妻の机から、記入済みの離婚届を見つけた。


結婚五年目の夫婦。
大きな不満もなく、穏やかな日々を送っていた。

ある日、夫は妻の机の中から離婚届を見つけてしまう。
すでに妻の名前は記入されていた。

疑念に駆られた彼は、妻の浮気を疑い始める。
そしてその疑いは、やがて彼自身の行動を変えていく。

小さな誤解から崩れていく信頼と、
人が抱える「転嫁」の心理を描いた短編。


2020年に他サイトに投稿した作品です。

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第1話

 人は、バスや電車などの閉鎖空間に置かれると、つい目にする活字を読んでしまうものだという。

 朝の満員電車では、視線の行先もなく、確かにその行動をとってしまう。その日、何気なく読んだ中吊り広告には『最高の離婚! この道二十年のベテラン離婚弁護士があなただけに教える十三の方法』と書いてあった。

 

 “最高の離婚”ねぇ。そもそも離婚に最高という言葉がかかるのだろうか?

 お互いに別れたいと思っている場合はそうかもしれない。だが、果たしてそんなケースが一般的なのかどうか……。

 

 僕は、大学からの友達である竹田のことを思い出した。竹田は離婚したばかりで、つい最近呼び出されて飲んだ。離婚前から奥さんの愚痴ばかりだったが、離婚した後は、やはりどこか寂しそうに見える。

 

「いいなぁ、青木は今から美人の奥さんと子供二人が待っている家に帰るんだろう? 未だに真一とか真ちゃんて呼ばれてるしさ」

 

 ビールで顔を真っ赤にさせて、あいつは僕に絡んだ。

 

「俺なんか、真っ暗な部屋に帰るんだぞ」

 

 結婚当初、何度か遊びに行った二LDKのタワーマンションに離婚後もそのまま住んでいるという。男一人で掃除するのも大変だし、ローンだって大変なのではないかと僕は思うのだが、引っ越すつもりもないようだ。それは別れた奥さんとヨリを戻せないかと密かに願っているからだろう。しかし、言葉で聞いたことはない。自分の力でしか乗り越えられないこともあるだろう。僕ができるのは、呼び出しにできるだけ応じて、酒に付き合うくらいだ。最近は、ずいぶん寒くなってきたから、温かい家に戻れるのはほっとする。

 

 

 

 

 僕は、地方出身、東京の大学を卒業してそのまま東京の会社に勤めている。ついこの間三十六歳になった。生まれも育ちも東京の妻と二人の子供の四人暮らし。子供が二人とも小学校に上がる前にと、マンションを買って四年になる。文教地区のマンションは人気で相場よりも高額だったが、この地区の公立の小、中学校では教育水準が高いらしい。これで高額の私立中受験を回避できると思えば安上がりだという妻の考えに賛成している。僕の育った地方には、私立中学などなく、小学生の内に教育格差ができるというのもいまいちピンとこない。けれど、それを質問するのは一度で懲りた。所詮自分には納得いくことではないし、そんな話の中で、金がかからないことを選んでいるらしいので文句もない。自分には主張したいほどの教育論などないのだ。

 

 

 結婚十四年目。共働きは妻の方から言い出したことだ。互いの稼いだ金から、毎月定額を持ち寄って家計にしている。

 服なんかもそれぞれの財布から出してるから、お互いに何の干渉もない。「あ、その服似合うね」「口紅変えた?」結婚十四年が経っても、付き合っていた時の新鮮さを失わないのは、こういう自由がお互いにあるからだ。

 いまさら付き合い立てのような欲情を妻に持つことはないが、それでも自慢の妻だし、母親としても十分やってくれている。今夜のように飲みで遅くなっても文句ひとつ言われない気楽さだ。

 多くを望まないことは、失望しないで済むということだと僕は思っている。

 

 帰宅すると、子供二人はもう寝ており、妻は湯上りだった。

 

「おかえりなさい」

 

 柔らかい声にほっとする。食べてくることは伝えてあるので、僕の分の食事はない。こういう押し付けがましくないところもいいところだ。

 それでいて、風呂上りには洗濯したてのパジャマが折り目正しくたたまれて脱衣所に置かれてある。育児家事は大変だろうけれど、妻はほとんど愚痴らないし、物静かで穏やかだ。

 やはりうちの妻は最高だ。

 

 こんな些細なことに満足して、その夜、妻を抱きしめてからベッドに入った。湯上りの化粧品の匂いと、妻の華奢で柔らかい肌に触れれば、深く眠られる。

 竹田には悪いが、派手で綺麗すぎる元奥さんや、タワーマンションよりも、こちらの生活の方が安定して幸せのように感じる。

 

 

 

 

 日曜の昼近くになって、やっと起き出す。この頃は温かい布団から出るのは困難だ。

 かまってもらえることを期待して話しかけてくる子供二人の相手をしながら、部屋の中を見渡す。

 太陽は真南に上り、窓から日差しが刺す。小春日和というやつだ。観葉植物が葉を広げてのびのびとしている。既に家中ピカピカに磨き上げられているのはいつものこと。僕にとってのブランチ、家族にとってのランチを食べたら、子供と一緒に近くの公園で遊ぶのが休日の定番コースだ。その間、妻は自分のための時間に使う。今日は出かけると言われているから長期戦だ。

 

「夕食は温めるだけになって鍋に入ってるわ。夕食後ジュースは飲ませないでね」

 

 生返事をしながら妻の身支度を眺める。毎朝施す装いは仕事用だが、休日にたまに出かける時はそうではない。華やかに装う妻が新鮮だ。

 

「ごめん。急いでるからこれ、私の引き出しの中に入れておいてくれる?」

 

  思わず玄関まで見送りについていってしまう僕に、妻が、新しいパンプスのストラップを指でかけながら頼んできた。

 手渡されたのは、ショップカードが束ねられたカード入れだ。妻は今日行く予定のショップカードだけをここから抜き出す。

 

「いいよ。気を付けていってらっしゃい」

 

 友達と食事をするらしい妻は、いつもよりも少しお洒落をし、嬉しそうに出かけた。

 残された僕は、子供をそれぞれの遊びに送り出す。長期戦になる時は体力温存が大事だから、いつものように公園までついていったりはしない。帰ってくるまでの間、しばしの自由時間だ。テレビをつけながらスマホを触り、ソファーに寝転がっていても誰にも文句を言われない。

 

 家具は結婚後、定額家計をやりくりして貯めた金で買った代物で、妻が決めた。

 いくつか引き出しがあるが、妻用の引き出し、僕用の引き出しとこれも別になっている。妻に言わせれば、無頓着な僕の持ち物を見なくて済むらしい。この引き出しの中にとりあえず入れておけば文句も言われないので楽だ。

 僕達は結婚後、こうした細々としたルールを作ってきた。それはお互いが歩み寄ることのできる譲歩とやんわりとした主張を、粘り強く繰り返してできたものだ。今では些細なことでもめたりはしない。妻は僕がついうっかり脱ぎ散らかした靴下を文句も言わずに拾ってくれる。

 

 

 

 

 口笛を吹きながら、渡されたカード入れを手に、妻の引き出しを開ける。

 妻の引き出しの中は、細かく箱で分けられていて整然としている。一見してどこに何が入っているのか分からない。

 相変わらず丁寧に分けてるなぁ。

 ぽいっとショップカードの束を入れ、引き出しを締めると、何かクシャリとつぶれる音がした。

 

 まずい……。

 

 慌てて引き出しを開ける。何が挟まった? いくつかの小箱を出して確かめてみれば、箱と箱の間に挟まれていた薄い紙が見つかった。慌てて取り出す。よかった。さほどつぶれていない。

 ほっとして、それでも見つかれば嫌がられるだろうと、丁寧に伸ばす。

 

 薄い紙は、何かの書類のようで緑色の枠線が役所めいている。手書きの文字と、押印。

 

 大した理由もなく、僕はその紙を広げた。

 そして後悔することになる。

 

 

 緑色の枠の左上には「離婚届」のゴシック体。

 丁寧な字で、妻の名前が黒ボールペンで書かれている。夫である僕の名前だけが空欄だ。

 

 もう一度見返す。

 確かに「離婚届」とある。

 

 

 

 

 なんでこんな物がある?

