マネモブドクターがケルシーに「ヤらせろ」と言ったら説教で夜が明けたんスけど……いいんスかこれ 作:異常長文構築者
短編というより連載になってる気がするのが俺なんだよね
有難いんだけど逆になんか怖くなってきたんだよね凄くない?
どないする?まぁ需要があるか分からんけど投稿してええやろ
テラの大地において、気候変動や天災は日常茶飯事である。移動都市はその過酷な環境を避けるために設計されているが、時として大自然の暴力――とりわけ『季節』という名の逃れられない熱波の前に、いかなる最新技術も屈伏することがある。
普段ならば、各種コンソールの冷却ファンが低く唸りを上げ、最適な室温と湿度が保たれているはずのこの部屋は現在、文字通りの『灼熱地獄』と化していた。
「暑い……暑過ぎる……極寒のサーミより遥かに過酷なんだが……」
執務机の横のソファにぐったりと身を投げ出しているのは、本日の秘書当番を務めているサルカズの少女、ティフォンであった。
普段は極寒の地サーミにおいて、雪原と氷に閉ざされた環境で巨大な弓を引き絞り、悪魔の穢れを狩るハンターとして活動している彼女にとって、この異常な室温は拷問に等しい。分厚いコートや毛皮の襟巻きこそ脱ぎ捨てているものの、彼女の白い肌にはじっとりと汗が浮かび、長い尻尾は床に力なく投げ出されている。
「実は最近、ロドスの空調システムの調子が悪いらしいんだよね……酷くない? 週末までにはエンジニア部に見てもらう予定なんスけどね……」
デスクに突っ伏しているドクターもまた、顔を覆うマスクを限界までずらし、汗だくになりながら虚ろな目で天井のファンを睨みつけていた。
連日の作戦立案による疲労に加え、この室温三十五度、湿度七十パーセントを超える熱帯雨林のごとき劣悪な環境。大脳皮質の冷却が全く追いつかず、灰色の脳細胞は完全に茹で上がっていた。
「週末まで……だと?」
ティフォンが恨みがましい目でドクターを睨みつける。
「この環境では逆に週末までこのままだと、熱中症か脱水症状で確実に倒れるぞドクター……お前が倒れたら、誰がこのロドスを……ん?」
ティフォンが言葉を切った。
彼女の鋭いハンターとしての感覚が、部屋の入り口の向こう側から、異常な『何か』が近づいてくるのを感知したのだ。
「……どうしたんスか、ティフォン。急に黙り込んで……」
「ドクター……急に空気が熱くなってきていないか? いや、比喩ではない。物理的に、部屋の温度がさらに上昇している……」
「余計暑くなってきた原因って……ま、まさか……」
ドクターの背筋に、暑さとは別の嫌な汗が流れた。
テラにおける自然法則を超越した熱源。ロドスにおいて『歩く熱波』『異常な熱量操作』と言えば、心当たりが多すぎる。
――プシュッ!
メインコントロール室の気密扉が、乱暴な勢いでスライドして開いた。
同時に、むわぁっ!というサウナのロウリュ直後のような、暴力的な熱風が室内に雪崩れ込んでくる。
「――ただいまーっ! ドクター、今日の六時間みっちりトレーニング、無事に終わったよーっ!!」
そこに立っていたのは、ロドスのエリートオペレーターにして、最強の強襲者であるフェリーンの女性――ブレイズだった。
彼女はトレーニング直後ということで、タンクトップ一枚にショートパンツという極めて露出度の高いラフな格好だった。しかし問題はそこではない。彼女の身体全体から、まるで陽炎のように揺らめく『尋常ではない熱気』が放たれていたのだ。
