魔法科高校の異端魔術師   作:もやしになりたい

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本日2話目の投稿となります。


見えるもの

学校という場所に、決まった教室を割り当てる意味は、単に生徒を管理しやすくするためだけではない。

 

毎日、同じ場所に集まり、同じ顔ぶれと机を並べる。

 

それだけのことでも、人と人との距離は少しずつ変わっていく。

 

最初は名前も知らなかった相手と挨拶を交わすようになり、やがて何気ない噂話を共有し、気づけば、本人がまだ知らない出来事まで向こうが知っている――ということもある。

 

「おはよう、司波。聞いたぞ、九校戦のスタッフに選ばれたんだって?」

 

「おはよう、司波君。すごいね」

 

「頑張ってください、司波くん」

 

「オッス。さすがだな、司波」

 

  

月曜日の朝。

 

教室に入った達也は、自分の席へ辿り着くまでの間に、何人ものクラスメイトから声を掛けられていた。

 

内容はどれも同じ。

 

九校戦の技術スタッフに選ばれたことへの祝福と激励である。

 

「……みんな、情報が早いな」

 

  

鞄を机の横に掛けながら、達也はわずかに眉を寄せた。

 

正式な発表はまだのはずだった。

 

少なくとも、本人が人づてに噂を聞かされる程度に広まるほど時間が経っているとは思っていなかった。

 

「本当ですね。まだ、今日の発足式で発表される段階だと思っていました」

 

  

美月も、少し驚いたように教室を見回している。

 

「こういう話は回るのが早いのよ。特に、“一年生の二科生が九校戦のスタッフ入り”なんて、面白がる人も多いでしょうし」

 

  

エリカは机に肘をつきながら、どこか呆れたように言った。

 

皮肉を含んではいるが、達也自身を揶揄する響きはない。

 

むしろ、その話題を好奇の目で消費する周囲へ向けたものだった。

 

「クラブの先輩から聞いたとか、その辺りだろうな」

 

  

レオが椅子へ腰を下ろしながら、あっさりと言う。

 

「緘口令が出ていたわけでもないし」

 

「まあ、そうだろうな」

 

  

達也は短く応じた。

 

そこへ、少し遅れて教室に入ってきた雄馬が、会話の輪に近づいてくる。

 

「朝から随分と人気者だな、司波」

 

「好きでなったわけじゃない」

 

「それは見れば分かる」

 

  

雄馬は淡々と返し、自分の席へ鞄を置いた。

 

その表情には、からかい半分、同情半分といった色が浮かんでいる。

 

「今日、正式発表なんだろ?」

 

「五限目の全校集会でな」

 

「発足式でしたよね」

 

  

美月が言うと、達也は小さく頷いた。

 

九校戦の代表チーム編成は、先週の金曜日でひとまず固まった。

 

選手側の大枠は先に決まっていたが、技術スタッフの確定が遅れていたため、全体の進行は予定よりやや押している。

 

競技用CAD。

 

選手用ユニフォーム。

 

会場入り後の調整設備。

 

そういった物品の手配自体は進んでいても、実際に選手が使う機材の最終確認や細かなパーソナライズは、技術スタッフが揃わなければ本格化しない。

 

その穴埋めの一人として、自分が選ばれた。

 

そう理解はしている。

 

理解はしているのだが。

 

「……浮かない顔だな」

 

  

雄馬が、達也の横顔を見て言った。

 

「発足式に出るのが憂鬱なんだよ」

 

「人前に立つのが嫌なのか?」

 

「それもある」

 

  

達也は端末を起動しながら答える。

 

「一年生の技術スタッフは俺だけだ。目立つ」

 

「それは、まあ……目立つでしょうね」

 

  

美月が困ったように微笑んだ。

 

「ブルームの連中、かなり面白くなさそうだったわよ」

 

  

エリカが言う。

 

声に軽さはあるが、目は笑っていない。

 

「定期試験で散々目立った直後だもの。そこへ九校戦のスタッフ入りなんて話が来たら、穏やかじゃいられない人もいるでしょうね」

 

「選手枠を奪ったわけでもないんだがな」

 

  

