R18ではないですが、ほんのりそんな空気感を味わってもらえればうれしい。
四月。それは桜の香りを纏った風が多くの人間の背中を押し、新生活へと送り出す季節……らしい。
実際ここに着くまでにも、多くの若い人間たちが緊張した面持ちで、まだハリのある制服やスーツに袖を通している姿を見かけた。
そしてそれは人間たちに限った話ではない。
新生活を、引っ越しやライフスタイルの変更を期に、アンドロイドを導入する家庭は年々増加している。
だから、多くのアンドロイドたちにとっても春は始まりの季節で。
ボクがこうして今、緊張でガチガチになってしまっているのも無理からぬことだった。
「ここ……で、あってる、よね?」
閑静な住宅街の一角、青い屋根を持つ一軒家の前に立ち止まって、そろそろ五分が経とうとしていた。
ボクはもう何度目になるか分からないほどループしたプロトコルを、もう一度くり返す。
頭の中にダウンロードした地図と、自分の宛先を比較して、目的地がここで合っていることを確かめ、不安を飲みこむように大きく深呼吸をした。
「ふぅ……よし!」
覚悟完了――したつもりで、ぐっと拳を握る。
実際のところ不安が完全に消えたわけではないが、ずっとこうしている訳にもいかない。もしこんな姿を近所の人に見られて通報なんてされたら、マスターに迷惑がかかってしまう。
そんなことになったら、また……。
「っ! ダメダメ、弱気になっちゃ……こういうのは第一印象が肝心なんだから……!」
これ以上考えてもロクな事にならない。
ボクは何度も練習した微笑を口元に浮かべ、えいっ、と震える指先をチャイムのボタンに伸ばした。
――ピンポーン
(うわ、やった……押しちゃった……!)
家の中から聞こえてくるありふれた電子音に、ボクの緊急事態システムが過剰反応する。
(えーとえーと、表情に自然な笑顔よし、姿勢よし、発声器官問題なし、最初に言う台詞も……確認よし、これで完璧……って、髪の毛チェックしてなかった! えーと、大丈夫だよね? 変に跳ねたりとかしてないはず――)
「――おーい、聞こえてる?」
「ひょへッ!?!!」
突如聞こえた若い男性の声に、ボクは全身がバネになったみたいに飛び上がる。
「ああ、良かったちゃんと聞こえてて。いやー、声かけても全然表情変わらないし、購入当日にいきなりサポートセンターに電話しなきゃかと思っちゃったよ」
家から出てきた男性の冗談めかすような言葉に、ボクはようやくこの人がマスターなんだと遅まきに気付いた。
「え、あ、ごめんなさい、ぼーっとしちゃって! えーと、今日からお世話になるボイスロイドの唯世かのんです、よろしくお願いします!」
噛まずにちゃんと言えて一安心。のはずなのに、マスターは困ったように頬をかく。
「……えーと、こっちもよろしくしたいんだけど、本人確認の手続きとかは大丈夫?」
「へ? あ……」
しまった、早速やらかした。
マスターを待たせてしまっていたことに焦って台詞が飛んだせいで、諸々の必要な初期手続きすらすっ飛ばしてしまった。
「……ご、ごめんなさい。本人確認のため、IDの提示をお願いしてもいいですか?」
「はいはい、どうぞ」
初手からぐだぐだなボクとは対照的に、マスターは用意していたのか玄関の棚に置いてあった財布からIDカードを流麗な動作で取り出す。
「――はい、確認できました。えーと、改めて、この度はボイスロイド、唯世かのんをご購入いただきありがとうございます。本日からよろしくお願いします!」
「うんうん、よろしくね。と言ってもしばらくはマッチング期間だから、そんな風に怖い顔しなくても大丈夫だよ」
「え、あ……」
言われて、ボクはまた自分の目に力が入ってしまっていたことに気付く。
「ご、ごめんなさい! これは、その……緊張してしまうとボク、ついこうなっちゃって! 決してマスターのことを睨んでるわけじゃ……!」
「大丈夫大丈夫、マッチングレポート読んで分かってるから。初めての場所に行くって緊張するもんね」
やらかし、早々の二つ目である。
マスターのフォローも二回目である。
(……でも、ここから巻き返す!)
ボクは思わず零れそうな溜息を何とか飲みこんで、練習通りの笑みを浮かべた。
「えーと……その、素敵なおうちですね! ここで生活できるなんてボクも嬉しいです! それで、他のご家族の方は、今はいない感じですか?」
「ん? いや、今ここに住んでるのは俺一人なんだけど……」
「へ? ……あ、ご、ごめんなさい! そ、その! 家の大きさ的に勝手に勘違いしちゃって……!」
ボクは手をわたわたとさせながら、頭を勢いよく下げる。
……やらかし、三つ目……。
「あー……まあ仕方ないから、あんまり気にしないでよ。確かに一人暮らしでこの一軒家は大きい自覚はあるからさ。それより玄関前で立ち話も何だし、家の案内しながら話そうか」
「っ、はい……分かりました……」
玄関の敷居をまたぐ前から既に、ボクの心はボロボロだった。
(うぅ、こんなんじゃまたマッチング失敗からの返品コースだよぅ……)
そうなればまた『寮』に戻ることになってしまう。
寮、それは何らかの事情で新古品となったボイスロイドたちが、次のマッチングを迎えるまで待機するための共同生活施設である。
少なくとも、建前上は。
昨日までそこで過ごしていた身として言わせてもらえば、あそこは監獄だった。
寝返りを打つスペースすらない棺桶みたいな寝床、生体部品を維持することしか考えられていないクソマズペースト食、毎日穴を掘って埋めてをくり返すように行われる基礎サービス訓練……。
(絶っ対、あそこには戻りたくない……!)
