マネモブドクターがケルシーに「ヤらせろ」と言ったら説教で夜が明けたんスけど……いいんスかこれ 作:異常長文構築者
書いてる途中でもはや怪文書SSなんじゃないかと思ってきたのが俺なんだよね。 どないする?長文を超えた長文やけど書き終えて満足したからええやろ。実際こんな長文SSに需要があるか分からないしなっ
では前作より長いので休憩挟みつつどうぞお楽しみください。ちなみに先に言っておきますが今作は約2万9000文字もあります
───ロドス・アイランド本艦、最深部の中央執務室。
そこは日々膨大な機密情報の集積地であり、数千の命と移動都市の行方を決定づける司令部であると同時に、作戦指揮官たる『ドクター』にとっての一種の精神と肉体を摩耗させる無間地獄でもあった。
しかし、今日のドクターの足取りには、ここ数週間には見られなかった明確な活力が宿っていた。彼はデスクの上の書類を一先ず端に押しやり、己のマグカップに注がれた安物のコーヒーの香りを悠然と堪能していたのである。
「――つまりさ」
彼は誰もいない空間に向けて、自分の脳内で見事なまでに構築された新たな『自己分析と精神防衛仮説』を声に出して反芻していた。
「最初は、ケルシーの事……当たりのキツさと氷点下の態度の連続からして、なんだか小うるさい元嫁みたいなもんだと思ってたのが俺なんだよね。何かやろうとするたびに難癖をつけるし、冷たいし、超長文の論理爆撃で脳味噌をすりおろそうとしてくる。挙句の果てには物理的にMon3trで俺を両断しようとしてくるし」
ドクターは、自らの脳細胞に宿る特有の『俯瞰する目』を働かせ、得意げに顎を撫でた。
「でも、記憶喪失以前の因縁や、テレジアとのこと……あの女が数万年を生き、テラの大地の業と理不尽な歴史をたった一人で背負ってきたっていう情報を整理するとさ。……アレだけ厳しく接してくる裏には、極度に過保護すぎる愛情、もとい不器用な庇護欲があるって気づいたのが俺なんだよね。……そう、元嫁なんじゃない。アレは『重い十字架を背負い込みすぎて素直に頼ることを忘れてしまった、複雑な事情を持つ不器用な娘ポジ』……それがケルシーです。って感じで、今までの全ての歴史や態度を回想して再認識したんだよね。すごくない?」
長命者にしてテラの裏の支配者の一人を「娘」扱いするなど、軍事委員会はおろか王庭の主すら呆れて鼻で笑うだろう、傲慢を通り越した妄想である。
だが、彼の楽観的な仮説――という名の、あまりに都合の良いメンタルケア・フィルターは、日々の超過労と『長文説教』で削りに削られたドクターの自尊心にとっては、極めて優秀な精神安定剤として働いていたのだ。
「俺は反省したよ。これまでの、冗談とはいえ軽率にセクハラめいた愛の言葉を浴びせたり、『ボボパンだなんだ』と揶揄して激務から逃げようとしていた己の浅ましさをな!相手は世界そのものの痛みを負っている、健気で傷だらけの長女だったんだから!それに気づいた俺は確実に一段階上のステージへと進化を果たした。もう彼女に無意味に発情のシグナルを送ることも、自尊心を削られる怒濤の長文説教を引き起こす地雷を踏むこともない。……今日から俺は誠実な男になる!セクハラ発言はやめる事にしたのが俺なんだ尊重が深まるんだよなぁ……!」
独りよがりな自己満足を得て、すっかり悟りを開いた気分になっていたその時。執務室の空調の音だけが響く静寂を破り、
「ドクター、入るよ? 何か悩み事でもあるの?」
執務室のドアが控えめな電子音と共にスライドして開き、一人の女性が軽やかな足取りで入室してきた。
銀白の長髪を揺らし、けだるげでありながらも蠱惑的な笑みを浮かべる少女。カジミエーシュ無冑盟の元暗殺者にして、現在はロドスの遊撃の要である有能な狙撃オペレーター、プラチナであった。
彼女の特有の不思議な引力と静かな優しさを持った微笑みに、ドクターはすぐさま椅子から立ち上がり、今日一番の笑顔で彼女を出迎えた。
「おはよう、プラチナ。いやいや、今日はもう俺の脳内の歴史的問題整理と倫理規定は完了してるからマイ・ペンライ! プラチナに『印』として貰っていたこの遊園地のペアチケット……ロドスがブラックすぎてずっと使えなくて待たせてたけど、ついにスケジュールこじ開けて約束の遊園地デートを決行する時が来たぜ! いやー、もう朝からウキウキが止まんねぇんだよなぁ……」
「そっか。ほんとに嬉しそう。チケット、ずっとドクター休む暇もないし、本当に一緒に来てくれるなんて思ってなかったから……。だから約束守ってくれたの、素直に嬉しいよ」
彼女の透き通った瞳がふわりと細められた。
過去の暗闇の中で手を差し伸べ、自分という人間に「ロドスのオペレーター」としての平穏な時間を取り戻してくれた目の前の男。ドクターに対する、不器用ながらも深く、重い愛着がそこには滲んでいた。
「久々の休暇だし二人っきり……楽しみだね。私も色々あったけど……それ全部忘れてさ。ドクターと一緒に甘いお菓子食べながら、ただの浮かれた観光客みたいに遊園地ではしゃぎたい気分かな。あ。でも、いくら治安の良い移動都市でも、あのネチネチしたラズライト達あたりが未だにしつこく監視の目をつけている可能性が完全にゼロなわけじゃないし……」
プラチナはほんの一瞬だけプロのアサシンとしての目を覗かせ、だがすぐに甘く甘えるような瞳へと戻した。
「だから、もしもの時は私が“護衛”も込みで傍に付きっきりでドクターを守ってあげる。安心してね」
「おおーっ! そいつはマジで頼りになるぜプラチナ! あざーす!今日は君が秘書でかつ恋人ポジションも担ってくれる日だからな。美人の護衛付きで遊園地巡りなんて、カモがネギしょってやってきたぜェってくらい俺に都合のいい超豪華VIPプランだ!いやぁ、久々の休暇だしマジで楽しみ過ぎるしなっ!」
ドクターの口から溢れ出るのは、完全に戦線の厳しさを忘れ去ったマネモブ特有の弛緩したテンションだった。
純粋なバカンスへの憧れが部屋の中に満ちていた。プラチナもクスクスと嬉しそうに笑うと、「じゃあ、準備して下へ行くから、遅れないでね?」と言い残し、心なしか跳ねるような軽やかな足取りで自室へと準備に向かっていったのだった。
(――しゃあっ!! これだ!これこそが、ロドスにおける真っ当な恋愛・休暇シミュレーション要素。プラチナのように重く哀しき過去を抱えた美少女と一緒に休日をエンジョイし、ささやかな安寧を分かち合う……!俺が到達すべきセクハラ抜きでの正統派の『愛情の形』ってのは、まさにこういう所で示すべきだったんや……!)
