碇シンジと最上イズモ 他人を演じるということ 作:最上 イズモ
医療区画の白さは、勝ったあとほど目に痛かった。
最上イズモは処置台の端に腰掛けたまま、右手の固定具が巻かれていくのを黙って見ていた。掌部の人工皮膚。圧着。損傷した表層装甲に対応したシンクロ痛の残響が、まだ遅れて神経の奥を走っている。
シャムシエル戦は終わった。
だが、終わった直後の静けさが一番終わっていない。
赤木リツコ「痛みは」
最上イズモ「あります」
赤木リツコ「数値より素直ね」
最上イズモ「隠す意味が薄いので」
リツコは返事をしない。
返事をしないまま、こちらの手ではなく顔を見ている。掌の損傷具合や神経波形の乱れより、その裏にある判断基準の方を見たがっている目だった。
シャムシエル戦は、サキエル戦より普通だった。
だからこそ厄介だ。
異常な一回なら事故として処理できる。だが、二戦続けて違う勝ち方を選び、しかもその理由が明確に戦術へ落ちているとなれば、NERVは“使えるかもしれない”の精度を上げてくる。
そこが本番だ。
葛城ミサトが壁際にもたれたまま、珍しく静かだった。いつもなら少しは茶化すか、強めに休めと言うか、そのどちらかが入る。今は入らない。こちらとリツコの間に走っているものを、下手に崩さない方がいいと判断している顔だった。
伊吹マヤは端末を抱えたまま、処置が終わるのを待っている。彼女の目にはまだ戦闘記録の残像がある。昨日は異常技、今日は通常寄り撃破。たぶん頭の中では、どちらが恐ろしいのか整理がついていない。
最上イズモ「オペレーターさん」
伊吹マヤ「は、はい」
声が少し上ずる。
最上イズモ「今日は助かりました。搬送のタイミング、正確でした」
マヤが目を瞬く。
礼を言われると思っていなかった顔だった。
伊吹マヤ「え、あ……いえ、私はその……」
伊吹マヤは言葉を探し、結局端末を抱え直すだけで止まった。褒められて嬉しいより先に、どう返せばいいか分からないらしい。その不器用さが少しだけ人間らしくて、助かる。
リツコがそれを横目で見て、冷静に言う。
赤木リツコ「余裕ね」
最上イズモ「そう見えるなら良かったです」
赤木リツコ「見せ方の話をしてないわ」
処置スタッフが最後の固定を終え、短く頭を下げて離れていく。部屋の中から医療の手だけが抜けると、急に会話の密度が上がる。
逃げ場が減る。
リツコが一歩近づく。
赤木リツコ「昨日は異常な勝ち方をして、今日はそれを封じて通常運用で落とした」
最上イズモ「はい」
赤木リツコ「それを“たまたま”で済ませる気はないわよ」
最上イズモ「でしょうね」
赤木リツコ「あなた、自分が何をやっているか分かってる」
最上イズモ「分かっている範囲だけ使っています」
赤木リツコ「分かっていない範囲は?」
最上イズモ「触りません」
その答えに、ミサトが少しだけ目を細める。
たぶん彼女は、その返事がどこまで本気か測っている。リツコは逆に、本気でそうしているからこそ余計に厄介だと感じている顔だ。
赤木リツコ「優等生みたいなこと言うのね」
最上イズモ「優等生は、もっと人に安心されます」
ミサトが小さく吹き出しかけて、咳払いで誤魔化す。
葛城ミサト「それはちょっと分かる」
赤木リツコ「あなたは笑ってる場合じゃないの」
葛城ミサト「笑ってないわよ」
笑っていた。
だが、そこへ突っ込む余裕は自分にもない。
リツコは腕を組みそうで組まないまま、言葉を選ぶ。
赤木リツコ「確認する。あなたは昨日のA.T.フィールド局所変形を、今日は意図的に使わなかった」
最上イズモ「はい」
赤木リツコ「理由は、代償が見合わないから」
最上イズモ「それと、前例化を避けたかった」
空気が止まる。
ミサトの視線が横から刺さる。マヤは端末から顔を上げる。リツコだけが、ほんの少しだけ口元を動かした。ようやく出したか、という反応だった。
