マネモブドクターがケルシーに「ヤらせろ」と言ったら説教で夜が明けたんスけど……いいんスかこれ   作:異常長文構築者

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まぁ気にしないで 終わりよければ全てよしですから

 

 

「……ヴィクトリア・ヒロック郡周辺におけるダブリンの不審な部隊移動、それに伴う駐屯軍の動向調査。カジミエーシュ商業連合会からの、あからさまな牽制を含んだ『親善通信』の処理。おまけにクルビアのライン生命からはまた怪しげな共同研究の打診……もう嫌気が刺してきたのが俺なんだよね」

 

 各国の情勢は、常にテラの大地を血と策謀で汚し続けている。

 

 ウルサスの凍てつく大地では皇帝の利刃が暗躍し、炎国では司歳台が巨獣の影を追い、イベリアの海岸線には依然として深海教会の不気味な気配が漂っている。軍事・政治・医療――あらゆるベクトルの問題がこのロドス・アイランドに持ち込まれ、それを最適化して処理するのが彼、作戦指揮官たるドクターの仕事であった。

 

 だが。 現在の彼にとって、ヴィクトリアの王位継承問題よりも、カジミエーシュの暗部よりも、遥かに恐ろしく、かつ直接的な命の危機に直面している『問題』があった。

 

「はぁ……。テラの情勢がどれだけエグかろうと、俺の今のプライベートの修羅場に比べればマイ・ペンライ!に思えてくるんだよね凄くない?」

 

 カラカラに乾いた声で呟きながら、ドクターは自らの首筋をさすった。  

 

 

 数日前のことである。貴重な休日に、ロドスの狙撃オペレーターであり、元カジミエーシュ無冑盟の凄腕アサシンであるプラチナと遊園地デートの約束を取り付けていたドクター。

 

 しかし、その道中で街の女性にナンパされた彼は、手っ取り早くその場を切り抜けるため、あろうことか『護衛として密かに同行していたケルシーの腕を引き、彼女だと偽る』という致命的な愚行を犯してしまった。

 

 結果――嘘の関係を論理的に既成事実化しようと迫る『氷の賢者』ケルシーに路地裏で追い詰められ、逃げ出した先で『待ち合わせ場所で待っていたプラチナ』と最悪の鉢合わせをしてしまったのだ。

 

(の時のプラチナの、ハイライトの消えた瞳……。そして、俺の手を絶対に離そうとしなかったケルシーの凍てつくエメラルドの眼差し……思い出すだけで寿命が5年は縮むんだよね怖くない!?)

 

 結局、あの日はどうなったのか。

 

 遊園地に行くことなど当然できるはずもなく。ケルシーとプラチナという、ロドスにおける『最恐の長命者』と『最高位の暗殺者』に両腕をホールドされたまま、市街地のオープンテラスのカフェで、およそ3時間に及ぶ『ドクターの行動理念および対人関係の責任所在に関する合同査問委員会』が開催されたのである。

 

『……ドクター。君のこの無計画なスケジューリングと、それに伴う関係性の不法投棄について、私と彼女の双方から納得のいく説明を要求する。言葉を一つでも間違えれば、君の脊髄をMon3trの実験材料にすることを真剣に検討せざるを得ない』

 

『……ドクター。私を遊園地に誘っておきながら、実は医療統括のケルシー先生と裏でコソコソ手を繋いでデートしてたなんて……。私のこと、ただの馬鹿な暇つぶしだと思ってたの、かな……?』

 

(ウ・ウソやろ、こ……こんなことが許されていいのか!?って心の中で叫び続けたぜ……。あの時の俺は、完全に『まな板の上の鯉』を超えた『シュレッダーの中の紙屑』という感覚ッ!)

 

 結局、ドクターが土下座せんばかりの謝罪と、「全ては俺の浅はかさが招いたエラーであり、二人に優劣をつける意図は決してなかった」という涙ながらの弁明を尽くすことで、なんとかその場は解散となった。

 

 だが、それはあくまで『一時的な停戦』に過ぎないことを、彼は痛いほど理解していた。

 

「しゃあけど、あれから三日。ケルシーはいつも通り執務をこなしてるし、プラチナも普通に過ごしてるみたいだし。スレ建てした時にケルシーにシバかれたのは置いといて……もしかして、嵐は過ぎ去ったんじゃないスか?ワシの誠意ある謝罪が通じて、平和が戻ってきたから尊いんだ誠意が深まるんだ!」

 

 持ち前のポジティブ・シンキング……という名前の現実逃避を発動させ、ドクターが冷めたコーヒーに口をつけようとした、その時。

 

 メインコントロール室の気密扉が、静かに開いた。

 

「ドクター。お仕事中、お邪魔してもいいかな?」

 

「なにっ!?」

 

 ドクターは思わずコーヒーを吹き出しそうになり、慌てて口元を覆った。

 扉の前に立っていたのは、ロドスの制服を少し着崩し、特有のアンニュイな雰囲気を漂わせたプラチナだった。彼女の手には、購買部で買ってきたらしい2つのテイクアウト用ドリンクカップが握られている。

 

「プ、プラチナ……! お、おう、全然構わないぜ! ちょうど小休止しようと思ってたのが俺なんだよね!」

 

「そっか。それなら良かった」

 

 プラチナは軽やかな足取りでドクターのデスクに近づき、ドリンクの一つをコトリと置いた。

 

「はい、差し入れ。購買部でハニーラテが売ってたから、買ってきたの。……ドクター、最近ずっとこの部屋に籠りっきりでしょ?ちゃんと休まないと、ダメだよ?」

 

(な……なんだあっ!? この甘い声、逆に怖いんスけど! まさかこのハニーラテの中に、無冑盟特製の遅効性毒薬とか入ってないスよね!?)

 

「ありがとうね、感謝やで!さっそく頂くっス!」

 

 ドクターは引き攣った笑顔でストローに口をつけた。甘い。良かった。ただの美味しいハニーラテだ。

 

 プラチナはドクターの隣にすっと立ち、彼のデスクの上に散らばる書類を一瞥した。

 

「ヴィクトリアの公爵たちの動向調査……相変わらず、面倒なことばっかりやってるんだね。……そういえば、先日のお休みも、せっかくの息抜きのはずだったのに、結局『面倒なこと』に巻き込まれちゃったみたいだし」

 

「ガフッ!?」

 

 ドクターは思い切りむせた。 完全に『あの件』を蒸し返しに来ている。

 

「い、いやぁ……あの日は本当に申し訳なかったッス!俺のスケジューリングの甘さと、咄嗟の判断ミスが招いた悲劇で……決してプラチナとの約束を蔑ろにしたわけじゃ……!」

 

「私、別に怒ってないよ」

 

 プラチナはふわりと微笑んだ。だが、その目は全く笑っていなかった。

 

「ただ、少し『不思議』に思っただけ。私を遊園地に誘っておきながら、なぜかケルシー先生と腕を組んで、裏路地からこそこそ出てきたドクターの心理がね。……ねえ、ドクターって私のこと、軽く見てるの?」

 

「そ、そんな訳無いっス! 俺がプラチナを軽く見る訳無いっス! 君の弓の腕も、その美しさも、ロドスにとってかけがえのない宝だと思ってるから!」

 

「ふーん……。じゃあ、なんであの時、ケルシー先生の手をあんなに強く握ってたの?私が待ってるってわかってたのに、わざわざ先生を『彼女』扱いして……。ドクターは、私よりケルシー先生の方が『そういう対象』として魅力的だったってこと?」

 

「ウアアアアッ! 誤解ダ助ケテクレーッ!!」

 

 ドクターは心の中で絶叫した。

 

 プラチナの問い詰め方は、ケルシーの理詰めとは全くベクトルが違う。ケルシーが『巨大な質量のハンマーで正面から装甲を叩き割る』ような論理の暴力だとすれば、プラチナのそれは『極細の毒針を、逃げ場のない急所へ正確に、そしてじわじわと突き刺してくる』ような精神的責め苦であった。

 

「ち、違うんやプラチナ! あれはナンパを躱すための緊急避難的措置であって、決してケルシーに恋愛感情があったわけじゃ……!」

 

