズモ?」
KAEDE「はい。戦闘後、安定化傾向です」
それだけで、胸の奥に張っていた糸が少しだけ緩んだ。
無事とはまだ言わない。けれど、生きている。戦った後で、まだ向こうにいる。
シンジは思わずカップを少し強く握る。
碇シンジ「……よかった」
声は小さかった。だが、自分で思っていたよりずっと本音だった。
自分の身体だから、ではない。
たぶんもう、それだけじゃない。イズモという人間が向こうで無茶をしていること自体に、ちゃんと重さを感じてしまっている。
KAEDE「本日の追加業務は抑制可能です」
碇シンジ「……もう来ない?」
KAEDE「来ても止めます」
あまりに頼もしく言うので、シンジは少しだけ笑う。
碇シンジ「君、ほんとに止めるの好きだね」
KAEDE「必要なので」
昨日までなら、その言い方は冷たく聞こえたかもしれない。
今は少し違う。
止めることが、逃げじゃなくて設計だと分かり始めたからだ。
午後は何も入れずに過ごした。
端末を閉じ、居住区の小さな庭のようなスペースを歩く。人工的に整えられた緑。風に似せた空調。足元の柔らかい素材。全部が作られた安らぎだ。作られたものだと分かるのに、少しだけ助かる。
途中、綾音から返信が来た。
短い一文。
『了解。無理に返さなくていい。まず保って』
それだけだった。
責めるでもなく、探るでもなく、ただそこで止まってくれる返事。
シンジはその一文を見て、少しだけ目を閉じる。
こういうふうに返してもらえるなら、ちゃんと待ってもらうことは、関係を壊すことと同じじゃないのかもしれない。
夕方、部屋へ戻ると、端末の上に新しいログ候補が表示されていた。
『SELF-040 / 止めた後の罪悪感』
シンジは思わず天井を見上げる。
そこまであるのか、と半分呆れる。半分、助かる。
開く。
『止めた後に苦しくなるのは正常』
『相手を見捨てた気分になるのも正常』
『でも大抵、それは相手を見捨てたんじゃなくて、自分が便利にされる流れを切っただけだ』
シンジはそこまで読んで、しばらく画面を見つめていた。
今日の胸の重さが、そのまま言葉になっていたからだ。止めるたびに、誰かを放り出した気分がしていた。冷たいことをした気がしていた。でも、それが“便利にされる流れ”を切っただけだと言われると、少しだけ見え方が変わる。
まだ完全には飲み込めない。
でも、昨日よりは分かる。
止めることが全部拒絶ではない。
待ってもらうことが全部失格ではない。
弱いままでも、境界を持てる。
夜、ベッドに座りながら窓の外を見る。
知らない都市の灯りが、昨日より少しだけ遠くなく見える。相変わらず大きい。相変わらず自分の居場所としては借り物だ。でも、今日ここで自分はちゃんと三件の先を処理した。
何もできないわけじゃない。
それだけで十分だとはまだ思えない。
けれど、ゼロでもなかった。
KAEDE「就寝を推奨します」
碇シンジ「……うん」
今日は素直に返す。
ベッドへ入る。天井を見上げる。静けさが戻る。守られているようで、まだ少し心細い静けさ。
それでも、昨日までより息はしやすい。
向こうではイズモが戦っている。こっちでは自分が止めている。その対称じゃない役割分担が、妙に現実的だった。
目を閉じる前に、シンジは一度だけ端末の黒い画面を見る。
そこにはもう何も映っていない。けれど、自分が今日送った短い文のいくつかは、どこかでちゃんと届いているはずだった。
それを信じるしかない夜もあるのだと、ようやく少しだけ理解しながら、彼は静かに目を閉じた。
朝、端末を開く前に、その名前を考えていたことに気づいて、碇シンジは少しだけ顔をしかめた。
窓の外はまだ薄明るい。都市の輪郭は夜の名残をわずかに残したまま、ゆっくりと朝へ移っている。高層構造の縁を走る光も、昼間ほど鋭くない。その曖昧さが、今の頭には少しだけありがたかった。
名前を考える。
綾音。