達也の言い分はもっともだった。

 

新人戦の代表選手は、一科生の中から選ばれている。

 

自分は選手ではなく裏方だ。

 

同じ土俵を奪ったつもりはない。

 

だが、それで納得する者ばかりなら、そもそも入学以来の軋轢など起きていない。

 

「理屈で済むなら、苦労しないわよ」

 

  

エリカが肩をすくめる。

 

「嫉妬は理屈じゃありませんから」

 

  

美月が、静かに付け足した。

 

達也は何も返さなかった。

 

その指摘は、あまりに真っ直ぐで、反論の余地がない。

 

「まあ、今度は石も飛んでこないだろ」

 

  

レオが冗談めかして言った。

 

「石で済めばいいけどね」

 

「それは慰める気があるのか」

 

  

雄馬が呆れたように横目を向ける。

 

「あるわよ。半分くらい」

 

「半分か」

 

  

雄馬は小さく息を吐いた。

 

それを見て、レオが笑う。

 

教室のざわめきはいつも通りに戻りつつあったが、達也の周囲だけは、どこか普段より少し落ち着かない空気を残していた。

 

九校戦。

 

学校全体が浮き足立つ季節が、いよいよ本格的に始まったのだ。

 

 

 

  

四時限目が終わった後。

 

指定された時間に講堂の舞台裏へ向かうと、達也は先に待っていた深雪から薄手のブルゾンを差し出された。

 

「これは?」

 

  

見れば分かる物ではあったが、確認として訊ねる。

 

「技術スタッフ用のユニフォームです」

 

  

答えたのは、深雪のすぐ横にいた真由美だった。

 

「発足式では、制服の代わりにそれを着てもらうの」

 

  

真由美自身は、いつもの制服ではなく、選手用と思しきテーラード型のスポーツジャケットを羽織っている。

 

壇上で並んだ時に、選手とスタッフの区別がつくようにするためだろう。

 

達也は手渡されたブルゾンへ視線を落とした。

 

左胸には、第一高校の校章。

 

八枚花弁のエンブレムが、きちんと縫い付けられている。

 

一科生の制服にだけ許された、その意匠。

 

技術スタッフ用のユニフォームとはいえ、今の達也がそれを身につける意味を、ここにいる誰より深雪が重く受け止めているのは明らかだった。

 

「お兄様」

 

  

深雪が、期待に満ちた目で両手を差し出している。

 

ブルゾンを自分の手で着せたいのだろう。

 

達也はほんの一瞬だけ抵抗を考えたが、無意味だと判断して素直にブレザーを脱いだ。

 

用意されていたハンガーに掛け、軽く膝を折る。

 

深雪がブルゾンを広げ、達也はその袖に腕を通した。

 

「……はい」

 

  

深雪は前へ回り込み、襟元を整え、肩の線を軽く直す。

 

それから一歩下がって、全体を見た。

 

その顔に、心から満たされたような笑みが浮かぶ。

 

「とても、よくお似合いです」

 

「そうか」

 

「はい」

 

  

返事は短かったが、深雪の声音には隠し切れない喜びが滲んでいた。

 

達也にとっては、ただの大会用ユニフォームに過ぎない。

 

だが深雪にとっては違う。

 

本来ならば、兄こそが最初から持つべきだったと信じている象徴が、ようやくそこにある。

 

そんな感慨を抱いているのだろう。

 

「深雪は着替えなくていいのか?」

 

「わたしは進行役ですので」

 

「大役だな」

 

「……あまりプレッシャーを掛けないでください」

 

  

口ではそう言いながら、深雪が本当に気後れしているわけではない。

 

達也もそれを分かっている。

 

だからこそ、軽く笑って、その頭へ手を置いた。

 

深雪はほんの少し目を細める。

 

そのやり取りを、近くにいた真由美は微笑ましげに、摩利は呆れ気味に見ていた。

 

そして、それ以外のスタッフや選手たちは、概ね冷たい目で見ていた。

 

  

 

 

 

 

  

発足式は、予定通りに始まり、滞りなく進んでいった。

 

代表選手。

 

作戦スタッフ。

 