「……恋愛感情がなくても、あんなに密着できるんだ。へえ、ドクターって、意外と手が早いんだね」

 

「 いやちょっと待てよ!俺はそんな計算高いタフガイじゃない! 許してくれプラチナ、今度こそ絶対に二人きりで、誰の邪魔も無いように遊園地デートするから!」

 

 ドクターが必死に命乞い……もとい弁明を重ねていると。

 

 ――プシュッ。

 

 再び、メインコントロール室の気密扉が開く音が響いた。

 

「……私の名前が聞こえた気がしたが。この神聖なる作戦指揮の場において、私を題材にした低俗なゴシップでも展開しているのか、ドクター?」

 

 部屋の温度が一瞬にして氷点下まで下がった。

 

 そこに立っていたのは、クリップボードを片手に持ったケルシーであった。彼女の視線は、ドクターと……その隣にピタリと寄り添うプラチナを、交互に冷徹に射抜いていた。

 

「ヒッ……ケ、ケルシー先生! い、いや、これはただの休憩中の雑談というか……!」

 

「……私はドクターに差し入れを持ってきて、少しお話ししていただけだよ?」

 

 プラチナは一切怯むことなく、むしろケルシーに対して挑戦的な視線を向けた。かつてカジミエーシュの闇を生き抜いた暗殺者としての矜持が、ロドスの最高幹部を前にも一歩も引かない。

 

「……プラチナか」

 

 ケルシーはゆっくりと歩み寄り、ドクターのデスクを挟んでプラチナと対峙する位置に立った。

 

「君がドクターの疲労を案じ、糖分とカフェインを供給する行為自体は、医療統括の立場から見ても一定の合理性を認める。しかし、君の現在のシフトは非番ではなく、訓練室での狙撃オペレーターに対する指導業務の合間の休憩時間のはずだ。君の個人的な感情の清算のために、指揮官の貴重な執務時間を浪費させることは、ロドス全体のオペレーション効率を著しく低下させる要因となり得る」

 

「ふふっ。厳しいね」

 

 プラチナは鼻で笑った。

 

「でも、ドクターの『スケジュール管理能力』に問題があるのは、先生も先日よーく知ってるよね?私、ドクターがまた変なところで『寄り道』して、誰かさんと手を繋いで路地裏に迷い込んだりしないように、しっかり監視してあげてるだけだよ?」

 

 ドクターの眼には、ケルシーとプラチナの間に明確な高圧電流が走っているのが見えた。

 

 プラチナの言葉は、明らかに先日の『修羅場』を引き合いに出したケルシーへの牽制である。「あなたはドクターを横取りしようとした」という暗黙の非難だ。

 

 これに対し、ケルシーの緑銀の髪が僅かに揺れ、エメラルドの瞳が細められた。

 

「……君のその発言は、状況の因果関係を著しく誤認していると言わざるを得ないな、プラチナ」

 

「なにっ」

 

 ドクターが心の中でタフ語録を代弁する中、ケルシーの『講義』が、今度はプラチナへ向けて開始された。

 

「まず第一に。先日の事象において、ドクターが私を『彼女』と呼称し、物理的接触を図った行為は、完全に彼個人の突発的かつ利己的な判断によるものであり、私に一切の事前合意はなかった。私はあくまで、ロドスの機密情報保全および最高指揮官の安全確保というマクロな視点から、彼の愚行を即座に制止せず『状況の推移を監視・検証する』という選択を取ったに過ぎない」

 

「へえ。……でも、ドクターの手、しっかり握り返してたみたいに見えたけど?」

 

 プラチナの痛烈なカウンター。  

ドクターは「やめろ!ケルシーの逆鱗に触れるにゃ!」と心の中で絶叫した。ケルシーの痛いところを突けば、その反動は間違いなく周囲、というか主にドクターへの無差別爆撃となって返ってくるからだ。

 

「……それは君の視覚的バイアスが生んだ錯覚だ」

 

 ケルシーは一切表情を変えずに反論する。

 

「私は彼が逃亡を図ろうとした際、それを阻止し、彼自身の口から『虚偽の申告に対する論理的な弁明と責任の所在』を明確にさせるために、関節の可動域を制限する目的で力学的なホールドを維持しただけだ。それを『手を握り返した』などというロマンティシズムに満ちた前時代的な恋愛の文脈で解釈するのは、君の文化的造詣の浅さを露呈しているに過ぎない。……カジミエーシュの騎士競技という商業化された茶番の中で育まれた君の感性では、あらゆる事象がそのようなチープなメロドラマに変換されてしまうのかもしれないがな」

 

「……」

 

 プラチナの瞳に、明確な敵意の色が宿った。 カジミエーシュ無冑盟としての過去、そして商業連合会に利用されてきた自身の『哀しき過去』を遠回しに揶揄されたのだ。

 

「……でもさ、いくら理屈を並べたって、ドクターが最後に『一緒に遊園地に行きたい』って約束したのは私だよ。小難しくて隙のない人と一緒にいても、ドクターは休まらないんじゃない?」

 

「プラチナ、それ以上は危険や! 試合を止めるぞ!!」

 

 ドクターがたまらず割って入ろうとしたが、ケルシーの冷たい一瞥によって完全に沈黙させられた。

 

「……なるほど。君は『遊園地』という、資本主義が作り出した人工的な娯楽施設での一時的なドーパミン分泌の共有をもって、ドクターとの関係性の優位性を主張するつもりか」

 

 ケルシーはゆっくりとドクターのデスクに手をつき、プラチナを見下ろすような姿勢をとった。

 

「教えてやろう、プラチナ。君がドクターと築こうとしている『関係』というものが、いかに表層的で脆弱な砂上の楼閣であるかを。君はカジミエーシュの暗部から逃れ、ロドスという組織に庇護を求めた。君がドクターに向ける好意あるいは執着の根源は、極度のストレス環境下から君を救済した『絶対的な保護者』に対する、ストックホルム症候群にも似た依存的心理状態の延長に過ぎない。君はドクターに『平凡な幸せ』を求めているようだが、彼が背負っているものの質量を本当に理解しているのか?」

 

「……どういう意味?」

 

「ドクターは、このテラの大地において、ウルサスの大反乱、ガリアの滅亡、そして現在のヴィクトリアにおける王権戦争に至るまで、無数の命のやり取りをその双肩に担ってきた存在だ。彼の演算一つで数万の感染者の未来が決定される。その彼に対し、君は『遊園地で甘いお菓子を食べる』という、極めて局所的で微視的な慰めを提供することで、彼の精神的伴侶になれると本気で信じているのか?」

 

「それは……」

 

「君が提供できるのは、せいぜい『一時的な現実逃避』の場に過ぎない。だが、彼が真に必要としているのは、彼が下す残酷な決断の重みを共に背負い、テラという狂った大地の歴史的文脈を理解した上で、彼の論理的エラーを修正し続ける『システムの共同管理者』だ。君のように、自身のトラウマの補完のために彼を消費しようとする者には、到底担えない重圧だと言っているのだ」

 

(うぁぁぁぁぁっ!! ケルシーの『お前ごときの浅い好意でこの男を救えると思うな』という、愛人に対する本妻マウントみたいな超重厚な論理的排除が始まっとるーッ!!)

 

 ドクターは頭を抱えた。ケルシーの言葉は、プラチナの好意を「トラウマからの依存」と解体し、自分こそがドクターの真の理解者であるという絶対的な優位性の宣言に他ならなかった。

 

 だが、無冑盟のプラチナランクを冠した少女も、ただ黙って引き下がるような柔な精神は持っていなかった。

 

「……確かに、私は先生みたいに何万年も生きて、世界の歴史を全部知ってるわけじゃないよ。ドクターが背負ってるものの重さだって、全部は理解できないかもしれない」

 

 プラチナは一歩前へ出た。その瞳には、暗殺者の冷たさではなく、一人の少女としての強い意志が宿っていた。

 

「でも、だからこそ……ドクターには『逃げ場所』が必要なんじゃない?息をするのと同じくらい自然に理屈を並べて、ドクターを追い詰める人ばっかりじゃ……ドクターの心はいつか壊れちゃうし。私は、ドクターが本当に疲れた時に、何も考えずに笑える時間を作ってあげたい。……それって、先生の言う『システムの管理』なんかより、ずっと人間らしくて、ドクターにとって必要なことだと思うけど」

 

「…………」

 

 ケルシーは沈黙した。

 プラチナの言葉は、決して高度な論理ではなかった。だが、ドクターという『人間』の脆さを直感的に捉え、ケルシー自身が意図的に排除しがちな『感情的ケア』の重要性を突いた、極めて鋭い一矢であった。

 

(お見事ですプラチナ。やはり私が見込んだ通りあなたは強いオペレーターだ!)