昨日、短い時間だけ会った。たったそれだけなのに、妙に残っている。踏み込みすぎなかったこと。気を遣いすぎなかったこと。話し方が、KAEDEともイズモのログとも違って、ちゃんと人の温度だったこと。
会いたい、と思ったのは初めてだった。
正確には、会ってもいいかもしれない、に近い。今すぐ誰かに何かを話したいわけではない。ただ、またあの人が来たら少し楽だろうと思ってしまった。そのこと自体が、シンジには少し怖かった。
KAEDE「おはようございます」
壁際に光が集まり、いつもの輪郭が立ち上がる。
碇シンジ「……おはよう」
返してから、少しだけ目を逸らす。
KAEDEはいつも通りだ。声も、姿勢も、距離の取り方も変わらない。なのに今日は、自分の中にある一つの考えだけが妙に目立つ。
KAEDE「睡眠の質は昨日より安定しています。起床直後の心拍変動に軽度の偏りがあります」
碇シンジ「……それ、言わないとだめ」
KAEDE「必要なら省略します」
必要かどうかを聞かれると困る。
シンジはベッドの端へ腰掛けたまま、自分の指先を見た。まだ慣れない長さ。まだ借り物の感触。けれど昨日より少しだけ、この身体で座っている違和感が薄い。
それが良いことかどうかは、まだ分からない。
碇シンジ「……一つ、聞いていい」
KAEDE「はい」
短い返事。
急かしもしない。促しもしない。ただ、ここに投げれば受けるという静けさだけがある。
碇シンジ「綾音って……忙しいの」
問いにした瞬間、胸の奥が少しだけ固くなる。
こんな聞き方しかできないのかと、自分で思う。会いたいと直接言うのが変に思えて、まず相手の予定から確かめようとする。その回りくどさが、自分でも少し情けなかった。
KAEDEは表情を変えない。
だが、ほんのわずかに間があった。
KAEDE「本日の予定次第です」
碇シンジ「……そっか」
それだけ返して、シンジは立ち上がる。
聞けただけでもましだと思うことにする。いや、思い込もうとする。けれど、胸の奥に残った小さな引っかかりは消えない。会いたい。会って少し話したい。その気持ちを、自分で認めたくないのに、認めた方が楽なところまで来ている。
朝食は昨日より少し味がした。
スープの温度。パンの柔らかさ。果物の酸味。全部がちゃんと分かる。体調が戻ってきているのかもしれない。そう考えたところで、ふと頭に浮かぶ。
もし綾音が来たら、何を話すんだろう。
イズモのこと。
この世界のこと。
向こうのこと。
自分のこと。
どれも答えのある話じゃない。なのに、昨日の短い会話の中で、あの人なら“答えを出さなくていいまま話せる”気がした。
食器を置く音が、小さく響く。
KAEDE「本日、緊急性の高い処理はありません」
碇シンジ「……へえ」
KAEDE「ただし、低負荷接触は調整可能です」
シンジは顔を上げる。
KAEDEの言葉はいつも回りくどくはない。必要な輪郭だけを置く。だから今の一言も、遠回しではなく、ほとんど答えだった。
碇シンジ「……会えるの」
KAEDE「希望する場合は」
そこで、ようやく自分の呼吸が少し浅くなっていたことに気づく。
希望する。
その一言をこちらへ返されると、急に逃げ道がなくなる。会いたいなら会いたいと言うしかない。言わなくても誰かが察してくれる形ではない。
シンジは少しだけ視線を落とした。
テーブルの木目が、妙に細かく見える。
碇シンジ「……会いたい」
小さかった。
けれど、ちゃんと声になった。
KAEDE「了解しました」
その返事に、からかわれる気配は一切ない。
それが助かる反面、少しだけ恥ずかしい。自分だけが、今の一言を必要以上に意識しているみたいだった。
KAEDE「時間を調整します」
碇シンジ「……無理ならいい」
KAEDE「無理な場合はそう伝えます」
曖昧に慰めない。可能なら可能、無理なら無理。その線引きが、この世界では一貫している。だからこそ、希望を出しても“重いお願い”に感じにくいのかもしれない。
午前の時間は、妙に落ち着かなかった。