ブレイズのアーツは『指定範囲内の気体を急速に加熱する』というものである。激しいトレーニングで興奮状態にある彼女の体温と周囲の空気は、無意識のうちに加熱され、彼女自身が巨大な暖房器具と化しているのである。
「うわあああああああッ!? ブ、ブレイズ! お前、その身体から出てる熱気は……!」
「あははっ! ちょっと気合い入れすぎて、アーツの余熱が残っちゃってるみたい! でも最高に仕上がってるよ! ほーら、ドクターもこの熱気を感じてよ! うりゃーっ!」
「いやちょっと待てよ! 来るな! 寄るなァァァッ!!」
ドクターの制止も虚しく、ハイテンションのブレイズは満面の笑みで駆け寄ると、汗だくのままドクターに真正面からガバッと抱きついてきた。
「むぎゅーっ! ドクター、今日もお仕事お疲れ様! 私の情熱と体温を分けてあげる!」
「クソ暑い中その技はやめろッーーー!! 離れんかいっ、この人間ストーブ!!」
ドクターの悲鳴が執務室に響き渡った。
ブレイズの豊かな胸部と柔らかな太ももが密着する感触は、普段ならば鼻の下を伸ばして喜ぶべきシチュエーションである。しかし今は違う。気温三十五度の密室で、表面温度五十度近い体感でアーツの余熱を纏ったフェリーンに全身をホールドされるのだ。
──それはラブコメではなく、ただの純然たる『熱殺刑』である。
「あっちぃぃぃ! 火傷するというより空気が肺を焦がしてるという感覚ッ! 離れろブレイズ、俺の血液中の水分が蒸発して干物になっちまう!!」
「えーっ? 私からのスキンシップだよ? 遠慮しないで受け取ってってば! あれっ? ドクター、なんか部屋暑くない? 空調壊れてるの?」
「クソボケがーーーーッ!! お前が来た瞬間から室温が五度は上がったんだよえーーーっ!?」
ドクターが必死にブレイズを引き剥がそうとジタバタしていると。 さらなる絶望が、開いたままの扉の向こうからやってきた。
「――よっ、ドクター! 久しぶりにバーベキューやろーぜ! お前、肉な!!」
ドスドスという足音と共に現れたのは、巨大な火炎放射器を引きずったサルカズの少女――イフリータだった。
彼女の周囲もまた、源石アーツの暴走気味な熱気によって常に高温に保たれている。さらに彼女は「バーベキュー」という単語に引っ張られ、何故かご丁寧に火炎放射器のパイロットランプをチロチロと燃やしたまま入室してきたのだ。
「イ、イフリータ!? お前までなんでこんなクソ暑い日に……!?」
「おおっ、なんだよこのクソ暑い部屋! オイ、オレサマの火炎放射器の熱とどっちが暑いか勝負しようぜ! 大地よ、滾れッ!!」
「その技はやめろーーーッ!! ただでさえ酸欠気味なのに、一酸化炭素中毒で俺たちが猿空間送りになる!!」
ブレイズに抱きつかれたまま絶叫するドクター。だが、テラの神々は彼に更なる試練を与えることを決定していたらしい。
「おっ、ドクター! 昼飯は食ったか!?」
ひらひらと手を振りながら入ってきた三人目の来訪者。それは炎国からやってきた神獣の化身であり、最強の重盾衛士であるニェンであった。
彼女の手には、真っ赤な唐辛子とラー油が地獄のように煮えたぎる、超特大の『重慶風激辛火鍋』のセットが握られている。
「にぇ、ニェン!? なんでクソ暑い中、火鍋なんか持ってきてるんだよえーーーっ!?」
「暑い時こそ辛いもんだろ、辛味ってのは生き方なんだ!