 

 ドクターが心の中でプラチナにスタンディングオベーションを送っていた、その時である。

 

「――お二人とも、ドクターの執務室で何をそんなに熱く議論されているんですか?」

 

 メインコントロール室の扉が、三度開いた。 そこに立っていたのは、ロドス・アイランドの公表リーダーであり、ドクターの最愛の保護対象――アーミヤであった。

 

 彼女の手には、決裁を待つ分厚いファイルの束が抱えられている。しかし、彼女の長いウサギの耳はピンと張り詰め、その瞳はドクター、ケルシー、プラチナの三者を、まるでサーマルイメージャーのように温度のない視線で捉えていた。

 

「ア、アーミヤ……! お疲れ様! いや、これはその……戦術的なディスカッションというか……!」

 

「……ドクター。私は今、お二人に質問したんです」

 

 アーミヤの声には、有無を言わさぬ魔王の圧力が込められていた。彼女の持つ感情感知のアーツが、この部屋に充満する『ドクターを巡る女たちのバチバチの牽制合い』の空気を正確に読み取っているのは疑いようがなかった。

 

「ケルシー先生。プラチナさん。……ドクターは現在、ヴィクトリアの難民受け入れに関する重要書類の承認待ちで、極度の過労状態にあるはずです。それにも関わらず、お二人がここで『ドクターの精神的ケアのあり方』や『遊園地デートの優位性』について争うことは、ロドスの業務効率を著しく低下させる行為ではないでしょうか?」

 

「ヒッ……!」

 

 ドクターは完全に息を呑んだ。 アーミヤは全てを聞いていた。いや、聞いていなくとも感情で全てを悟っていた。

 

「……アーミヤの言う通りだな」

 

 ケルシーはスッと身を引き、いつもの冷徹な医療統括者の顔に戻った。

 

「プラチナ。君との非生産的な問答はここまでとする。これ以上君がここに留まることは、ドクターの業務阻害と認定し、人事部に報告せざるを得なくなる。直ちに訓練室へ戻れ」

 

「……はぁ」

 

 プラチナは小さくため息を吐くと、ドクターの方を振り返った。

 

「ドクター。今日のところはこれで引くけど……遊園地の約束、絶対に忘れないでね? もしまた破ったら……今度は本当に、夜道に気をつけることだね」

 

 ウインクとともに残された、極めて実効性の高い暗殺予告。プラチナはアーミヤに軽く会釈をして、部屋を出て行った。

 

「さて、ドクター」

 

 プラチナが去った後、アーミヤがゆっくりとドクターのデスクに近づいてきた。 ケルシーもまた、ドクターの退路を断つようにデスクの反対側に立つ。

 

「ドクターは、プラチナさんと遊園地に行くお約束をされていたんですね。……そして、先日はケルシー先生と路地裏で『深いお話し』をされていたと」

 

「あ、いや! アーミヤ、これは誤解というか、不可抗力が重なった結果で……!」

 

「私は怒っていませんよ、ドクター。ドクターが休日に誰とどう過ごそうと、それはドクターの自由ですから」

 

 アーミヤはにっこりと微笑んだ。だが、その背後には黒い王冠の幻影が浮かび上がっているように見えた。

 

「ただ……ドクターがそんなに『体力と時間に余裕がある』というのであれば、私が持ってきたこの追加の書類決裁も、当然今日中に終わらせることができますよね?ケルシー先生、ドクターのバイタル管理、よろしくお願いします」

 

「承知した。ドクター、君の睡眠時間は向こう四十八時間、完全にゼロと再設定された。私が横で血圧と心拍数をモニターしながら、君の脳細胞が焼き切れるまで書類にサインをさせ続ける。……安心しろ、君の言う『ハッピーハッピー』な状態が続くよう、カフェインと特殊栄養剤の点滴は私が直々に打ってやろう」

 

「ウワアア薬漬けダ タスケテクレーッ!!」

 

 メインコントロール室に、マネモブドクターの絶叫が響き渡った。

 

 

 

△ ▼ △ ▼

 

 

 

別の日。応接室には淹れたての紅茶から立ち上る芳醇な香りと、重厚な木製の盤面で駒が立てる「カツン」という硬質な音だけが、心地よいリズムを刻んでいた。

 

「なるほど。そういう事が。フッ……盟友は相変わらず忙しいようだな」

 

 盤面を挟んで向かい側に座る男――カランド貿易のトップにしてイェラグの支配者、シルバーアッシュが、手元のビショップを滑らせながら静かに口を開いた。

 

 彼の銀色の髪は窓からの光を反射し、雪山を思わせる冷涼さと、王者特有の圧倒的な余裕を醸し出している。

 

「そうなんスよ……こうしてアンタとチェスしてる時間だけが、唯一の落ち着く時間なんだよね。酷くない?まともな"休暇"どこへ!!って叫びたくなるくらい、最近は書類の山とケルシーの超特大長文説教にサンドバッグにされ続けてるんスよ……」

 

 ドクターは深いため息を吐きながら、己のナイトを盤面の端へと動かした。

 

 彼の目の下には相変わらずのクマが定着しており、休日にプラチナと出かけた結果、何故かケルシーの「外交的テロリズムと組織倫理の崩壊」という理不尽な拡大解釈によって一晩中書類仕事をさせられた悲哀が、その背中から滲み出ていた。

 

「ケルシー医師の苛烈さは私もよく知っている。彼女のその冷徹な論理の刃は、大抵の者の心を容易くへし折る。だが、君はそれを真正面から受け止め、なおこうして私の前で盤面に向かっている。……さすがは私の見込んだ男だ。その強靭さ、あるいは立ち直りの早さには、素直に敬意を表しよう」

 

「いや、立ち直ってるっていうか、脳の防衛本能で嫌な記憶を猿空間送りにしてるだけなんだけどね……。ハッキリ言って、あいつの説教は俺の精神を確実に削り取っていく病気だから、お前死ぬよってレベルなんスよ」

 

「そう卑下するな。彼女がそれほどまでに君へ言葉を尽くすのは、君という存在がロドスにおいて――あるいは彼女自身において、代替不可能な価値を持っているからこそだ。……もっとも、彼女の『執着』の表現方法は、少々歪で、あまりに不器用だと言わざるを得ないがな」

 

 シルバーアッシュは紅茶のカップを優雅に傾け、薄く笑みを作った。

 

 彼は卓越した政治家であり、人の心の機微と権力構造の力学を完璧に見透かす「眼」を持っている。ドクターとケルシーの間にある、単なる同僚や上司と部下という枠組みを超えた奇妙な「共依存」と「愛憎」の気配など、彼からすれば手に取るように明らかだった。

 

「とはいえ、だ。盟友」

 

 カツン、と。 シルバーアッシュの長い指がクイーンをつまみ上げ、ドクターの陣形の急所へと正確無比に突き立てた。

 

「話しているのは構わないが、ボーッとしているとチェックメイトになるぞ」

 

「なっ……なんだあっ!?」

 

 ドクターは盤面を見て目を剥いた。

 先ほどまで拮抗していると思っていた戦局が、気づけば自軍のキングが完全に包囲網に囚われている。前後左右、いかなる逃げ道もシルバーアッシュの駒の射線に入っており詰みが構築されていたのだ。

 

「う、ウソやろ、こ……こんなことが許されていいのか! さっきまで俺のナイトがいい仕事して盤面を支配してたはずなのに!」

 

「君のナイトの動きは悪くなかった。だが、局地的な勝利に目を奪われ、全体のマクロな盤面構成から意識が逸れていたな。私との対局において、その一瞬の『油断』は致命傷となる。……どうする?投了するか、盟友」

 

 余裕の笑みを浮かべる雪境の王。 だが、タフを自称するマネモブドクターがここで素直に白旗を上げるわけがない。

 

「待てよ! 物語はこれから面白くなるんだぜ!」

 

「ほう?」

 

「チェスってのはなぁ、ただ盤面の駒を動かすだけじゃない! 最後まで諦めずに盤面を凝視すれば、必ず一筋の蜘蛛の糸が見えるはずなんや!弱いってことは、もっと強くなれるってことやんッ!」

 

 ドクターは盤面に顔を近づけ、己の灰色の脳細胞をフル回転させた。

 敵の戦力、配置、行動の意図。戦場における彼の特異な解析能力が、この六十四マスの世界にのみ集中する。

 

(ルークの射線……ビショップのカバー……いや、このポーンの裏側に!ここにキングを逃がして、次のターンでルークを犠牲にすれば、クイーンの足を止めて反撃の起点を作れる……!完璧なカウンター・ルートや!)