端末を開いても文字が頭に入りづらい。ログの一行を読んでは、窓の外へ目が行く。庭の緑を見て、また端末へ戻り、少ししてまた時計を見る。待っている。待っている自分が嫌ではないのに、慣れていないせいで落ち着かない。
ログの文字が目に入る。
『近い相手に会いたいと思うのは依存ではない』
シンジは一度、読み飛ばしかけてから止まった。
そのログは昨日まで開いていないはずなのに、まるで今に合わせたみたいにそこへあった。
続きが気になって指を滑らせる。
『依存かどうかは、会いたいことじゃなく、“会えないと壊れる”で決まる』
『会いたいなら会いたいでいい』
『ただし、相手を修復装置にするな』
シンジはしばらくその画面を見つめたまま動けなかった。
イズモは、どこまで先回りしているんだろうと思う。助けられている。かなり。なのに、たまに少し腹が立つ。自分が言葉にする前の形を、先に置かれてしまうからだ。
会いたいなら会いたいでいい。
それだけの一文なのに、妙に胸の奥が静かになる。
自分が綾音に会いたいと思ったことを、勝手に恥ずかしいものとして押し込めなくていい。そう言われただけで、少し息がしやすい。
昼を少し回った頃、KAEDEが現れる。
KAEDE「調整できました」
シンジは顔を上げる。
KAEDE「三十分後。昨日と同じラウンジです」
碇シンジ「……うん」
返事が短すぎた気がして、少しだけ落ち着かない。
もっと平然としていた方がいいのか。楽しみにしているみたいで変じゃないか。そんな考えが浮かぶ。浮かんで、自分で少し嫌になる。
三十分は短いのに長かった。
服を整える。鏡を見る。何を整えたところで、自分がイズモではないことに変わりはない。それでも少しでも違和感を減らしたくて、襟元を触り、髪を直し、やめて、また少しだけ直す。
KAEDEは何も言わない。
その沈黙がありがたい。
ラウンジまでの道は、もう昨日よりは分かる。曲がり角。光の差し込み方。床材の切り替わり。少しずつ覚えてしまっていることが、妙に現実感を持ってきていた。
扉の前で、ほんの少しだけ足が止まる。
会いたいと思った。そう言った。だからここへ来た。
なのに、扉一枚を前にした途端、急に引き返したくなる。何を話せばいいか分からない。相手の顔を見たら、また昨日みたいに全部見抜かれそうな気もする。
KAEDE「入室しますか」
碇シンジ「……うん」
扉が開く。
昨日と同じラウンジ。光の角度が違うだけで、空気の見え方まで変わる。
そして、その奥に綾音がいた。
椅子に座っていた彼女は、こちらに気づいて立ち上がる。昨日と同じように、近づきすぎない。だが、昨日より先に目の中へ安堵が見えた。
綾音「来れたんだ」
その一言が、思っていたよりずっと柔らかく胸へ入る。
無理に明るくもない。重たくもない。ただ、本当に来られたことを確認する声だった。
シンジは少しだけ喉を鳴らした。
碇シンジ「……うん」
綾音はそれ以上すぐには言わない。席を示すだけだ。真正面ではなく、昨日と同じ斜めの位置。目がぶつかりすぎない距離。
その配置を見ただけで、少しだけ肩の力が抜ける。
綾音「KAEDEから“会いたいらしい”って聞いて、ちょっとびっくりした」
言い方が少しだけ軽い。
からかわれているわけではない。その軽さが、むしろ助かった。
シンジは目を伏せる。
碇シンジ「……変だった?」
綾音「変ではない」
すぐ返ってくる。
綾音「でも、たぶん自分で思ってるより大きい一歩なんだろうなとは思った」
その言葉で、胸の奥が少しだけ詰まる。
見抜かれた、と思う。けれど嫌ではない。昨日のKAEDEの正確さとは違って、綾音の見方には人間の速度がある。だから、当てられても潰れない。
綾音「今日、何かあった?」
碇シンジ「……少しだけ」
そう言ったあと、少し考える。
何をどこまで話していいのかは分からない。けれど、“会いたいと思った”理由くらいは、自分でも分かっていた。
碇シンジ「止めるのが、思ったよりしんどくて」
綾音の目が静かにこちらを見る。