 どうして記入まで……

 離婚したいと思われているのだろうか?

 理由が知りたい。

 まさか不倫? 男でもいるのか?

 思えば同僚がそれぞれの奥さんの話をする時には「もう家族になっちゃって、ときめかない。妻というより母親だね」という。しかし、うちの妻は母親ではあっても、時々女を感じさせる。それはお互いがほどよい距離感を保っているからだとばかり思っていた……。果たしてそうだろうか?

 今日はなんだかいつもよりも綺麗に見えた。

 あのお洒落は誰のためだろう?

 頭の中を疑問と疑惑、不安とショックが何度も何度もぐるぐると渦を巻く。その渦はどんどん濃度を濃くする。息が苦しい。何か悪夢でも見ているようだ。

 今すぐ声を聞きたい。問いただしたい。

 

 リビングのローテーブルの上に置きっぱなしにしていたスマホを手に取り、ロック画面を解いた。慣れた手つきでアプリを起動して、妻の名前を出す。

 ボタンを押すだけになって、手を止めた。

 

 男と一緒にいたとして、電話に出るだろうか?

 出ても、上手に嘘をつかれるだけではないだろうか?

 

 妻に電話しても無駄なら、会う予定だった友達はどうだろうか?

 今日、誰と会うって言ってたっけ?

 早苗さんだ。妻の大親友である早苗さんの自宅の電話番号は、パソコンに保存した住所録を見ればわかるだろう。でも、早苗さんの家に電話して、もし妻と出かけているはずの早苗さんが電話に出たら?

 妻と会うはずでなかったかと質問する僕

 慌てて言いつくろう早苗さん

 その後、早苗さんは妻に「バレた」ことを伝えるだろう。あの二人の結束力は高い。

 何もいいことはない。

 

 僕は、スマホをソファーへ放り投げた。それはソファーにやわらかく着地してから、つるりと滑って床に落ちた。

 ゴトリっという音が、一人きりの部屋に響く。

 

 最近の妻の様子はおかしくなかっただろうか。

 女は隠すのが上手いという。浮気の兆候にはどんなものがあるだろう?

 落ちたスマホを拾い上げて、検索画面を開いた。気になる記事は上から全部読んでいく……。

 

 

 

 

 どれくらいの間、離婚届を手にしたまま、検索していただろうか。

 玄関ドアが勢いよく開いた音で、我に返る。

 騒がしくしゃべる甲高い声に子供が帰ってきたのだと分かった。

テレビでは、見ようと思って再生しておいたお笑い番組がとうの前に終わり、ニュース番組が始まっている。

 窓から外を見れば、夕日が差していた。

 慌てて紙を元にあった場所へ丁寧に戻す。僕が見てしまったことを妻に知られたくない。

 

 

 その後、妻が作りおいてくれた夕食を子供たちと食べ終えた。子供が好き嫌いで僕を困らせないようなメニューだから助かる。

 

日曜と月曜を隔てる国民的アニメが終わらない内に、妻は帰ってきた。

風呂と夕食を済ませた子供たちが妻を出迎える。いい子で留守番していたご褒美に買ってきてくれている洋菓子が目当てだ。

 

 わーわーうるさい子供たちとリビングに入ってきた妻は、僕と目が合った。

 平常心を装う僕

 目は忙しく、妻の様子を観察する。

 妻は僕の様子に違和感を感じたのだろうか、少し躊躇うようにほほ笑んだ。

 

「ただいま」

「おかえり」

 

 これだけの会話なのに、声がかすれる。

 

 お土産を解体して、さっそく頬張る子供たちを見て、嬉しそうな顔をしながら、妻はピアスを外す。あのピアスは本当に自分で買ったものだろうか? 男に買ってもらったのではないか?

 さりげなさを装った僕の観察は続く。

 

 いつもと違ったところはないか?

 待てよ? いつもっていつから?

 いつを基準に比べればいいのか?

 

 比較対象さえ決まらないまま、妻の後について寝室へ入った。

 

 ワンピースの後ろのチャックを器用に下げて、スリップ姿になった妻は、この年齢だが艶めいている。子供を二人産んだなりかもしれないが、その加齢も愛おしい。

 僕の妻だ。

 僕だけの妻だ。

 身をこがすような気持ちに、息が苦しい。妻はいつでもそこにいて、僕だけのものだったはずだ。何も大それた望みではない。当たり前のことだ。そのはずだった。

 

「お風呂で温まってくるわ」

 

 僕の隣を通り過ぎる。

 いつもと違う匂い。

 思わず妻の腕をつかんだ。やわらかい腕に、僕のごつごつした指が食い込む。

 

「わ! 何? いきなりどうしたの?」

 

 強引に引き寄せてスンっと首元の匂いを嗅ぐ。

 

「何の匂い?」

 

「匂い?」

 

 妻は怪訝そうな顔をしながら、しばし考え込んだ。顔を赤くしたのは照れなのか、動揺なのか。

 

「ヘアオイルを新しくしたからかしら? なぁに? 嫌なにおいだった?」

 

 ヘアオイル……。

 そう言われてしまえばそうかもしれない。

 そもそもホテルの石鹸の匂いとヘアオイルの匂いなど嗅ぎ分けられるわけはない。

 茫然とする僕から、そっと妻は離れて浴室に行ってしまった。

 

パタンっと閉じる寝室のドア。

 妻が残した小さなバッグが目に入る。この中に、妻のスマホが入っているはずだ……。

 小さなバッグの留め口を開けば、すぐにスマホは見つかった。中は妻らしく整理整頓されているからだ。

 

 こんなの見ちゃいけない……。

 相手への信頼を損なう行為だ。人として最低だ。そもそも僕達はそれぞれのプライバシーを尊重しながらいい距離を保った夫婦を目指してきた。だから、これは見てはいけない……。

 

 でも、もし不倫されていたら?

 相手の男とは、このスマホで連絡を取り合っているのではないだろうか?

 もしかしたら、二人で撮った写真もあるかもしれない。

 どんなやつだろう?

 イケメンなのだろうか?

 若いのか? 同じ年か? もしかして年上か?

 

 証拠を掴みたいわけではない。

 妻の口から、突然「離婚して」と言われるのは嫌だ。

 そうなる前に、心がまえを持ちたい。

 傷つかないために、スマホを見たい。

 これは自衛手段だ。やむを得ないことだから、見てもいいのでは?

 

 震える手で、スマホのロック画面を触ろうとする。

 

「うわーん! パパぁ!」

 

 上の子が泣く声で、はっと我に返った。

 急いで小さなバッグにスマホをつめて、部屋を出た。

 バクバクと大きな鼓動をうつ心臓を落ち着かせるように、子供の喧嘩の仲裁に入った。

 

 

 

 

 子供を寝かせた後、妻は僕達の寝室から出てきた。おそらくt片付けをしていたのだろう。

 いつもならテレビに集中しているが、今日はただ眺めているだけだ。背中で妻の動向を探っている。

 

「ねぇ、あなた私のカバンを触った?」

 

 !!