ちょうどいい痛みと強烈な衝撃が舌の上で爆発すりゃ、オメーだって『人生とはこれほど滋味豊かなものだったのか!』って思うはずだ。それに私の体の内部は一千四百度にもなんだし、この程度の室温、涼しいほうだろ!」
そう言ってニェンは、ドクターのデスクにドンッ!と激辛火鍋のカセットコンロを置き、火を全開にした。
グツグツと煮えたぎる赤いスープから、カプサイシンをたっぷり含んだ刺激的な蒸気が執務室の空気に混ざり合う。
三つの超弩級熱源が、空調の壊れた密室で完全にシンクロ・オーバーラップした瞬間であった。
「……あ、あつぃ………」
壁際のソファで、ティフォンが白目を剥いて完全にダウンしていた。極寒の地で育った彼女にとって、この温度とカプサイシン蒸気は完全なる致死性の環境破壊兵器である。
「おいティフォン!! しっかりするっス! 魂を猿空間送りにするなァッ!!」
ドクターは叫んだ。ブレイズに抱きつかれ、イフリータに火を向けられ、ニェンに激辛火鍋を差し出される。
「凄い数の熱を操るオペレーターが集まってる! ……って言ってる場合じゃねぇんだよえーーー!?」
このままでは死ぬ。物理的にタンパク質が熱変性を起こして死ぬ。ドクターの生存本能が、限界を超えた脳細胞に唯一の脱出ルートを演算させた。
「逃げるっ!」
「えっ? ちょっとドクター!?」
ドクターは火事場の馬鹿力を発動し、ブレイズの腕をすり抜けるようにして強引に脱出。
書類をばら撒きながら、イフリータとニェンの間を弾丸すべりの如き軌道ですり抜け、メインコントロール室の気密扉へとダイブした。
「ティフォン! すまん、後で必ず助けを呼ぶから! それまで耐えてくれーー!」
「……う、うらむぞ……ドクター……」
ティフォンの呪詛めいたうわ言を背に受けながら、ドクターは廊下へと転がり出た。
* * *
「ハァッ……ハァッ……あ、あちぃ……喉が渇いてミイラになりそうっス……」
ロドス本艦の廊下を、ドクターはふらふらと這うように歩いていた。
空調が壊れているのはメインコントロール室周辺のブロック一帯らしい。廊下も蒸し暑いが、あの三人の『人間太陽』が密集していた執務室に比べればまだ呼吸ができるだけマシだった。
(ど、どこか涼しい場所はないんスか……。このままじゃ熱中症で俺の命がいただきますされちまう。せめて、氷系のアーツを使うオペレーターの近くに避難できれば……こうなったらエレーナに助けてもらうしかない……)
フラフラと廊下を彷徨うドクターの耳に。微かな、リズミカルな音楽のビートが聞こえてきた。
『♪〜♪♪〜♪……♪』
その音が漏れてきているのは、人気のない第七区画のラウンジルームだった。ドクターが重い足取りで中を覗き込むと――。
そこには、長椅子に深く腰掛け、ヘッドホンをつけて音楽に没頭している一人の少女の姿があった。白と黒を基調としたクールなジャケット。短めのパンツから伸びる、しなやかで傷跡のある太もも。黒タイツ。そして、頭には大きなヴァルポの耳。
「ちょうどいい所に! フロリーやんけ!!」
ドクターは砂漠でオアシスを見つけた遭難者のごとく、目を輝かせてラウンジへ飛び込んだ。
ドクターの奇声に気づいた少女――フロストリーフは、片方のヘッドホンをずらして不機嫌そうに目をすがめた。吊り目がさらに鋭さを増し、冷ややかな視線がドクターを射抜く。
「略して呼ぶな。何がフロリーだ」
「じゃあフロストリーフさん! いや、フロストリーフ様!」
ドクターはなりふり構わず、彼女の座る長椅子の前まで駆け寄り、その足元に崩れ落ちるように膝をついた。
「すまない、少し離れてくれ。暑苦しい」
暑苦しいドクターにフロストリーフは露骨に嫌そうな顔をした。彼女はパーソナルスペースに無断で侵入されることを極端に嫌うのだ。
「頼む、見捨てないで欲しいのが俺なんだよね! 俺はさっきまで、『灼熱三銃士』によるサウナ空間に閉じ込められていて、細胞の水分が干上がりかけてるんや!このままじゃ俺の命がロドスの経費に還元されてしまう!」
「事情は知らんが、私の冷気は戦うためのアーツだ。お前を冷やすための便利道具じゃない」
冷たく突き放すフロストリーフ。しかし、ドクターの脳内には、彼女が過去の任務で語った『ある言葉』が強烈にリフレインしていた。
「フロストリーフ……お前、前に俺の入職面談の時に言ったっスよね?」
「何の話だ?」