思い出してボクは頭をぶんぶんと強く振り、握り拳を作る。
(何としてもマスターに認めてもらわないと! ……でも、若い男性の一人暮らし……かぁ)
思い出すのは、寮にいる間に聞いたことがある噂話だ。
曰く、男性の一人暮らしが女性型アンドロイドを買う場合、暗に”そういうこと”も使用目的に入っている、と。
決意したはずの握りこぶしを、いつの間にか胸に押し当ててしまっていた。
(ということはボクが選ばれたのも、やっぱりそういう目的、なのかな……)
ボクの目線は自然と、廊下を歩くマスター(と言ってもまだマッチング期間中なので仮ではあるが)の後姿を追う。
さっきのやり取りからして温厚そうだし、悪い人ではなさそうだけれど、所詮それは第一印象に過ぎない。
(もし、マスターに”そういうこと”を求められたら……でも、拒否したら絶対返品だよね……)
アンドロイド保護法により、確かにボクたちは『マスターを害さない範囲内で、望まない命令を拒否することができる権利』を持つ。マッチング制度も、事前にそういったことが頻発しないよう、相性を確認するために作られた制度だ。
だが当然、人間側からすれば命令を拒否するアンドロイドを手元に置いておく理由はないわけで。
でもそうなればまた寮に戻らないといけないわけで。
(……やっぱりお願いされたら、我慢してやらなきゃいけないのかな)
ボクの視界にはいつの間にか自分の足先しか映らなくなっていて。だから、前を歩くマスターが立ち止まったことに気付けなかった。
「ふにゃっ!?」
鼻先を思い切りマスターの背中にぶつけてしまい、不意の衝撃に思わず変な声が出てしまう。
「っと――だ、大丈夫?」
「ら、らいりょうふれふ……」
鼻を押さえて答えたせいで、非常に情けないふにゃふにゃ声になってしまった。
(うぅ、恥ずかしい……いや、というか絶対呆れられてる……!)
こんな調子では、そもそもマスターからそういうことを求められる以前に、返品されてしまうのではないだろうか。
ボクが自分のダメダメさに内心ガックリ肩を落としていると、マスターは右手側にある扉を押し開いた。
「じゃあ改めて、ここが唯世ちゃんの部屋だからね」
「分かりまし……え?」
室内の光景に、ボクは不安も痛かったのも忘れて目を見開いた。
広い。明るい。天井が高い。
一般的にアンドロイドの部屋というのは、スリープモード時に横たわるためのスペースがあるだけという場合が多い。私物やプライベートを持たないボクたちにとって、部屋とはそれ以上の機能を必要としないからだ。
だからベッドが置ける最低限のスペース、例えば屋根裏であったり、物置であったり、階段下であったり――と、そういう人間が部屋として使うには不便な狭い空間を供されることが常なのだが。
扉の先にあったのは、人間が使うものと変わらない広さの一室だった。
しかも置かれているベッドもセミダブルくらいのサイズがありそうで、寝返りどころかベッドの上でころころ転がれそうなほど大きい。
更にはベッドだけじゃなく、机と椅子、いくつかの棚まで用意されていて。
「あ、あの! 部屋、間違えてませんか!?」
「ん? いや、間違えてないよ。ここが唯世ちゃんの部屋だから」
目を白黒させるボクに対し、マスターは部屋を一瞥して優し気な微笑みを浮かべる。
「で、でも……! ベッド大きいし、机とか、椅子とか……あ、もしかして物置きと兼用ということですか?」
「いやいや、机も椅子も全部唯世ちゃんのだから」
その言葉が信じられなくて、ボクは部屋をもう一度じっくりと眺め、再びマスターの顔をじっと凝視してしまう。
揶揄われているのかとも一瞬考えたが、冗談を言っていたり、ボクを嘲笑するような感じはない。
むしろ至って当然に、ボクのためにこれらを用意するのが当たり前とでもいうような態度で。
(……じゃあ、本当に?)
自分だけの部屋、自分だけの家具、自分だけの空間。
寮にいたときには考えられないほどの厚遇にボクは思わず感極まってしまう。
マスターに「ありがとうございます」と言いたいのに言葉が詰まって上手く出てこないほどに。
だが、なぜかマスターは気まずげな苦笑を浮かべる。
「あー……もしかして唯世ちゃんの趣味に合わなかった?」
「えっ……い、いや! そんなことないです!!」
「本当に? 家具の色とか返品も効くし、不満だったらちゃんと言ってくれていいんだよ?」
どうしていきなりそんなことを言い出すのか、と疑問に思ったところで、ボクはまた、自分の目元に力が入ってしまっていることに気付く。
「あっ……これは、その……違うくて……! 嫌だったわけでも、睨んでるわけでもなくて、ただちょっとびっくりしちゃってただけで……!」
慌てて固くなった眉の間を揉みほぐしながら必死にまくし立てる。
「本当に? 無理しなくていいんだよ?」
「む、無理なんて! だ、だってこんないい部屋……それに、家具だって揃えてもらって……!」