 

「いや? そんなことするわけないだろ?」

 

 ここで触ったと言えないのは、互いの領域は不可侵であるという夫婦条約を僕が犯したからだ。悪いのは“不倫をしている妻”の方なのに、僕の方が悪いことをしているように感じてしまう。

 

「そう?」

 

柔らかい声はいつも通りなのに、咎められている気分になった。

内心バレていると分かっている。あれほど几帳面に物の位置にこだわる妻だ。バレていないはずがない。今後は用心しようと心に誓った。

 

 

 

 

 浅い眠りを何度か繰り返して月曜になる。重い体を引きずるようにして出社する。今朝、妻は食欲がない僕を心配してくれた。

 疑っている僕への罪滅ぼしのつもりなのだろうか。

 

 動きの鈍い脳をどうにか動かして、月曜定例の朝礼に出る。

 

「来週末のA社へのプレゼンだが、資料の訂正や、準備物、参加人数の確認などこまごまとした準備は済んでいるのか各担当者は再度チェックしてください」

 

 営業部長の言葉に、営業二課のメンバーは短く返事をした。二課にとって最大の取引相手へのプレゼンは、翌年の夏以降の成績を左右する。毎年最後にある大きな仕事だ。

 僕は、二課で営業をしている。取引相手は中堅が主で、数は比較的少ない。それは、営業と営業補佐の取り持ちも求められているからだ。実質、営業兼補佐といったところだろうか。微妙な配置は、社内での人当たりのよさが買われてのことだ。

 

 誰もが、プレゼン準備の最終確認をし、課長へ進捗を報告していく。そんな中、営業補佐の原田さんが、資料に目を通していた部長に問い詰められた。よりによって部長だ。

 参考資料の年度がまちまちだったり、A社の店舗数が資料毎に違っていたりするなど、細かい指摘を受けたのは二度や三度目ではない。

 

「青木!」

 

 予想通り、僕が呼ばれた。

 

「はい」

 

「悪いがお前代わってやってくれ。今週中には、正確な資料にして欲しい」

 

 短い返事をしてから席に着く。部長に今度呼ばれたのは二課の課長だ。原田さんに仕事を任せた課長も責任能力を疑われる。細かいようにも感じるが、これが一課と二課の違いだろう。一課はこんなミスをしない人が選出されるか、もしくは二課で失敗をしながら、成功率を高めた人が吸い上げられていく。万年二課の僕は、一課を羨ましいとも思わない。二課でほどほどの残業をする方が楽だからだ。とはいえ、今週は残業を覚悟しなければならないだろう。

 

 

 普段の仕事をしながら、資料の山に埋もれる。資料室の資料は、担当者がwebや新聞の記事を貼ったものも多い。データ化されているものもあるが、ここ数年は原田さんがデータ化担当なので、本来信頼できるはずのデータが正しいのかどうかも検討しなければならない。

 資料を開いてみると、彼女の仕事がなぜぐちゃぐちゃになっているのかがよくわかる。時系列に並べられていない。一課に吸い上げられる子の作った資料は時系列に並んでいるだけでなく、見出しで月別になっている。おまけに系統立てられていたりもする。

 ため息をつきながら台紙をめくると、次のページがくっついてきた。

 

「嘘だろ?」

 

 できるだけ丁寧に引きはがすが、べりべりべりっと音を立てて、貼られている資料が破れた。

 

 重要性の低い資料でありますように……。

 

 そんなわけはない。四半期決算のデータと代表取締役、本部長などのお歴々のコメントの記事だ。

 

 がっくりと項垂れる。

 

 何のための資料作りだ。後から読むに決まっている。破れるような糊のつけかたをするな! 乾かせ!

 

「どうなってるんだよ……。原田さんの新人教育係って誰だ?」

 

 文句をいいたい。だが、教育とは与える側と受ける側の両方の資質が問われるのだということを僕は知っている。

 

「あのぅ……」

 

 背後からかけられた言葉に驚いて、飛び上がる。資料室に一人だと思ったからこそ、愚痴ったのだ。

 

 振り返ると、そこには泣きそうな原田さんがいた。さっきの独り言を聞かれたに違いない。

 

「すみません。私のせいで……。何かお手伝いできることはありませんか?」

 

 「君が手伝わないことが、一番の手伝いになる」と言いたいが、ぐっと堪える。原田さんのこの言葉の背景には、課長の「青木の仕事を見せてもらって勉強しなさい」とアドバイスがあるのかもしれないし、他の女子社員の「せめてお手伝いでもしたら?」といういらぬ言葉があるかもしれないのだ。

 

「気にしてるんだね――。やり方が身につくまでは誰もが経験する道だから、あまり気にしないことだよ」

 

 二年も身に着かないのは問題だけどね……。さて、これでお手伝いを引きさがってくれなければ、どうしたものか。コーヒーでも頼むのもありだが、今や女子社員にコーヒーを頼むのはセクハラ、パワハラである。

 

 原田さんは、「優しいんですね」の後に、なぜか「でも」「だって」と繰り返して、鼻をすすった。

 マズイ……。これでは僕が泣かせているように見えてしまう。

 

「じゃあ、無事に終わったら、メシでもおごってよ」

 

 原田さんは、顔を輝かせた。自分でもできることを言われると気が楽になるものだ。僕は内心ため息しか出ない。後輩をメシに誘ったなら、おごるのは僕になる。せめて店くらいはこちらが指定したい。

 

「私、素敵なお店を探しておきますね!」

 

 ……。僕のヒットポイントがゴリゴリと削れ、今や真っ赤に点滅状態だ。残りの気力でにっこりと笑うことしかできない。

 

「今後のこともあるので、資料の作り方だけでも手伝わせてもらえって課長に言われています」

 

「あ、そう……。じゃぁ、ハサミとカッター、糊なんかをもってきてもらえる?」

 

 資料室から出ていく原田さんをちゃんと見終わってから、資料につっぷす。

 あの狸課長め! 自分で仕込めよ!

 

 無性にコーヒーが飲みたい。

濃い味わいなのにあっさりとした味わいのコナコーヒー。

 妻の淹れるコーヒーはうまい。そこら辺のコーヒーショップよりも、コーヒーらしい味わいがする。

 コーヒーを差し出す妻の手を思い出して、苛立った。

 

 残業するくらいが、今の僕にとってはちょうどいいのだ。妻と顔を合わさなくてすむ。

 何も考えないで、原田さんの世話を焼き、目いっぱいの残業の日々を送ることで、夜も余計なことを考えずに済んだ。

 

 

 

 

 約二週間後、無事にA社へのプレゼンが終わり、二課での打ち上げ兼、早めの忘年会があった。資料が間に合い、よくやったと部長からも課長からも、担当の営業佐々木からも酒をつがれる。資料ができあがった後、それを顧客に合わせて売り込み方を考えて、もう一度資料を再構成する。佐々木は資料ができあがるのをヤキモキしながら待ったはずだが、一度も僕に催促はしなかったし、様子をうかがうこともしなかった。さすがだと思う。おかげで僕は必要以上に焦ることなく仕事を全うできたのだ。

 

 一次会が終わり、もうすでに出来上がっている僕は、二次会のカラオケへ誘われたがずいぶん酔っていることを理由に参加を断った。「明日は土曜だぞ」と、しつこく誘ってくる部長を、佐々木がとりなしてくれる。

 

「もうずいぶん寝てないんだろ? 酒は俺に任せとけ」

 