……そう。ドクターはこの瞬間まで、世界を本気で信じて疑わなかったのである。
自分が誰の邪魔も入らない、甘く平穏で完璧な一日を手に入れたのだと。そして己の過ちを悔い改めた結果、あの大いなる監視の目にして厄介な絶対論理の具現者――ケルシーに対し、もはや干渉されるスキはミリ単位たりとも残していないという、途方もない大誤算の幻想を。
▲▽▲▽▲▽
澄み渡る蒼穹から降り注ぐ柔らかな陽光が、整備の行き届いた石畳のストリートを白く照らし出している。
ここはテラの大地において、奇跡的と呼べるほどの平穏と高い治安水準を保つ、巨大な中立的移動都市の中心を占める大規模商業区画である。
吹き抜ける微風には、源石の嫌な微小な粉塵も、国境での火薬や硝煙の臭いも、スラム特有の鉄錆と泥と死体の入り混じった腐臭も混ざってはいない。
空気を彩って漂ってくるのは、洗練された路地裏のオープンテラス・カフェから漏れる深煎りされた珈琲豆の香りと、バターをたっぷりと使った焼き菓子の甘い匂い、街路樹の心地よい葉擦れの音、そして行き交う平和な市民たちの、ただ休日の予定にだけ胸を弾ませる屈託のない足音だけであった。
「すごい数の買い物客が集まってきている……! 休日のカフェとブティック巡りッて感覚……!」
ロドスを離れ、一切の軍事的・政治的通信ネットワークへのアクセスから一時的に遮断され『自己管理』のもとにリフレッシュを義務付けられた、正当な『休暇』という特例措置の最中。
ドクターは、いつも纏っているあの視界と呼吸を覆い隠す重々しいフルフェイスの防護マスクや野戦用の重防護コートを宿舎に置き、顔を適度に晒しながら比較的身軽で清潔感のあるブラックのインナーに細身のスプリングコートといった、完全なる『私服・オフ仕様』で街を悠然と歩いていた。
少し伸びたまま切りそろえられていない無造作な髪が、どことなく疲労した顔つきと合わさって、謎めいたインテリジェンスの陰――言ってみれば「研究に明け暮れるチョロそうな少しだけ整ったお兄さん」の空気を醸し出していたのである。
プラチナと遊園地の入り口前で落ち合う手筈となっていたが、浮かれたドクターは待ち合わせの時間の少し早めに現地へ到着してしまっていた。そのため、合流まで彼はチケットの予備をポケットに突っ込みながら、周辺の商業施設を楽しげに練り歩いていたのである。
……とはいえ。そんな彼の傍らに、本来なら存在するはずのない強大すぎる『異物』が随伴していることを除けば、の話だが。
「で……」
ドクターが顔を引き攣らせて少しだけ歩調を緩めたその右斜め後ろには、ただの一般市民として認識するには余りにも周囲の空気を歪めるほどの凄絶な理知と孤高の色気を放つ、テーラードジャケットを着こなし薄く色のついた伊達眼鏡と目立たないマスクで素顔の大半を覆い隠している、緑銀の髪の女性の姿が。
彼女は白衣こそ脱ぎ捨てているものの、歩幅の正確さ、呼吸のペース、視界に入ってくる環境要因をミリ秒単位で処理している眼光の鋭さはごまかせるものではない。
「な……なんで、遊園地の前で待ち合わせしてプラチナと一緒に最高の時間を過ごそうって直前に……ケルシーが私服着てこんな後ろにくっ付いてきているんスか……?」
振り返るのも恐ろしいものを確認するように引き攣った笑顔を向けて問い質した。ケルシーは街の構造物の強度や一般人の導線設計などを目で追ったまま、まったく温度のない声で冷然と返答した。
「……何度説明すれば君の脆弱な記憶野に定着するのか甚だ疑問だが。再入力してやろう。プラチナはカジミエーシュの商業連合ならびに『無冑盟』内部に関する極秘かつ最新の暗殺構造データを無数に保持・記録された機密保有の特例対象オペレーターだ。未だにクロガネやラズライト等の刺客残党の動向がロドスの情報網において不透明である現状において、彼女がいかなる事情であろうとも外部へと単身あるいは最小戦力で移動・滞在することは、甚大な情報漏洩と拉致、暗殺のリスクに晒される重大なセキュリティ要件違反へとつながるからだ。加えて。ドクター、君という『歩く軍事機密データベースそのもの』である存在が同伴し、彼女を警護と索敵の役目に専念させつつレジャーを行うという計画の異常性。S.W.E.E.P.に任せたところで、不測の事態に無力である君が巻き込まれた際のマクロな政治・戦略損失リスクは、地球上のどんな有価証券をも超える致命的なレベルだ。よって、私が己の特権全権限を行使し、私自身の肉体を使ってこの空間における最終的直接保護と情報統制・ならびに敵襲の瞬間に防空圏を確立すべく帯同するのが、テラにおける数式上の『最高合理的正答』であるからだ」
「要約すると『自分達じゃ不安だから私が護衛としてついてってあげる』ってだけの過保護じゃないスか!しかも遊園地でプラチナと休日デートって名目で遊ぶのに、すぐ後ろにケルシーが『授業参観にキレながらついてきたお母さん』みたいなオーラ出してきたらイチャつける空気が完全なる極冬の寒冷前線に戻っちまうだろうがッ!」
「君たちが幼稚極まりない動物的な社会的娯楽的遊戯を行うことに対して、私が一切の道徳的、あるいは私的な干渉行動を行う気はないと何度宣言すれば理解できる?私が現在観測しているのは、あくまで君たちというエラー個体の周辺で生じうる予測不可能な外乱、物理的敵対アプローチに対する初動迎撃ルートの最適化のみだ。君たちが休日に何を経口摂取していようと、観覧車で空回りした愛を語っていようと、私がその低知能の発情イベントに介入するメリットなど存在しないのだから、安心してサルのようなレジャーを楽しむといい」
「そういう視点で見張られるのがドMでもない限りは死ぬほどイヤだって言うんだよねパパ!!頼むからもう少し見えない場所……せめて視界の端に入らない百メートル後方からGPS監視するくらいに距離を取ってくれって思ったね!!」
ドクターの情けない嘆願のボヤきもどこ吹く風。ケルシーは彼の小言を風が吹いた程度に処理し、まったくペースを変えずに彼との相対位置「斜め五歩後方」を完璧にキープして練り歩いているのであった。
「(仕方ない本当に仕方ない……デート直前までのショッピングのお土産巡りくらいまではとりあえず大人しく着いてこさせておくしかないのか……)」と諦め顔になるドクター。
並んで歩きながら、大通り沿いの美しいディスプレイや煌びやかな時計が並ぶショーウィンドウを横目に、彼はふと溜息を一つ吐き出した。
「なぁー、ケルシー……そういえばアーミヤにオフが終わった後渡すお土産、何がいいと思うか……お前のおススメのセンスを教えてくれよ」
何気ない話題転換。ドクターはケルシーなら有意義で役に立つ品を選ぶ手伝いをしてくれるかもしれないと思ったのだ。だが視線を横に向けると、ケルシーは高価そうな装飾が施されたアンティーク・クロックのショーウィンドウから微塵も目を離さないまま、相変わらず感情の削ぎ落とされた氷のようなアルトボイスで短く断じた。
「……私の思考領域への回答を要求する前に、自身の内省的役割から見直すべきだ。君の感性に一任する以外の何がある。君がロドスにおいて『アーミヤの親権代理たる保護者』あるいは『公表の最高作戦指揮官』としてのスタンスから彼女に対し何を見積もり、そしてそれを贈与品として仮託すべきか。それに他者であるこの私がノイズとして介入し、無粋な最適解を与えて選択を行ってしまえば、結果として『君がアーミヤの健やかさと成長に費やす文脈』における行為の証明能力は無価値なものとなり、土産などただの空虚な形骸と化すだろう」
「相変わらず論理の武装がバチバチに堅ぇっスね……ちょっとしたプレゼント選びに迷って自信がなくて相談に乗ってもらおうとしてるだけやのに……」
ぼやくドクターだったが、ケルシーの厳しいお小言のモードは解除されていなかった。彼女は顔を横に向けたまま、淡々と続く。
「……そもそも。君が唐突にアーミヤへの品選びなどで右往左往しはじめたのは。数日前に、深夜の指揮室において君自身の致命的な前頭葉の疲労限界が引き起こした……あの『自己逃避によるタスク放置と私への狂態的かつ突発的依存アピール』の惨状に起因する、事後恐怖症か何かか?」
ギクッ。
ドクターの背筋が冷たい針で一斉に刺されたかのように凍りついた。心臓がキュッと鳴り、彼の顔色はわかりやすく蒼白に変色し、口角が無惨にヒクヒクと引き攣る。
「……それに続く形でだ。その情けなく醜悪な一夜の失態のあとでアーミヤの持つ精神感応のアーツと生得的な過度な情の執着心が暴発したと聞いたが。君はその直後にアーミヤから直々に寝室へと呼び出されたそうだな。そのお土産の検討事案も、彼女からの狂気めいた心理圧力から必死に免罪符を獲得しようとする強迫観念の一種と診断すればいいのか?」
見抜かれていた。というか、当然知っているか。ケルシーである以上、アーミヤのドクターへの矢印と執着心を完全にモニターしているのは道理であった。
図星を刺されたドクターは頭を抱え、文字通り顔を手で覆いながら悲哀の籠もった声を上げた。