技術スタッフ。

 

名前を呼ばれた者から壇上で紹介され、競技エリアへの入場認証を兼ねた徽章を、ユニフォームへ取り付けられていく。

 

司会進行は真由美。

 

徽章の授与役は深雪だった。

 

舞台映えする、という理由で選ばれたらしいが、実際、その人選はこれ以上ないほど的確だった。

 

深雪はにこやかな表情を崩さず、一人一人に徽章を取り付けていく。

 

男子生徒の多くは、間近で向けられる笑顔に緊張を隠し切れない様子だった。

 

女子生徒の中にも、深雪の所作と雰囲気に飲まれたのか、やや顔を赤らめている者がいる。

 

客席から見れば、実に華やかな光景だった。

 

ただし壇上の達也にとっては、それどころではない。

 

選手とスタッフで列が分かれているため、達也の周囲は上級生ばかりだった。

 

準備会合で最低限の腕前は示した。

 

露骨な侮蔑を向けられているわけではない。

 

しかし、好意的に迎え入れられているとも言い難い。

 

好意的な評価と、好意そのものは別物だ。

 

一年生。

 

二科生。

 

そして異例の抜擢。

 

この三つが重なれば、物珍しさと反発を招くのは当然だった。

 

達也は壇上の照明を浴びながら、そんなことを他人事のように考えていた。

 

「緊張する?」

 

  

隣から、小さな声が掛かる。

 

振り向かず、視線だけを動かすと、柔らかな顔立ちの男子生徒がこちらを見ていた。

 

二年生の五十里啓。

 

魔法理論に優れ、技術スタッフの中でも中心に近い立場にいる人物だと聞いている。

 

「多少は」

 

  

達也は小声で返す。

 

「僕もだよ。こういうのは、慣れないね」

 

  

五十里は困ったように笑った。

 

その声音に、特別な含みはない。

 

ただ自然に、同じ舞台に立つ仲間へ声を掛けてきただけ。

 

周囲の視線の中で、その何気ない一言は思いのほかありがたかった。

 

達也はほんの少しだけ肩の力を抜く。

 

そして、ふと客席へ目を向けた。

 

一科生が前方、二科生が後方。

 

座席の指定などないはずなのに、講堂内にはいつものように見えない境界線が引かれている。

 

その前方の席に、明らかに異質な一塊があった。

 

エリカが手を振っている。

 

その隣に美月。

 

反対側にレオ。

 

少し間を置いて幹比古。

 

そして、その列の端に雄馬がいた。

 

姿勢は普段通り。

 

周囲の視線を気にしている様子もなく、ただ壇上を真っ直ぐ見ている。

 

目立つことを避ける性格のくせに、こういう時だけは妙に逃げない。

 

それが達也には、いかにも雄馬らしく思えた。

 

どうやら1年E組の一部が、わざわざ一科生の席へ割り込む形で陣取っているらしい。

 

エリカ一人ならまだしも、美月や幹比古まで同席しているあたり、半ば巻き込まれたのだろう。

 

レオは面白がってついてきたに違いない。

 

雄馬は――止めるより、一緒に座った方が早いと判断したのかもしれない。

 

そんなことを考えているうちに、技術スタッフの紹介は最後へ差し掛かっていた。

 

「司波達也くん」

 

  

真由美の声が、講堂へ響く。

 

わずかに、いつもより力が入っていたように感じられた。

 

達也は一歩前へ出て、一礼する。

 

深雪がこちらへ歩み寄ってくる。

 

その顔には、隠しようもない喜びがあった。

 

誇らしさ。

 

安堵。

 

そして、ほんの少しの昂揚。

 

自分が壇上に立つより、兄がそこに立つことの方が嬉しいのだろう。

 

深雪が徽章を襟元へ取り付ける。

 

その瞬間。

 

客席の一角から、ひときわ大きな拍手が起こった。

 

先頭は、言うまでもなくエリカだった。

 

レオがそれに続き、近くに座っていたクラスメイトたちがつられるように手を叩く。

 

美月も、少し慌てながらきちんと拍手を重ねた。

 

幹比古は最初一拍遅れたが、すぐに手を打ち鳴らす。

 