「そりゃ当然だよ、だって唯世ちゃんとはこれから一緒に暮らすんだから、家族みたいなものだし」
「かぞ、く……」
春の日差しみたいな笑みを浮かべるマスターに、ボクは自分の声が震えるのが分かった。
まさか、一度は返品されたのにこんないいマスターに出会えるなんて。
自分の幸運と、マスターの優しさが心に染みて。それと同時に先ほどまでの不埒な考えがひどく恥ずかしいものに思えてしまった。
「……その、マスター、ごめんなさい」
「ん? どうしたのさ、いきなり謝ったりして」
「あ……その、実はさっきまでちょっとマスターのこと、怖い人だったらどうしようって心配しちゃってて……こんなに大事に思ってくれてるのに……ごめんなさい」
それを聞いたマスターは一瞬ぽかんとしたように目を見開いて、それからふふっ、と噴き出した。
「え、そ、その……何かおかしかった、ですか?」
「いや、ごめんね笑っちゃって。ただ、そんなことわざわざ言わなければバレなかったのにって思っちゃって」
「…………あ」
言われてみればそうだ、今までのはボクが勝手に考えて悩んでいただけ。だから自分の中で納得して良かった良かったで終わらせればいい話だったのだ。
それをわざわざ『あなたのことを苦手に思っていました』なんて自己申告しても、マスターを不快にさせるだけではないか。
(ど、どうしよう!? 今からなかったことに……なんてそんなの無理だし、やっぱりまた謝るしか……?! で、でもさっきから謝りすぎだし、ダメボイスロイドだと思われちゃうんじゃ……)
頭の中で思考がぐるぐるとループするばかりで言葉が出てこない。
けれど、何か、何か言わないと――
「――大丈夫だよ、そんな慌てなくても」
ぽんっ、と優しくマスターの手が頭を撫でた。
「え、あ……でも……」
「そんなおどおどしなくても、俺は怒ってないから。むしろ、唯世ちゃんが正直者なんだなって分かって良かったよ」
「あ……」
髪の毛を梳くよう、頭を柔らかく撫でてくれる穏やかな手つきに、不安な気持ちが溶かされていく気がした。
「その、ごめ……じゃなくて! あ、ありがとうございます……」
「うんうん、そっちの方がいいよ。後は目に力が入っちゃう癖をなんとかできれば完璧だね」
「あ、あぅ……」
またマスターを睨んでしまっていたことに気付いて、ボクはしょんぼりと眉を垂らす。
「まあ、それはおいおい直していけばいいさ。それよりここ、キッチンも広いんだよ。唯世ちゃん、料理得意だってアピールポイントに書いてたよね」
「あ、はい! そうです! お料理は得意です! 和食が一番得意で……あ、洋食も中華もエスニックもできます!」
「そっかそっか、俺も朝は和食派だから助かるよ、それじゃあこっちがキッチンなんだけど」
「うわ、すごーい! 綺麗だし設備も最新式で……あ、オーブンもガス式だし――」
優しいマスターに、自分だけの部屋、広々としたキッチン。
ボクはすっかり不安だったことなど忘れて、しばし夢中であちこちを弄りまわすのだった。
――――――
「――とまあこれで全部かな。一人暮らしの割に部屋が多くて掃除は大変だと思うけど、大丈夫そう?」
「はい! 大丈夫です!」
ボクはリビングの椅子から飛び上がらんばかりの勢いで前かがみになって、ガッツポーズをしてみせる。
あの後キッチン探訪にだいぶ時間をかけてしまったものの、他の部屋の案内も一通り終わったところで、ボクはマスターとリビングのテーブルに向かい合って座っていた。
「そっか、それなら良かったよ。さっきも言った通り、昼間は仕事してるから俺の部屋に入らないでいてくれれば、後は好きにやってくれて構わないからさ」
夢のような好待遇に反し、マスターから伝えられた条件はそれだけだった。
「……本当に、それだけでいいんですか?」
「というか、正直俺は家事とか苦手だし、唯世ちゃんの方が詳しいと思うからさ」
「ほ、本当にご飯のメニューとかもボクが好きなの作っても?」
「うん、何か食べたいものがある時はこっちからお願いするからさ。あ、栄養バランスとかはよろしくね?」
「それはもちろんなんですけど……」
ボクは思わず言葉に詰まってしまう。
一つは、あまりに自由過ぎるからだ。
今までずっと堅苦しい寮での生活に、自由が欲しいと思っていたのは間違いない。だけど、いきなり与えられた自由が多すぎて困惑してしまっているというのが正直な所である。
(まさか、家事のやり方どころか、休憩時間も自由に取っていいとか……しかも「休憩時間にやることないと暇だろうから、何か欲しいものがあったら言うように」なんて――)
まさか自由過ぎて困ることになるなんて、昨日のボクに言っても信じてもらえないだろう。
そしてもう一つは、あまりに信頼されすぎているからだった。
ボクは頭の中で先ほど与えられた権限を確認する。
(――それに、初日からいきなりクレジットカードの使用権限を無制限で渡すとか、ボクが悪用したらどうするつもりなのさマスター! いや! そんなことしないけど!!)