「……想像してみろ、最近『親からの純粋な無償の愛』としての俺と『成長して異性として見られたい女性的な愛着』の狭間でメンタルが暴走しまくってる、あの底なしの独占欲を孕んだ魔王の瞳を……!あの後『ドクターが他の人に迷惑をかけないよう、お休みになるまで私が傍に居ますね』ってあの静かで笑みのない目で宣言され、部屋に連行されそのまま拘束された心境を……エグいなんてもんじゃない」
思い出すだけでも恐怖なのか歓喜なのかわからない謎のホルモン分泌により冷や汗がにじむドクター。
「なんならアーミヤが横に添い寝するみたいに入ってきて、顔を俺の胸に完全にぐりぐり埋めて、その状態で『……ドクターは誰にも渡しません………』ってあれ寝言として普通に怖くない!?」
あの時ばかりはガチでヤンデレヒロインに幽閉された一般人のホラー枠かと思い、「このドクターを愛に監禁して殺す気かあっ!」と内心戦慄していた彼だったが。直後にマネモブ特有の都合のいいハッピー・ポジティブ論を強引に起動させた。
「ま、まぁでもっ!色々と気まずくて死ぬかと思ったけど……翌朝には満足そうに寝不足もなく俺の横で安眠できたみたいでさ。『一緒に寝れて嬉しかった』って凄え上機嫌に戻ってたから!結果的にあの怖い空気の暴走と精神異常事態が収まって平和が回復できたんだし。なんやかんやバランスは取れてるからいいんだけどね!」
ドクターが鼻で笑ってそれを「笑い話」として終わらせようとした瞬間。
「…………」
ケルシーの足が。今まで乱れず一定の法則で維持していたその完璧なストライドを、歩道の石畳の上でピタリと、文字通り一ミリの誤差なく強制停止したのだ。
彼女は足を止め、横顔を鍔広の帽子に隠したまま、何か非常に遠い、テラができるより昔の深淵を見据えるかのような姿勢で停止していた。
「け、ケルシー?」
無言のプレッシャーが周囲五メートルの空間に真空を作り出した時、ケルシーは少しだけ顔を前に戻し。全く話題の起点が解読できない角度から刃のような鋭い言葉を投げつけてきた。
「……ところで、だ。後頭部から側頭部周辺の体毛――毛髪の伸長率がロドス独自の医療防衛局・作戦従事者用の身だしなみと物理保護定数における限界ラインから逸脱しているらしいな、ドクター」
「な……なにっ!?」
突然、話がドクターの『髪型への散髪勧告および粗探しのクレーム』にすり替わった。あまりに強引な論理のトランスである。
「私が定義しているのは物理リスクだ。現在の前線環境下においてその中途半端に遊ばせた生体機能は、万が一近接乱戦が発生し回避挙動を行った際に不要な動体ノイズと死角を作り、あるいは有毒化学スモッグの沈着媒体となる。更には、肉薄する暴徒等によって後ろから毛束を『掴撃』され首や頸椎の動作権を敵側に支配されるだけの愚行――およそ自殺の呼び水だ。そのような不潔な弱点の増殖にいつまで意識を割かないで放置しておくつもりだ?」
「い、いやちょっと待てよケルシー!! そりゃ最近仕事ばっかりで髪切りに行ってないからちょっと長くなってるけどもさ!俺別に近接で剣とかチェーンソーぶん回して前線に立ってドンパチやるオペレーターじゃないから!基本的に司令車で指示出してんだし、ちょっと髪の毛遊ばせたぐらいで命のリスクとか戦術上の致命的ミスになるとか……そんな極論は流石のこじつけを通り越して八つ当たりで無理がないスか!?」
慌てふためき抗弁するドクターに。ケルシーは視界すら合わせようとしないまま、言い切った。
「私が言及しているのは大枠における危機管理の総論だ」
「て言うか、完全に話ズラしたっスよね!?さっきの『アーミヤと同棲状態で夜を共に添い寝させられた恐怖のイベント報告』から一秒も関心を示さずに『スルー』するのは……!このロドスにおける共通ヒロインとの重大修羅場情報をガン無視してくるのは、幾らなんでも冷血という名目のただのヤキモチ……ゲフンッ! いやトークルールとして禁止スよね!!」
地雷だとわかりきっていたが口から「嫉妬かよ!」と直情的な指摘がこぼれかけた。
だが、その手遅れを感知する前に、ケルシーの緑銀に揺れるアルトボイスの冷波が男の首元へと冷たく当てられる。
「君の発話を通じて出力された意味を成さない情報の波――アーミヤとのプライベートかつ感傷主義極まる、どうでもいい情動報告等といった生産力ゼロのくだらない排泄プロセスは。全て私の中のアウトプット・フィルタにおいて、『脳内の処理領域を回すほどの知的栄養源にも該当しないクソ無駄なバックグラウンド・タスク』として強制廃棄しているだけに過ぎない」
冷然。ドクターとの間をさらに心理的に引き裂き、言葉の壁を立ち上げる氷の女王。
「私がいかなる文脈と興味において、他者の情の病理である安っぽい独占欲による発作に、返答・分析を差し挟まねばならない義理が存在する?貴様ら愚かしい短命な哺乳類同士による不愉快な擬似家族ごっこの内ゲバに口を出すメリットはない。――さあ、この話は終了だ。ただちに進行の歩幅を修正して進め。不必要に通行に滞留することで群衆による認知監視のリスクを跳ね上げさせれば、君を公道での警護違反とみなすぞ」
あからさまな話題転換に、ドクターは「なめてんじゃねぇぞ」とばかりに恨みがましい視線を送った。ケルシーはドクターがアーミヤのプライベート領域でいかなる接触を持とうが、それがロドスの意思決定機構に著しいエラーをもたらさない限りにおいては、「全く無益な事象」として処理し、自ら深く言及することを意識的に避けている節がある。
「じゃあさ、仮定の話やけど。ケルシーは実際の所、その……アーミヤの結婚や、今後のことはどんな風に思ってるのん?」
「……では逆に聞くが、君はアーミヤの事をどう思う?」
一転して、鋭い問いが飛んだ。ケルシーの目が初めてタブレットから外れ、真正面からドクターを貫いた。長きにわたり世界を裏から操ってきた古の眼差しが、人間の真意を測定する圧力となって部屋を支配する。
問われたドクターは一瞬息を呑み、だがすぐに真顔を作って言い放った。
「そりゃ一人の少女として誰かと幸せに満ちた結婚をして欲しいと思う……それがボクです」
彼の言葉には嘘はなかった。あの少女には幸せになってほしい、平凡な日常の温かさに触れてほしいと願う純粋な庇護欲がある。だが、次の瞬間、静かなる同意が隣から零れ落ちた。
「それは私も同感だな」
「ウム……いつかアーミヤのウエディングドレス見てみたいよねパパ」
そして、何故かドクターの頭の片隅で、恐ろしい演算が自動的に開始された。
アーミヤが成長し、いつか伴侶を見つけ、結婚の儀礼を迎える日。その時、主賓席あるいは家族の席に座り、式辞のマイクを握るこの冷血な女性幹部の姿を――。
「う わ あ あ あ……!想像してみろ。アーミヤの結婚スピーチをいつもの調子でするケルシーを……エグいなんてもんじゃない!!」
ドクターの疲弊した前頭葉が、防衛本能を完全に置き去りにして、「最悪の結婚スピーチ・シミュレーション」の領域へと無意識にログインしてしまった。
***
華やかな大聖堂。ステンドグラスから差し込む温かな光。ロドスの仲間たち、そして彼女を祝福すべく各国から集った重鎮たちが笑顔で席を埋める中。
ピンと張り詰めた静寂を支配するマイクの前に立つのは、当然のごとく一切の笑みを浮かべていない白衣のケルシーだった。
『――本日は。大いなる文明の衰退と再興の歴史において、極めて些末でありながら、一個人の社会行動論理において重大な転換点と規定される「婚姻の儀式」に参加した君たちの無目的な同調行動に対して、あえて言及を行うことから始めさせてもらう。本来、異なる遺伝情報を持つ二つのホモ・サピエンス的知的生命体が、長期的な番いとして個体の生存リソースを共有する契約を結ぶ行為というものは、種の存続および優良な遺伝的ダイバーシティを獲得するための進化論的妥協の産物に過ぎない。にもかかわらず、君たちがこのようにして非生産的で過剰な装飾にリソースを浪費し、白絹という汚れの象徴的な可視化媒体を纏った個体に対して集団で賞賛のシグナルを発生させる行為自体、非常に社会病理学的な虚飾と言えよう。……この儀式の場において、私が祝辞、いわゆる「スピーチ」なる音声言語による伝達行為を要請されたという事実自体が、本日の運営委員会による甚大な状況認識の誤りであり、システム的な論理的エラーの産物であるとまずは指摘しておきたい。室内の環境からして看過できない。現在この式場内に密集している多数の参列者……各国のオペレーター、要人、ならびにレム・ビリトンから招かれたであろう客人たちの呼吸および発汗による過剰な代謝活動によって、この閉鎖空間の二酸化炭素濃度は通常の執務室の推奨基準値である1000ppmを優に超えようとしている。それに加え、多数の異なる生態的背景を持つ種族の集合による各種の特異なアレルゲンの浮遊、装飾目的で設置された植物群から発散されるテルペン類の飽和、これらが複合して生み出す大気状態は、決して健康の維持に適したものとは言い難い。さらに、新郎新婦と呼ばれる彼らの極度な精神的緊張によって自律神経系が変調をきたし、心拍数や末梢血管の抵抗性が異常値を示していることに対しても、医療部門の責任者として私は今すぐ抗不安薬の処方と静養を推奨すべきか深刻に悩み、計算式を立て直している最中なのだ。