「『命令とあらば、何でも従おう』って……!!」
ドクターが血走った目で言い放つと、フロストリーフは一瞬、言葉に詰まった。
確かに彼女は、ロドスに傭兵として正式加入した際、ドクターに対して『今はお前に命を預ける。命令とあらば、何でも従おう。私を導く道しるべになろう』と誓ったのだ。過去の戦場で生きる意味を見失っていた彼女にとって、ドクターの指揮は唯一の確かな指標だったからだ。
「それが……何だ。確かに言ったが、それは戦場での作戦行動における話だ。こんな所で……」
「俺にとっては今ここが戦場なんだよね怖くない!? 」
ドクターは両手を擦り合わせ、もはやプライドの欠片もない土下座の体勢で懇願した。
「フロストリーフ、お前に抱き着かせて欲しい……それがボクです」
「は、はぁ……!?」
フロストリーフのクールな表情が、一瞬にして驚愕と羞恥で崩れた。
「じ、自分が何を言っているのか分かっているのか……ドクター。セクハラでケルシーに報告してもいいのか」
「違うんだ! いや違わないけど! 単純にお前のその冷え切った身体とハルバードの冷気を浴びて、この体温を急冷したいだけなんだ!下心なんて一切ないのが俺なんだよね」
「……それはそれでどうなんだ」
フロストリーフはため息を吐いた。
彼女自身、ロドスに来てからドクターには何度も命を救われ、そして「普通の女の子」としての音楽やファッションの楽しみを教えてもらった恩がある。
「本気で言ってるのか?」
「引っ付かせて欲しいですね……ガチでね……」
ドクターがゼェゼェと喘ぐと、フロストリーフは深い、本当に深いため息を吐いた。
「……今回だけだ。それと、変な真似をしたら許さないからな」
「あ、あざーっス! 」
許可が出た瞬間、ドクターは彼女の隣の長椅子に滑り込み、フロストリーフの細い肩と、その背中に立てかけられたハルバードの柄に、ぐでーっと寄りかかった。
「暑苦しい……」
「はぁぁぁぁ……まるで、頭からキンキンに冷えた氷水を被ったような極上の冷却シートッて感覚!素晴らしい太ももに黒タイツに冷気。ククク……フロストリーフは、視覚・触覚・そして冷却効果が含まれている完全クーラーだァ!」
「何を言ってるんだ」
フロストリーフのアーツによって冷却された彼女の衣服と肌越しに伝わる冷気が、ドクターの火照りきった身体の熱を急速に奪っていく。
彼女の肩出しのシャツから覗く華奢な肩。萌え袖からわずかに触れる冷たい手。そして、どこかミントのような、涼やかな彼女の匂い。
(想像してみろ……灼熱地獄から生還した直後に、クールで不愛想な美少女傭兵にくっついて急速冷却されるこの多幸感を……エグいなんてもんじゃない)
ドクターがだらしなく顔を綻ばせていると、フロストリーフは不機嫌そうにそっぽを向きながらも、ヘッドホンの片方のイヤーパッドをドクターの耳に無造作に押し当てた。
「……音楽でも聴くか? 私が好きな歌は、世間では流行らないだろうが少し頭を冷やせ」
流れ込んできたのは、インディーズのロックバンドの静かで、少し孤独なビートの曲だった。
「選曲センスが良いっスよね……フロストリーフの趣味、俺は結構好きだよ」
「……聞いてない」
口では冷たく突き放しながらも、フロストリーフはドクターを突き飛ばすことはしなかった。
過酷な戦場しか知らなかった彼女が、こうして誰かと肩を寄せ合い、音楽を共有する。それもまた、ロドスという場所が彼女に与えた『久々の充実感』の一つだったのかもしれない。
ドクターは目を閉じ、心地よい冷気と音楽のビートに身を委ねた。
(こうしてフロストリーフに寄生していれば、俺は生き残れる。完璧なタクティクスだ……)
――しかし。彼がそんな甘い夢に浸っていられたのは、わずか五分足らずのことであった。
「ドクター! どこ行ったの? 一緒に汗かこうよーっ!!」
「オイ! バーベキューの主役がいないと始まらねーだろうが!!」
「まったく、せっかくの火鍋が冷めちまうだろ。どこに隠れやがった?」
廊下の奥から、地響きのような足音と共に、恐るべき『熱源反応』が三つ、急速に接近してくるのが感知された。
「な、なんだあっ!?」
ドクターが飛び起きる。フロストリーフもハルバードを握り直し、警戒の視線を廊下に向けた。
現れたのは、汗だくで満面の笑みを浮かべるブレイズ、火炎放射器を構えたイフリータ、そして火鍋の匂いを撒き散らすニェンの『灼熱三銃士』だった。
