気温が氷点下までさがる屋外での活動において、長時間の会話はまさしく命に関わる重大問題であり、意思伝達を短時間で済ませるために、言葉の簡略化が行われたと考えられている。(本文より抜粋)
視界が霞むほど白けた世界の底。
冷たい風に混じった細かな雪が、びゅうびゅう吹き荒ぶなか、青葉は風を避けるように顔を下に向け、一歩一歩足を進める。
誰も知らぬまに除雪車の通ったあとが、ずっと真っ直ぐ伸びている。左右に押し詰め、塀のように高く固められた雪と雪の合間を歩く青葉の黒髪には粉塵のような雪が絡む。
彼女の辿った足跡が、降り頻る雪に埋もれて消えていく。
交差点。
赤いランプが、磨り硝子越しの映像のように、ぼんやりと白い世界の宙に浮かび上がっている。
その下には、信号待ちをしている見知った後ろ姿。
青葉はとんとんとその肩を叩く。振り返った
「よ(おはよう)」沙穂は吹き荒ぶ風に消え入りそうなくらい微かな声色でそう云うと、片手を挙げた。マフラーと同系色の手袋を嵌めていた。
ふたりは近づいて、じゃれあう仔犬のように肩をぶつけ合った。お互いくすくすと笑いあった。暖かな笑い声は何重にも巻かれた分厚いマフラーの隙間を縫って白い湯気となり、大気中を昇ってゆく。
「しゅ きた(宿題やってきた?)」
「も あんは(もちろん、あんたは?)」
「ね(やってねー)」
「お(怒られるよ)」
雪深い東北地方には、短い言葉を用いてコミュニケーションを図る地域が幾つも存在している。
有名なものでは青森の「どさ」「ゆさ」という津軽弁のやりとりが知られているが、これは「どさ(どこに行くんですか?)」「ゆさ(お風呂に行くのです)」という意味である。気温が氷点下までさがる屋外での活動において、長時間の会話はまさしく命に関わる重大問題であり、意思伝達を短時間で済ませるために、言葉の簡略化が行われたと考えられている。
彼女たちの住む秋田にも、青森同様に短い言葉の方言があり、例えば「け」という単語は、使用する場所によって意味が変わる特殊な言葉で、食事のさいの「け」には「食べなさい」という意味があるのだが、遠くにいるひとを手招きしての呼ぶときの「け」は「こっちへ来なさい」と意味が変化する。
さらに、語尾の調子を変えることで、文末に疑問符や感嘆符をつけることも可能である。しかしこれは、我々も普段の生活で使用しているので理解しやすいだろう。
この簡素化された短い言葉たちは、かつて彼女たちが通う女子校の一部集団へ取り込まれ、情報を暗号化して共有できるなどの利点から、乙女たちの手によって独自に作り替えられ、長年使用されていた。
そして現在、かつての言語は細分化し、ある集団のなかで使われる言葉と、別の集団内で使用される言葉にかなりの差が生じ始め、その言葉の種類をどれだけ知っているかが、学内における地位の証明にさえなっていた。現に去年の生徒会長は百二十通りの言語パターンを理解していたと云われている。
また、個人間のみで理解できる言葉を作り出し、使用することで友愛の証とする者たちも現れた。青葉と沙穂もそれに習い、オリジナルの言葉を作り上げた。
この言葉は青葉と沙穂、ふたりだけの共通言語であり、騒がしい世界から隔絶するための大切なツールであった。
立てつけの悪い教室のドアをがんがらがらと開けて入ってきた青葉と沙穂はバタバタと競うように通学鞄を机の上に放り、引き出しのなかから安っぽいハンガーを取り出して、濡れたコートとマフラーを掛けると、廊下側にある分厚いガラス窓の下枠に引っかけてぶら下げた。
青葉は赤く燃え上がる石油ストーブの前に置かれた木のスツールにどかりと腰を下ろし、室内履きから脚を出し、湿った黒ソックスの先っぽを、指でつまんでするする脱ぐと、ストーブの天板に乗せた。それから滑かな白い生脚を目一杯伸ばし、ちりちりとした熱源に近づけて、冷えた足指をくにくにと動かした。足裏からひりひりするほどの熱さを感じながら、頭の先端からとろりと蕩けるような心地よさに包まれた青葉は思わず声を上げた。
遅れて隣に座った沙穂も同様に、ストッキングを脱いで、青葉よりも長い脚を伸ばし、足の指をくにくにした。
教室には古びたストーブが一台。その周りを車座になって女子たちが取り囲んでいた。彼女たちはまるで湯に浸かるカピパラのような表情で、めらめらと燃え続ける赤い灯りを眺めていた。なかには紺色のスカートの端をつまんで持ち上げ、暖かい空気を股の間に送りながら恍惚の顔を晒す猛者もいた。
皆が呆けた様子で椅子に腰掛け微睡んでいると唐突に、こつんと沙穂の脚が青葉の脚にあたった。青葉が横を見ると、沙穂はストーブに視線を留めながら「き(好き)」と淡い桃色の唇を動かせた。
その言葉を耳にした青葉の白い頬と、形のよい耳が、ぽっと赤らんだ。
「わ(私も)」青葉がぼそりと答える。
「し(愛してる)」沙穂がさらに云う。
二人は煌々と燃える火を見つめながら、こつん、こつんと艶やかな白い素脚をぶつけ合う。やがて周りのかしましい音は消え失せ、ふたりだけの甘くて白い世界に変わる。
「ど き(どこが好きなの?)」青葉が聞く。
「ぜ き(全部好き)」沙穂が答える。
「ねえ、私にもその言葉、教えてよ」
二人の会話を耳ざとく聞いていた黒縁眼鏡のショートカットが、興味深そうに二人の間に割って入る。
「だーめ」
ふたりは目を合わせ、はにかむように笑って答えた。