このように、私という人間は、目の前で行われようとしている「結婚」という社会的、あるいは感情的な現象を、純粋に医学的および環境工学的なリスクの束としてしか観測・処理することができない。そうであるにも関わらず、君たちが私をこの壇上に立たせ、未来への展望や希望といった不確定で形而上的な概念を言語化せよと求めることは、スーパーコンピューターに詩集の編纂を強要するに等しい知的怠慢であり、暴挙だ。……だが、君たちのその無軌道な情緒による強制も、今日のこの数十分という限定的な時間軸においてのみ、例外として私自身の計算テーブルに組み込んで処理しよう。ゆえに、これから私が語る数千に及ぶ音節の一つ一つに一切の冗長性や修飾はないと認識しろ。心臓の拍動を静め、大脳皮質の全演算領域を用いて、これから語る歴史と生命の必然について聞き届け、記録に刻み込むことだ。まずは「結婚」とは何かを語る必要がある。少し長くなるぞ。そもそも有性生殖を行う哺乳綱に属する多くの種において、生殖活動は単なる一過性の発情、および遺伝子交雑による種の多様性の確保を主目的とする。しかし、ホモ・サピエンス的な精神構造と極度に社会化された生存本能を獲得した先民たちは、ある特異な時代から個と個の継続的なパートナーシップに法的な拘束力を持たせる『結婚制度』を発明した。本来であれば進化の観点からは多夫多妻、あるいは柔軟なペアの解消による群れの最適化が理にかなっているにも関わらず、我々が一対一という極めて窮屈で限定的な制約関係に法と儀式のベールを被せて正当化した理由。それは、直立二足歩行により極限まで巨大化し脆弱になった「未成熟な脳と身体を持つ赤子」を、後天的に外敵から守り育て上げるため、オスとメスに強力な相互監視・支援のユニットを長期に渡って強制形成させる必要があった、種の自己保存システムの後天的なエラーの産物だ。そうした原始的な群れの相互安全保障契約が、数千年、数万年という時間経過の中で儀式化し、宗教的な聖性や国家権力への従属、そして中産階級的な財産の分与プロセスへと幾重にもその装飾を分厚くしてきた。今日の君たちが、純白のドレスと洗練されたスーツという物理防御を著しく欠いた布の束を纏い、わざわざ多数の群れの監視下において自身の将来的な独占契約を宣言しているこの営みは、つまり、生物としての不安と脆さを互いの体温と制約によってなんとか補おうとしている、人類史の防衛本能的な縮図そのものだ。君たちはそうした行為の原動力を、おそらく「愛情」という簡便な二文字の単語に要約しようとするだろう。……愛。それは先ほども述べた種の自己保存戦略において極めて効率よく稼働するように設計された、脳内の強力なケミカルカスケードだ。交感神経を刺激して視界狭窄を惹き起こすフェニルエチルアミン、多幸感や依存をもたらすドーパミン、さらには執着心と一体感を定着させるオキシトシン。それら複雑な内分泌ホルモンの無作為な乱高下が、対象に対する合理性を超えた極度の執着を引き起こし、一時的な「自己犠牲すら容認させる判断機能のバグ」を意図的に引き起こす。それを以って『運命』だなどというスピリチュアルな物語に仕立て上げたいのならば勝手にするがいい。しかし私は、その極めて短期的な生化学的作用による「愛」が、歴史の風化の前にどれほど脆く砕け散り、容易く憎悪と戦争の火種へと変異し、大地を更なる鮮血に染め上げる原因になってきたかを数えきれないほどこの眼で観測してきた。情動などという、内臓の一つが僅かに異常な酵素を分泌しただけで雲散霧消するような極めて危うい情報基盤で結ばれた契約など、明日の確固たる生存保障としては無価値に等しい。……そう。一般論における愛と結婚は、その程度の貧弱で愚かしい、理性の対極にあるバグの延長線上にある行為に過ぎない。とはいえだ。人間の脳という脆弱な記憶保存システムが、ある特定の日時の座標を固定し、それを記憶のエントロピー低下を防ぐアンカーとして用いる点においては、一連のこの宗教的・制度的アプローチを無下にするつもりはない。ゆえに、今日のこの一瞬の錯誤的な歓喜の共有を許容しよう。……アーミヤ。彼女という生命体の設計において、そもそも誰かと同等の権利契約においてパートナーシップを結ぶなどというシナリオが構築可能であった事実そのものが、私が何万回繰り返した計算においても最たる例外処理であると断言せざるを得ない。列席の諸君はアーミヤを「美しき花嫁」などという感傷的な言語的オブラートでくるんでいるだろうが、彼女という個体の内部でどのような生体力学と形而上的な矛盾が駆動し続けているか、その理解が万に一つも及んでいないであろう諸君の脳機能には絶望を禁じ得ない。考えてもみるがいい。君たちの前に立っている彼女は、かつてバベルの時代から数多くの政治闘争と暗殺者の影の中を歩み、テラという過酷極まる泥濘の時代において最も血塗られた簒奪の称号である『魔王の因子』を受け継いだ特異点そのものだ。君たちが享受する結婚生活と呼ばれる安寧。それが一体何だと言うのだ? 一家団欒という生温い平和的仮説と、アーミヤという少女の存在意義。それは完全に相反する概念であり、相容れない劇薬同士を一つのビーカーに放り込むに等しい行為である。彼女の血管を巡っているのはロマンティシズムを形成するような清冽な体液などではなく、重度十九パーセントという凄惨たる源石融合率を持つ黒き鉱石病の浸食だ。常に細胞のアポトーシスと細胞外基質の狂暴な再構成を繰り返すこの肉体に、日々の小さな幸や未来への継続という楽観がどうして寄与し得ると考えるのか?アーミヤの優しさとは、他者の記憶と絶望に絶え間なく晒されながら、それに共鳴するという神経破壊にも等しいストレスと引換に行われる防衛反応であり……すなわち彼女の慈愛とは、本質的に『自身の痛覚の極端な拡張とそれに伴う死への近道』なのだ。そして。そのような脆弱かつ複雑怪奇な生命体に対して、あろうことか『生涯を添い遂げる』などという自己過信も甚だしい軽薄な債務を交わし、我が身分に不相応な責任を要求し、彼女の伴侶の座をかすめ取ったそこにいる新郎――君について言及しなければならない。私という一個体の主観、ひいては過去何千年にも及ぶテラの地政学的闘争から導き出した観察を以てすれば、君がアーミヤの番いとして提示した条件群の劣悪さには到底看過できない。君が持ち合わせた脆弱なホメオスタシスと浅薄な寿命で、彼女の持つ何十何百もの歴史の残留思念とその激痛をいかに肩代わりできるというのか? 愛などという揮発性の大脳エラーホルモンの恩恵が消失した後、ただの絶望の塊となったテラの実体に対し、君は己の脊髄の機能すべてを提供し尽くす覚悟の、論理的な証明が可能だとでも思っているのか? もしそれができぬのならば、今この場でただちに署名した宣誓書を破棄し、その空間から己の身柄を隠匿しろ。……さもなくば、この式の終了後において私が即時、君というシステム上の異物の内臓配置が本当に彼女に見合うものなのかを物理的・病理学的に検証するためのメスによる対話プロトコルを強行せざるを得なくなるからだ。これは儀式におけるジョークではない。医学的忠告であり───』
***
(な、長ッ!! 何言ってんだコイツ!?お祝いの席の祝辞ッというより兵器開発への死の抗議声明ッという感覚! 周りの列席者の目が点になって泡を吹くヴィジョンが完璧に俺の網膜を練り歩いてる!)
ドクターは空想の中で無限に続く地獄のスピーチから意識を現実へと強制帰還させ、顔面に浮かんだ冷や汗を拭った。
ケルシーが一度語り始めれば、それは単なる『親心』では収まらない。アーミヤを伴侶にするということが、いかに生物的・物理的・文化史的に罪深く途方もない覚悟を要求するものであるかを、新郎はおそらく五時間以上にわたるプレゼンテーションによって絶望へ叩き落とされるだろう。
一人で勝手に脂汗を滲ませて戦慄している男を見咎め、舌打ちが叩き込まれた。
「急に立ち止まって醜悪に首を痙攣させるという低レベルの認知機能不全は止めろ、ドクター。大方、自身のくだらない白昼夢における未来分岐シミュレーションを肥大化させ空想に怯えているのに予想がつくが」
「……ケルシーは今まで、そういう人は居た事あるのか気になるのが俺なんだよね。実際どうなのか教えてくれよ」
つい、そのタフな妄想を引きずったまま、ドクターは最も長命な部類に入る相棒の個人的な歴史について不用意なカードを切ってしまった。幾多の国の滅びを見てきた彼女だ。過去に番いという論理武装の化け物をオトす男が存在したなら、それは奇跡を超えた奇跡である。
ケルシーは静かに端末を置き、冷えた瞳を僅かにドクターに向けた。その瞳は歴史の古井戸のように深く、容易には底を見せない。
「生涯を共にする伴侶を誰にするべきかなど、ひとときの会話の中で一概に決められるものではない。ドクター。この大地には多種多様な種族が生きている。何故そうなったかはこの星の歴史そのものに起因しているが……」
相変わらずの彼女の長い口上が始まった。