「あっ! ドクター見っけ! 」
「オマエ! オレサマをほったらかして一人で涼むとはいい度胸だな! そこに並びやがれ!」
「ドクター! 私の特製激辛麻婆豆腐を試食していく約束だろ!?」
「そんなやり取りした記憶! 何処へ!!」
三人がラウンジに踏み込んだ瞬間、フロストリーフの展開していた冷気が、彼女たちの圧倒的な熱量によって急速に相殺され、霧散していく。
ラウンジの室温が、瞬く間に三十度、三十五度と上昇していく。
「あ、あかん……! せっかく冷やした俺の身体が、また丸焼きにされてまう! 助けてフロストリーフ!」
「……チッ。面倒な奴らだ」
フロストリーフはドクターを背中に庇うと、ハルバードを振りかぶり、全力の冷気アーツ『氷結の刃』を三人に放った。しかし。
「アハハッ! そんな冷気じゃ、私の情熱は冷ませないよ!」
「あったまんぞ! 全部燃やしちまおーぜ!」
「子の矛を以て、子の盾を陥さば何如、そしたら全部ドカーンだ!」
ブレイズの加熱アーツ、イフリータの炎、ニェンの熱が複雑に絡み合い、フロストリーフの冷気と正面衝突する。
熱気と冷気が激しくぶつかり合い、ラウンジ内は異常な気圧変化と濃密な水蒸気に包まれた。
「うわああああああッ!! サウナのロウリュを超えた超絶スチーム地獄ダーーッ!! タスケテクレーーーッ!!」
冷やすどころではない。高湿度の熱蒸気が全身を包み込み、もはや生命の危機である。
「よしっ、ドクター捕まえた!」
「オラオラ! 燃えろ燃えろー!」
「ほら、腹減ってるだろ、一口食ってみろドクター! 目が覚めるぞ!」
ブレイズに抱きつかれ、イフリータに火を向けられ、ニェンに激辛火鍋の具を口に突っ込まれそうになるドクター。まさに阿鼻叫喚。
このままでは、作戦指揮官が熱中症とカプサイシン・ショックで殉職するという、ロドス史上最も情けないテロルが完遂されてしまう。
その、絶望の臨界点に達しようとした瞬間。
――ピシャリ。
スチームに包まれたラウンジの空気が、一切のアーツを使わずとも、物理法則を無視して『絶対零度』へと凍りついた。
ブレイズの笑顔が引き攣り。イフリータが「ヒッ」と短く息を呑み。ニェンが「おっと……」と火鍋をそっと下ろした。
蒸気が晴れたラウンジの入り口に立っていたのは。冷徹なエメラルドの瞳を細め、クリップボードを片手に持った白衣のケルシーであった。
彼女の背後には、異形の脊椎構造体『Mon3tr』が、いつでも斬撃を放てる態勢で鎌首をもたげている。
「…………」
沈黙。
誰も言葉を発することができない。
ケルシーはゆっくりと、足音すら立てずに室内へと歩みを進めた。その視線は、汗と蒸気にまみれ、ブレイズに抱きつかれたまま床に転がっているドクターと、その周囲で熱源と化している三人、そしてハルバードを構えたまま固まっているフロストリーフを順番に検分していく。
「……状況の解析は完了した」
ケルシーのアルトボイスが、静かに、だが空間全体を圧迫する質量を持って響き渡った。
「私が、空調システムの一次的な障害による艦内温度の異常上昇に対し、オペレーター各自に『不要な運動を避け、適切な水分補給を行い、自室での待機を推奨する』という全体通達をPRTS経由で発信してから、わずか四十七分。……君たちはその指示を完全に無視し、あろうことかロドスの中枢区画に隣接するラウンジにおいて、それぞれのアーツ能力を極めて無軌道かつ非生産的な形で濫用し、局地的な微小気象災害を人為的に引き起こしたのか」
「いや、これはその、ね? ドクターが急にいなくなったから……!」
ブレイズが慌てて言い訳を口にするが、ケルシーの視線は微塵も揺るがない。
「ブレイズ。私がいま問うているのは君たちの浅薄な動機ではない。結果として生じた『組織のセキュリティおよび衛生管理における破滅的な機能不全』についてだ」
始まった。ドクターの脳内で、絶望のゴングが鳴り響いた。暑さで溶けかけた脳みそに、テラ最長寿の賢者による『完全なる論理の処刑』が投下されるのだ。