雄馬は騒ぎを煽るようなことはしなかった。

 

ただ、迷いなく拍手していた。

 

それだけで、達也には十分だった。

 

予定にない拍手に、一年生の一科生側からざわめきが起こりかける。

 

だが、それより先に。

 

真由美が、そして深雪が、まるで示し合わせたかのようなタイミングで拍手を始めた。

 

最後の一名への特別な拍手ではなく。

 

九校戦代表チーム全体への祝福として。

 

意味を塗り替えられた拍手は、瞬く間に講堂へ広がっていった。

 

達也は壇上に立ったまま、ほんの少しだけ視線を伏せた。

 

面倒なことになった。

 

そう思う気持ちは、確かにある。

 

けれど、その面倒の中に、今の拍手が残ってしまったこともまた、否定できなかった。

 

 

 

  

発足式を境に、校内の空気は一気に九校戦へ傾いた。

 

深雪は、ほのかや雫と共に、新人戦へ向けた調整と練習に追われるようになった。

 

達也は技術スタッフとして、競技用CADの確認や調整、選手側との打ち合わせに時間を取られ、生徒会の仕事まで一部を肩代わりする日が増えていく。

 

エリカとレオも、それぞれの部活動経由で大会準備へ駆り出されていた。

 

幹比古は普段通りに見えたが、何か考え込む時間が以前より増えたようにも見える。

 

そして雄馬は。

 

まだ正式に何かを言い渡されたわけではない。

 

九校戦に関わる話が、自分へ向かって進んでいることも知らないまま、放課後の時間を自主練に回す日が増えていた。

 

だからその日、昇降口付近で待っていたのは、美月一人だった。

 

  

エリカたちはまだ戻ってこない。

 

達也も仕事が長引いているのだろう。

 

深雪たちは言うまでもなく練習中。

 

急ぎの予定があるわけではない美月は、鞄を抱えたまま、ぼんやりと発足式の日のことを思い出していた。

 

前方席へ行こうと最初に言い出したのはエリカだった。

 

当然のようにレオが乗り、達也を応援するならそれくらいやって当然だと押し切られた。

 

美月一人なら、きっと後ろの席から静かに見守っていただろう。

 

けれど、実際に前方へ座ってみれば、少しだけ誇らしい気持ちになったのも事実だった。

 

達也の名前が呼ばれた時。

 

深雪が徽章を付けた時。

 

拍手が広がった時。

 

あの一瞬、確かに自分たちは達也の味方として、そこにいた。

 

それが少しだけ、嬉しかった。

 

エリカはああいう時、いつも迷わない。

 

レオも、雄馬も、結局は何も言わずについて行く。

 

幹比古も、最初は戸惑っていたように見えたが、最後にはちゃんと手を叩いていた。

 

自分だけでは選べなかった行動を、あの場では選べた。

 

そう考えると、少しだけ胸の奥が温かくなる。

 

  

――その時だった。

 

美月は、ふと、見慣れない波動に気づいた。

 

それは明確な音でも、匂いでもない。

 

けれど、彼女には分かる。

 

普段、眼鏡越しに抑え込んでいる感覚の奥へ、何かが引っかかった。

 

規則的な、けれど人間の呼吸とは違う。

 

ゆらぎを持ちながら、どこか一定の調子を刻む霊子の波。

 

「……?」

 

  

美月は小さく首を傾げる。

 

この程度なら、普段であれば気のせいとして流していただろう。

 

だが今日は、妙に気になった。

 

悩んだのは、一秒ほど。

 

美月は意を決して、眼鏡を外した。

 

途端に、視界が色で溢れた。

 

肉眼では見えない光。

 

サイオンの名残。

 

人の感情がにじむプシオンの揺らぎ。

 

情報の洪水が、容赦なく瞳の奥へ押し寄せてくる。

 

美月は一度、きつく目を閉じた。

 

呼吸を整え、ゆっくり開く。

 

それだけで、世界は何とか形を取り戻した。

 

慣れている。

 

苦しくないわけではないが、生まれてからずっと付き合ってきた感覚だ。

 