 ポンと肩を叩かれれば、その男らしさにうっかり惚れそうになるほど爽やかだ。佐々木の厚意を無駄にしないように、駅への道を歩き出す。

 

「あの、青木さん!」

 

 振り返ると予想通り原田さんだった。正直もう帰りたい。熱い風呂に入り、泥のように眠りたい。表情をうまくとりつくろえているのか気になる。

 

「お礼の食事って今からじゃだめですか?」

 

 何を言っているのだ、この娘は。原田さんは、確か入社ニ、三年目だ。連日の残業の後、最近全くかまっていない子供が待つ家へ帰る僕のことは全く想像できないだろう。

 

「今からじゃ、遅くなるよ」

 

 原田さんは黙り込んでしまう。彼女は一緒に仕事をしてみると、何をするにもノロマだった。控え目で、じっと僕のしている仕事を見ていることが多かった。これと言って話しかけてこないので、作業はほぼ僕一人でできた。邪魔をしないところが彼女のいいところだ。

 毎日、派手すぎない可愛らしい服を着ている。

 

「じゃ、また月曜にね」

 

 駅への道を踏み出すと、後ろにくんっと引っ張られた。原田さんが僕のコートをつかんだからだ。

 うつむいたまま、言いにくそうにしている。

 

「だって……予約もしちゃったし……」

 

 この子の面倒を見るのも仕事の内なのだろうか。

 腕時計を見ると、八時五十三分だ。一時間くらい付き合ってもいいだろう。妻には今日は打ち上げだと言ってある。僕がいないこの時間をどうやって過ごしているだろうか……。

 

「十時には帰らせてもらうよ」

 

 そう言うと、原田さんはすごく嬉しそうに道案内をしてくれた。

 街は月末にあるクリスマスに向けて美しく飾られている。イルミネーションが輝く中を若く可愛い女の子と並んで歩くというのは、久しぶりの感覚だ。

 

 

 原田さんが予約したというのは、雰囲気のいいカクテルバーだった。

 

「ずいぶんおしゃれな店を知ってるんだね。彼氏と来てるとか?」

 

 水割りと、ピーチフィズで乾杯をする。口を湿らせてから質問した。女子社員に恋人のことを聞くのもセクハラに当たるが、それでも聞いたのは、当の彼氏とかち合うのが嫌だったからだ。こんなところで誤解を招き、殴られでもしたら割に合わない。

 

「彼氏なんていませんよ」

 

 原田さんは嬉しそうに返事をした。殴られる心配がなくなった僕は、ほっと一息ついて、もう一口水割りを含む。今度は味がした。

 

 今ごろ部長は何を歌っているだろうとか、佐々木の歌が異常に上手い話しなんかをして一時間経つ。原田さんはその間に二回もカクテルをおかわりした。

 

「もうこんな時間だね。じゃぁ帰ろうか」

 

 チェックを頼むために、軽く腕を上げる僕のことを原田さんが酔った目で見つめる。顔が赤い。お会計をしている僕のコートの袖を、ぎゅっと掴んで離さない。

 

 なんだかまずいことになってきたぞ。

 どうやって家に帰そうか、タクシーに放り込むにしても、行先がわからない。なら電車か。

 

 心配は的中し、外に出ると気持ち悪いと言い始めた。「水を買ってくる」とコンビニに入ろうとしても、腕を引っ張られてとめられる。何線で帰るのかも教えてくれない。駄々子のように下を向いていやいやと首をふるか、僕を見つめるかだ。

 こんなことをされたら、僕だって悪い気持ちが湧く……。ただでさえもう三週間以上妻を抱いていない。その妻は他の男に抱かれている……そして離婚まで考えているのだ。

 

「あのね。原田さん。こんなことを男にやったら帰してもらえないよ」

 

「私、青木さんと……!」

 

 若くて可愛い女の子が、僕を誘惑するためにカクテルバーに誘い、飲みなれないお酒で酔っている。

 抑えきれない衝動が体に走った。

 一度くらい……構わないのではないか?

 

 すぐに頭の中で計画が組まれる。

 家にはもう一時間くらい遅く帰ってもいいだろう。何なら明日の朝でもいいわけはきく。それに、妻だって同じことをしているのだ。一度や二度ではないかもしれない。僕が味わった辛さを妻にも味わわせたい。

 男としての矜持を保ちたい。

 

 僕は、原田さんの肩を抱いた。

 突然近づいた距離感に、原田さんが僕の顔を見上げる。

 

「後悔するなよ」

 

 自分ではないような台詞だが、酒に酔っているからか、恥ずかしくはなかった。

 

 

 

 

 

 朝起きると、違和感がある。シーツが固い。

 空気が乾燥しているからか、喉がカラカラだ。

 ?

 派手な天井の照明を見て状況に気が付いた。

 

慌てて隣を見ると原田さんはそこにはいなかった。シャワーの音が聞こえる。

 いきなり顔を合わさずにすんだことにほっとして、体を起こす。

酒が残っていて頭が重く、倦怠感が強く残る。

 シーツをはぐりむくと、情事の後特有の匂いが鼻をついた。

 よそでシャワーを浴びるのは、浮気がバレる理由の一つだと知っているが、この匂いをさせたまま帰れば確実にバレてしまう。シャワーの言い訳を考える方がマシだろう。

 おまけに朝帰りだ……。やれやれ参ったな。

 

 ベッドに腰かけたまま頭をかいていると、シャワーから出てきた原田さんが体を摺り寄せてくる。

 水滴がまだ体についている。若い肌についたその水滴は美しい球体だ。つるんと水滴が落ちる。

 

「シャワー浴びたら出るよ。原田さんはどうする?」

 

「原田さんなんて他人行儀な呼び方止めてください。昨日みたいに、美紀(みき)って呼んで」

 

 そう言って、ふふふと笑う。普段では想像つかないほど色気があった。

 

 そういえば、そう呼ばされた気もする。

 会社の女の子に手を出すとか、失敗しただろうか。

 悪評に繋がらないように、ここは取り合えず穏便に別れるべきだろう。

 心の中では、どうすればいいのだろうと焦りまくったが、涼しい顔をしてシャワーを浴び、胸に抱き着いて来る原田さんをかわいいと思いながら、駅まで歩いた。

 

 

 

 

 帰途の間中、様々な言い訳を考える。スマホで『朝帰り 言い訳』と検索し、言いやすい言い訳を頭の中で練習する。

 うまく言えるだろうか。問い詰められたら正直に言うほうがいいのか、それともシラを通す方がいいのだろうか?

 こんなに焦っていたのに、妻は僕を温かく出迎えた。用意していた言い訳を口にするが、しどろもどろになってしまう。そそくさと風呂に入り、ラブホテルで使った石鹸の匂いを消した。

 風呂から上がると、ふんわりとみそ汁の匂いがした。タオルで髪を拭きながら食卓に近づくと、二日酔いにいいという、しじみの味噌汁を出してくれる。

 

「家族のためにお仕事お疲れ様。残業続きで疲れたでしょう? この土日は子供のことはいいから、ゆっくり寝てね」

 

 妻のささやくような声が好きだ。それは、心にふんわりと響く。

 僕のことを信じきっているからか、それとも自分も触れられたくないことがあるからなのか、妻は僕に優しかった。

 ふくらみきった罪悪感は、疲労感に覆われ、僕は柔らかく温かい布団でぐっすりと寝る。

 

 

 

 月曜日、出社しながら緊張する。

 原田さんは、会社の女の子に何もかも話してしまったのではないか? ある一定の女性の秘密は秘密ではないのを僕は知っている。

 定例の月曜の朝礼で、改めてプレゼンが上手くいったことを佐々木と二人で褒められる。二課が一丸となって当たった仕事ではあるが、名前を挙げられると嬉しい。

 

「青木だが、原田の再教育係となってもらう。原田もこれを機にしっかり学ぶように」

 

 今朝初めて顔をあわせた原田さんは、嬉しそうに僕ににっこりと笑いかけてくれた。

 

 僕は曖昧にほほ笑む。

 その曖昧さに、同僚たちはお気の毒様という同情の視線をくれた。

 

「青木さん、何から始めますか?」

 

 朝礼後すぐに近寄ってくる原田さんは、張り切った様子だ。

 

「じゃぁ、始業後、午前中は再教育の時間にしよう。まずは……資料室行っといて……」

 

 原田さんを資料室へ行かせて、パソコンで二課の取引相手の一覧を印刷する。蛍光ペンと印刷したてのまだ温かい一覧を手に資料室へ入った。

 

 ?