「まず第一に。ブレイズ、イフリータ、ニェン。君たち三名が有する『熱量操作・発火』に関連するアーツおよび特異体質は、本来厳密な環境制御下においてのみ行使が許可される極めて危険な軍事的・工業的リソースだ。それを、空調が停止し換気能力が著しく低下している閉鎖空間内で同時多発的に稼働させた結果、このラウンジ内のエンタルピーは異常な数値まで跳ね上がり、空気中の酸素濃度低下による一酸化炭素中毒、ならびに熱中症のリスクを致死レベルにまで引き上げた。これは単なる悪戯などではなく、ロドスの人的資産に対する重大な過失傷害未遂――テロリズムに等しい行為であると認識しろ」
「う……」
「お、オレサマはただ……」
「……やれやれ、相変わらず小うるせぇ小言だな」
「さらにだ」
ケルシーは三人を一瞥した後、今度は床でぐったりしているドクターを見下ろした。
「作戦指揮官たるドクターの、その無様極まる生態行動についての責任追及だ。君は自身の体温調節機能が限界を迎えていることを自覚しながら、速やかに医療部へ報告し適切な処置を求める正規のプロセスを放棄した。そしてあろうことか、フロストリーフという一個人のオペレーターに対し、『抱きつかせてほしい』などという言語道断のセクシャルハラスメントと職権濫用の悪魔合体とも言える要求を突きつけ、彼女の冷却アーツを己の快楽と現実逃避のために私的流用した」
「ち、違うんスよケルシー! これは純粋な熱力学的な熱交換を求めただけであって、俺のロマンティシズムや下心は一切……!」
「詭弁だ」
ピシャリと、絶対零度の言葉がドクターの弁明を叩き斬る。
「君が私的な感情を持っていようがいまいが関係ない。指揮官という強者の立場から、元少年兵という被保護的かつ心理的な負債を抱えるオペレーターに対し『命令なら何でも聞くと言ったな』という過去の誓約を盾に取って物理的接触を強要する行為。それは、資本主義と階級社会が孕む構造的暴力の完全な再現であり、ロドスが掲げる『感染者の権利保護と対等な相互理解』という理念を根底から腐敗させる猛毒だ。君は自分の浅はかな熱中症対策のために、ロドスの道徳的基盤を一つ破壊したのだと自覚しろ」
(要約すると『涼みたいからクーラー代わりにくっついた』っていうワシのしょうもない行動が、『権力勾配を利用した構造的暴力およびロドスの理念の破壊行為』へとマクロな視点で超拡大解釈されて論破されてるっス……)
ドクターは頭を抱え、床に突っ伏した。
「……だが、何よりも私が許容できないのは」
ケルシーの声が、さらに一段低くなった。彼女の冷たい指先が、ドクターの胸ぐらを掴み、ゆっくりと彼の顔を持ち上げさせる。
「君が、自身の生命の危機――脱水症状による脳機能の低下という明確なエラーを感知しておきながら、なぜ『最も確実で安全な医療的解決手段』である私のもとへ、真っ先に駆け込んでこなかったのかという事だ」
「えっ」
「私が医療統括として、艦内のいかなる場所よりも完璧に温度と湿度が管理され、緊急時の輸液と冷却プロトコルが整った隔離病室を管理していることは明白だろう。にもかかわらず、君は私を頼るという最適解を放棄し、このような無秩序な猿の集会場へと逃げ込み、結果として自身のバイタルをさらに危機に晒した。……ドクター、君は私の医療技術と、私が君の生存を担保するという約束を、それほどまでに軽視しているということか?」
「なに…!?」
ドクターの目が点になった。
どうやらケルシーが怒っているのは、彼がセクハラをしたからでも、サウナ騒動を起こしたからでもないらしい。
『一番頼りになる私を頼らずに、他の女の所に逃げたのか』という、極めて重たく、そして不器用すぎる『独占欲と庇護欲』の裏返しだったらしい。
「……理解したか、ドクター。君のその無思慮な行動が、私に対してどれほどのシステム的ノイズを発生させたかを。君の脳が糖分と水分を失い、正常な判断能力を欠落させていることは明白だ。ゆえに、これから君の体調管理と認識の矯正は、私が全て直接的に介入して行う」
「ケ、ケルシー……いやちょっと待てよ、俺はもう十分冷えたし、ポカリでも飲めば……」
「黙れ。君の口から出る自己診断など、いかなる医学的エビデンスも有していない」
ケルシーはドクターを床から引きずり起こすと、そのまま彼の腕をガッチリとホールドした。
「ブレイズ、イフリータ、ニェン。君たちは直ちに甲板へ出て、外気で自らの熱量を放出しろ。フロストリーフ、君は巻き込まれた被害者として今回は不問とする。自室へ戻れ」
「……あ、ああ。わかった」
フロストリーフが少しだけ同情の目を向けながらラウンジを去っていく。ブレイズたちも、ケルシーの逆鱗に触れることを恐れてそそくさと退散していった。