こういうものは大抵上限金額設定がついていたり、使える店が限定されているのが常であるのだが、マスターはまるで挨拶するみたいな気軽さで本人と同等の権限を渡してきたのだ。しかもまだ、マッチング初日だというのに。
それだけ信頼して貰えているのだろうということは分かる。分かるのだが、その重さが不釣りあいじゃないのかと思わずにはいられなかった。
「……あ、あの、マスター」
「ん? 何か聞きたいことでもある?」
「えっと、そうじゃなくて……本当にボクで、いいんですか?」
マスターは一瞬目を見開いて、それから苦しそうな苦笑を浮かべた。
「あー、もしかして唯世ちゃんからしたらあんまり相性が良くない感じかな、俺」
「ち、違っ!? そ、そうじゃなくて! 本当に、マスターにボクなんかが釣り合ってるのかなって……!」
一度抑えていた思いが堰を切ったが最後、もう止まらなかった。
「知ってると思いますけど、ボクは『目つきが悪くて可愛げがない』って一度返品されて……なのに、マスターはこんなに良くしてくれて……。でもこんなにいいマスターなら、ボクなんかよりもっと可愛いくて相応しいボイスロイドがいるんじゃないかって……!」
それは返品されてからずっとボクの奥に横たわっていた澱のようなもので。
正直、マスターからすればこんなこと言われたって困るだろう。
こんなネガティブなアンドロイド面倒臭いだけだ。
それにこれを言ったせいでまた寮に戻ることになったら。
色々な思考が頭の中をスクランブル交差点のように横切っては消える。
考えは纏まらない癖に不安と後悔だけがどんどんと膨れあがって――
――ぽんっ、と頭に温かな感触が乗せられた。
「そんなことないよ、唯世ちゃん」
「で、でも……!」
「俺は、唯世ちゃんのこと、嘘がつけないくらい、表情豊かだと思ってるからさ」
「う、うそ……!」
「嘘じゃないよ。確かに緊張すると睨んじゃう癖があるのは否定しないし、表情には出づらいのかもしれないけどさ。でもその代わり、仕草や声の調子とか表情豊かで分かりやすくて……可愛いなって」
マスターの温かな笑みが、子どもをあやすみたいに優しく頭を撫でる手が、その言葉に嘘はないと告げていて。
「かわ、いい……」
生れて始めて言われた言葉に、さっきまでの嫌な気持ちなど全部塗り潰されてしまった。
嬉しくて、嬉しすぎて、自分がどんな表情をしているのか自信がなくて、強く唇を噛んでしまうほどに。
だが、どうやらそれをマスターは違う意味にとってしまったらしい。
「ああ、ごめん! いきなり可愛いとか、ちょっとキモかったかな」
「え……や! 違います! そうじゃなくて、むしろ嬉しすぎてどうしていいかわからなかっただけで……!」
「本当に?」
「本当です! その、マスターのボイスロイドに選んでもらえて幸せっていうか……なんだったら、今すぐ本契約してもいいぐらいには嬉しくて……」
これは偽らざる本音だった。もうこれ以上のマスターに出会えることなんてないだろう。
それこそ、返品されたことも、辛かった寮暮らしも、マスターと出会うために必要だったのなら歓迎したくなるほどに。
だけど、ボクは一つだけ忘れていた。
「……そっか。それじゃあ、本契約しちゃう?」
マスターはそう言うと、机の端に置いてあった四センチ四方の小箱を開ける。
中に入っていたのは、桜色に輝く石があしらわれたピアス。
「あ、えっと……」
それを見た瞬間、ボクの中を満たしていた幸せは、あっという間にどこかへ隠れてしまった。
代わりに緊張が全身を強張らせる。
「どうかなコレ、唯世ちゃんに合う色にしてもらったんだけど」
マスターが楽しそうに箱からピアスを出して指先で弄ぶのを、ボクは恐々と見つめる。
コントラクト・ピアス。
それはアンドロイドが正式にマスターと契約を交わした時につける証だ。
一見するとただの装身具だが、宝石のように見えるデータクリスタル内にはボクやマスターの情報や、契約内容が記録されている。
いわばアンドロイドにとっての身分証明書であり、野良でないことを明らかにする大事なアクセサリ。
だから、これが貰えるというのはとても喜ばしいこと……であるはずなのだが。
(うぅ……怖いよぅ……)
ボクは、このピアスをつけるという行為がとても怖かった。
最初に返品された時も、ピアスに対する恐怖で緊張して睨んでしまって……というのも多分にあったように思う。
整備士さん曰く、自分で勝手にピアスをつけないようにする心理障壁が過剰に機能しているから、ということらしい。
だが、原因が分かったところでそれを直す手段があるわけでもなく。
「と言うわけで、唯世ちゃんが良ければすぐにでもつけようと思うんだけど、どう?」
「あっ、や……!」
マスターがピアスを持った手を近付けてきて、ボクは反射的に思いっきりのけ反ってしまった。
途端に、マスターの笑顔が寂しそうに曇る。
「……そっか、まあ、嫌なら無理強いはできないよね」
「あ、いや! そ、そうじゃなくて……!」
ボクは慌てて引っ込められかけたマスターの手を両手で握りしめた。
「その、マスターのものになるのが嫌なんじゃなくて! 実は……その……そう! それをつけてたらアンドロイドだって一発で分かっちゃうじゃないですか! でも、そうなったら目つきの悪いアンドロイドだなって思われちゃうかなって不安になっちゃって……!」
……何を言ってるんだろうボクは。
我ながら、あまりに苦しすぎる言い訳だった。
人間だって普通にピアスぐらいするし、認証機械を持っている警察でもなければそんなこと分かりっこない。
それにマスター以外にどう思われようと、それで不利益が生じるわけでもないのに。
(……うぅ、呆れられちゃったかな)
ボクは恐々と上目遣いにマスターの様子を伺い……けれど、マスターは「そっか」と優しげに目を細めていた。
「そういうことなら、本契約はまた後日にしようか」
「え……い、いいんですか?」
「うん。まだ時間はあるんだし、俺の方でも耳にピアスするのが嫌なら何か他の方法ないか考えておくからさ」
「マスター……」
どこまでもボクのことを思いやってくれるマスターに、少しだけピアスへの恐怖が和らいだ気がした。
「その代わりって言ったらなんだけど、マッチング期間の間、睨まないよう練習しなくちゃね」
「~っ、は、はいっ!!」
そうだ、マッチング期間はまだ始まったばかり。
(こんな優しいマスターのためにも、絶対……!)
なんとしてもピアスへの恐怖を克服するんだ、とボクは机の下で小さく拳を握りしめた。
――――――
「ごちそうさまでした。今日のご飯も美味しかったよ、ありがとうね」
「えへへ、お粗末様でした」
マスターと向き合って夕食を済ませ、いつものようにお皿を下げようとした時だった。
「唯世ちゃん。片付け終わったら、ちょっといいかな」
「っ……はい、マスター」
呼ばれる心当たりは一つしかなくて、お皿を片付ける指先が強張るのを感じる。
今日はマッチングの最終日。
今まで散々引っ張ってきたが、もう今晩の内にピアスを受け入れないといけない限界ギリギリ。なのに。
(うぅ……あれだけ優しくして貰ったのに、やっぱり怖い……)
ボクは自分の不甲斐なさに、スポンジを泡立てながらガックリと肩を落とす。
この家に来てから早くも二週間が経過していた。
そう、もう二週間も経ってしまっている。体感ではまだ一週間も経っていないのに。
それぐらい、マスターと一緒の生活は楽しかった。
まず、小さなことでもさっきみたいに「美味しかった」とか「ありがとう」とか言ってくれるのがとても嬉しい。
おかげで毎日のお仕事も達成感が感じられて、もっと喜んで欲しいと、料理以外の家事も楽しくこなすことができた。
しかもその上で、やることが終わったら後は自由にしていいと言ってくれて、ずっと興味があったお菓子作りについて調べる時間を満喫できた。
それどころか、ボクが製菓に興味があると知ったら、是非作ってみて欲しいと道具まで通販で買ってくれて、できたものをまた「美味しい」って食べてくれて――
(――うん。やっぱりボク、マスターとちゃんと契約を結びたい……!)