 

 先に来ているはずの原田さんが見当たらない。

 

「わっ!?」

 

 僕の背後から、誰かがしがみついてきた。

 ぎょっとして振り返ると、原田さんだ。

 

「……やっと二人っきりになれた」

 

「…………」

 

 こう来たか……。人目を避けてくれるだけマシなのか?

 固まったまま動けないでいると、背中に頬をつけたまま呟かれる。

 

「大好き……」

 

「ここは会社だからね。オンとオフは区別しよう」

 

 僕の腹で組まれた手を優しく解き、視線をあわせる。

 

「原田さんのためでもあるよ」

 

「オフならいいんですね?」

 

 顔を輝かせて、その後原田さんは意欲的に再教育を受けた。

 社内に僕のことを慕ってくれる人がいる。

 しかも、その子はまだ若く、何もかもを僕の色に染められる。

 それは僕の眠っていた自尊心を満たした。

 

 原田さんのおかげで、生活のためになんとなくやっていた仕事がそれなりに楽しくなる。

 会社に行けば、午前中は資料室で二人っきり。

 イチャイチャするだけでなく、それなりに勉強し、その結果、原田さんは課長に褒められることが増えた。僕への評価も高まる。「人材育成の二課には青木がいるから、新人が育つと評判だぞ」と言われれば誰だって悪い気持ちはしない。

 他の社員にばれないように、視線があえばにっこりと笑ってくれる。手渡される書類にはられた付箋には、金曜夜にどこでデートするのかの打ち合わせが書かれている。

 十数年ぶりに誰かと付き合う感覚は、年甲斐もなく僕を高揚させた。もっと年を取ってからだったら、肉体的に厳しかっただろうし、もっと若ければ、のめり込んでいる気がする。

 

 ホテルで過ごした後に、怪しまれない時間に帰られるように身支度をする僕を美紀が引きとめる。寂しがっている様子も可愛らしい。付き合い立てのなんともいえない気持ちが僕達を駆り立てる。

 妻を抱く時も、誰かに盗られている焦りだけではく、自分だって若い女に求められているという気持ちが奮い立たせてくれる。妻もいつになく積極的で、久しぶりに熱い時間を過ごした。

 

 

 

 

「真一、ちょっと話したいことがあるの」

 

 土曜の夕飯後、片付けをしながら妻は僕を食卓へ呼んだ。

 美紀からのSNSへのメッセージに返信していた僕は、ドキっと顔を上げる。

 

「ん? 何?」

 

 子供は夕飯後に、機嫌よく遊んで、就寝時間を知らせれば寝かしつけなくても寝てくれる歳になっているから、こうやって自分達の時間を取れる。

 

 妻は、台所仕事を終えて、手を拭いた後、ハンドクリームを丁寧に伸ばし、自分の引き出しに手をかけた。

 スーっと開けられて、いくつかの小箱を取り出し、奥から薄い紙を取り出す。

 それは机の上に置かれた時に、カサリっと乾いた音を立てた。

 

 とうとうだ。とうとうあれを言われる。

 覚悟はしていたはず……。嫌だ。聞きたくない。

 言葉も出ない。

 

「やっぱりこれを見たのね?」

 

 僕の顔を見て、妻はそう言った。

 

「あのね? 説明させて欲しいの」

 

「嫌だ。聞きたくない」

 

「あなたが思っているようなことではないわ。約束する」

 

 妻は机の上で組まれた僕の手を、やんわりと包んでくる。

 僕はその手を乱暴にはねて、手を引っ込めた。

 

 傷ついたような顔をして、手を引っ込められる。その代わり問答無用で紙が広げられた。

 

 その文字を見たくなくて、顔を背ける。

 

「私、浮気してないわよ」

 

 え?

 

 驚いて、視線をあわせてしまう。まっすぐ僕を見つめる妻の瞳。

 その目を見れば、妻が嘘をついていないのはわかる。

 

「じゃ、なんでこんなものが……、記入までして……。り……」

 

 離婚の文字が言えない。

 

「離婚したいわけでもないの」

 

 その言葉を聞けば心の中で醜く凝り固まっていた何かが、あっさりと瓦解する。代わりにムクムクと湧き上がるのは、怒り。

 

「どちらでもないのに、こんなものを置いておくわけないだろ? どういうつもりだよ? ご丁寧に記入までして」

 

 荒い声に、長男がこちらを振り返った。

 妻が、僕を見つめて、「話を聞いて」ともう一度願った。

 長男の視線がまだこちらに向いているのが雰囲気でわかる。

 僕は、椅子に座りなおした。一息つく。

 

「どうぞ?」

 

 声は荒げてはいないが、とげとげしくなるのは仕方ない。

 妻は、子供が来ても見えないように紙を折りたたんだ。

結婚届と離婚届は同じくらい薄い紙だ。人生で最も重い決断を記すはずの紙だが、それ自体は吹けば飛ぶような軽さだ。

 

「これはね、“程よい緊張感を保った距離でいるため”“幸せな日常を送るために必要な覚悟”なの」

 

「意味がわからない」

 

 そのせいで、僕の幸せはぐちゃぐちゃだ。恨みがましく、僕は折りたたまれた紙を指の先ではじいた。

 カサっと音を立てて身じろぐ。

 おまえのせいだぞ。

 カサっ

 

 「話しを聞いて」「わかった」子供の手前、声を静めた。しばらく時間を置くと、長男は遊びに戻った。

 

「結婚したばかりの頃、あなたが言ったのよ。いつまでも女でいて欲しいって。だから、いい距離を保つために、家計も分けたのよ。覚えてる?」

 

「君は仕事を続けるって返事をした……」

 

 「そうね」と言って、妻は顎で切りそろえた髪の毛を耳にかける。視線を落とし、かすかに眉根を寄せる表情がつらそうだ。

 辛いのは僕の方なのに……。

 

「知っての通り、私は整頓された空間が好きなの。きちんとあるべきところにあるべき物がある部屋で暮らしたい。でも、あなたはそうじゃないでしょう?」

 

 そうだ。だから、クローゼットも別、引き出しも別。それぞれの場所は不可侵。僕は自分のスペースに何もかもつめこめば、妻の機嫌を損なうことはない。これだって努力していることだ。本当なら、そんな風に片付けるのも面倒だ。

 

「あなたが片付ける努力をしてくれているのは知っているわ。でも、家の中に魔窟があるのを我慢しているのも仕方のないことでしょ?」

 