赤木リツコ「前例化」
最上イズモ「一度成功した手段は、次から“使えるもの”として期待されます」
赤木リツコ「当然よ」
最上イズモ「だから避けました」
赤木リツコ「それは誰に対して?」
いい問いだと思う。
NERV全体か。発令所か。ゲンドウか。目の前のリツコ自身か。ミサトか。あるいは自分か。
最上イズモ「全員です」
リツコは少しだけ息を吐く。
赤木リツコ「正直ね」
最上イズモ「ここを曖昧にすると、次がもっと面倒になります」
ミサトが壁から背を離す。
葛城ミサト「それ、さっきからずっと思ってたけど」
最上イズモ「はい」
葛城ミサト「“次がもっと面倒”って基準でだいぶ動いてるでしょ」
最上イズモ「はい」
葛城ミサト「即答」
最上イズモ「危機管理の大半はそうです」
言った瞬間、マヤの表情がまた少し変わる。
怖がっているわけではない。たぶん今の一言で、自分の中にあった“なんとなくすごい”が、“考えてそうしている”に変わったのだろう。人は、理解不能な異常より、理由付きの異常の方を長く怖がる。
リツコが端末を引き寄せる。
赤木リツコ「あなたの戦闘記録、整理して提出してもらうわ」
来た。
予想していた形だ。生データ凍結を飲んでも、本人の言語化までは諦めない。研究者として当然だ。
最上イズモ「どの範囲まで」
赤木リツコ「全部」
最上イズモ「無理です」
赤木リツコ「できる範囲でいいわ」
最上イズモ「そこが一番危ない」
リツコの眉がわずかに動く。
最上イズモ「理解が浅いまま言語化すると、そこだけが独り歩きします」
赤木リツコ「では、理解が深い範囲だけでも」
最上イズモ「用途を限定してください」
赤木リツコ「交渉するのね」
最上イズモ「しないと死ぬので」
ミサトがまた小さく息を漏らす。
葛城ミサト「その“死ぬので”便利すぎない?」
最上イズモ「便利だから使ってます」
葛城ミサト「開き直ったわね」
実際そうだ。
戦術も、対話も、組織との距離も、どれも失敗した先に死がある場所で、遠慮だけを美徳にする余裕はない。
リツコは少し考えてから言う。
赤木リツコ「用途は現場共有に限定。研究部門への転用は私の許可が必要」
最上イズモ「記録の要約形式は僕が決めます」
赤木リツコ「生意気ね」
最上イズモ「条件です」
リツコはそこで初めて、ほんの少しだけ笑ったように見えた。嘲笑ではない。面倒な相手をようやく分類できた時の、研究者の癖みたいな表情だった。
赤木リツコ「いいわ。乗る」
葛城ミサト「乗るんだ」
赤木リツコ「ここで押しても、たぶん別のところで止まるもの」
その言い方に、ミサトは少しだけ納得した顔になる。
リツコはもう“命令で開く相手じゃない”と認識したのだろう。だから条件を刻んで使う方向へ寄せた。
そこは助かる。
その時、自動扉が開いた。
冬月コウゾウが入ってくる。今日の足取りは昨日より少しだけ軽い。戦闘結果を受けて、司令側の評価がある程度定まったのだろう。
冬月コウゾウ「司令が呼んでいる」
やはり来たか、と思う。
ミサトが先に顔をしかめる。
葛城ミサト「今?」
冬月コウゾウ「今だ」
赤木リツコ「状態は安定してる。問題ないわ」
最上イズモは固定具の巻かれた右手を見る。
問題ない、という言葉の意味が、この場所ではずいぶん広い。
司令室へ向かう通路は静かだった。
冬月が先を歩き、イズモがその半歩後ろを行く。シンジの歩幅。固定具の重さ。胸部の鈍い痛み。全部がまだ残っているが、歩けないほどではない。
冬月が前を見たまま言う。
冬月コウゾウ「君は、二戦目でより厄介になったな」
最上イズモ「そうですか」
冬月コウゾウ「一戦目の異常は偶然と切り捨てられる。二戦目で制御を見せた時点で、それは偶然ではなくなる」
言葉が正確だ。