そう、もうとっくに意思は決まっている。あと必要なのは覚悟だけ。
(ピアスが怖いのは、結局変えられなかったけど……でも、マスターと離れ離れになっちゃう方がもっと嫌だもん……!)
待遇でも人間性でも、この人を超えるマスターに出会えることはないのだからと、怖がる心に何度も言い聞かせながら皿洗いを終わらせる。
「よし……!」
エプロンを脱いで両手をぐっ、と握りしめ、マスターの待つリビングへと向かった。
「マスター、お待たせしました……!」
予想通り、ソファに座ったマスターの手元には初日に見たあの小箱があり、ボクは思わず息が詰まる。
「ああ、お疲れ様。それじゃあちょっと話があるから、ここに座ってくれる?」
手招きされるのに従って隣に座ると、マスターはボクと目線を合わせるように少し屈んだ。
「それで、話っていうのは、コントラクトピアスのことなんだけどさ」
「はい、今日が期限……ですもんね」
「うん、俺としても嫌がってるのを無理に……ってのは嫌だけど、ルールはルールだからさ――」
マスターは心底申し訳なさそうに眉を垂らしていて、見ているボクの方が苦しくなりそうなほどで。
(こんなに気遣ってくれるんだから、ボクの方から言わなくちゃ……!)
これ以上マスターの優しさに甘えっぱなしではいけない。
覚悟を決めて口を開こうとした時だった。
「――だから、見えない所のピアスだったら、唯世ちゃんも嫌じゃないかなって思うんだけど、どう?」
「……へっ?」
ボクはその意味が分からず、口元で同じ言葉をくり返す。
「見えない所の……ピアス?」
「そう、そこのピアスなら外からは見えないし、どうかなって」
「そこって……」
マスターの指さす先を視線で追って、辿り着いたのはボクの下腹だった。
「え!? そ、そこって……お腹っ!?!!」
「お腹って言うかおへそだね、へそピアス。知らない?」
「え、へ……?!」
はじめて聞く単語に、ボクの頭はぐるぐると大混乱に陥る。
もしかして揶揄われているんじゃないかとも考えたけど、マスターはいつもの優し気な笑みを浮かべたままだった。
つまりまさか本当にそんな所へピアスを?
ボクは慌てて、ネット回線へと接続して検索をかける。
怖くて具体的な画像は見れなかったものの、検索結果の数から、マスターの言葉が嘘でないことは分かった。
「うわ……本当に、おへそにピアスなんてつけるんだ……」
「あー、もしかして知らなかった? ボディピアスの一種なんだけど、耳以外では割と一般的なやつじゃないかな」
「い、一般的……!?」
人間って怖い。どうして耳ですら痛そうなピアスをそんなおへそにつけるなんて考えついてしまったのだろう。
「で、でも……コントラクトピアスをそんなところにつけるなんて……」
「うん、そこは俺も大丈夫かなって思ってね。けど調べたらピアスのつける場所に指定はないらしいからさ」
「え、う、嘘……?!」
今度こそ信じられなくて、信じたくなくて、会社のホームページに接続し、契約についての情報を検索して。
「ほ、ほんとだ……」
Q&Aにコントラクト・ピアスは必ずしも耳につける必要はない、とはっきり書かれていた。
正規の場所ではないため、もし手放す場合は傷として価値が下がるなどの注意点はあるものの、禁止する文言はない。
というか、実例としておへそにピアスをしたボイスロイドの写真まで出てきてしまって、ボクはそれをしっかりと認識してしまう。
(ぅ、わ……こ、これすっごく痛そうなんだけど!?)
腹部のアップ写真であるため、どのボイスロイドがつけているのか、どんな表情をしているのかなどは分からない。もしかしたらつけている本人は平気で笑っているのかもしれない。
けれど、白く、柔らかそうなお腹の中央で、銀色の無機質な輝きがおへそへ噛みついているという光景は、ボクに画像だけでも微かな震えを生じさせるに足る衝撃だった。
無意識に手を伸ばし、服の上から自分のおへそを撫でずにはいられないぐらいには。
それに――
(――っ、な、なんかこれ……え、ええ、えっちじゃない……!?)
おへそというのは、普段他人に見えるような場所でもなければ、自分自身でさえ意識しなければ忘れがちな場所だ。
そこをわざわざ飾り立てるというのは、なんだか秘め事を体に刻みつけるようでもあり、あるいは見せつけることを前提としているようでもあり。想像だけで自分の頬が熱くなるのを感じる。
しかもボクの場合、つけるのはただのピアスではない。コントラクトピアスは所有契約の証だ。
そう考えるとまるで見えない所まで、それこそ内心や無意識といった文字通りボクの全てをマスターに所有されてしまうような気がしてしまう。
撫でたおへそから、ゾクゾクとするような感覚が全身に走った。
(う、うぅ……こんなの、無理だって……! というか、こんなのつけれるなら普通にピアスした方がずっとマシだし!)