 

「しゃあっ! これだ!」

 

 ドクターは自信満々にキングを動かし、間一髪でチェックの網をすり抜けて見せた。

 「どうだ!」とばかりに見上げるドクターに対し、シルバーアッシュは驚くどころか、むしろ深く満足そうな、猛禽類が極上の獲物を見つけたような笑みを深めた。

 

「見事だ。君のその、絶望的な状況からすら活路を見出し、盤面を逆算して最善手を組み上げる力。……何度見ても飽きない。その才覚をロドスという小さな器の、しかも書類の処理などに浪費させるのは、世界経済に対する莫大な機会損失だと思わないか?」

 

「出たよ、シルバーアッシュ特有のマクロ経済的損失の勧誘……!ケルシーも似たようなこと言って俺を休ませてくれないんだよね怖くない?」

 

「私は本心から言っているのだよ。どうだ、盟友。ケルシー医師の重圧や、終わりのないロドスの業務に疲れたのなら、いつでもイェラグへ来るといい。カランド貿易は君を最高位の待遇で迎える用意がある。我が領地ならば、君にふさわしい真の『休暇』と、君の知略を存分に振るうための広大なチェスボードを約束しよう」

 

「いやちょっと待てよ!イェラグに行ったら行ったで、絶対に三族議会の政治闘争とか、エンシアやプラマニクスとの複雑な家族トラブルに巻き込まれるに決まってるだろえーーーっ!!俺をなんだと思ってるんだ、労働環境が変わるだけで過労死の未来は変わらねーんだよ!」

 

「はははは!だが君ならば、あの雪山の凝り固まった盤面すらも、鮮やかにひっくり返してくれると私は信じているのだがね」

 

 そんなカランド貿易の長との濃密な対局と談笑を終え、ドクターはVIP用応接室を後にした。

 

 本艦の長く無機質な廊下を歩きながら、彼は小さく伸びをして強張った背中をほぐす。シルバーアッシュとのチェスは心地よい緊張感と頭脳の体操をもたらしてくれたが、同時にエネルギーもそれなりに消費していた。

 

「そろそろ昼飯かぁ……」

 

 ドクターは腹の虫が小さく鳴るのを聞きながら、ロドスの広大な食堂で提供される本日のメニューに思いを馳せた。

 ヒガシ風の定食にするか、シラクーザ仕込みのパスタにするか、それとも手軽に済ませるために購買部のホットドッグを齧るか。

 

「んー……今日の献立から最強のランチを選ぶ……それを決めるのは至難の業だ」

 

 独り言を呟きながら角を曲がろうとした、その時。

 

「あっ……」

 

 小柄な影と、危うくぶつかりそうになった。

 ドクターが反射的に足を止めると、見下ろした先には、大きめのコートを羽織った銀髪の少女が立っていた。彼女の頭にはフェリーン特有の愛らしい耳があり、その背後には巨大な装備の一部――彼女の意志で動くアーツが静かに寄り添っている。

 

 ロドス・アイランドが誇るエリートオペレーターの一人、ロスモンティスであった。

 

 彼女はドクターの顔をじっと見上げ、エメラルドに似た透明感のある瞳を数度しばたかせた。そして、自身のポケットから大事そうに取り出した小型の端末をちらりと確認し、安堵したようにふわりと微笑んだ。

 

「あなたは、ドクター……だよね? さっき、端末のメモで復習したばっかりだから……うん、思い出した。ドクター。おはよう」

 

「ロスモンティス、今日も元気そうで何よりやな!」

 

「うんっ、ドクターも元気いっぱいだね!」

 

「まぁ半分くらい空元気だからバランスは取れてないんだけどね」

 

(ロスモンティス。この子には重すぎる哀しき過去……俺のことを忘れないために、毎日メモを読み返してくれてるなんて、健気すぎて胸が締め付けられるんだよねパパ)

 

 ドクターの胸の奥に、彼女に対する強烈な庇護欲と、あの外道な研究機関に対する静かな怒りが湧き上がる。

 

(あーっ……今あの馬鹿を思いっきり殴ったら気持ちいいだろうなあ!モヤモヤがスッキリするだろうなあ!あーっ殴りてえなぁ!!)

 

『ローキャン……はいクズ確定ッ。ぶっ殺します』と、本気で悪魔王子のような思考になりかけるのを抑え込み、彼はいつもの、気さくで頼れる指揮官の顔を作った。

 

 ドクターはしゃがみ込み、彼女の目線に合わせると、その小さな頭に優しく手を置いた。

 そして、銀色の柔らかい髪を、愛情を込めてゆっくりと撫でてあげる。

 

「ふにゃ……」

 

 ロスモンティスは抵抗するどころか、ドクターの手の温もりを受け入れるように目を細め、小さく頭をすり寄せてきた。頭上のフェリーンの耳が嬉しそうにピクピクと動きく。

 

「ドクターの手、あったかい。……大きな毛布みたい。安心するの」

 

「ムフフ……それはよかった。俺の手で良ければ、いつでも撫でてやるからな。君が笑顔でいてくれるだけで、俺の心も平和が深まるんだ」

 

「うん……えへへ」

 

 無邪気に笑う少女の姿に、ドクターの心の中にある『過労』という毒素が浄化されていくのを感じた。

 (これだ……! これこそが純度100%の癒し!擦り減った俺の理性を修復してくれるのは、この無垢な天使の笑顔だけや……! まるで温泉に浸かってる気分ッて感覚!)

 

 心の中で涙を流しながら頭を撫で続けていると。 不意に、ロスモンティスがドクターの袖をちょいちょいと引っ張った。

 

「ねぇ、ドクター?」

 

「どうしたんスか? 食堂でプリンでも奢ってほしい?」

 

「ううん。あのね、ブレイズが教えてくれた、『口付け』? を、してみたいなって思って」

 

「ブレイズ……何してんねん」

 

 ドクターの口から、思わず素のツッコミが漏れた。 あの熱血チェーンソーネコ、純真無垢なこの子に一体どんな情操教育を施しているのか。

 

「口付けって、好きな人と好きな人がするって聞いたけど……そうなの?」

 

 小首を傾げ、澄んだ瞳で真っ直ぐに見つめてくるロスモンティス。 その言葉を聞いて、ドクターの脳裏に過去の記憶がよみがえった。

 以前にも彼女は、ブレイズに間違った……とまでは言わないが、極端な知識を教えられ、ドクターの『頬』にチュッと口付けをしてきたことがあったのだ。

 

(また頬に口付けをしてもらった後で、『前にも君は俺に口付けをしたことある』って教えたらどんな反応をするだろうか気になるのが俺なんだよね。照れて赤くなるのかな……想像してみろ、可愛さがエグいなんてもんじゃない)

 

 ドクターは、完全に『父親が幼い娘に親愛のキスをせがまれている』という平和的なシチュエーションとして事態を受容していた。

 

「まぁ……そうだろうな。お互いに大切に思ってる人同士が、ありがとうとか、大好きだよって伝えるための挨拶みたいなものだと考えられる」

 

「そっか……。じゃあ、ドクターは私の事、好き?それとも……嫌い?」

 