この老人は、少なくとも物事の重さを測るのが早い。
最上イズモ「だから前例にされる前に切りました」
冬月コウゾウ「それを自分で言うか」
最上イズモ「言わないと、別の言葉で処理されるので」
冬月は小さく息を吐いた。
冬月コウゾウ「厄介だ」
三度目だ。
もう半分くらいは評価として受け取っていい気がしてくる。
司令室へ入る。
碇ゲンドウはいつもの位置にいた。眼鏡の奥の目は冷えたままだが、昨日までと違うのは、もうこちらを“乗せられるかどうか”では測っていないことだ。
既に乗るものとして話が始まる。
それが一番危ない。
碇ゲンドウ「シャムシエル戦、ご苦労だった」
最上イズモ「はい」
労いの形をしている。だが、そこに温度はない。確認だ。結果への認識共有。その程度のもの。
碇ゲンドウ「昨日とは違う戦い方をしたな」
最上イズモ「必要条件が違いました」
碇ゲンドウ「A.T.フィールドの応用を封じた理由は」
最上イズモ「代償管理です」
碇ゲンドウ「次に必要なら使うか」
やはりそこへ来る。
“使えるか”の確認。“必要なら”の条件付きで、昨日の手を戦術に編入したい。その意図が露骨だった。
イズモは少しだけ考える。
ここで曖昧にすると、使える前提で次が組まれる。だが完全否定もまた別の圧を呼ぶ。
最上イズモ「条件次第です」
碇ゲンドウ「条件とは」
最上イズモ「目標特性。周辺被害。初号機側の状態。僕の接続負荷」
ゲンドウは黙って聞く。
最上イズモ「それと、戦闘後に僕を使い物にならなくしてまで使う価値があるか」
その一言で、部屋の空気が少しだけ硬くなる。
ゲンドウの目が、わずかに細くなった。
碇ゲンドウ「自分の価値を高く見積もるのだな」
最上イズモ「安く使われると全員が困るので」
返した瞬間、自分でも少しだけ笑いそうになる。
父と子の会話ではない。組織と戦力の会話だ。冷たい。だが、この部屋ではその方がまだ安全だ。
冬月は横で黙っている。だが沈黙の質が変わった。司令がこちらを押し切れるかどうか、静かに見ている。
碇ゲンドウ「次の使徒戦でも、君が出る」
最上イズモ「はい」
碇ゲンドウ「拒否は」
最上イズモ「しません」
そこでゲンドウの口元が、ほとんど見えない程度に動いた。
予想外ではない。だが、やはり“拒否しない従順さ”が彼の想定していた従順さとは少し違うのだろう。圧で従うのではなく、条件を自分で測って従っている。それが支配の手触りを薄くする。
碇ゲンドウ「碇シンジ」
最上イズモ「はい」
碇ゲンドウ「お前は変わった」
来た。
昨日の学校でも、綾波に言われた。
ミサトにも言われた。
今度はゲンドウだ。
最上イズモ「そう見えるなら、そうなのでしょう」
碇ゲンドウ「理由は」
最上イズモ「必要だからです」
ゲンドウはそれ以上追わない。
追っても今は開かないと判断したのだろう。あるいは、開く必要がない。戦えるならそれでいい。そういう計算かもしれない。
碇ゲンドウ「下がっていい」
会話は短く終わった。
司令室を出ると、廊下の空気の方がよほど吸いやすかった。ゲンドウと向き合うたびに、こちらの中の“シンジではないもの”が強く見えてしまう気がする。そのズレを悟らせないことはもう難しい。だが、だからといって説明する気もなかった。
ミサトが外で待っていた。
葛城ミサト「どうだった」
最上イズモ「次も出るそうです」
葛城ミサト「そこは知ってる」
ミサトは肩をすくめる。
葛城ミサト「司令、何か言った?」
最上イズモ「変わった、と」
ミサトの目が一瞬だけ止まる。
葛城ミサト「……ふーん」
最上イズモ「深掘りはされませんでした」
葛城ミサト「する気はあるのよ、たぶん。ただ、今はまだ“使える”方が先」
その言い方に、自分も頷くしかない。
葛城ミサト「ねえ」
最上イズモ「はい」