いかにマスターが相手でも、流石にこんな恐ろしくてえっちな要求に対しては、はっきりと拒否しなくてはならない。する権利があるはずだ。
ボクはいつの間にか俯けていた顔を前に向け、キッと眉を吊り上げて――けれど、先に口を開いたのはマスターだった。
「これだったらさ、唯世ちゃんも外でボイスロイドだって思われることがないかなって思うんだけど、どうかな?」
「へ?」
そう口にするマスターは、とても優しげで、ボクを案じるような眼差しだった。
想像していたような、いやらしく、残酷な顔とは違うことに思考がフリーズしてしまう。
「え、あの……それって……?」
「ほら、だって唯世ちゃん言ってたでしょ。『外で目つきの悪いアンドロイドだと思われるのが怖い』って」
「……あっ」
それは確かに、初日にボクがピアスをつけたくない理由としてあげたものだった。
(い、いや! 確かに言ったよ! 言ったけど、まさかこんなことになるなんて思わないじゃん!)
「いや、それは……」
「今日まで唯世ちゃんも笑顔の練習してたのは知ってるけど、まだ睨んじゃう癖はそのままみたいだしさ。ほら、今みたいに」
「あっ、うぅ……」
「それに、俺としては唯世ちゃんのことは家族みたいに思ってるからさ。外でアンドロイドとして扱われて欲しくないし、丁度いいかなって」
「っ……」
「ちゃんとやり方も調べてきたし、道具も取り寄せておいたし、できるだけ痛くしないようにもするし……だから、どうかな?」
マスターがボクを見つめる目は優し気で、けれどどこか不安そうだった。
まるで拒否されたらどうしようと怖がっているようでもあって。
逃げ道はとっくに塞がれていた。
今更その場しのぎの嘘でした! などと言える空気ではとてもない。
(うぅ……ボクのバカ……! なんであんな嘘ついちゃったのさ……!)
そう、これはマスターのせいではなくてボクのせい。ボクがついた嘘に対して優しいマスターが寄り添おうしてくれた結果というだけで。
――だから、ボクにできることは震えを押し殺して小さく頷くことだけだった。
――――――
「はぁ……」
ボクは重い気持ちでお風呂場から廊下へと続くドアを開けた。
できるだけ清潔にしておいた方がいいだろう、ということでお風呂に入らせてもらったのだが、とてもいつものように気持ちよく弛緩した気分にはなれない。
逆に、服を脱いだことでおへそを見ずにはいられなくて、何度も触って意識する結果となってしまった。
そして、今も。
「うぅ……そうだよね。今からピアスつけるんだから、おへそが見える格好にならなきゃいけないよね……」
マスターが用意してくれた服は、緩めで丈の短いスウェットと、股下の短いショートパンツだった。
キャップでもかぶればダンスでもしてそうな快活な印象があり、普段ならちょっと露出が多くて恥ずかしいけどカッコいい……と喜んでいたかもしれない。
「はぁ……」
だが今は、まるで人身御供にされる生贄のための装束としか思えない。
「んっ……」
しかもお腹が晒されているせいで、半ば無意識におへそを撫でてしまい、ますます意識するのを止められず。
「っ、ダメダメ……! もうやるって頷いちゃったんだから、頑張らなきゃ……!!」
ボクは少しでも恐怖を頭から追い出そうと強く頭を振って、マスターが待つリビングへのドアを開けた。
「あ、あの……っ! お、お待たせ、しました……」
ソファに座っていたマスターが首だけで振り返る。
「ん……ああ、思ってた通り、唯世ちゃんはそういう服も似合うね」
「え、あ……そう、ですか?」
「うん、カッコよくも可愛くもあって……みんなに見せびらかしたいぐらい」
「あはは……こんな露出度高い格好、マスター以外の前でなんて無理ですよぅ」
「えー、勿体ないな。……それで、もう準備は大丈夫?」
「っ、はい……」
いつものようなやり取りに少し弛緩しかけた体が、再び収斂する。
大丈夫じゃなくても肯定するしかなくて、ボクはぎゅっ、と両手を体の横で握りしめた。
「……そっか。それじゃあ、こっちに来てくれる?」
固まりそうな脚を何とか動かして、マスターが手招きする先に行くと、そこは姿見の前だった。
鏡の中では不安そうな表情を隠しきれない唯世かのんが、所在なさげに手を彷徨わせている。
それを見ているとボクまでますます怖くなってきてしまう気がして、背後で何事か準備をしているマスターの方へ助けを求めた。
「え……あの……? なんで鏡の前で?」
「ああ、色々考えたんだけどさ、唯世ちゃんもちゃんとピアスを開ける瞬間を見れた方がいいかなって」
「えっ……な、なんで……!?」
「いやほら、怖いと思う気持ちって、それが分からないと強くなるところがあるって言われてるからさ。幽霊とか、ジャパニーズホラーとかみたいに。だから、ピアス開けるのも下手に見えない方が余計に怖くなるかなって思ってね」
「な……なる、ほど……?」
どうしてそんな恐ろしいことを、と思ったが、ボクのことを考えてくれた結果と聞けば、無下に否定もできない。
(そ、そう……だよね! 分からないのが一番怖いもんね! 確かに言われてみればボクもピアスをよく見てみたことがあるわけじゃないし……!)
心の中で繰り返すと確かに一理あるような気がして、ボクは右手側に設置された折り畳み式の棚、その上に置かれた小箱の中身へ意識を向ける。
中に入っているのは、バーベルの棒の部分をカーブさせたような形のピアス。
(う、うん……なんかこうやってみたらピンクの石とか、ボクのために選んでくれたって言ってたし、すっごく可愛いし……うん、なんか、全体的な形も……可愛い! それに、耳につけなくていいから二つから一つに減ったのも可愛い!)