 不安そうに上目遣いになる彼女に、ドクターは破顔して即答した。

 

「ロスモンティスの事を嫌いになるかぁ! むしろ嫌いになる方が至難の業だ! 俺は君のことが大好きだし、君の家族みたいなもんだと思ってるからな」

 

「本当? えへへ、嬉しい……」

 

 ロスモンティスは安堵したように微笑むと、背伸びをするように少し踵を浮かせた。

 

「そっか。ドクター、ちょっと屈んで? ちゅーしていい? いつもよくしてくれて……ありがとう」

 

「おう、いいぞ! ほら、ほっぺた貸してやるよ」

 

 ドクターは何の疑いもなく、マスクの顎部分を少しずらし、顔を横に向けて頬を差し出した。

 

 子供からの無邪気な感謝のキス。それは、徹夜明けの残業よりも、長命者の理不尽な説教よりも、はるかに彼の心を救う特効薬になるはずだった。

 

 ロスモンティスの小さな手が、ドクターの胸ぐらをきゅっと掴んだ。 そして彼女は、差し出された頬には何故か向かわず。

 

 ドクターが「えっ?」と顔を正面に戻したその瞬間――。

 

「んっ……」

 

 極めて正確な軌道計算によって。 彼女の小さな、そして柔らかく温かい桜色の唇が、ドクターの唇へ、真正面からダイレクトに重なったのである。

 

「……えっ」

 

 時間が、止まった。

 

 頬に触れると思っていた感覚が、唇という最も無防備で生々しい粘膜への接触へとすり替わった瞬間。ドクターの脳内の中枢神経は、完全に理解不能なエラーコードを吐き出してフリーズした。

 

(な……なにっ!? く、唇!? なんで唇!?頬へのスキンシップっていうファミリー向けのルートから、いきなりダイレクトアタックに切り替わったんや!!?)

 

 ロスモンティスは数秒間、ぎゅっと目を閉じてドクターの唇に自身のそれを押し当てていたが、やがて「ふふっ♪」と満足そうに離れた。

 

「ドクターのくちびる、あたたかかった……。えへへ、これでもっと、ドクターのこと忘れなくなるかな?」

 

 純度100%。一切の邪念も、打算もない、ただ純粋な『好き』という感情の発露。 だが、やられた側のドクターの心中は、大パニックの大嵐が吹き荒れていた。

 

(ウ、ウソやろ、こ……こんなことが許されていいのか!?いや、俺は嬉しいとかそういう以前に、ロドスにおける保護対象の未成年とディープなスキンシップを図ってしまったという、倫理的かつ法的な大問題が発生してるんスけど!?もしこれをアーミヤや……何より、あのケルシーに見られでもしたら……!!)

 

『……ドクター。君はついに、大脳皮質の退行だけでなく、ホモ・サピエンスとしての倫理的・社会的リミッターすら完全に破壊し、幼弱な個体に対する深刻な性犯罪者へと成り下がったか。Mon3tr、彼の頭部と胴体を永久に分離させろ』

 

 脳内で再生されるケルシーの氷点下の処刑宣告に、ドクターは滝のような冷や汗を吹き出した。

 

「ロ、ロスモンティス!? いや、あのな!今のはちょっと、家族の挨拶としてはレベルが高すぎるというか、その……唇は、大人になってから本当に結婚する相手とだけするもんだって、ブレイズに教わらなかったのか!?」

 

「え? ううん。ブレイズはね、『本当に本当に大好きな人になら、口と口でするのが一番気持ちが伝わるんだよっ! アハハ!』って言ってたよ?」

 

「あのクソボケがーーーーーーーーーーっ!!!」

 

 ドクターの心の中で、熱血チェーンソー娘に対する強烈な殺意が爆発した。純真な子どもになんてことを吹き込んでいるのだ。

 

「ど、どないする?まぁ、誰にも見られていないええやろ……」

 

 ドクターが必死に自分に言い聞かせ、記憶を猿空間送りにして隠蔽を図ろうとした、まさにその時である。

 

「あ、二人共、奇遇じゃん!これからお昼……って」

 

 通路の奥から、豪快な足音と共に現れたのは――問題の元凶たるエリートオペレーター、ブレイズであった。

 

 彼女は片手に大きなサンドイッチの包みを持ちながら、満面の笑みでこちらへ手を振っていたが……ドクターのマスクがずれ、ロスモンティスが頬を赤くしてドクターの胸元に密着しているその『事後』の構図を目撃した瞬間。

 

 ブレイズの笑顔が、ピシリ、と固まった。

 

「……………………えっ?」

 

「ち、違うんスよ! これは不可抗力というか、ブレイズが吹き込んだ情操教育が引き起こした事故であって、俺から手を出したわけでは……!!」

 

 ドクターが言い訳を叫ぶよりも早く。 ブレイズが持っていたサンドイッチの包みが、ポトリ、と床に落ちた。

ブレイズの髪の毛が、文字通りアーツの熱量によってフワリと逆立ち始める。彼女の周囲の空気が、急激な温度上昇によって陽炎のように揺らぎだした。

 

「ロスモンティスに何、手ぇ出してんのさァァァァァァァァッ!!??」

 

「だから俺じゃねぇぇぇぇぇぇぇぇっ!! 全ての原因はお前だろうがよえーーーーーっ!!!」

 

 

 

* * *

 

「はぁ……マジで疲れた……誤解解くのに苦労したのが俺なんだよね。昼飯もまともに食えんかったワシに悲しき過去……。午後からの予定なんだったっスかね……」

 

 昼食後、艦内のメイン通路を歩いていると、前方のラウンジスペースで、黒いコートに身を包んだ白髪の女性が静かに窓の外を眺めているのを見つけた。

 

 周囲の空気がそこだけ微かに冷涼であり、それでいて静謐な落ち着きを放っている、とある少女がいた。

 

「おおっ、そこで何してるんや?」

 

 ドクターが気さくに声をかけると、彼女はゆっくりと振り返り、どこか呆れたような、それでいて柔らかな視線を彼に向けた。

 

「……別に何も。ただ、雪が降らないこの景色にも、少しずつ目が慣れてきただけだ」

 

「ふぅん、お前もロドスに慣れたって事やん」

 

「……あれから月日も経ってるからな」

 

「エレーナ……見事やな」

 

「本名で呼ぶな」

 

───そう。彼女はかつてレユニオン・ムーブメントの幹部「フロストノヴァ」としてロドスの前に立ち塞がり、そして今では紆余曲折を経てロドスに身を寄せているコータスの女性──フロストノヴァだ。

 

 フロストノヴァ改め、エレーナは軽く睨むように言ったが、その声に殺意や敵意は微塵も含まれていなかった。

 

かつて触れる者すべてを凍りつかせた彼女の極低温のアーツは、ロドスの医療と彼女自身の精神的な落ち着きによって制御され、今ではこうして普通に言葉を交わすことができるまでになっていた。

 

「……言われてみれば、エレーナがロドスに来てから結構経ったっスね。あの日が懐かしいを超えた懐かしい」

 

 ドクターの言葉に、エレーナの瞳が微かに細められた。その奥に、龍門の地下深くでの、あの凄絶な死闘の記憶がフラッシュバックする。

 

「……あの時のこと、まだ許してないからな。他に方法があっただろう」

 

 彼女は唇を尖らせ、恨みがましくドクターを睨みつけた。

 

「いや聞いて欲しいんだ。俺だって本当は、あんな事したくなくてね……けど他に方法が思いつかなかったんスよ!」

 

 ドクターは苦笑いしながら頭を掻いた。

 

 彼ら二人の脳裏に、あの日――龍門の地下深くで繰り広げられた、彼女の命を懸けた、そしてマネモブドクターの「奇策」によって全てが覆されたあの瞬間があったのだ。

 

 

 

 

        

    △ ▼ △ ▼

 

 

 

 ───絶望的な冷気が空間を支配していた。

 

 配下であるスノーデビル小隊を全て失い、自身の命を燃やし尽くす覚悟を決めたレユニオンのアーツ部隊幹部、フロストノヴァ。

 