先ほど引っかかった波動を探す。

 

すぐに見つかった。

 

それは校舎の奥――実験棟の方角から届いている。

 

妙に静かで、それでいて強く存在を主張する波だった。

 

「……何だろう」

 

  

呟いてから、美月は歩き出していた。

 

自分でも、なぜそこまで気になるのか分からない。

 

ただ、見過ごしてはいけない気がした。

 

実験棟に近づくにつれ、空気が少し冷たくなったように感じる。

 

もちろん、錯覚だ。

 

真夏の夕方の熱気が、そんな簡単に薄れるはずがない。

 

けれど、肌に触れる感覚だけが、確かに変わっている。

 

近づくな。

 

そんな風に、何かが警告しているようにも思えた。

 

怖い。

 

足を止めたい。

 

それでも、美月は引き返さなかった。

 

やがて、波動の発信源が薬学実験室へ続いていることに気づく。

 

廊下には、かすかに香木の匂いが漂っていた。

 

鎮静作用を持つ香りだったはずだ。

 

授業で少しだけ嗅いだ記憶がある。

 

怪奇現象ではない。

 

誰かが、ここで魔法実験をしている。

 

そう分かると、怖さが少しだけ薄れた。

 

代わりに好奇心が頭をもたげる。

 

本来なら、他人が魔法を行使している場へ、許可なく踏み込むべきではない。

 

特に、実験中の魔法へ外部の魔法領域が干渉すれば、思わぬ事故に繋がりかねない。

 

そんな基本的な注意事項は、美月も授業で教わっている。

 

けれどその時は、そこまで考えが回らなかった。

 

彼女は足音を殺して扉へ近づき、ほんのわずかに隙間を作る。

 

そして、中を覗き込んだ。

 

「……っ」

 

  

声が出そうになるのを、ぎりぎりで呑み込んだ。

 

薬学実験室の中。

 

青、水色、藍色。

 

いくつもの光の球が、空中を漂っていた。

 

ただのサイオン光ではない。

 

それぞれが、別々の意思を持って動いているように見える。

 

泡のように揺れ、光の粒子のように舞い、けれど同時に、こちらの世界とは違う秩序でそこに存在していた。

 

自然現象の流れに偏りがあることを、美月は昔から“見て”知っている。

 

強い感情が色になることも。

 

場所に残る思いが光の濃淡として現れることも。

 

だが、今目の前にあるそれは、どちらとも違った。

 

そこには、力だけでなく、意志があった。

 

「……精霊……?」

 

  

思わず、そう呟いていた。

 

そして、その光の球を呼び出していた人物に気づく。

 

「吉田くん……?」

 

  

声は、ごく小さかった。

 

自分では囁いたつもりだった。

 

けれど、幹比古には十分だった。

 

誰も来ないはずの場所。

 

誰にも見られていないはずの術式。

 

その最中に、突然名前を呼ばれたのだから。

 

「誰だ!」

 

  

鋭い声が飛ぶ。

 

幹比古の動揺に引かれるように、光の球が一斉に反応した。

 

「きゃっ……!」

 

  

美月へ向かって、青い光が押し寄せる。

 

思わず目を閉じた、その瞬間。

 

横合いから、目に見えない奔流が割って入った。

 

髪も揺らさない。

 

スカートもなびかせない。

 

だが、確かにそこには、強いサイオンの流れがあった。

 

押し寄せてきた光球は、その奔流に横から薙ぎ払われるように逸れていく。

 

美月は、何が起きたのか分からないまま、その場にしゃがみ込んだ。

 

恐る恐る瞼を開ける。

 

そこにいたのは、厳しい表情の幹比古。

 

そして、その視線を正面から受け止める達也だった。

 

「……落ち着け、幹比古」

 

  

達也は両手を軽く上げてみせる。

 

何も持っていない。

 

敵意はない。

 

魔法師でなくとも理解できる、明確な意思表示だった。

 

「今ここで、争うつもりはない」

 

  

幹比古はハッとしたように目を見開いた。

 

先ほどまで瞳に浮かんでいた敵意が、急速に薄れていく。

 