残されたのは、完全にケルシーの捕虜となったドクターただ一人。
「……さて、ドクター。君の体内水分量と電解質バランスを正常値に戻すための輸液を開始するが。その処置の間に、君の脳髄に染み付いた『無責任な外部依存と、私という安全装置の軽視』について、テラの医療史と倫理学の観点から、最低でも三時間は要する講義を行わせてもらう。君の意識が途切れることは許可しない」
「ケルシーの正体みたり!! 冷徹な統括者の本性は、ただの過保護な世話焼き娘だったのかあっ!」
「……戯言ばかり喋らず歩け、ドクター。まずは、君がかつてバベル時代に犯した『無思慮な接触』のケーススタディから復習を始めるが……」
「勘弁して欲しいのは俺なんだよねぇぇぇぇ……ッ!!」
数時間後。
「ようやく解放された……」
ドクターは壁に手をつき、ゼェゼェと荒い息を吐き出していた。
度重なる過労に加え、ケルシーによる『テラの歴史と内分泌学、および組織倫理に関する口頭レポート長話』を強要され、「灼熱三銃士」によって奪われた水分を点滴で強制補充されるという、肉体的にも精神的にもハードコア極まる数時間を耐え抜いたのだ。
彼の灰色の脳細胞は、もはや千切れかけの糸電話のような有様であった。
「ハッ、相変わらずバカねアンタは。あのババアに捕まって」
「な、なんや……」
ふと、静かな廊下に小馬鹿にするような、それでいてどこか楽しげな女性の声が響いた。
ドクターが重い頭を上げて視線を向けると、少し先の壁に背を預け、腕を組んでこちらをニヤニヤと見下ろしている影があった。
赤と黒を基調とした装備。頭から生えるサルカズの角。そして、獲物を弄ぶような、挑発的で美しい笑みを浮かべる女性。
かつてのバベルの傭兵であり、レユニオンの幹部を経て、今はロドスの一応の協力者として居座っている爆弾魔。
「……誰かと思えば、ダブチやんけ」
「変なあだ名で呼ぶんじゃないわよ! それにしても今は『ウィシャデル』って名前があるのよ!」
ドクターが疲労混じりに吐き捨てた謎の呼称に、彼女は即座に噛み付いた。
彼女は最近、過去の因縁と決別し、テレジアから授かった『ウィシャデル』という新たな名を名乗り始めていた。彼女自身、その名前を少しばかり気に入っている節がある。
だが、疲労困憊でマネモブ的思考回路がむき出しになっているドクターに、そんな情緒的な配慮など存在しない。
「なにがウィシャデルだ。お前はこれまでもこれからもだぶちだ」
「意味わかんないわよ! 相変わらずせっかく人が新しいスタートを切ってやったってのに、本当にデリカシーの欠片もないわね!」
ウィシャデルは不満げに舌打ちをしたが、その瞳の奥には本気の怒りはなかった。
「それで?」
彼女は壁から背を離し、コツ、コツとブーツの音を鳴らしてドクターへと歩み寄ってきた。口元には、悪戯を企む子猫のような、底意地の悪い笑みが浮かんでいる。
「アーミヤから聞いたわよ。この前、あのババァ相手に爆弾発言して説教されたんでしょう?『生オナホがどうのこうの』って……ふふっ、ほんとあんたって“サルカズスラング”よね」
「ククク……酷い言われようだな」
「ケルシーに手を出そうとするなんて、どんだけ末期症状だったのよ。過労で理性0だったんじゃないの?」
ウィシャデルはドクターの顔を覗き込むようにして、さらに距離を詰めてくる。微かに香る火薬の匂いと、彼女特有の少し甘い香水の匂いがドクターの鼻腔をくすぐった。
「まぁ、確かに理性は猿レベルまで退行してたッスね。ハッキリ言って、俺の男としての本能が暴走してたんや……」
ドクターが自嘲気味に肩をすくめると、ウィシャデルはふいっと視線を逸らした。彼女の手が、身につけている起爆装置のスイッチを意味もなく弄り始める。
「……ま、まぁ。別に? ど、どうしても相手が居ないなら、あたしが相手になってやっても……」
「だぶち……お前何ボソボソ言うとんのや」
ドクターが素っ頓狂な顔をして聞き返すと、ウィシャデルの肩がビクッと跳ねた。
「う、うるさいわよバカ!!」
己の柄にもない発言を誤魔化すためか、ウィシャデルは一気に顔を真っ赤にして怒鳴り散らした。
「ど、どうせ口ばっかりで、アンタ、本当は女に手なんか出せないんでしょ!? ケルシーにだって結局お説教されてビビって逃げてきたんだし!