葛城ミサト「今日のシャムシエル戦、あんた被害制御してたでしょ」
少し驚いて、イズモは彼女を見る。
ミサトは前を向いたままだった。
葛城ミサト「街への倒れ込み方も、敵の腕の流し方も、ちょっと綺麗すぎた」
気づいていたか。
最上イズモ「見えてましたか」
葛城ミサト「そういう返しする時点で当たり」
イズモは少しだけ息を吐く。
最上イズモ「未確認の民間人脱走を想定していました」
ミサトの足が一瞬だけ止まる。
葛城ミサト「……そこまで?」
最上イズモ「シェルターは完璧じゃないので」
葛城ミサト「だから、吹っ飛ばされる向きまで切ってたの」
最上イズモ「事故ルートに入ると、運でしか避けられなくなるので」
その一言に、ミサトはしばらく黙る。
沈黙の意味は分かる。理解はした。だが、それを十四歳のパイロットが戦闘中にやっている事実を、まだ自分の中へ落とし切れていない。
葛城ミサト「……あんた、ほんと何者なのよ」
今度は、昨日より少しだけ本気の重さがあった。
イズモは答えない。
答えないまま歩く。
それでいいと思った。ここで正体を言葉にした瞬間、壊れるものの方が多い。ミサトとの距離も、NERV内の扱いも、シンジ本人の席も、全部が今よりさらに不安定になる。
居住区へ戻る前、短く端末が振動する。
イズモは足を止める。見覚えのない型式ではない。ピースギア側の個人記録領域に近い簡易通知だ。こんな形でこちらへ届くのは珍しい。
ミサトが横から覗き込もうとして、さすがにやめる。
葛城ミサト「何?」
最上イズモ「……向こうからです」
ミサトは意味が分からない顔をしたが、そこを詰めなかった。
通知を開く。
文字は短い。KAEDEの整形を通したのだろう、余計な装飾のない簡潔な状態共有だった。
『停止案件三件処理済み。綾音へ短文応答送信。本人状態、安定寄り。』
イズモの目がそこで止まる。
綾音。
そこまで行ったか、と胸の奥で少しだけ息が詰まる。いや、詰まるというより、変な方向へ持っていかれそうになる感情を、慌てて掴み直す感じに近い。
シンジが、向こうでそこまでやった。
ただ保護されているだけではない。止めて、選んで、短くでも返している。
その事実が、予想以上に胸へ来る。
葛城ミサト「……碇君?」
最上イズモ「いえ」
いえ、では何も答えていない。
だがミサトはそれ以上追わなかった。代わりに、少しだけ声を和らげる。
葛城ミサト「休みなさい。今日はほんとに」
最上イズモ「はい」
今度は素直に返す。
部屋へ戻る。扉が閉まる。ようやく一人になる。
シンジの身体をベッドへ沈めると、戦闘後の痛みが少しずつ輪郭を持ち始める。掌。肩。胸。全部が鈍く重い。
それでも、向こうの通知をもう一度開く。
停止案件三件処理済み。
綾音へ短文応答送信。
本人状態、安定寄り。
短い。だが十分だった。
シンジは向こうで、自分の世界に触れている。
自分の代わりに“切る”を覚え始めている。
しかも、綾音に返した。
そこで少しだけ目を閉じる。
会いたいと思ったのだろうか。
迷ったのだろうか。
短くても返す方を選んだのだろうか。
考えた瞬間、そこから先を深く追うのは危険だと分かる。今は戦闘後で、判断も感情も少し甘くなる時間帯だ。そこへ個人的な揺れを入れると、ろくなことにならない。
最上イズモ「……あとで考えるか」
誰に向けたわけでもなく、そう言って通知を閉じる。
自分で自分に待てをかけるのは、たぶんこういうことなのだろう。シンジも今日、向こうで何度かこれをやったはずだ。切る。止める。待つ。その全部の地味な重さが、今なら少しだけ分かる。
天井を見上げる。
白ではない。居住区の落ち着いた色。NERVの医療区画の白さより、ずっと柔らかいはずなのに、今日はむしろその柔らかさが変に疲れる。
シャムシエル戦は終わった。
NERV側の期待は形を変えた。