 言われてみれば腑に落ちる。妻がいう魔窟というのは、僕のクローゼットや引き出しのことだ。整理されずにとりあえず放り込まれる雑多な物を妻はそう呼ぶ。

僕がちょっとした片付けを放っておくことや、ながらスマホにため息をつかれることにうんざりしているように、妻がそれに何も言わない努力をしているのも当然だろう。夫婦とはいえ別人格。そんな二人が一緒に暮らすのだから、グレーゾーンがあるのは円満のコツともいえる。

 

「仕事でうまくいかない、家に帰ったら家事が山のようにある。育児だって理想とは遠い。毎日の繰り返し。ままならない片付け……。でも、私はあなたのいい妻でいたいの。イライラして当たるようなことはしたくないの。そんな時、離婚届を思い出すのよ」

 

 妻は、離婚届を撫でた。まるで大事なものだとでもいうように――。

 僕が見ると音を立てて怯えるそれは、妻の手にかかれば大人しくなる。

 黙っている僕に、妻は続ける。

 

「私達の関係は、紙一枚でなくなるような儚いものだって思うの。私はあなたを失いたくない。イライラしてあなたに八つ当たりをするわけにいかないと思うと、たいていのことが“仕方のないこと”に思えるのよ」

 

 “私はあなたを失いたくない”少しの短慮で失わないように戒めとしての離婚届…………。

 妻が、どれほど僕のことを大切にして尊重してくれているのか……。

 僕は妻が支えてくれている中で、片付けなんかの小さなことを面倒がっていたのだ。

 

 じっと紙を見る。

 やつは大きく主張する。ここにいるぞと。

 捉え方によって、こんなに違うのか……。

 

「そうか……。僕は勘違いしてたみたいだ」

 

 自分から出た声が、思いのほか温かく、その響きに幸福感が広がる。

 妻の手が僕の手を取った。今度は振り払わず、僕も逆の手で妻の手を上から包む。

 妻は、僕の手の中で手を、強く掴んだ。

 「だから、帰ってきて欲しい」そういわれている気がした。

 妻は、僕のしていることに気が付いている。でも、それを指摘したりしない。それほど僕を大事にしてくれている。

 疑惑が晴れたのだから、無論帰るつもりだ。

 僕の帰る場所は、妻子のいるここにしかない。

 

 

 

 

 美紀とは別れよう。そもそも付き合おうと言ったわけではない、ただの身体の関係だ。再教育の期間は終わったし、ちょうどいいだろう。

 そう決心して出社した月曜日、美紀は相変わらず付箋をまわしてくる。返事をしないでゴミ箱へ入れる。

 

 昼休みにスマホを見て驚愕する。

 通知欄に二十の数字

 慌てて開くと、全て美紀からだった。

 同じフロアで仕事中だったはずだ。午前中にこんな大量のメッセージを送っていれば、誰か気が付いているだろう。

 

 ゾクっと背中をつめたい物が走る。怖い……。

 

 そういえば、最初こう思ったのではなかったか? “社内の女性だからこそ、妙な噂にならないようにしよう“と。つれなくして、「青木さんて冷たいんですね」と女性社員全員を敵に回すのが嫌だったはずだ。

 

 この状態の美紀と関係をキッパリと切れば、何を言われるか分からない。社会的に抹殺される。

 出世街道をいく男女が引きずりおろされる様を、僕は実際に目にしたことがある。

 

 気晴らしに外に出ようと、エレベーターを待っている時に佐々木が僕の隣に並んだ。

 佐々木はできる営業マンらしく、どこにでも颯爽と現れるし、交わす僅かな言葉は気が利いている。こいつのすることに無駄なことはない。何か僕に用事があるのだろう。少し身構えてしまう。

 

「よぉ、再教育お疲れさん」

 

 僕はそれに無難な返事をする。

 

「原田さんの教育は大変だったろ? 彼女、今まで放っておかれたからな」

 

「まぁね……。最初の教育係って誰だったっけ?」

 

開いたエレベーターに二人で乗り込みながら、佐々木は、一課にいる人物の名前を教えてくれた。仕事ができるというのは、後輩への指導も含まれるはずだ。美紀への仕打ちは一課のメンバーらしくない。

 

「さすが一課、鼻が利くんだろうな。まぁ、青木も気を付けることだ」

 

「どういうこと?」

 

 二人でエレベーター上部にある階数を知らせる数字を見上げる。八、七、六……。

 音もなくエレベーターは下っていく。昼休みが始まって時間が経っているから、下りエレベーターに乗っているのは僕ら二人だけだ。

 

「彼女、依存性質があるだろ?」

 

 エレベーターのドアが開き、青木は出て行きながらそう言った。僕は中に残る。降りない僕をいぶかしがりながら、外で待っていたコンビニ弁当組がエレベーターになだれ込んできた。

 依存性質?

 ドアが静かに閉まるのを、僕は中で見た。閉まる直前に佐々木の顔が見えた。

 

 今のは佐々木なりの警告だ……。

 勘のいい佐々木は、僕と美紀との関係に気が付いている。“深みにはまるまえに抜け出せ”そう言われている気がする。

 今ならまだ他のメンバーにはバレていないのだろうか。

 始めたばかりの火遊びは、すぐにやめられそうに思える。

 

 

 自分の席に戻りながら、僕はスマホを眺めた。手の中で震えもせずに、美紀からの通話が入る。

 

「もしもし?」

 

「真ちゃん! どうして? どうして返事してくれないの?」

 

 依存性質……。

 少しずつ関係を断つしかない……。

 

「あぁ~。ごめん。付箋が多いねって、指摘されちゃってさ。だから、付箋はやめにしない?」

 

 周りに誰もいないことを確かめる。その言葉がスラスラ出てくることに、自分でも驚いた。美紀のことをそれほど大事に思っていないことも実感する。

 通話の向こうで沈黙が流れた。

 

「――――。そう……。わかった。でも、寂しくなっちゃう……」

 

 妻にはない、こういう素直な甘え方が僕の心を揺さぶる。

 

「今はSNSって便利なものがあるんだし、こっちで繋がっていれば大丈夫だよ」

 

 どうにかなだめすかせて通話を切った。

 

 

 妻にとても会いたい。

 美紀との通話を終えて、そう思った。

 

 妻はとても誠実で、駄目なところも多い僕を受け入れてくれている。

 不倫されているかもしれないというあの不安だった気持ちも、妻がでかけていなかった夕食を寂しいと感じていたことも、全部話してしまいたい。

 僕が妻を愛していることをちゃんと口に出して伝えたい。

 

 

 その日は、仕事も残して早く帰宅した。

 乗り継ぎさえも一本でも早い電車に乗れないかと足を速める。

 

 しかし、妻の顔を見ればうまく言葉にならなかった。

 結婚十四年目。今さらどうしてそんなことを言うのか。僕の不安な気持ちを解きほぐされたら、美紀のことまで話してしまいそうだ。

 僕は妻に許して欲しい。でも、それははっきりと口に出していないからこそ、許されるのかもしれない。

 嫌われたくない。

 

 妻の優しいまっすぐなまなざしを受けることができない。

 

 そんな中、家にいても通話がかかってくる。

いくらサイレントにしていても、ひっきりなしに通知がつく。

家族と食事のさなか、ついては消えるスマホの光に、子供でさえ不思議そうな顔をする。

昼間の自分を恨む。付箋で済ませておけばよかった。

最初は一夜限りのつもり。妻への復讐のつもりだった。

 

 仕方なく、用事もないのにコンビニへと抜けだした。

 

「愛してるっていって」

 

 コール音一回で繋がった通話で、開口一番そう言われる。勘弁してくれよ。これが自宅のリビングだったらと思うと、震えがとまらない。

 