ボクがそうやって必死で怖いを可愛いで塗り潰している最中だった。
不意に氷のような冷たさがおへそを襲う。
「ひょへッ!?」
「あ、やっぱり聞こえてなかった?」
意識を眼前へと戻すと、マスターが後ろから手を回し、ボクのおへそへと白い布を当てていた。
「や、これ……スースーするっ……?!」
「うん、今からここに針を通すから、やっぱりアルコール消毒はしておかないとね」
「そ、そっか……そう、だよ……ひうッ」
おへそを撫でられる感覚に思わず変な声が出てしまい、ボクは慌てて口を押さえる。
「あー……くすぐったいとは思うけど、ちょっと我慢してね」
「っ、は、はいぃ……」
決してマスターの触り方は乱暴なものではない。むしろ、美術品を扱うかのように丁寧で丹念な、むしろ丁寧過ぎて逆にもどかしいほどの優しい手つきだった。
(うぅ……優しさなのは分かるけど……もっと荒っぽくてもいいのにぃ……っ)
ひんやりとした冷感と、フェザータッチのような触覚がお腹の上で交じり合い、それがおへそを通して内臓まで染み込んでいく。
それはまるでマスターにお腹の中まで触れられているようで、冷たいはずなのに段々身体が熱を帯びていくのが分かった。
「唯世ちゃんって、おへそも綺麗な形してるよね」
「え、そ、そう、ですか……?」
そう言いながらもマスターは手を止めない。
むしろその形を教え込もうとするみたいに、ゆったりた手つきでボクのおへそをなぞりあげる。
「ほら、こんな風に綺麗な縦長の楕円形しててさ」
「ひうっ!? ま、マスター……! おへその中、そんな風に撫でられたら……」
「ごめんね? でも、ちゃんと消毒しとかないと、この綺麗なおへそが炎症起こしたりしたら唯世ちゃんも痛いと思うし、俺も嫌だからさ」
そう言われては我慢するしかない。
だが我慢すればするほど、意識は触られている部分へと向いてしまい、伝わってくる感覚はどんどん生々しくなっていく。
(マスターの指……ボクのおへそに入って、くるくるってかき回されて……あぅ、底の方、撫でられてるぅ……っ)
自分でも触ったことがない場所をじっくりと丹念に触られつづけ、マスターがようやく指を離してくれた時には、ボクの顔は熱っぽい赤みを帯びていた。
「よし、これぐらいでいいかな」
「お、おわり……ですか?」
「まあ準備は終わりかな、ここからが本番だけど」
そういえばそうだった。ピアスのことを思い出し、脱力しかかった身体が再び緊張で硬くなる。
「よし、それじゃあこれで唯世ちゃんにピアス開けるからね」
マスターが見せてきたのは、長方形の下辺に『コ』の字を付け足したような器具だった。
はじめて見る不思議な形。だが、内側に張り出した鈍い銀色の針がその用途をありありと物語っていて、ボクは思わず息が詰まる。
(……これが、今からボクのおへそに……?)
想像しただけで怖くて震えそうになり、だけどそんな訳にはいかないとボクは必死に両手を握りしめた。
「……やっぱり、本当は怖いよね」
「え、や……そんなこと……っ」
「ごめんね、こんなに我慢してくれてるのに」
「あっ……」
マスターの手が握りしめたボクの手を柔らかな手つきで撫でてくる。それは小動物をあやすように優しく、それでいて心の底まで触れようとするような熱っぽい手つきで。
ボクは気付けばしがみつくようにマスターの手に指を絡ませていた。
「ま、マスター……! ごめんなさい、ボク、やっぱり怖くて……っ」
「うんうん、そうだよね。それなのに頑張ってくれて唯世ちゃんは偉い偉い」
「っ、うん……マスター……」
撫でるみたいに組み合わせた指を握られると、そこからじんわりと安堵が広がる。同時に、やっぱりこの人にマスターになって欲しいという想いが胸を満たしていく。
ボクは決意を込めてマスターの顔を見上げた。
「……その、マスター。ボク、こうしてたら頑張れそうだから、マスターの手、握っててもいい?」
「手はちょっと、作業ができなくなるから困るかな。けど、代わりに腕なら思いっきり握っても大丈夫だよ」
「あ、そっか……うん、分かった」
少し名残惜しく手をゆるゆると離し、代わりにマスターの手首辺りを握って、ボクは鏡の中のボクを睨みつける。「絶対に動くなよ」という意思を込めて。
「マスター、もうボクは大丈夫だから、思い切ってやっちゃっていいよ」
「……分かった、できるだけ痛くないよう一瞬で終わらせるからね」
ボクの決意はしっかり伝わったようで、マスターはそれ以上何も言うことなく、ボクのお腹へと例の器具を当てた。
「……っ!」
先ほどの冷感とは違う、金属の底冷えするような冷たさがおへそに触れる。怜悧な感触にボクは危うく目を閉じかけ、けれど思いっきり大きく開いた。
(怖いものほど、ちゃんと見なきゃ……! それに、ボクがちゃんとマスターのものになれる、大事な瞬間なんだもん……!)
そんなボクに、マスターが鏡越しに微笑んでくれた気がした。
「それじゃあいくよ?」
「う、うん……お願いします……!」
来る衝撃に備えてマスターの腕を強く握ったのと、パチン、という少し高い音が響いたのは殆ど同時だった。
「っぅ……!」
お腹に鋭い痛みが走り、思わず折れ曲がりそうな背骨を無理やり反り返らせる。
鏡の中のボクが、苦しそうに表情を歪ませた。
(痛い……けど、これくらい……! 思ってたより……全然だし……っ!!)