「……すまない、達也。僕も……そんなつもりじゃなかった」

 

  

声音は、先ほどとは別人のように沈んでいた。

 

強く閉じていた心の扉を、不意に他人へ見られたような。

 

そんな居心地の悪さが滲んでいる。

 

「気にするな」

 

  

達也は短く答えた。

 

それから、少しだけ人の悪い笑みを浮かべる。

 

「元を辿れば、SB魔法の行使中に不用意に声を掛けた美月にも責任はある」

 

「ふえっ!? 私ですか!?」

 

  

美月は慌てて顔を上げた。

 

その反応を見て、達也が本気で責めているのではないと気づく。

 

けれど、驚いた心臓はすぐには静まらない。

 

「違う。柴田さんは悪くないよ」

 

  

幹比古は、少し早口に言った。

 

「声を掛けられた程度で術を乱した僕が未熟だった。……それに、達也。ありがとう。君が止めてくれなければ、柴田さんに怪我をさせていたかもしれない」

 

「その可能性は低かったと思うがな」

 

  

達也は幹比古の術の残滓へ視線を向ける。

 

「少なくとも、制御を完全に失ってはいなかった。それに、人払いの結界を敷いていたなら、誰かが踏み込んでくるとは考えにくい。驚いたこと自体は理解できる」

 

「……結界のことまで分かるのか」

 

「兆候くらいはな」

 

  

達也は淡々と答えた。

 

「以前、古式魔法について触れる機会があった」

 

「君は本当に、いろんな意味で僕の理解の外にいるね」

 

「非常識と言ってくれて構わない」

 

  

達也が軽く返すと、幹比古もようやく、わずかに苦笑した。

 

張り詰めていた空気が、そこで少しだけ緩む。

 

「今のは、自然霊を用いた喚起魔法か?」

 

  

達也が訊ねる。

 

幹比古は、香木を焚いていた卓上炉を片づけながら、ゆっくり頷いた。

 

「……そうだよ。水精を使って、喚起の練習をしていた」

 

  

美月は、机に落ちた灰を拭くために雑巾を手にしていた。

 

幹比古は遠慮したが、覗き見をしてしまった負い目もあって、美月はなかなか引かなかった。

 

「水精か」

 

  

達也は小さく呟く。

 

「俺には、プシオンの塊があることしか分からなかった。美月にはどう見えた?」

 

「えっ?」

 

  

急に話を振られ、美月は慌てて顔を上げる。

 

「私も……大体そんな感じです。青い光の球が浮かんでいて……ただ、その、少しずつ色合いが違うように見えました」

 

  

そう言って両手を軽く振る。

 

雑巾を持ったままだったため、小さな水滴が飛び、幹比古の頬へ付いた。

 

だが、本人はそれに気づいていない。

 

「……色合い?」

 

  

幹比古の表情が、明らかに変わった。

 

美月はその変化に気圧され、思わず身を竦める。

 

「あの……青とか、水色とか、藍色とか……」

 

「……見分けられたのか?」

 

「え、ええと……はい」

 

  

幹比古の視線が鋭くなる。

 

美月は、彼の顔についた水滴にようやく気づいた。

 

「あっ、ご、ごめんなさい! ハンカチ……!」

 

  

慌てて鞄へ手を伸ばし、取り出したハンカチで頬を拭おうとした、その瞬間。

 

幹比古が、美月の手首を掴んだ。

 

「えっ……?」

 

  

驚いた美月の身体が、わずかに前へ引かれる。

 

幹比古はそのまま、美月の目を覗き込むように顔を寄せた。

 

近い。

 

あまりにも近い。

 

「吉田くん……?」

 

  

美月の声が震える。

 

だが幹比古には届いていないようだった。

 

彼は、美月の瞳だけを見ている。

 

そこに何があるのか、必死に確かめようとしている。

 

「……合意の上なら席を外すが、そうでないなら問題だぞ」

 

  

達也の冷静な声が、二人の間へ落ちた。

 

「わっ……!」

 

「きゃっ……!」

 

  

幹比古と美月は、弾かれたように離れた。

 

「……ごめん」

 

  

幹比古が先に頭を下げる。

 