ミサトは気づき始めている。
リツコは切り分けに入った。
ゲンドウは“使う前提”へ移った。
そして向こうでは、シンジが自分の世界で短文を返している。
全部が同時に進んでいる。
それでも今日は、昨日より少しだけマシだと思えた。
前例化を一つ切れた。
シャムシエルは普通寄りで落とせた。
シンジは向こうで三件止めて、綾音に返した。
十分、とはまだ思わない。
だが、今日ここで壊れなかった理由としては足りる。
目を閉じる直前、イズモは一度だけ手元の固定具へ視線を落とす。
借りている身体で、まだ返していない世界を守っている。
向こうでは借りられた自分の世界が、別の手で少しずつ保たれている。
その非対称な均衡が、今夜だけは妙に静かだった。
彼は深く息を吸い、次に来るはずの期待と問いをいったん天井の向こうへ押し上げるみたいに、ゆっくり目を閉じた。
朝の光は、第三新東京市の窓から入ると少しだけ嘘っぽく見える。
最上イズモは、葛城ミサトの部屋のダイニングテーブルに置かれたコーヒーの湯気を見ながら、そう思った。地上は確かに朝だ。空も明るい。けれど、この街ではその明るさの下に昨日までの破壊がまだ埋まりきっていない。だから、何事もなかったような朝食の匂いの方が、逆に現実離れして見える。
味噌汁の湯気。焼かれた魚。トースト。和と洋が噛み合っていないテーブルは、妙にミサトらしかった。
葛城ミサト「ちゃんと食べるのね」
最上イズモ「必要なので」
葛城ミサト「ほんとそればっかり」
ミサトはそう言いながら、自分のカップを持って向かいではなく斜めの席へ座る。真正面に来ないのは癖なのか、意識しているのか、まだ判断がつかない。
食卓に流れる沈黙は、気まずいわけではない。ただ、今日の彼女は昨日までより少しだけ待っている感じがした。何かを聞く前の沈黙。けれど、問いを立てた時点で戻れなくなることも分かっている人間の沈黙。
イズモは箸を止めずにいた。
止めると、相手に踏み込む隙を渡す。そんなふうに考える癖が出ていることに、少しだけ苦くなる。食卓でまで戦術を持ち込むのは本意ではない。だが、今の自分の立場では無防備の方が危ない。
ミサトがコーヒーを一口飲む。
それから、カップを置く音が小さく響いた。
葛城ミサト「ねえ」
最上イズモ「はい」
葛城ミサト「あなた、軍人でしょ」
箸が、ほんのわずかに止まった。
来たか、と思う。昨日の時点で違和感はかなり積まれていた。戦闘の判断。危機管理。被害制御。言葉の選び方。十四歳の碇シンジにしては、あまりに現場仕様すぎる。
ただ、“軍人”と来たのは少し意外だった。
最上イズモはゆっくりと顔を上げる。
ミサトは笑っていない。茶化してもいない。ただ、こちらを見ていた。見て、その先にある答えを無理やり引きずり出す気はないが、誤魔化されるつもりもない目だった。
葛城ミサト「どういう経緯で今のあなたになってるのかは分からない。でも」
彼女はそこで少しだけ息を置く。
葛城ミサト「命令の飲み方も、危険の測り方も、被害の切り方も、軍人のそれに近い」
近い、で止めたのがミサトらしかった。
断定しきらない。だが、引きもしない。
イズモは少し考える。
ここで完全否定をすれば、彼女の違和感はさらに深く残る。肯定すれば今度は別の線で詰められる。なら、そのどちらでもない位置を取るしかない。
最上イズモ「軍組織に近い構造にいたことはあります」
ミサトの目が少しだけ細くなる。
葛城ミサト「“いたことはある”」
最上イズモ「はい」
葛城ミサト「それ、肯定してるのとあんまり変わらないんだけど」
最上イズモ「完全な軍人ではありません」
嘘ではない。
少なくとも、自分の中の定義ではそうだ。ピースギアは単純な軍ではない。観測も、調停も、技術も、保護も、全部が混ざっている。軍人的な危機管理は持っているが、軍そのものではない。