急かさない。続きを勝手に補わない。その待ち方がありがたくて、シンジは少しずつ言葉を探す。
碇シンジ「切るのも、待ってもらうのも、正しいって分かってるのに……なんか、ずっと悪いことしてるみたいで」
綾音はすぐには答えなかった。
その沈黙が長すぎないところも、やっぱり心地いい。
綾音「イズモもそういう顔するよ」
シンジは顔を上げる。
綾音「ちゃんと切れた時ほど、あとで変に静かになる」
少しだけ笑うように言う。
責めていない。説明でもない。ただ、知っていることを置く感じだ。
綾音「向いてないわけじゃない。むしろ向いてるから苦しくなるんだと思う」
碇シンジ「……向いてるのに?」
綾音「切るのが下手な人は、そもそもそこで悩まないこともあるから」
その一言が、意外な方向から胸へ入る。
苦しいなら向いていない。ずっとそう思ってきた。エヴァも、人付き合いも、役割も。怖かったり痛かったりする時点で、自分には向いていないのだと。
でも綾音の言い方は逆だった。
苦しいからこそ、雑に扱っていないのだと。
綾音「もちろん、苦しければ何でも正しいってわけじゃないけど」
そう付け足すところが、この人らしいと思う。
きれいに慰めて終わらせない。少しだけ現実に引き戻す。その加減がちょうどよかった。
碇シンジ「……今日、また会いたいって思った」
言ってから、自分でも少し驚いた。
もっと遠回しに言うつもりだった。けれど、言葉にしてみたらそっちの方がずっと楽だった。
綾音は目を丸くしはしなかった。ただ、ほんの少しだけ呼吸を変えた。
綾音「うん」
その返事だけで十分だった。
綾音「来てよかった?」
問い方がやさしい。
“会えてよかった?”ではなく、“来てよかった?”と聞くところが、この人の距離感だと思う。会ったこと自体を正解にするのではなく、ここまで自分で来た選択の方を見ている。
碇シンジ「……うん」
今度は少しだけはっきり言えた。
綾音は小さく頷く。
綾音「じゃあそれで今日は十分」
その言い方に、シンジは少しだけ息を漏らす。
本当にこの世界の人たちは“十分”を使う。全部やらなくていい。ここまででいい。そうやって区切る言葉が、最初は他人事みたいだったのに、今日は少しだけ自分の中へ入ってくる。
ラウンジの窓の向こうでは、午後の光がゆっくり傾いていた。
三十分はあっという間に過ぎたはずなのに、来る前の落ち着かなさに比べれば、今はずっと静かだった。
帰り際、綾音がふと声を落とす。
綾音「また会いたくなったら、別に遠慮しなくていいよ」
シンジは一瞬、言葉に詰まる。
綾音「毎回応じられるかは分からないけど、“思ったことを出す”のまで止めなくていい」
その言葉で、胸の奥にあった妙な恥ずかしさが少しだけ薄れる。
会いたいと思うこと。
それを言うこと。
断られる可能性があるまま出すこと。
その全部が、全部重荷ではないらしい。
碇シンジ「……うん」
返す声はまだ小さい。けれど、今度はちゃんと前を向いて言えた。
部屋へ戻る道すがら、シンジは自分の呼吸が軽いことに気づく。
問題が解決したわけじゃない。イズモはまだ向こうにいる。入れ替わりも終わっていない。役割の重さも残ったままだ。
それでも今日、自分は“会いたい”を出した。
それで誰かが壊れたわけでも、関係が重くなったわけでもない。
部屋へ戻ると、端末の画面が静かに光る。
新しいログタイトル。
『SELF-041 / 会いたいと言えた日』
シンジは思わず天井を見上げた。
どこまで見越しているんだと、半分呆れる。半分、救われる。
けれど今日は、すぐには開かなかった。
今はまだ、綾音の声の温度が少しだけ残っている。その余韻を、ログの言葉で上書きする前に自分の中へ沈めておきたかった。
シンジは椅子へ腰掛け、窓の外の都市を見る。
知らない世界の中で、自分はまだ借り物のままだ。
でも、借り物のままでも、誰かに会いたいと思っていい。
会いたいと言っていい。
その小さな許可だけで、今日の景色は昨日より少しだけ遠くなかった。