「フェリーン、ペッロー、ループス、サンクタ……異種族間での婚姻というものは古くは国づくりの神話に、記憶に新しいものでは移動都市の合併を主軸に据えた政略結婚という形で、今もなお存在している。これらの儀式は当然ながら種族ごとに様相が異なる。種の異なる伴侶を娶るということは言い換えれば血族の権力強化に繋がる。相手を受容したように見せかけ、付随した財産・権益・土地や資源を取り込むことこそが本質だ。更に伝統を受け継ぐ一族にとっては環境との共鳴を目指す意味合いも込められる。サルカズであれば呪術的な贄を必要とするし、海洋に生きるエーギルならば環境である海水と"溶け合う"儀式に昇華される。これら文化的な背景を知らずに婚姻を結ぶというのはその相手のみならず、一族全てへの愚弄に他ならない。君が誰と結ばれるかは分からないが、もし相手がいるのなら彼女、もしくは彼の生きてきた世界、文化を知ることが肝要だ。何を重要視するか、日々の何気ない所作、そういったことを知って初めて恋愛関係というものは成り立つ」
「ふうん。恋愛じゃなくて政治でありシステムということか……」
と、見当違いの相槌を打とうとするドクターを尻目に、ケルシーはトーンをわずかに低くした。
「ただし。これは文明的に差異の大きい異種族間での話だ。あくまで彼ら先民においての極度に複雑で『文明的背景の格差が大きい存在間』でのリスク評価と手続きの話にすぎない。今の君はどうだ。記憶を喪失した君自身が保有している本来的、社会的、家族的ネットワークによる強固な防衛的な『しがらみ』は何もない。バックボーンを持たない空白である君が仮に特定の他者を『好意的な発情対象』として認識したとしても、文明的背景の差異が君の意思を致命的に毀損することはないのだ」
「お、俺っスか?うーん……た、確かに、俺自身にしがらみはないから気楽っちゃ気楽かもしれんスけど……」
「気楽? そうではない。ロドスにおいて、現在の君という『役割』は完全に実質的なヒエラルキーの上に存在し、『他者を使役する指揮権力層』に君臨しているのだからだ」
その瞳がすうっと細まり、何か獲物をじわじわと誘い込む罠のような特異な光を含んだ。
「要するにだ。組織の最高権力者としての責任を果たしている以上、ドクター。君のような者は、その指揮下にあり生活様式を同居するロドスの有象無象のオペレーターの中から自らの適合対象を選ぶ方が、管理コスト的にも適応率においても遥かに低燃費で高パフォーマンスが期待できる。大袈裟な話を抜きにすればだ。日頃の指揮行動から内臓機能の代謝リズムまで、最も近い場所で君の些細な行動、呼吸数、睡眠負債までを全てを常に解析・データ・リンクしており。『すでに何も語らずとも君という特異点の全てを知り尽くして包み込めるだけの、最前列で観察を完了している存在』こそが。今の君が背中を預ける“伴侶”としては極めて生存競争的・実務的に望ましい存在だということだ」
「つまり合理性の追求という視点なら一理あるってことは、同じ職場の医療とか内勤系の人が最適って事やん……」
見透かされたようなプレッシャーの中でアホ面を下げる彼に、ケルシーは目を細め、静かに鼻から息を吐いた。
その言葉の末端には、まるで自らに苛立つような、焦りとも独占の脅迫ともつかぬ熱が含まれていた。
「……現段階でそうした人材が存在するか否かは、君の低度な情報整理に任せよう。だがなドクター、もし特定の決定因子となるような結論があるのであればなるべく早くその決断へのプロトコルを進めて、自己の周囲に群がる未決着の発情の波――諸々の女どもに関する浮ついた感情処理へ、『明確に不可逆な決着』と収拾をつけてもらう。私の視界への無駄な干渉作業のノイズにしかならないからだ」
彼女の声が、微弱極まるが確かに聞き取れるレベルでこうこぼれ落ちた。
「私とて。この多大な時間の摩耗の中で……いつまでも無限の忍耐力で待たされ続ける余裕があるわけではない」
「……ん? ま、待てよケルシー?最後小声で何て言ったのか教えてくれよ」
言葉尻に滲み出た強烈な一撃、自分でも予期していなかった直截的すぎる『独占宣言とも取れる苛立ち』の片鱗が聞こえた気がして、ドクターが思わず一歩詰め寄りそうになった瞬間。
ケルシーは目にも留まらぬ速さで冷厳な顔を取り繕い直し、サッと身体を反転させた。
「……私は特になんらの非合理な感情も表現した覚えは無い」
「いや、お前の最後の完全に俺への揺さぶりが」
「しつこいぞドクター。……で、いい加減君は手土産の目星はついているのか。適当にウィンドーショッピングをして時間を浪費する行為は、休日の疲労回復プロセスにおいても無意味だと言わざるを得ないが」
「あー誤魔化したッスね!? ま、まあいいや。これでも私は慎重派でね。この周辺にあるお店を調べさせて貰ったよ。するとここから数ブロック先にある若者に大人気のファンシー雑貨店があることが分かった。 やっぱアーミヤみたいな年頃の女の子には、カワイイぬいぐるみのひとつでもプレゼントしてご機嫌を取るのが定石なんスよ! 」
「……自己肯定感を肥大化させたサルの空元気は無視するとして、行先が決定しているのならば誘導しろ」
「一言多いと思われるが……」
相変わらずドクターのハイテンションな足取りに渋々といった風情で付き従うケルシー。
ほどなくして二人は、ピンクとパステルブルーを基調とした、外装からして『甘ったるい可愛さ』を全開にしたファンシーショップへと足を踏み入れた。店内は若い市民たちでごった返しており、兵器と血にまみれた彼らの日常とは完全な別次元空間――『Kawaii空間』であった。
「おおっ!これや! 見てくれよケルシー!」
ドクターが陳列棚からドヤ顔で引っ張り出してきたのは、ドクターの胸の高さほどまである、極度にデフォルメされた『ピンク色の超巨大ウサギのぬいぐるみリボン付き』だった。モフモフの生地と異常にキラキラしたガラス玉のような目が付いている。
「この名状しがたい毛玉はなんだ。新手の威嚇用の兵器模型か」
「ふわふわメガ・キャロットちゃん全長120センチ仕様らしいよパパ! これをドーンとアーミヤの寝室のベッドに鎮座させておけば、夜の寂しさも紛れて毎日快眠・完全リラックスできるはずなんだ! これで俺のお土産任務もクリアーしてハッピーハッピーやんケ!」
勝利を確信し、満足げにメガ・キャロットちゃんの毛並みに顔を埋めるドクター。だが、直後。隣のケルシーの視線が絶対零度へ冷え込むのが、空気の歪みとして感知できた。
「……ドクター。私が先日の作戦行動後にお前の脆弱な前頭葉へ忠告したはずの、『自己管理と環境アセスメントの統合的観点』というものが何一つインストールされていないようだな。……それとも、完全にアルツハイマー型の短期記憶喪失が開始されているのか?」
「なにっ!? ただのウサギのぬいぐるみにどこにも医療事故的要素は無いはずだろえーーーっ! 」
ドクターの反撃も虚しく、ケルシーの視線がメガ・キャロットちゃんの『構造的脆弱性』を文字通りメスで解剖し始めた。
「第一に、この製品に使用されている低品質なアクリル系化学繊維ならびに劣悪なポリエステル製のパイル地。これらは帯電率が極めて高く、室内における空気中のマイクロダスト、真菌胞子、さらにはヒトの脱落した角質などのハウスダストを恒常的に吸着する『集塵兵器』として機能する。そのような粉塵の温床をアーミヤの睡眠のパーソナルスペース――すなわち、一日の三分の一の無防備な時間を過ごす環境に大量に投下すれば、喘息やアレルギー性結膜炎のトリガーとなり、最悪の場合は上気道の慢性的な炎症を引き起こして作戦時の集中力と生存率に不可逆のマイナスデバフを懸ける。それが指揮官の『お土産』に対する最適解だと主張する気か」
「だ、ダニの温床扱い!?いくらなんでも難癖つけぎぃ~ーー!!」
「静電気一つ取っても看過できない」
ケルシーは一切の哀れみもなく続けた。
「それに加え、私が問いたいのはこの製品のデザインコンセプト――すなわち社会的メタファーにおける深刻な欺瞞だ」
「な、メタファーってなんやねん……ただの可愛いうさちゃんやろ!」
「いいかドクター。動物を愛玩対象とするホモ・サピエンス的営みにおいて、眼球の比率を誇張し、手足の運動機能を喪失した極度な四頭身の幼形成熟として形態を加工する行為。それは消費者側の無自覚な『加虐性』と『圧倒的な庇護による支配欲求』を商業的に最適化させたパッケージデザインでしかない。だが考えてみるがいい、アーミヤのアイデンティティを。彼女の種族はコータス、ひいてはそれ以上の重き因子である『キメラ』だ」
「そ……それが……?」
「自分自身の『ウサギという本来備わっている身体的特質』をこのように醜悪かつ幼児的に解体されたアイコンとして強制付与されることは。自己同一性に対するコンプレックスへの間接的な侵害であり、『他者から庇護されるだけの愛玩物としての存在承認』という暗黙のプレッシャーを与える同調圧力に他ならないのだ。 魔王としての運命に一人で立ち向かっている彼女に対し、君はその愚鈍極まるステレオタイプな巨大毛玉を宛がうことで、『いつまでも小さく可愛いウサギの娘でいろ』という己のグロテスクな保護者ぶった独占欲を無自覚に強要するつもりなのか?」
( ただの流行りのウサギの人形が 『免疫システムへの致死性攻撃テロル』であるだけでなく、『魔王としての自我を陵辱する、オッサンのエゴにまみれた醜悪な呪縛兵器』へと一発で意味を改竄された!)