だがミサトから見れば、その差はかなりどうでもいいだろう。
葛城ミサト「じゃあ何」
直球だった。
答えに困る問いほど、彼女は真っ直ぐ投げてくる。
最上イズモ「軍事に近い危機対応と、技術と、調整をやっていました」
葛城ミサト「……便利な人材ね」
その言い方に、皮肉は半分だけ混じっていた。残りの半分は観察だ。
ミサトはしばらくこちらを見ていたが、やがて視線を少しだけ落とす。
葛城ミサト「だからか」
最上イズモ「何がですか」
葛城ミサト「“乗れ”が効かなかったの」
その言葉で、イズモは少しだけ目を細める。
やはり彼女はそこを見ていた。ゲンドウの一番分かりやすい圧が機能しないこと。その理由をずっと探していたのだろう。
葛城ミサト「普通、あの人にああ言われたら、もっと別の反応になるのよ」
最上イズモ「知っています」
葛城ミサト「知ってるのね」
最上イズモ「はい」
また、少し言いすぎた気がした。
だがミサトはそこを深追いせず、代わりに違う角度から聞いてくる。
葛城ミサト「あなた、自分が危ない場所に出ること自体にはあまり躊躇がないでしょ」
最上イズモ「必要なら」
葛城ミサト「でも、無茶をしたいわけでもない」
最上イズモ「はい」
葛城ミサト「そのバランスがね、学生じゃないのよ」
朝の光が、テーブルの端を白く照らしていた。
イズモは少しだけ視線を落とす。トーストの焼き目。皿の縁。湯気の消え方。そういう小さいものに目を逃がす。
軍人、か。
そう見えるのは仕方ない。現場での優先順位づけも、被害管理も、意思決定も、NERVにいる人間から見れば軍の論理に最も近いだろう。
だが、本質的には少し違う。
軍なら、もっと命令系統が先に来る。こちらは、命令の上にさらに“人命事故の発生順”や“構造的破綻”を被せて見ている。だから従順に見えて、支配しきれない。
ミサトはその沈黙を待ってから、声を落とした。
葛城ミサト「碇君」
最上イズモ「はい」
葛城ミサト「私はあなたが何者か、まだ分からない」
それはそうだろう。
葛城ミサト「でも、少なくとも一つだけ分かる」
ミサトの指が、カップの縁をそっとなぞる。
葛城ミサト「あなたはこの街の人間を雑に死なせないように動いてる」
シャムシエル戦での被害制御に気づいていた時点で、そこへ辿り着くのも当然かもしれない。
葛城ミサト「それは、正直助かる」
最上イズモ「……そうですか」
葛城ミサト「でも同時に、気味が悪いくらい慣れてる」
率直だった。
責めてはいない。だが、安心もしていない。助かることと、怖くないことは別だと言われているようなものだった。
イズモは少しだけ息を吐く。
最上イズモ「たぶん、それで正しいです」
ミサトの眉がわずかに上がる。
葛城ミサト「正しい?」
最上イズモ「今の僕を、全面的に安心してはいけない」
言葉にした瞬間、空気が少しだけ重くなる。
けれど、ここは曖昧にしない方がいいと思った。彼女がこちらへ過度に寄るのは危険だ。信頼されすぎても困るし、敵視されすぎても困る。なら、“警戒したままで助けを受け取る”くらいの位置にいてもらうのが一番安定する。
ミサトはしばらく黙ったあと、小さく笑った。
葛城ミサト「自分で言うのね、そういうの」
最上イズモ「必要なので」
葛城ミサト「便利な言葉ね、それ」
最上イズモ「実際便利です」
ミサトはそこでようやく少しだけ肩の力を抜く。
葛城ミサト「じゃあ、こっちも正直に言う」
最上イズモ「はい」
葛城ミサト「私はあなたをまだ信用しきってない」
最上イズモ「はい」
葛城ミサト「でも、昨日の街であなたがやったことは見てた」
最上イズモ「……はい」
葛城ミサト「だから、“碇シンジの顔をした得体の知れない誰か”として扱うには、ちょっと助けられすぎてるのよ」