 彼女の身体からは限界を超えたアーツが暴走し、周囲の気温は絶対零度へと近づいていた。触れるものすべてを氷結させ、死の淵へと誘う白い悪魔。彼女の体表には黒い源石の結晶が痛ましく隆起し、命のカウントダウンが始まっているのは誰の目にも明らかだった。

 

「今すぐこんな事はやめよう、白ウサギ。このままだと君自身が自分の力に殺されちゃうよ!」

 

 熱気を纏うエリートオペレーター、ブレイズの叫びが、凍てつく空気を切り裂いた。彼女のチェーンソーから噴き出す業火すらも、フロストノヴァが放つ絶対零度のアーツの前に、押し返されそうになっていた。

 

 彼女は既に、限界を超えていた。重度の鉱石病に蝕まれた肉体は、自らの放つ冷気によって内側から破壊されつつある。肌は青白く透き通り、吐く息は白い霧となって虚空に溶けていく。

 

「……戦う理由ならある」

 

 フロストノヴァの声は静かだった。だが、その言葉には、数万の軍勢にも劣らぬ凄絶な覚悟が宿っていた。

 

「確かに、私は指揮官として敗北した。兄弟姉妹を死なせ、守るべきものを守れなかった。……だが、戦士として一度も敗れていない」

 

 彼女の周囲に氷の結晶が舞い上がり、凄まじい吹雪となってロドスの面々――アーミヤ、ブレイズ、グレースロート、そしてドクターに襲いかかる。

 

「マジでやる気なんスか……?というかさっき喉乾いて水をこぼしたらワシの左手のグローブが一瞬で凍って馬鹿みたいにカチコチに凍ってるけど……いいんスかこれ」

 

 後方から戦局を見極めていたドクターの額から、冷や汗が流れた。

 フロストノヴァの瞳には、生への執着が一切ない。あるのは、己の命を完全に燃やし尽くし─いや、凍り尽くし、立ちはだかる敵を全力で屠ることでしか証明できない、戦士としての凄惨な矜持だけだ。

 

彼女の放つプレッシャーは、これまでに相対したどの敵よりも重く、悲しい。

 

「ドクターも退避してください」

 

「アーミヤの頼みでも、了承しないのが俺なんだよね」

 

 ドクターは一歩も引かなかった。ここで自分が退けば、彼女は確実に死ぬ。

 

「……ロドスのドクター。お前がその選択をしても、彼らに何ももたらさない。何故そんな事をする」

 

 フロストノヴァの冷たい声が響く。彼女は理解できなかった。なぜ、敵である自分に対して、この指揮官はこれほどまでに執着するのか。

 

「フロストノヴァはロドスに来るべきだと思われるが……気持ちは変わってないのが俺なんだ! それに、俺はオペレーター達と共に戦うんだ、絆が深まるんだ!」

 

 ドクターの叫びに対し、フロストノヴァは静かに目を伏せた。そして、彼女の圧倒的なアーツが解放される。

 

 アーミヤに嵌められていたアーツ抑制用の指輪が、フロストノヴァの冷気によって完全に凍りつきた。

 

「私の指輪が……!」

 

「おいおい、まだ会話の途中でしょうが!」

 

「戦いはお前達がこのエリアから立ち入った瞬間から始まっている」

 

「あうっ……い、いきなり始まるのかあっ」

 

 フロストノヴァの宣告。それは、一切の手加減なしにロドスを殲滅するという意志の表れだった。彼女の周囲の地面が凍りつき、氷の棘が槍のように迫り出してくる。

 

 黒いアーツの奔流と、絶対零度の吹雪が交錯する地獄の戦場。

 

「ドクター……どうしますか?」

 

「……アーミヤ、ブレイズ、グレースロート、そして俺だ。ルールはなんでもいい。フロストノヴァを無力化するぞ」

 

「でもどうやって?こっちも本気でやらないと、逆にこっちが殺されるよ」

 

 ブレイズの言う通り、指揮官としての最適解は、集中砲火で速やかにフロストノヴァの息の根を止めること。彼女の肉体は限界であり、持久戦になれば自壊するのは明白だ。

 

 (このまま戦ってもお互い消費するだけなんだよね酷くない? それに俺たちもヤバいけど、長期戦になると決着までにフロストノヴァ自身が持たない……)

 

 ドクターの灰色の脳細胞が、フル回転でスパークした。

 

 (本当に俺たちも被害を最小限に抑えて、初手でフロストノヴァを無力化出来る方法は無いのか!? 考えれば戦う必要が無い方法があるんじゃないのか!?)

 

 マネモブドクターの脳細胞が、極限状態の中でフル回転を開始した。

 

 ブレイズの熱アーツを全開にしてぶつけても、恐らくあまり効果が無いだろう。グレースロートの矢では、決定的な隙を作れない。アーミヤのアーツは、指輪が凍りついたことで使えば使うほど彼女自身を消耗させる。

 

 配られたカードのみで打開策を思案する。この場を穏便に切り抜け、三人が五体満足のままフロストノヴァを止める。それには短期決戦しかない。何より、彼女の命を救う最善にして最高な一手を───。

 

「……せや!あれや!」

 

 そして、マネモブらしい一つの可能性――セオリーも誇りもクソもない、盤面を物理でひっくり返す『盤外戦術』が脳裏に閃いた。

 

「ド、ドクター!? 危険です、下がってください!」

 

 突然、何を思ったのか。

 

フロストノヴァに歩み寄り始めたドクター。思わずアーミヤが叫ぶが、彼は意に介さない。 フロストノヴァは眉をひそめ、凍てつく杖の切っ先をドクターの喉元へと向けた。

 

「……何の真似だ、命を捨てに来たのか?」

 

「いやちょっと待てよフロストノヴァ。あの……自分、正々堂々戦いたいんスよ」

 

 ドクターは、張り詰めた戦場の空気を読まない、間の抜けた声で唐突に口を開いた。

 

「……なに?」

 

 フロストノヴァが怪訝そうに眉をひそめる。アーミヤやブレイズでさえ、「ドクター、何を言ってるの!?」と驚きを隠せなかった。

 

 当然だ。生死を賭けた決闘の最中に、しかも相手は触れるだけで凍傷を引き起こすほどの極低温の塊なのだ。「握手」など、頭のイカれた戯言にしか聞こえない。

 

「いや、俺たちは敵同士だけど、お互いに戦士としての敬意を持ってるじゃないスか。だから、せめて戦いを始める前に、握手してもらってもいいッスか? ほら、ボクシングとかでもグローブ合わせるみたいな。俺も手袋してるから、君の冷気で凍傷になるのは気にしなくていいッスよ」

 

 そしてドクターは、何の警戒もせずにスタスタとフロストノヴァの絶対零度の領域へと歩み寄り、彼女に右手を差し出したのだ。

 

「……はぁ?」

 

 死を覚悟し、悲壮な決意で全身全霊のアーツを練り上げていたフロストノヴァにとって、このドクターの行動はあまりにも予想外であり、文字通りの『想定外』だった。

 

 彼が丸腰であり、アーツの気配も殺気も全く発していない。ただの非戦闘員が、自殺行為に等しい距離まで近づいてきて、平和的に手を差し出している。

 

 この男は、本気で自分と正々堂々向き合うつもりなのか。感染者への迫害と憎悪に満ちたこの大地で、これほどまでに真っ直ぐな目で自分を見る者がいるのか。

 

「……お前は、バカなのか?本当に狂っているな」

 

 フロストノヴァは呆れたように嘆息した。だが、彼女の心根にある「高潔な戦士」としての誇り、そしてドクターという不可解な男に対する奇妙な信頼が、彼女にアーツの出力をほんの一瞬だけ緩めさせた。

 

「お前という男は最後まで訳が分からない……」

 

 フロストノヴァはため息をつき、杖を持たない左手をゆっくりと差し出した。

 

「……分かった。これが、私とお前の最後の――」

 

 彼女は、ドクターの奇行に付き合うように、ゆっくりと右手を伸ばした。

 

 そして、二人の手が触れ合った瞬間。

 

「あざーす!」

 

 ドクターは彼女の冷たい手を、右手でしっかりと

ガシッ!と握りしめた。右手同士で力強く握手し、彼女が避けられないようにし───。

 

「……えっ?」

 

 フロストノヴァが状況を理解するよりも早く。ドクターの瞳に、マネモブ特有の『人殺しの目』が宿った。

 

「───しゃあァァッッッ!!!」

 

 ──恐らく、テラの歴史上誰も想像し得なかった展開であろう。

 

 『握手をした状態』で相手の逃げ場を完全に封じ、ドクターは腰の入った完璧なフォームから、氷の結晶と化した左拳をフロストノヴァの顔面──正確には顎の先端、脳を揺らすための急所へ向けて、思い切り叩き込んだのである。

 

「ぐぁ……ッ!?」

 

 フロストノヴァの華奢な身体が、物理的な衝撃によって大きく跳ね上がった。握手を交わしたその刹那、ドクターは腰の回転をフルに使った渾身の右ストレートを、フロストノヴァの顎先めがけて全力で叩き込んだ。

 

 戦士の誇り? 決闘の礼儀?