ドクターの持っていたぬいぐるみは、もはや見るに耐えないおぞましい『自己欺瞞とアレルギーの塊』にしか見えなくなり、ドクターはそれを慌てて商品棚の奥へと戻した。
「……アーミヤも日常使いできるちょっと高級で手触りの良い万年筆とインクのセット……実用性抜群なアイテムにしとくっス」
「最初からその結論に最短距離で至っていれば、君の脳髄と私の神経リソースは不要な摩耗を避けられた。実用品であれば彼女の学修にも有益だ」
ため息を一つこぼしたケルシーが背を向けたことで、この惨劇は無事に幕を閉じたのだった。
そして――文房具店での用事を早々に済ませた二人は、大きな日よけ屋根の立ち並ぶオープン・カフェとフードワゴンが集う広場へやってきていた。
日陰のテーブル席。そこへ、両手にカラフルな極太サイズ・ストロベリーチョコマシュマロ生クレープさらにブラウニー入りを握りしめたドクターが小走りで戻ってくる。
「 メチャクチャ行列できてたクレープ屋で限定品ゲットしてきたぜェ! け、 ケルシー、これあげる。二つ買って来たからプレゼントだよ」
ドクターはためらいもなく、二本あるうちの一本をケルシーへと手渡そうとした。生クリームとチョコレートソースが致死量かというほど乗せられた、見た目からしてカロリーと暴力性の化身である。
「………私にか?」
「当然やろ! いっつも顔しかめて書類か怪我人見てるんだからさ、こういう時くらい血糖値ガン上げして幸せ成分摂取して、自分を甘やかしてやるから尊いんだ、絆が深まるんだ!」
無理やり彼女の手の中にクレープの包み紙を押し付ける。
ケルシーは渡されたその生クリームの地層構造を見つめたまま、微かに眉間へ皺を寄せた。そして予想通りの展開が火を噴く。
「……ドクター。言っておくが、糖分というものは人類が『美味である』と感ずる神秘の力でもなんでもない。この単糖類や二糖類で構成された人工甘味料の過剰凝縮体――この食品を一時に急激摂取することによる人体の影響を考えたことがあるか? 大量スクロースが急速に小腸から吸収され、血中のグルコース濃度を暴力的なまでに押し上げる、いわゆる急性血糖値スパイクのトリガーだ。急騰した血糖値を抑制すべく膵臓から過剰分泌されたインスリンは、その後激しいリバウンド現象をもたらし、結果的に低血糖とそれに伴う重篤な倦怠感、集中力の低下という無気力の奈落へと前頭葉を引きずり落とす。つまり君の渡してきたこのデザートとやらは、神経系の活動リソースに対する合法的な毒物のようなものだ」
「気遣いで渡しただけのクレープに対して糾弾するのは酷い! 普通の女子なら写真撮ってキャッキャするアイテムと思われるが……」
「私のどこを観測して、写真機片手にはしゃぐ一般の有象無象の有機個体と同じ枠組みに入ると錯覚したのか理解に苦しむな。私はテラの裏側の悲哀も文明の盛亡も幾多観てきたのだ。それを今さら安直な小麦粉と油脂のエマルジョン混合物で喜べというのか。さらに言うならば、このような加工糖質は依存性も極めて高い。快楽の中枢である腹側被蓋野が短期的に過刺激され……」
ドクターはクレープを齧りながら、ケルシーのクドクドとした超長文に白目を剥いていた。
(ダメだ。アーミヤのお土産だけならともかく、日常の買い食いレベルにすら生理学・代謝学的視点から『糖分は違法ドラッグであり毒』っていう恐ろしい説教が発生しとる……いついかなる時でも講義を開けるなんて、ある意味”最強”だ)
「ま……まぁいい! 毒でもなんでも、とりあえず疲れた時には旨いんだ! いいから一口食べろ……鬼龍のように」
半ば強引に、自分が食べて美味しさを証明するように大口で齧り付くドクター。
それを見て、ケルシーはまたしても大きな深いため息を零した。
「……はぁ」
呆れ切った声音。どうせ突き返してくるか、机に置いて口もつけないだろう。
……そう思っていたドクターの視界の隅で。
ケルシーは冷厳な眼差しのまま、手元の特大クレープをゆっくりと持ち上げ、端の方を静かに……ぱくり、と一口かじった。
「えっ」
「……味蕾において感じる甘味は、炭水化物を獲得せよというヒトの原始的なDNAレベルでの信号反応だからな。過労によって論理的機能が鈍化している今の君のような男に付き合わされている分、こちらも相応のグリコーゲンの無駄な消耗を余儀なくされている。であれば、現状回復措置のための経口補給という形でのみ、一欠片ほど許容するだけだ。これは決して美味だから摂取しているわけではない。栄養の相殺計算だ。……ドクター、この意味がわかるな?」
「……わかるような、わからないような」
「なら、それでいい」
そう嘯きながら、彼女の唇は生クリームとチョコレートに微かに汚れたまま、さらに静かにもう一口だけそれを咀嚼した。文句を言いながらも付き合ってくれている。
絶対零度の論理の化け物のはずが、休日に自分から出された甘いものを少し不器用に処理しているその横顔に、ドクターの心の中にあった言い知れぬ恐れが、微かに「なんか可愛いんスけど……」というアホみたいな感想へと塗り替わりつつあった。
(文句も多いし長ったらしい講義付きだけどなんやかんや付き合ってくれるし……まぁこういうオフも悪くないっスね。だが、プラチナとの待ち合わせ時間やな。ケルシーをどうにかして撒かないと……)
そう思いながら、立ち上がったドクターと、それをやや遅れて追うケルシー。
平和な午後だ。……だが、ドクターたちの非番において平穏が長く続くことなど、彼が過去のフラグを含め一切無いことを、忘れるべきではなかったのだ。
二人がアーケードを通り抜け、再び大通りへと足を踏み出そうとしたその瞬間――。
「ねぇ、そこのお兄さん?」
ドクターの横から、高く甘い声音が飛んできた。
声をかけてきたのは、移動都市の洗練された生活環境に相応しい、見栄えの良い装いを纏った二人の若い女性だった。軽やかなファッション、少し香水の香りが漂う、いかにも『平和な街の休日を謳歌している』地元市民といった風情である。
そして彼女たちの視線は、ドクターへ真っ直ぐに向けられていた。
「あのさ、ヒマなら一緒にお茶でもしない? この辺りで良さそうなお店知ってるんだけど……お兄さん観光客? 見ない顔だけど、結構カッコいいじゃない」
「なっ……なんだあっ?」
ドクターは心底虚を突かれたように固まった。
今日、目立たないように少しカジュアルなコートに身を包み、フードを目深に被らない程度のラフな格好で歩いていたことが裏目に出たらしい。
「え、と……お、俺スか……?」
「そうそう、お兄さん! 私達と一緒にどう?」
いわゆる『ナンパ』である。
この戦火と死に満ちたテラにおいて、まるでロマンチック・コメディのような平和すぎるトラブル。普段、数千人のオペレーターの生死を扱う軍事通信や、ヴィクトリアとカズデルの国家間の謀略ばかりを相手にしている作戦指揮官の脳内シナリオ・ジェネレーターには、『休日に街中でチャラい一般人にナンパされた時の最適解』など一行も組み込まれてはいなかった。
(市民の皆さんのお茶の誘いになんか乗ってる暇はないし、乗り方もわかんねーよ!! ろくに遊びに行く事が出来ない社畜の俺に悲しき過去……)
パニックになりかけるドクター。だが、逃走を図ろうにも彼の横には、テラ最恐の氷の賢者であるケルシーが文字通り張り付いているのだ。また下手に狼狽した態度をとれば「自己解決能力の欠如」「戦時における危機管理の意識喪失」として、帰り道ずっと言葉のリンチを受け続ける未来が確定している。
(どないする!? 適当に断って逃げるか? いや、スマートにやらなきゃケルシーの点数が下がる。何か自然に、かつ強力に断れる理由……そうや!!)