その一言が、思っていたより深く入る。
助けられている。
それを彼女が認めるのか、と少しだけ驚いた。NERVの人間はもっと“使っている”側の言葉で来ると思っていたからだ。
葛城ミサト「軍人かどうかはまだいい」
ミサトはカップを持ち上げる。飲まずに、そのまま手の中で温度を確かめるみたいに持っている。
葛城ミサト「ただ、あなたがどういう種類の人間なのかは知りたい」
種類。
面白い言い方だと思う。
正体ではなく、種類。名前や経歴より先に、どういう基準で動くのか。そこを知りたいのだろう。
それはたぶん、彼女自身が“人を使う立場”にいるからだ。危険な相手か。守る相手か。預けられる相手か。そういう分類をしないと自分ももたない。
最上イズモ「一つだけ言うなら」
葛城ミサト「うん」
最上イズモ「人を巻き込んでまで、自分が正しいとは思わない方です」
ミサトの目が少しだけ揺れる。
葛城ミサト「……それ、十四歳の台詞じゃないのよ」
最上イズモ「でしょうね」
葛城ミサト「でも、嫌いじゃない」
そこでようやく、食卓に少しだけ空気が戻る。
重い話は終わっていない。終わらないままだ。けれど、少なくとも今この場で互いを完全に敵へ回す感じではなくなった。
ミサトが立ち上がり、皿を片づけ始める。
葛城ミサト「学校、今日は休ませたいくらいだけど」
最上イズモ「必要なら行きます」
葛城ミサト「ほらそれ」
彼女は皿を持ったまま振り返る。
葛城ミサト「そういう“必要なら”で動く人、平時だと逆に危ないのよ」
最上イズモ「平時の方が苦手ですか」
葛城ミサト「むしろそっちでしょ、あなた」
言い返せない。
少なくとも今の自分はそうだ。戦場の方が優先順位が少ない。平時は曖昧な期待が多い。その曖昧さの方が処理しにくい。
ミサトはそれを見て、ほんの少しだけ苦笑した。
葛城ミサト「やっぱり」
食器を流しへ置く音がする。
その背中を見ながら、イズモは少しだけ考える。
彼女は今、かなり危うい位置にいる。こちらを疑っている。けれど、疑うだけで切り捨てるには助けられすぎている。近づきすぎても危険だと分かっている。だから、“警戒を残したまま対話する”というかなり面倒な立ち位置を、自分の意思で選んでいる。
強い人だと思う。
その評価を、口には出さない。
代わりに、ミサトが振り返ったタイミングで言う。
最上イズモ「昨日の件」
葛城ミサト「ん?」
最上イズモ「あなたが支持してくれたから、前例化を切れました」
ミサトの手が少しだけ止まる。
葛城ミサト「……そういうの、ずるいわね」
最上イズモ「事実です」
葛城ミサト「分かってるから困るのよ」
彼女は少しだけ笑って、それからいつもの調子に戻すみたいに肩を回した。
葛城ミサト「よし。今日は学校休み」
最上イズモ「急ですね」
葛城ミサト「軍人っぽい誰かさんに、平時の練習させるの」
最上イズモ「平時の練習」
葛城ミサト「そう。戦わない日、誰も死なない朝、緊急じゃない時間。それをちゃんと過ごせるかの確認」
言いながら、彼女自身も少しだけ不安そうだった。
けれど、それでもこの人はそっちへ舵を切る。危機だけで繋がる関係のままだと危ないことを、たぶん本能で知っているのだろう。
イズモは短く息を整える。
最上イズモ「了解しました」
葛城ミサト「“了解”じゃないのよ」
最上イズモ「では?」
ミサトは少しだけ考えて、それから口元をゆるめた。
葛城ミサト「……分かった、でいい」
最上イズモ「分かりました」
葛城ミサト「結局そうなるのね」
朝の光はまだテーブルの上に残っていた。
軍人でしょ、と言われた会話のあとにしては、ずいぶん穏やかな終わり方だったと思う。穏やかだからといって、疑いが消えたわけではない。むしろ、互いに“残したまま進む”ことを選んだだけだ。
それでも、その選び方は嫌いではなかった。