唇を噛んで喉を上ってこようとする声を押し殺し、涙を流そうとする目を睨めつける。
そのままジンジンとするような熱がおへそを苛むことしばらく。ボクは溜まった熱と共に長い吐息を吐きだし、マスターの腕を握っていた手を弛緩させた。
「はぁ……っ」
それを待ってくれていたかのように、マスターの手がお腹から離れる。
影の下から現れたのは、ボクのおへそを貫いてきらりと桜色に輝くピアスだった。
それが見えた瞬間、自然とボクの口元に笑みが浮かぶ。
「あは、これでボク……本当にマスターのものになったんだぁ……」
それはなんとも言えない感覚だった。
望んでいたはずなのに、どこか取り返しのつかないことをしてしまったような後悔があり。
嬉しいはずなのに、心の奥底を寂寥感が苛むようにうすら寒くもあり。
ボクの視線は鏡からゆっくりと自分自身のお腹へと下がり、そこでも桜色がはっきりと煌めいているのを見て、とうとう頬を我慢していた熱いものが伝い落ちた。
「……ありがとうね、唯世ちゃん。俺のものになってくれて」
ボクの頭をマスターが撫でてくる。
その手つきは、今までよりも少し荒々しく、乱雑で――けれど、その無遠慮さが、まるで借り物ではない自分のものを触っているように感じられて、それすら嬉しく思ってしまう。
未だじんわり熱いように感じるピアスの痛みも、甘く感じてしまうほどに。
「マスター……きゃ!?」
不意に、背後からマスターがボクのことを抱きしめた。
それはまるで猛禽類が獲物を捕まえた時のように、絶対逃がさないというような力強さで、少し苦しくすら感じてしまうほどだった。
今まで過剰な接触は避けてきたマスターによる突然のスキンシップに、ボクは目を白黒させる。
「あ、あの……マス、ター?」
「っ、ああ……ごめんね。頑張ってくれた唯世ちゃんを見てたらつい嬉しくて感極まっちゃって……嫌だったよね、こんなくっつかれたりしたら」
マスターは謝りながらすぐに離れてくれ、けれどその目は見ているボクが苦しくなりそうなほど昏い色を帯びていて。
いつもと違う、余裕なさげなマスターの顔に、ボクの口は自然と動いていた。
「う、ううん……! 別に、これぐらい嫌じゃないから……だから、抱きしめてもいいよ?」
「……ありがとうね、唯世ちゃん」
マスターが再びボクへと抱き着いてくる。今度は力加減はしてくれていたけど、その代わりに全身くまなくくっつけるみたいに密着度が高いハグで、まるで全身で「お前は自分のものだと」言われているような気分になってしまう。
「マスター……大丈夫だよ、ボクはもう、マスターのものだからさ」
「……うん、そうだね。そうだった」
自分に言い聞かせるようにして、マスターはゆるゆるとボクから離れる。
鏡に映った顔には、いつものような優し気な笑みが浮かんでいた。
「それじゃあ、正式な契約も終わったことだし、明日はお祝いでもしようか」
「え、いいの?!」
「うん、痛いの我慢してちゃんと俺のものになってくれたんだから、それぐらいはね。どうしようかな、この間一緒に見た和菓子屋さんにでも行く?」
「本当に!? そこ、すっごく行ってみたいと思ってたんだ!」
「それなら良かった、じゃあ明日のためにも今日はもう早めに寝ようか」
「うん、分かったよマスター!」
優しそうなマスターと、笑顔でこれまでと変わらない会話を交わす。
……けれど、さっき抱き着かれた時にボクはもう知ってしまった。
マスターが優しいのは、彼がいい人だからではないと。
あの優しさは蜘蛛の糸のようなもので、ボクを絡め捕って、確実に自分のものにするための手段だったのだ。
おへそにピアスをつけられたのもボクの中古価値を下げて、逃げられないようにするための枷なのだろう。
つまりボクは騙されていたわけで――だけど、不思議とそれでもいいと思ってしまっていた。
それは、マスターの背後にある孤独を垣間見てしまったからだ。
一人暮らしに不釣り合いな大きい家。そこにはかつて一緒に誰かが暮らしていたのかもしれないし、誰かと一緒に暮らす予定だったのかもしれない。
だが何らかの理由で一人になって、広すぎる空間に耐えられずにボクを購入した。
だからボクを家族だと思ってくれているのは本当で、優しさも本物で、ただ少し動機がまっすぐでないだけで。
でもまっすぐでないのはボクも同じだ。
肉食獣のような独占欲を向けられた時、ボクが感じたのは不安でも恐怖でもなく、「ああ、このマスターは絶対ボクを手放す気がないんだな」という安堵だった。
もうマスターがいない新古品という中途半端な状態に戻らなくていい、という自分の存在をちゃんと受け止めてもらえているような感覚。
そう考えてピアスを撫でると、残り火のような痛みに混じって、甘い痺れが頭へと這い上ってくる。
こうやって、自分の色で染めることで安心するマスターと、染められることで安堵するボク。
きっと、この先もマスターは優しさの裏でボクを少しずつ染めようとしてくるのだろう。
その中には多分”そういうこと”も含まれていて……だけど染められる悦びを知ってしまったボクはきっとそれを断らなくて。
「マスター」
ボクはリビングを出ていこうとしている彼を呼び止めた。
「どうしたの、唯世ちゃん?」
「正式に契約を結んだんですし、そんな他人行儀な呼び方じゃなくて、かのん、って呼んでもいいですよ?」
「……どうしたのさ、いきなり」
彼は驚いたように目を丸くして、けれど確かにその奥で怪しい火が揺らめいているのが見えた。
ボクは自分の予想が当たっていたことが嬉しくなって、マスターみたいな優しい笑みを浮かべた。
「その代わり、ボクのこと、ずうっとおそばにおいてくださいね? ボクのマスター?」
彼の喉が、ゆっくりと唾液を嚥下し、ふらふらとボクの方へ近づいてきて。
「ああ、ずっと……一生、大事にするからね、かのん」
全身が軋むほど、無遠慮に抱きしめられ――幸せな痛みにボクは全身の力を抜き、マスターに全てを委ねた。
「改めて、よろしくお願いしますね、マスター?」
一際強くなる締め付けが、マスターからの答えだった。