「愛してるよ……。でも、言えない時だってあるのを分かってくれ」

 

「愛してないのね? 私我慢できない……」

 

 暗に社内への暴露を匂わせられる。僕がこれを恐れているのを美紀は熟知している。これを最初から回避できた一課のやつが羨ましい。

 

「待ってくれ」

「今すぐ会いたいの」

「わかった」

 

 わざわざ早く切り上げて帰宅したにも関わらず、会社へ呼び出されたのだと丸わかりの嘘をついて、美紀の待つ所へ行く。そして、会えば、また体を重ねてしまう。罪の意識にさいなまされながらも、美紀の積極的な技巧に興奮してしまう自分に気づく。さらに自己嫌悪が増した。

 性欲を満たした後に訪れるのは満足感ではなく、砂をかんだような苦い感覚

 ここから抜け出したい。

 

「奥様ってどんな方? 髪は長いの?」

「国立のどの辺りに住んでいるの?」

 

 どきっとした。

 美紀と会うたびにされる数多くの質問に、僕はこれまで適当に答えてきた。けれど、今は想像できる。

 休みの日に、子供たちと遊ぶいつもの公園。そこへ突然現れる美紀。そして、白々しく挨拶されるのだ。

 何も考えずに僕に抱かれていた時の無邪気な笑顔は、今は薄氷のように張り詰めている。

彼女を追い込んでいるのは僕なのだ。

 

「ねぇ、奥様とはもうしてないって言ってたわよね」

「離婚届も用意してあって、後は奥様が書くだけって」

「早く一緒に暮らしたいの」

 

 その場その場で、適当なことを答えていた自分を責めた。

朝起きてすぐ、電車に乗る前、会社でのトイレ休憩、昼休み、コーヒータイム、仕事終わりと、何度も何度も、時と場所を選ばずに一緒にいたいというメッセージが届く。

 

 

 はっきり別れられないまま、金曜日の夜、日付をまたいで帰宅する。

妻は隣のベッドで身じろぎもせず寝ている。

しかし、呼吸の深さから妻が起きていることがわかる。

毎週こんな遅くまで何をしているのか分かっているはずだ。

“何も言わないから、帰ってきて欲しい”と言われたあの一言から、随分時間が経っている。僕が寝たふりをした後、妻の押し殺した泣き声が聞こえる。

僕は、妻をもこんなに追い込んでいる

 

 

 

 

 僕は混乱し始める。

はっきりさせないといけない。

 

それでも、原田さんに会えば原田さんには言えなかった。

離婚して

離婚して

離婚して

離婚して

 

 その言葉に怯え、それを言わせないために抱く。

 

 

 家に帰れば、妻の悲愴な面持ちに、声もかけられない。

 それでも何も言わない。強い女だ。

美紀は、僕がいないと生きられないという。

妻はどうだろうか?

自分の家計に、僕の毎月振り込むであろう慰謝料があれば、子供たちと整理整頓された家でつつがなく暮らしてくれるのではないだろうか。

自分に都合のいいことを考えては、離婚届を書いてまで自分を律する妻の覚悟を思い出す。

 

 

このままでいたい。

浮気なんて、いつまでも続かないだろう。

原田さんも結婚を意識する年齢になれば、見込みのない妻帯者など見限りをつけてくれるはずだ。そうすれば、傷つけずに元に戻ることができる。

何も自ら波風立ることはない。

子供の相手をして、せめてよき父でありたいと願う。

 

 

 クリスマスを目の前に控え、子供へのプレゼントを受け取りに店へ出向いた帰り、美紀と密会した。

 

「子供ができたの」

 

 シャワーの後、バスタオルで体を包んだ状態でベッドの端に腰をかける美紀。

 

子供?

 

「わたし、産むわ」

 

 美紀ははっきりとそう言った。

 僕はこの顔を知っている。女が母親になる時の顔だ。

 

 僕はそれに対して、責任を負わなければならない。

 妻の出産からここまでの育児を思い出せば、それは一人でやり遂げられるようなことではない。誰かの支えが必要だ。

 

 妻は、僕にすがりつくほどは求めてないはず……。

離婚……

だが、しかし、離婚したいとは言い出せない。

妻の生活を根底で支えているのは、そこなのだ。

言えない。

言えない。

でも、離婚しなければ――。

そもそも、僕は離婚したいのだろうか?

離婚……?

 

 カサっ

 僕の頭の中で、あいつが動いた。

 

夜中に、そっと置きだして、妻の引き出しを開ける。

薄い紙には妻の文字

そう、妻だって何の考えもなく書いたわけではないはずだ。

離婚する覚悟があるから書いたはずだ。

はっきりさせないといけない。

赤ん坊は、刻一刻と大きくなっている。

家族がそろう年末年始の一家団欒の中、不安な美紀を一人っきりにさせるのはかわいそうだ。

これまでのようにぐずぐずと引き延ばすわけにはいかない。

 

 

結婚届は、大学卒業時に親父にもらったモンブランの万年筆で記入した。

離婚届は、その辺でもらった安物のボールペンで書く。

結婚届は、実印だった。離婚届は三文判。

 

 これで完成か?

 暗闇のリビングで、月夜にかざして薄っぺらい紙を眺める。

 

右のページを見たら、空白だった。

証人が二人いるらしい。

一人は、美紀でいいだろう。

もう一人は……。両親、いやだめだ。彼女の親は?これもだめ。上司……これもだめ。

後ろめたい気持ちが広がっていく。

この間、美紀と会うためにアリバイを作ってもらった竹田の顔が浮かんだ。

 

 

 僕から誘うと竹田は神妙な顔をしてやってきた。

 僕から誘うのは珍しいし、アリバイ作りに参加したことで竹田は僕の状況を察したのだろう。

 

「イブの日に誘い出すなんて、今日は呑むつもりじゃないんだろ? 要件を話せよ」

 

 竹田に言われて初めて今日がクリスマスイブだったと気が付く。今日は美紀のところに行き、さらにサンタクロース役をするために子供の元に早めに戻らねばならない。寂しがるだろう美紀を何といってなだめればいいだろう……。

コーヒーチェーン店で、竹田に手短に離婚することになったと話せば、苦い顔をされた。竹田は、浮気された結果、離婚させられた方だ。俺のことを、にらんでくる。まるで僕が元妻の浮気相手だとでもいうようだ。

 

「なんとか書いてくれ。妻の合意は得てる。頼める相手はお前だけだ」

 

竹田に頭を下げておがみこむ。

隣の幸せそうなカップルが、僕からわずかに遠ざかった。

なかなか返事をしない竹田を頭を下げたまま見上げると、竹田は鼻からたばこの煙を吐いた。

 竹田は、男が煙草を哀愁漂わせて吸う姿がカッコイイのだと言っていた。このご時世なのに電子タバコではないのは、そういうこだわりからだ。その竹田が、我も忘れている。僕に怒っている。

 

「まさか、この短期間でそんなことになるなんてな……」

 

 僕は勢いよく顔を上げた。竹田は携帯灰皿に煙草をねじ込んだ。乱暴な仕草に苛立ちを感じる。

 

「書いてやるよ。俺からの餞別だと思え。もうお前には会いたくない」

 

 餞別という言葉のナイフが僕を刺す。

 僕が差し出していたボールペンで、竹田は記入してくれた。

 怒っているのに、丁寧に書かれる字に、僕は妻だけでなく親友も失ったことに気が付く。

 

 竹田が去った空席を見て、自分がしてはいけないことをしているとはっきりわかった。

 竹田……。僕は不倫の末に離婚しようとしているだけじゃない……。本当は、妻に内緒で離婚届を出そうとしている……。

 そう打ち明けたら、竹田。おまえは僕を殴ってでも止めてくれるかい?