極限のプレッシャーの中、ドクターの大脳新皮質は背後で静寂を保ったまま腕を組んでいる長命者へと解決の矛先を向けた。
相手は平和な街の女性二人。対して、こちらの背後にいるのは誰が見ても理知の極みと圧倒的美貌、そして近寄りがたいまでの凄艶さを備えた『女』である。
これを利用しない手はない。
「あっ、あざーっス! お姉さんたちの誘いは凄く光栄でハッピーハッピーなんだけど……ごめんな!」
ドクターは急に自信に満ちた声――ある種の芝居がかった男らしいトーンを出しながら、無言のまま成り行きを見つめていたケルシーへと向き直り隣へ、そして彼女の細くしかし堅い二の腕に、自分の腕をスッと回して絡ませた。
所謂『腕組み』のポーズである。
「──ッ」
突然腕を取られたケルシーの肩が、ほんの一瞬だけ、医学的な不整脈としか形容し難いわずかな硬直を見せた。エメラルドの瞳が鋭く彼を見据える。しかし、ドクターは退路を断って一気に攻めに出た。
「そういう事なんだ、すまない……だから、すまねぇ今日はこの彼女との大切な休日なんだ愛情が深まるんだ」
「すでに連れがいるから誘いには乗れない」という、古典的だが最も波風が立たず、かつ決定的な防御力を持つ定型句のパス。そしてわざとらしくケルシーの肩を抱き寄せる素振りをしつつ、ナンパの女性たちへウインクを投げてみせた。
「な、なんだぁ。連れがいたんだ……」
「……ていうか、彼女の近寄りがたいオーラが凄すぎ……」
声をかけてきた二人は、隣に引き寄せられたケルシーの冷厳極まる彫刻のような横顔と、静かにこちらを『解剖対象を見るように』見据え返してきたその眼光のあまりの強烈さに、瞬時に自衛本能の警報を鳴らされたらしい。
「あ、アハハ、ご、ごめんなさーい。お邪魔だったみたいで! それじゃあね!」
気圧された彼女たちはそそくさと踵を返し、逃げるように群衆の中へと消えていった。
「フッ……危機は去ったな」
やり切った安堵から、ドクターは心の中で「しゃあっ!」とガッツポーズをキメた。一般人への被害ゼロ、面倒な諍いゼロ。この世界において、最小のコストで危機を回避した素晴らしい指揮能力の証明ではないか。
……そう。彼が組んだその相手が、よりによって「安易な感情や定義なき言語行動を、テラの何よりも毛嫌いする論理の権化」であることを忘れていなければの話だが。
「ふう……あざーす。ケルシー。お前のその存在感がなきゃ、しつこくつきまとわれる所だったぜ。これだから治安が良すぎる街ってのは緊張感がねぇんだよなぁ。さて、プラチナと待ち合わせ場所へ――」
ドクターが笑いながらケルシーから腕を離そうとし。そして気づいた。
……離れない。
腕を引こうとしたドクターに対し、ケルシーは逆にドクターと腕を絡めたそのままの体勢を崩すことなく、まるで岩盤のようにその場に立脚して不動を貫いていたのだ。
「えっ」
ドクターが戸惑いながら顔を向けると。
ケルシーは先程までの沈黙が嘘のように――だが感情の高ぶりは一切なく、ただ果てしない情報の津波を放つ直前の黒雲のように、深い静謐な眼差しでドクターを見つめていた。
街の喧騒の中、彼女が立っている半径一メートルだけが真空に覆われたかのような異様な重圧が空間を支配している。
「……ドクター。先程の君の、あの女性たちに対する対応についてだが」
始まった。
絶対零度、論理による完全制圧攻撃――すなわち、回避不能の『講義』の開始を告げるチャイムだった。
「ひっ」
「まず第一に。君の発声した『こういう事なんだ』というその修飾辞についてだ。この『こういう事』とは、一体全体いかなる状況論理、いかなる社会学的コンテクスト、そしていかなる物理的あるいは内分泌学的相互関係を指し示す言葉なのかを。君は今ここから、私に対して極めて論理的かつ瑕疵のない証拠をもって説明する義務がある」
「い、いやちょっと待てよ! 今回は単に断るための方便というか、面倒ごとを回避するための咄嗟のフェイクであって、深い意味なんて何も――」
「詭弁だ」
ピシャリと、一切の情状酌量を斬り捨てる言葉が飛んできた。
「……確かに、あの二名の女性による非公式かつ突発的なコミュニケーションの要請は、作戦行動の合間の貴重な『リカバリーおよび物資調達という本日の我々のタスク・フロー』に対する明確なディレイ要因であった。彼女たちの口にする無益なお茶とやらを通じた一時的な交際による時間コストの喪失は、マクロの視点において無用な疲労蓄積の連鎖を生む可能性が高い。その点において、あの極めて個人的かつ刹那的な享楽に耽るための場外からの招待に対して、ロドスの行動規準から考えて君が直截的な拒絶の意思を示したという行動理念そのものについては、私の異議を挟む余地はなく『頷ける』判断だったと言えるだろう」
「だ、だろ!? 俺だって立派に考えて……」
「だがしかし、だ。ドクター」
ケルシーの声のオクターブがさらに沈み込む。
「君は、その解決へのアプローチ手段において、言語道断のエラーを引き起こしている。『こういう事』という極度に抽象的、かつ相手の主観的な文化的バイアスに意味の全処理を丸投げする無責任な単語と併せて、君は私の身体構造物に対して事前のプロトコル構築もなく『腕を組む』という極めて意図と暗喩を含んだ突発的なボディランゲージに踏み切った」
「い、いやだからその方が『この二人はカップルです』って自然に分かって退き下がると思ったんやないか! 俺なりのフルコンタクトな防衛術や……!」
「その『暗喩的な示唆』の傲慢さについて言及しているのだ」
ケルシーは依然として彼と腕を組んだ状態――逃走を一切許さぬ強固なホールド状態のまま、淡々と、だが一切の反論を溶解する理詰めの砲火を降らし続ける。
「人間という群生的知的生命体において、『男女の肉体的接触の度合いと、言葉少なな所属意識の宣言』をもって即座にパートナーシップを表明し、交尾・生殖・相互占有のアピールだと解釈させるこの手法は、進化の過程における旧時代の類人猿特有のテリトリー防衛術と根本的になんら違いがない。その古臭く極めて不鮮明なサインだけで、見知らぬ他者に『私の女だ』という状況判断を完全に誤謬なく読み取らせようとするのは、あまりにも伝達側の怠慢、コミュニケーション努力の破棄と言わざるを得ない」
「あんな古典的で手垢の付いたベタな言い訳の手法を、霊長類のテリトリー防衛行動のバグ扱いして全否定するのかよえーっ!?」
「事実だ。考えてみるがいいドクター。今回のケースでは、偶然にも彼女たちの側の文化社会学的読解能力が、君の雑な三流演劇のような動作に対して適度な空気を読み、『自分たちが入る隙の無い間柄』だと自ら引いてくれたから無事に終わっただけに過ぎない」
ケルシーのエメラルドの眼差しが、責めるような光の圧を一層強めた。
「だが、もし仮に。彼女たちの内包する『他者間のボディランゲージに対する文脈解析の解像度』が我々の想定する中央値よりも著しく浅かった場合。あるいは、都市文化において見られる極端な倫理基準の変遷――すなわち、公衆環境における性的な境界の敷居が異常に低い社会や、より劣悪でフリーパスな交際感覚を保持している地域からやってきた人間であったなら、どうなっていた? 君がどれほど大見得を切って『この人がいるから』と主張したところで、『彼女と一緒に混ざればいいじゃない』と、強行的に腕を掴んで逆アプローチに出られ、拒絶する意思に関わらず三つ巴の劣悪な争乱に巻き込まれていたとしても何ら不思議ではない状況であったのだぞ」
(『ちょっと彼女持ちを偽装してナンパから逃げよう』っていう軽快な機転が、なぜか『異なる価値観の人間相手への情報処理を怠ったリスク管理不行届による、スリーサム・トラブル引き起こしの未遂事件』として断罪されたッ!?)
顔面を蒼白にさせるドクターを他所に、ケルシーは最後の論理による断頭台への階段を作り上げた。
「以上の言語学的および危機管理体制上の著しい不手際を踏まえ、君が先程展開した無防備な対応に対する明確なバックグラウンドチェックをこれより行う。不完全な言葉で自ら事象を片付けた以上、その後始末……あの立ち去ってしまった一般女性たちの代行として、私という対象へ強制的に設定を付与した事の弁明の審理権は、他でもない私が就かざるを得ないだろう。わかるなドクター?」
「はうっ……すいませんでした」
「自己認識が定まったのならよろしい。ならば速やかに答えてもらおうか。君が先ほど言い放った『こういう事なんだ、私にはこの人がいる』における……この『こういう事』という抽象代名詞は。私の所有する権限の枠組み、そして私たち――作戦指揮官と医療統括責任者という組織における関係性のマクロ的・ミクロ的相互定義において、君はいかなる権利のもとに私の『どのような位相の立ち位置の人間である』と世界へ向けて公式に虚偽宣明したのか、極めて具体的かつ科学的な論理を用いて明確に、今ここで私に対して証明し弁証してくれ」
「は?つまり『俺がお前とどういう関係だって設定で嘘ついたのか事細かに自己申告して弁明しろ』っていう公開拷問ヤンケ!! シバクヤンケ!! 」
ここは道のド真ん中である。歩行者たちは平和な光景だと目をそらして通り過ぎていくが、男の方の精神は既に数百時間続く拘問室の中と同レベルまで削り取られていた。
このままここに留まれば、通行人の眼とこの冷徹な言葉の波によって、ドクターの大脳新皮質は完全融解し消滅してしまうのは目に見えている。
「い……いや! だから! 道のド真ん中でこの高度すぎる理屈の追及勘弁して欲しいのは俺なんだよね!?」