 

 ──そんなものはヤクザはルール無用だろ!!

 

 ドクターの貧弱なステータスによる素手の一撃。本来であれば、強靭なアーツ防壁を持つ彼女を気絶させるほどの威力はない。『失神KO!』とまではいかなかった。

 

 だが、完全に油断しきっていた状態での不意打ち。

 

しかも握手で体制を崩された上での顎へのクリーンヒットは、重度の鉱石病で限界を迎えていた彼女の三半規管を激しく揺さぶり、アーツの制御を完全に乱すには十分すぎる一撃だった。それに氷で凍てついた拳によるパンチである。無駄に攻撃力が上がっていた。

 

「……っ!?」

 

「効いてる……効いてるぞぉ!」

 

 フロストノヴァの足がもつれ、よろめきながら地面に膝をつく。偶然にも当たり所が良かったようで、フロストノヴァの意識が一瞬飛び、展開されていた黒い氷晶のアーツが、パリンという音と共に砕け散り、周囲の絶対零度の結界が解除された。

 

 ───この好機、逃すはずがない。

 

「ゴングを鳴らせッ!決戦開始だッ!フロストノヴァにブレイズを放てっ!!」

 

「マジで最高だねドクター!! ナイスッ!!」

 

 ブレイズが爆発的な熱量を纏いながら一気に間合いを詰めた。

 

 さらにドクターの意図を瞬時に理解したグレースロートとアーミヤ達が、アーツの再詠唱を許さぬように一斉に追撃を仕掛ける。

 

 ───ドクターが命懸けで作ったこの『千載一遇の隙』を逃すはずがない。

 

「グレースロート、援護を!」

 

「了解!」

 

「多勢に無勢だ行っけぇ!!」

 

 グレースロートのクロスボウから放たれた連射が、フロストノヴァが咄嗟に張ろうとした氷の盾の残骸を正確に砕き散らす。

 

「ぐっ……よく、も……!」

 

 フロストノヴァは朦朧とする意識の中で、必死にアーツを再起動させようとした。

 

「まだ終わってッ……!」

 

「──でも勝ってしまう!」

 

 ドクターが追い打ちをかけるように叫んだ。

 

「なんで……こんな事を……!」

 

「お前の気持ちより、ワシの気持ちが大事なんじゃあ!!」

 

 ドクターの理不尽極まりない、しかし何よりも『お前を死なせたくない』という強烈なエゴイズムの塊のような叫び。

 

「フロストノヴァさん、ごめんなさい……!!」

 

 アーミヤが全力で放った精神干渉のアーツが、フロストノヴァの意識を直接刈り取りにかかる

 

 物理的衝撃と精神攻撃を同時に叩き込まれたフロストノヴァの身体から、急速に力が抜けていく。

 

 崩れ落ちる彼女の視界の中で、息を切らし、右手を痛そうに押さえながら仁王立ちするドクターの姿が映っていた。

 

「……卑怯、だぞ……」

 

 消え入りそうな声で、怨嗟の言葉を絞り出すエレーナ。  そんな彼女の顔面を、ドクターはしゃがみ込み、真正面から見据えて言い放った。

 

「テラはルール無用だろっ!!」

 

 限界を迎えていたフロストノヴァの意識は、そこで完全に刈り取られた。

 彼女の身体が糸の切れた人形のように崩れ落ちるのを、アーミヤとドクターが慌てて抱き止めた。

 

「ふぅ……。なんとか、気絶させられましたね……」

 

「アーミヤ、大丈夫っスか?凍傷とかになってないっスか?」

 

「はい。ドクターのお陰で最低限で抑えられたので何とか無事です……それにしてもドクター、あれはちょっと酷いと思いますけど……」

 

「まぁいいじゃん!めちゃくちゃズルいし、外道だったけど……でも、おかげで白ウサギを死なせずに済んだし。ドクターって本当に最高の指揮官だね!」

 

 ブレイズが苦笑いしながら、チェーンソーの電源を切った。

 

「ククク……"愛"ってのは痛みを伴うものなんだ。俺がぶん殴る作戦なんて最高に刺激的でファンタスティックだろ」

 

 ドクターは感覚の無くなった右手を振りながら、意識を失ったフロストノヴァを抱き上げた。

 

「その代わり、手がしもやけになってジンジンするしケルシーにまた小言言われそうでリラックス出来ませんね……まぁ人命には変えられないからバランスは取れてるんだけどね」

 

 こうして、誇り高き戦士の悲劇の死闘は、マネモブ特有の『ルール無用だろ』精神によって、命を救うという最大の勝利へと強引に書き換えられたのであった。

 

 

         

    * * *

 

 

 

 静かな電子音だけが規則正しく響く、無機質な白い部屋。

 暖かな毛布と、何重にも施された医療用のアーツ抑制装置の中で、少女はゆっくりと重い目蓋を開けた。

 

「……ここは」

 

 視界に入ってきたのは、見慣れた凍原の空でも、龍門の地下の瓦礫でもない。清潔な医療室の天井だった。

 

「おっ、目が覚めたんスか」

 

 ベッドの傍らで、コーヒーの入ったマグカップを片手にパイプ椅子に腰掛けている男――ドクターが、呑気な声を上げた。

 

「お前……っ!」

 

 フロストノヴァは即座に跳ね起きようとしたが、身体が鉛のように重く、指先一つ満足に動かせなかった。体内を駆け巡る狂気的なまでの冷気が、何らかの強固な処置によって抑え込まれているのが分かる。

 

「約束通り、戦って打ち負かしたんだァ。ロドスに入って貰おうかァ」

 

「ふざけるな……! 外道!決闘の礼儀をなんだと……!」

 

「そんなん知らんよ。フロストノヴァは油断してたから負けたんやろ。敗北は自己責任やろ。それに戦場にルールなんて無いんだ、悔しいだろうが仕方ないんだ」

 

 ドクターがヘラヘラと笑いながら言うと、フロストノヴァは怒りに唇を噛んだが、ふと自分の両手に違和感を覚えた。

 

「指輪……?」

 

 フロストノヴァの両手の指に、一つずつ、見慣れない指輪が嵌められている事に気がつく。紺碧に光るそれは、どこかアーミヤがしていた指輪と同種の物のような……いや、より強固な術式が刻まれているように見えた。

 

「あぁ、フロストノヴァ、それあげる。ケルシーに君用に調整してもらった『アーツ抑制と生命維持・体温低下防止用』の指輪だから、急にアーツが暴走して君自身を殺すこともないし、周りが凍ることもないから危なくないよ」

 

「ケルシー……?」

 

 その時。

 医療室の自動ドアが開き、冷ややかな空気を纏った白衣の女性が入ってきた。

 

「……目が覚めたようだな、フロストノヴァ」

 

「お前は……」

 

 ケルシーはベッドの足元に立ち、手元のカルテ用のタブレットに視線を落としたまま、氷のようなアルトボイスで紡ぎ始めた。

 

「ドクター。君がこの少女に対して行った処置についてだが。まず、『まっ急ぎの間に合わせの品だから、後で違う物を使ってもらう事になるからバランスは取れてないんだけどね』などという無責任な発言で、私が徹夜で構築した生命維持用のアーツ抑制リングの価値を矮小化するのはやめてもらおう。これはアーミヤの魔王の因子を抑制する技術を応用し、彼女の体内で暴走する極低温のアーツ・エネルギーを強制的に封じ込め、自身の細胞のアポトーシスを遅延させるための、テラの現代医療における最高水準の結晶だ。間に合わせなどではない」