 

 竹田は、僕を置いて無言で席を立った。

 口を利きたくないほど軽蔑された……。

 

 普通の夫婦なら、離婚届は両者が話し合った結果書くものだろう。

 僕は、妻の善意を裏切ってこれを手に入れている。

 竹田は、僕に餞別という言葉で気づかせようとさせてくれているのかもしれない。

 

 やはりやめたほうがいいか?

 やめるべきだろう。

 僕には、子供もいる。

 大切な人を傷つけて、こんなことを続けるなんて……。

 

 口をつけていない冷めきったコーヒーが二杯分机の上に置かれたままだ。酸っぱいものがこみあげてくる。

 

 僕は最低だ。

 僕は人として最低なことをしている。

 妻の善意を、僕は悪意でもって裏切ろうとしている。

 なんて弱い人間なんだろう。こんな情けない僕を妻も子供も信じて家で待ってくれているのだ。僕は信頼に値する人間ではない。

 離婚届を出さなければ、いいのではないか?

出さなければ、まだ間に合う?

消えない傷を持ったまま、家族と生きていける?

僕はその傷を負い、贖罪をしながら妻との生活を続ける。父親としても……。

 僕がすべきことは、美紀との関係を白紙に戻すことだけだ。

 例えそれが、尊い赤ん坊の命を奪うことになったとしても……。

 

 

 そう思うと、長男が生まれた時のことを思い出す。

 生まれてみるまでは、妻の腹をぐねぐねと蹴り飛ばすだけで、父親としての実感は伴わなかった。

 だが、初めて胸に抱いた時、僕によく似た鼻を見た時の感覚。

 壊れしてしまいそうで怖かった、ぐねぐねした頼りのないあの温かい体。

 あれは、本当に神様と妻からの僕への贈り物だ。

 

 授かりものの命を自分の都合で消すなどと、していいわけはない。

 美紀が何といおうと、認知の方向で話をしよう。

 虫のいい話かもしれないが、美紀だって僕との子供を殺すのは嫌だろう。

 美紀がいないところでは、やすやすと天秤は家族の方へと傾く。

 

 

 

竹田と別れた後、予定通り美紀の待つアパートへ行った。

別れを決意し、緊張した僕の顔を見て、美紀は珍しく何も言わずに上着を受け取る。ハンガーにかける時に内ポケットから音がした。

カサっ

 

美紀は、いい音を聞きつけたように、上着のポケットを探った。

 

「超嬉しい!」

 

 声と一緒に僕へ飛び込んでくる。

 美紀のその顔

 僕を勝ち取ったという勝利の顔

 僕を愛しているといいながら

 僕を不幸のどん底まで引きずりこんだその顔

 こんな女のために、僕は……。

 

「いつ提出に行くの? 今から役所に行かない?」

 

 はしゃぐ声に、吐き気がする。

 でも、今の美紀に、離婚はしないとは言えない。

 

 ふらふらと僕は立ち上がった。

 何を言って美紀の部屋を出たのかわからない。

 

 

 僕は気が付いた。

 ぎりぎりだけど気が付いた。

 守るべきは何なのか。

 だけど、美紀はそうはさせてくれない。

 悪魔との取引に、僕は血印を押したのだ。そこにクーリングオフ制度はない。

 快楽との交換条件は、尊い誓いを犠牲にすること。

 

 

 どうすればいいのか。

 なぜこんなことになったのか。

 

 カサっ

 カサっ

 

 胸の内ポケットで、あいつが主張してくる。

 

 トゥクン―― トゥクン――

 カサっ―― カサっ――

 

 

 いつの間にか最寄り駅に到着し、ふらふらと休日に子供たちと遊ぶ公園に入った。

 もう真っ暗で、子供の姿はない。夜にいるカップルの姿もない。

 今日はクリスマスイブだ……。幸せな人は温かい場所で聖なる夜を祈っている。

 

 妻の顔、優しい声を思い出す

 子供たちの寝顔も

 僕はどうすればいい?

 

 いっそ破り捨ててしまおうか?

 僕を振り回すこの悪夢は、この離婚届のせいだ。

 なくなってしまえばいい。

 

 しかし、捨ててしまえば、離婚届がないことに気が付いた妻になんて言えばいいのだろうか?

 そもそも、僕はもう妻の隣で寝ることさえ躊躇ってしまう。

 

 僕を信じてくれるおまえ

 あぁ、おまえは僕のことを少しも疑いはしていないだろう

 どうしてこんなことになった?

 ぐるぐる同じことを考えては、結局自分が悪いのだと行きつく。

 はっきり決めることができずに、両方にいい顔をしている。

 でも、どちらかを選ぶことなんてできない。

 

 あぁ、僕はなんて弱い人間なのだろう

 妻の期待を裏切って

 美紀の愛も裏切ってしまう

 新しく生まれてくる子を堕胎して欲しいとさえ願った

 二人の子供だって、こんな父親のことを情けなく思うだろう

 

 

 どこかの家から、「メリークリスマス!」という声が聞こえてくる。

 家では、子供がクリスマスケーキを楽しみにまっているだろう。

 少し前まで、僕だって絵に描いたような幸せの中でいたはずだ。

 あの時に戻りたい。

 

 公園の隣の大通りを歩く人々は皆幸せそうだ。

 みんな、それぞれの幸せをきちんと守っている。

 あの幸せは、当たり前ではなかった。

 不断の努力でもって維持していたのだ。

 僕がそれを壊した。

 甘美な誘い文句に応じるのは容易く、日常を守るのは難い。

 悪魔と取引してしまった僕ができることは何だろう?

 

 離婚したくない

 出さなければいい

 カサっ――

 美紀の子供にだけでも責任を取りたい

 出さなければならない

 カサっ――

 

 ジャングルジムを見上げた

 長男は、最初登れなかった。

 情けないやつだと思ったけれど、今のマンションに引っ越して、毎週末通った。そして、少しずつ登れるように成長した。

 その一番てっぺんまで登る。

 眼下に広がる公園は、下でいる時よりも広く見渡せる。

 

 

 子供は成長する中で、僕は毎日の生活から足を踏み外してしまった。

 元に戻るチャンスは何回かあったのかもしれない。

 でも、自堕落な快楽へと進んでしまった。

 悪いのは妻でも、美紀でもない。

 僕が悪い。

 僕がそれを選んだからだ。

 竹田のことを、マウント勢と心の中で笑いながら、それを羨み、自分が大切にしていた家族を捨ててしまった。

 全て、この身から出た災いだ。

 僕さえいなくなれば、このドロドロとした苦しみはなくなる。

 そこに救いがあるのではないだろうか。

 僕を救ってくれるのは、もうそれしかない。

 

 心の中でうずまく、焦りと自己嫌悪が僕を突き動かす。

 楽になりたい。

 もう何も考えたくない。

 

 シャツの首元に指を突っ込んで、ネクタイを緩め、一度に引き抜く。

 ジャングルジムの一番上にネクタイをしっかり結ぶ。

 未遂や事故は許されない。

 これ以上惨めな思いはしたくない。

 震える手でそれを首にかけた

 

 せめてこの離婚届を出さないことが僕の信念だ

 家族を守ったまま そのままでいたい

 でも、もう元には戻れない

 妻に失望されるくらいなら……

 

 あぁ、結局僕が最後まで守りたかったものは、自分自身のちっぽけなプライドだった…………

 

 視界が暗転する。

 

Fin.

 


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