「い、いえ……こちらこそ……」

 

  

美月もなぜか謝ってしまい、達也は一瞬だけ目を細めた。

 

混乱しているのだろう、と判断する。

 

「それで、何にそこまで驚いた?」

 

  

達也の問いに、幹比古は少しの間、言葉を探すように黙った。

 

やがて、改めて美月へ頭を下げる。

 

「本当にごめん。決して、不埒な真似をするつもりはなかった。ただ……まさか、精霊の色を見分けられる人がいるとは思わなくて」

 

「色を?」

 

  

美月が首を傾げる。

 

「もしかすると、水晶眼の持ち主かもしれないと思ったんだ」

 

「水晶眼?」

 

  

今度は達也が訊ねた。

 

「差し支えなければ、説明してくれ」

 

  

幹比古は一度だけ息を整え、話し始めた。

 

「精霊には、術者が認識するための“色”がある。僕たちの流派では、水精は青、火精は赤、風精は緑、土精は黄――そういう風に分類する」

 

「実際に、その色で見えているわけではない?」

 

「そう。波動の性質を、術を通して色として解釈しているだけだ。流派が違えば、同じ水精でも別の色として認識されることがある」

 

  

達也は黙って続きを促した。

 

「だから、僕たちが“水精は青い”と言う時、それは色調の差まで見分けているという意味じゃない。水精なら、全部ひとまとめに青として捉える。水色とか、藍色とか、濃淡の違いが見えるはずがないんだ」

 

「……でも、美月にはそれが見えた」

 

「そういうことになる」

 

  

幹比古の声には、まだ興奮の余韻が残っていた。

 

「おそらく柴田さんは、水精ごとの力の差や性質の違いを、実際に色調として知覚している。僕たちの流派では、そういう眼を“水晶眼”と呼ぶ」

 

「特別な資質、ということか」

 

「特別どころじゃない。僕たちにとっては、神霊へ至るための鍵に近い」

 

  

幹比古は、美月へ視線を向けた。

 

今度は先ほどのような衝動的な鋭さではない。

 

それでも、そこには確かな熱がある。

 

「精霊の色を本当に見分けられる者は、精霊の集まり、その上位にある神霊というシステムを“見る”ことができる可能性を持つと伝えられている。僕たちの流派では、水晶眼の持ち主を、神霊へ接続するための巫女のような存在として扱うんだ」

 

  

美月は困惑したまま、視線を彷徨わせた。

 

突然、自分の目が誰かにとって極めて重要なものだと言われても、実感など湧かない。

 

「つまり」

 

  

達也が静かに口を開く。

 

「幹比古たちにとって、美月は喉から手が出るほど欲しい存在、ということだな」

 

「……そうだ」

 

  

幹比古は否定しなかった。

 

だが、すぐに続ける。

 

「でも、だからといって何かするつもりはない。今の僕には、神霊を御する力なんてないし……半年前の僕なら、舞い上がっていたかもしれないけど、今は違う」

 

  

そこで一度、言葉を切る。

 

「ただ、他の術者へ知らせる気にもなれない。柴田さんのことを利用しようとする人間が出るのは……嫌だ」

 

  

その声には、独占欲とは少し違う響きがあった。

 

自分のものにしたいのではなく。

 

誰かの都合で奪われるのを見過ごせない。

 

少なくとも、達也にはそう聞こえた。

 

「……分かった」

 

  

達也は小さく頷く。

 

「今の話は、俺も胸の内に留めておく」

 

  

それは幹比古へ向けた言葉であり、同時に美月へ向けたものでもあった。

 

幹比古は、僅かに安堵したように目を伏せる。

 

美月はまだ話の重さを全て飲み込めていない様子だったが、それでも達也の視線に気づくと、慌てて小さく頷いた。

 

薬学実験室には、香木の匂いがまだ薄く残っていた。

 

さっきまで空中を踊っていた青い光は、もうどこにもない。

 

けれど、あの光景がただの偶然で終わることはないのだろう。

 

誰にも知られぬまま。

 

第一高校の片隅で、また一つ、後に繋がる小さな秘密が生まれていた。

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