 

「あざーっス! 流石はケルシー先生……見事やな……」

 

「……私が君の愚行を事後承認する羽目になったのは、君が『戦場で敵将に対して握手を求め、不意打ちで顎を殴り物理的に気絶させて生け捕りにする』という、戦術論理を根本から破壊するチンピラ以下の暴挙に出たからに他ならない」

 

 ケルシーの目が、ドクターを射殺さんばかりの鋭さで睨みつけた。

 

「そもそも、彼女の肉体は過剰なアーツ行使により、限界のその先にあった。通常であれば、あの地下区画で完全に命を燃やし尽くして絶命していたはずだ。だが、君がアーツを最大出力で放つ寸前に物理的ショックを与えて意識を強制シャットダウンさせたことで、皮肉にも彼女の体内における源石の連鎖的結晶化が寸前で停止した。……私が医療チームを率いて駆けつけた時、彼女の脈拍は一分間に十三回まで低下していたのだぞ。そこから血中の源石密度を安定させ、この抑制リングの術式を定着させるまでに、どれほどのリソースと時間を浪費したと思っている」

 

「でも助けてしまう……俺の天才的な作戦のおかげで、エレーナは死なずに済んだ。結果オーライやんケ!」

 

「君のその結果論至上主義が、いずれロドスを破滅させる致命的なエラーであると何度言えば理解できる……」

 

 ため息をつきながら、ケルシーはフロストノヴァに向き直った。

 

「……というわけだ。君はドクターの卑劣な不意打ちにより、戦士としての死を奪われた。そして今、私の施した処置により、君の体内にある死のタイマーは一時的にだが完全に停止している。君が自分の意思で死のうとアーツを練ろうが、その指輪が君の出力を完全に押さえ込み、自死すら許さない構造になっている」

 

「私から死すら奪うというのか。ロドスは」

 

「元気だして……その辛さ、分かるぜケンゴ」

 

「誰の話だ」

 

 ドクターは少しだけ真面目な顔になり、彼女の瞳を真っ直ぐに見据えた。

 

「……フロストノヴァ。お前は確かに兄弟姉妹も失った。でもな、生きている限り、お前が彼らのために背負った『感染者の明日を作る』っていう理想は終わってないと思うんスよ。お前が死んで全部終わりにしようとするのは、彼らの死を無駄にするのと同じや」

 

「……っ」

 

「フロストノヴァ……お前の力を貸してくれ、俺がお前を必要としているんや。まっ、もし断っても約束通り入るまで毎日口説くけどなブへへヘ」

 

 彼女は唇を噛み締め、ドクターの顔を、そしてケルシーの冷徹な顔を交互に見つめた。

 

 彼女にはもう、抵抗する力も、自ら命を絶つ力も残されていなかった。残されたのは、不格好に生き延びてしまったこの身体と、ドクターから突きつけられた新しい戦いの意味だけだった。

 

「……バカ」

 

「ククク……酷い言われようだな。事実だから仕方ないけど」 

 

 

 

△ ▼ △ ▼

 

 

 

「あの時は本当に、お前を生かすためには手段を選んでる暇がなかったんスよ。怒らないでくださいね、結果的に俺たち絆が深まったじゃないですか!」

 

 ドクターが鼻高々に当時を振り返ると、エレーナは呆れたような、しかしどこか諦観の混じったため息を吐いた。

 

「あの不意打ちの痛さより、その後のケルシーの何時間にも及ぶ『私の身体の構造と生存義務についての長文説教』の方が、よっぽど精神を破壊しそうだった」

 

「ケルシーの説教は拷問よりもキツイからね……。でもまぁ、今こうしてエレーナがロドスで、スノーデビル小隊の想いを背負いながら俺たちと一緒に戦ってくれてる。……俺は、あの時の俺の選択を間違ってなかったと思ってるっスよ」

 

 エレーナは風に揺れる白銀の髪を押さえながら、ドクターの顔を横目で見た。

 

 かつての冷徹な『雪の女王』の面影はありながらも、その表情には、ほんの僅かながら、人間らしい温もりが戻りつつある。指にはめられたケルシー特製のリングが、彼女の命を確かに繋ぎ止めていた。

 

「心が苦しくて悲しくて暴れたいとか泣きたいとか、そんなん思たらいつでもワシにぶつけてくれ。この心でなんぼでも受け止めたる。ワシめっちゃタフやし」

 

「……調子に乗るな、ドクター。私はまだ、お前のそのふざけた言葉遣いも、戦場での無軌道な作戦も、完全に認めたわけじゃない。ただ……」

 

「ただ?」

 

「兄弟姉妹たちの見ていた夢を、お前たちがどう叶えるのか。それを一番近くで見届ける義務が、生き残ってしまった私にはある。……それだけだ」

 

「おめでとう!お前は立派な“ロドスの一員”になった…“感染者の救済”を目的とするロドスを支えるに値するオペレーターになった……これからもよろしく頼むっス、エレーナ!」

 

 ドクターが笑いながら右手を差し出す。

 

 エレーナは一瞬、かつての龍門の地下での光景を思い出し、胡乱な目を向けた。

 

「また殴る気じゃないだろうな?」

 

「いやいや!ただ純粋な親愛の握手なんだよね酷くない?」

 

 エレーナは小さく鼻を鳴らすと、手袋越しに、ドクターの手を軽く握り返した。

 

「──それで、ドクター。既に休憩時間を過ぎておいて、随分呑気な過去の回想に花を咲かせているようだな」

 

 そして、背後から、氷結のチャイムが鳴り響いた。

 

 振り返らなくともわかる。白衣を纏い、クリップボードを手にしたケルシーが、いつの間にかデッキの入り口に立っていたのだ。

 

「ヒッ……ケ、ケルシー先生!」

 

「エレーナ、君の定期検診の時間が十分超過している。彼女の病理進行の遅延は、ミリ秒単位でのモニタリングと抑制リングのアライメント調整が不可欠であると、私が君に説明したはずだが。それとも君の脳は、過去の武勇伝を語るために現在の時間管理プロトコルを犠牲にしても良いという、新たなエラー回路を構築したのか?」

 

「いやちょっと待てよ! これはエレーナの精神的ケアの一環としてのコミュニケーションと言ったんですよ、ケルシー先生!」

 

「精神的ケア? 君のその薄っぺらいタフ語録とやらが、彼女の心理的ホメオスタシスに寄与しているという客観的エビデンスを今すぐここに提出してみせろ。できぬのであれば、君のその不要な干渉行動は、医療業務に対する重大な妨害行為として断定する。……Mon3tr、ドクターを医務室の拘束椅子へ運べ。本日の彼の残業タスクに『ロドスにおける感染者ケアの倫理基準』についてのレポート三万字を追加する」

 

「ウワァァァァァッ!! こ、こんなことが許されていいのか!?え、エレーナ、助けてくれぇっ!」

 

 Mon3trの巨大な腕に首根っこを掴まれ、ズルズルと引きずられていくドクター。

 

 エレーナはそんな彼の無様な姿を見送りながら、小さく、本当に小さく、冷たい風の中でくすりと笑みを零した。

 

「……ありがとう、ドクター」

 

「いやちょっと待てよ!?笑顔は可愛いけどなんでそこで礼を言うのか教えてくれよ!ア"イ"ダタタタッ!!痛いッス!!も、モンちゃん!せ、せめて、もう少しワシを優しく扱って──!」

 

 彼を見送る彼女のその顔は、凍てつく大地にようやく咲いた、一輪の白い花のようであった。

 

 

 

 




ふ、フロストノヴァが死んでしまうなんて……こ、こんなの納得出来ない

そう思ってマネドクがどうするか試しに想像してみたんだけど、あのタフのシーン思い出してフロストノヴァを助ける為でやるかやらないかの二択なら、めっちゃやりそうんだよね怖くない?

やっぱ怖いっスね タフは
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