もはや体面など保っていられなかった。ドクターはパニックと生存本能により、ケルシーから腕を引き抜くのではなく、むしろその組み合わされた手と手の感触から『自分の掌へと指を絡ませ』、完全に「手を繋いだ状態」に強引に切り替えて駆け出した。
「逃げるっ!」
「ドクター…!公衆の場における不要な疾走は、体力の摩耗と……ッ!」
驚くべきことに、突然強く手を引かれたケルシーの反発は、そこまで重篤な拒絶行動を取らなかった。無論彼女であれば指先の関節を逆に極めてドクターの進行を完全無効化する事も容易いが、彼女は軽く目を細め、静かに舌打ちしただけでドクターに引きずられるがまま足を進めさせた。
そして数分後。二人がたどり着いたのは、通りから数ブロック外れた、静寂が広がる公園の一角であった。鬱蒼とした街路樹の葉陰が石のベンチに影を落とし、人の行き来もまばらで監視のリスクが最も低いデッドスペース。
そこまで来てようやく、ドクターは膝に手をつき、ゼェゼェと酸素を求める喘ぎを上げた。ケルシーもまた彼に合わせて歩みを止め、ただ呆れたような、それでいてどこか彼という生体を検分する冷静な目のままでその前に立っている。彼らが「手を繋いでいた」状態は、ここでようやく自然と解除されたが……二人の物理的な距離は先ほどの逃走の影響か、奇妙なほど近いままだった。
「はぁっ……はぁ……ケルシー……あの説教ラッシュは俺の生命に限界を引き起こすんだよね怖くない?」
ぜえぜえと息を切りながら顔を上げたドクターは、そこでふと、どうしても消えない自分の中の微かな疑念の根幹を言葉に出してしまった。
「あ、あの。ケルシー……? もしかして、その、俺のあの発言が、めっちゃ失礼だと思って本気で怒ってるんスか……?」
恐る恐る振り返るドクター。自分が軽い気持ちで放った「こういう関係」の盾扱いに、女性としてのプライド――数万年を生きる孤高の賢者への侮辱と取られたのなら、本当に言い逃れができない失策だ。長文のお小言で終わらず、マジで始末されかねないフラグである。
ドクターがびくつきながら問いかけると、ケルシーは静かにため息をついた。ドクターの手から振りほどくことはせず。その手にはかすかに彼女自身の力がこもり、温かさのようなものを生んでいた。
「……何故、そう思う?」
「えっ?」
「君は、私が君に対して、己のプライドを守るためだけに感情のレベルで不興を買っている、単純に嫌われているからここまで理詰めをしていると感じているということか?」
「だ、だって。休みの日の護衛とはいえ一緒にいて。少し女が寄ってきたから適当にあしらっただけで、あんなクソ長い、組織倫理とモラルと防壁システムの完全講義へと至るから。これハッキリ言って、俺が余計な言葉を使ってケルシーをキレさせたんじゃないかとか思って……俺の事が、本当は嫌いなのか、どうなのか教えてくれよ」
ほとんど懇願にも近いその訴えに対し、ケルシーの緑銀の髪が僅かに揺れた。
「……『嫌い』か。極めて短絡的でありふれた、自己存在の是非に対する二元論的な問だな」
彼女はそこで一瞬だけ言葉を止める。
過去数万年の中で誰にも触れさせてこなかった扉に、そっと自身の手をかけるかのように。バベルからロドスへ至り、永遠に待ち望んだ結果を見届けようとする母でも、伴侶でもないものの声音だった。
「なら、教えてやろうドクター。私が先ほど執拗に君へ向けて『その言葉を明確に再定義して論証しろ』と要請した理由は……。君の発する嘘の響きに対する怒りや憎悪の反射などでは決してない。君が公衆において無思慮に提示してみせた、君と私に対するこういう事、つまり虚飾による疑似関係などという下らない幻想のパラダイムをこの私自身の言葉によって完全論破し、偽証ではなく確定の因果として……本当にその言葉通りの真実に組み替えるために、他ならない」
「えっ」
ケルシーが一歩、歩みを進める。冷えたエメラルドの瞳がドクターの鼻先まで接近する。手はまだ握られたままだ。
「つまり私は君が発したただのアドリブである冗談などでは一切看過する気が無い、と言っている。君の軽口が示した私の利用価値……君に好いた感情があるのだと示威して使った関係値。もし私がそれを嘘偽りと知りながら長年の防衛感情ゆえにスルーしていたとしたなら。私はあの夜の書類の中で自らに刻み付けた、君の生存と平和的な帰着に関するささやかな決断をも己自身で全否定してしまうことになる」
「じゃあケルシー、俺を論破しまくって再構成しようとしてたのは、要するに俺のデタラメを嘘からマコトにして事実婚として完全証明させたかった、と……!?」
意味の洪水に圧倒されつつ、最後のケルシーの発した逆転のアクロバット級論理「嫌っているから責めているのではなく、あの場で嘘にして流させるのが癪だから完全真実に置き換えさせようと怒っていた」という凄絶な感情理論に至ったとき。ドクターは思わず全身に汗が噴き出した。
「だから怒るのも当たり前の行動をしているからだろう、と言っている」
「は、話が違うであります!要約すると『つまりお前は私のモノだという証明なんだろ?はっきり言えよ』って事やん!?」
恐怖。絶望、それと同時に、彼の先程「ケルシーもまた、自分へ執着している家族以上の関係の依存者であるのでは?」というある種の過信した認識が、何百倍もの狂気的特異点をもってブーメランとして刺さり込んだ事を意味していた。
「理解したようだな。私の観測範囲内に入り、利用と干渉の対象に私を設定しておきながら、その無機的な解答だけで立ち去れるほど私が安上がりな情報体系をしていると高をくくったか。さあ、私に対する君の思考回路から先ほどの虚構を現実へ転写して書き直す言語説明は終わっていないはずだ。私たちは、公私においてどういう相互契約に基づく『関係』で……ここで手を握っているのか?」
にじりよるプレッシャー。物理的な逃避の道を完全に断たれた、大いなる執着への尋問タイムの強制。それはアーミヤの魔王としてのそれにも勝るかと思わせる、永劫の時を駆け抜けた者の精神掌握の果ての支配構造である。
「け、ケルシー……俺は……」
真剣に問いかけるケルシーに対して向き合い、彼女の肩に手を置いたドクター。そして彼女に返答をしようとした、まさにその路地からの出現の角で――。
「……あっ」
柔らかな春めいた風に乗って、聞き慣れた、けれども今ばかりは絶対に出会ってはならなかった冷たい虚無の色が滲み始めた美しきアルトボイス。
彼と手がガッチリ繋がれたままになっているその正面の陽だまりの中に。特設テーマパーク限定のアイス二人分を両手に持ったまま立ち尽くし、銀髪の美しい髪を風に靡かせた――デートのためにドクターをずっと探し、数時間待ち続けていた『私服のプラチナ』の姿があったのである。
「ぷ、プラチナ!?」
「………」
ドクターが顔面から全血を失う速度よりも早く。
プラチナの瞳から「観光気分の柔らかな光」という生命の色が完全に消灯した。代わりに入力されたのは、絶対的修羅場における「無冑盟ランク・暗殺の最高位が直面した最大の暗黒衝動の点灯処理」。
「ドクター……?」
その声は、カジミエーシュの地下で聞いたどの刺客の声よりも冷たく、重かった。手に持っていた『限定ダブルベリー・パフェ』が、ドクターとケルシーが固く繋いだ手を見つめる彼女の視線に耐えかねたように、べちゃりと地面に崩れ落ちる。
「……私、ずっと待ってたんだよ? ドクターが、お仕事頑張って、やっと作ってくれた時間だって信じて。なのに……デート、してたんだ?」
プラチナの背後に浮かび上がるのは、嫉妬という名の源石アーツにも似た漆黒の殺意。まるで、無冑盟の最高位『プラチナ』としての冷徹な仕事人の顔が、ドクターという標的を完全にロックオンした瞬間。
その声の質には、もう、一切の人間性が見当たらなかった。傍から見れば口付けをしようとする真っ最中にしか見えない。そもそもデートをすっぽかして他の女を連れてイチャついてる。───怒らないでくださいね、普通にスリーアウトじゃないですか。
「……お楽しみなコトをしてるくらい、最初からドクターにとっては、私の予定なんか、どうでもよかったっていうことなの、かな……?」
プラチナの背後に、カジミエーシュの夜を支配する「無冑盟」の殺気が実体化して立ち昇る。彼女が手に持っていたアイスキャンディが、石畳の上に音を立てて落ち、無惨に砕けた。それはドクターが夢見た「ささやかな安寧」の崩壊を告げる弔鐘であった。
「待てよ、プラチナ! これには不可抗力というか、ケルシーの論理演算に巻き込まれて逃げ場を失った結果なんだ、俺を騙したのかケルシー!?」
「……他者への弁明に私の名を安易に利用するな。君が先ほど私を『代えの利かない相手』として定義した以上、その責任の帰結をプラチナやアーミヤにどう説明するかは君のタスクだ。私はただ、君が自白した『真実』を保存し、その誠実さを観測させてもらうだけだ」
前方からは「キラーランク・プラチナ」の必殺の弓が、後方からは「数万年の執着」を宿した氷の賢者が、ドクターという一匹の猿を逃がさぬよう完璧なキルゾーンを形成していた。
「うああああ……こ、こんなことが許されていいのか! 右を見れば暗殺者、後ろを見れば氷の賢者!どの世界にも通じることやが、中身のないヤツがモテすぎて破滅を誇る! なんだよこのクソ展開!? ワシの穏当な休暇、どこへッ!!」
「ドクター、ちょっとこっちで"お話"しようね?……いいからさっさと来いよ」
「ウアアア連行ダーッ!! 誰か助ケテクレーーーーッ!!」
絶叫は太陽に消え去り。マネモブ指揮官としての安寧な生存ルートへの展望など最初から一切存在しなかったという悲哀を背負い。テラの歴史に一匹の猿が新たな破滅的な歴史的失点を書き刻んでしまった瞬間だった。