そんな勇気持ってるわけないでしょ、このヘタレドクターが!!」
挑発。それは彼女なりの、照れ隠しの虚勢であった。
普通の相手ならば、「いや、そんなことはない」と言い訳をするか、「お前なんかに手を出すか」と反発して終わる場面である。
――しかし。彼女が相対しているのは、極度の疲労と度重なる説教によって理性が弾け飛んでいる、タフを自称するマネモブドクターであった。
「……なんとでも抜かせや」
ドクターは低く呟いた。そして。一切の予備動作もなく、右手をスッと前へ伸ばした。
「えっ……?」
ウィシャデルが反応するよりも早く。ドクターの右手は、彼女の黒いインナーに包まれた胸部――その柔らかな膨らみへと、ダイレクトに着弾した。
――モミ、モミ。
「…………へ?」
静寂。ウィシャデルの頭の中で、完全に思考回路がショートした。あの、かつての冷酷無比な悪霊が。あるいは、いつもヘラヘラと戯言ばかりな間抜けな指揮官が。
白昼堂々、廊下のど真ん中で、自分の胸を揉んでいる。
指先から伝わってくる、確かな弾力と温もり。ドクターは、限界を超えた脳細胞から導き出された、極めて純粋で素直な感想を口にした。
「◇この意外とある並乳は……?」
煽り文句のような、それでいて失礼極まりない率直な評価。
ウィシャデルはスレンダーな体型であり、爆乳というわけではないが、決して貧乳でもない。軍服の下に隠された、引き締まりつつも女性らしい柔らかな造形。それを『意外とある並乳』などというワードで表現されたのだ。
「あ………ぁ…………」
ウィシャデルの顔面が、沸騰したように真っ赤に染まり上がっていく。羞恥、混乱、そして――爆発的な殺意。
「あ、アンタッ!! 死にたいようねッッ!?」
そして当然ウィシャデルの瞳に、本物の『人殺しの目』が宿った。彼女の手が、腰にマウントされた手榴弾と起爆スイッチへ同時に伸びる。
「おっ、反応があった。やっぱだぶちってホンマのこと言われたらハラ立つんやな。さぁ来いっ、来いっ」
「お望み通りぶっ殺してやるわよッ!! この変態セクハラ野郎がぁーーー!!」
ウィシャデルがピンを抜いた手榴弾を投げつけるよりも早く。ドクターは「しゃあっ!逃げるっ」と気合の声を上げ、弾丸すべりのごとき凄まじいダッシュで廊下の奥へと駆け出した。
「逃げるんじゃないわよ!! 待ちなさい、このバカァァーー!!」
「だぶちみたいなもん揶揄うだけのオペレーターやんけなにムキになっとんねん!」
ロドスの頑丈な装甲壁を揺らす爆音と共に、ウィシャデルがドクターを猛追する。爆風と黒煙を上げながら、二人のドタバタとした逃走劇が艦内に響き渡った。
その騒ぎを、少し離れた交差点から眺めている一団があった。行動予備隊のメンバーたちと、通りかかった数名のオペレーターである。
「うわぁ……またドクターとウィシャデルさんがやってるよ」
「あんなに爆弾投げられてるのに、ドクターってばすっごく楽しそうに逃げてるよね」
「ウィシャデルさんも本気で当てようとはしてないみたいだし。なんだかんだ言って、あの二人、仲良いよなぁ」
オペレーターたちは、呆れ半分、微笑ましさ半分といった温かい眼差しで、爆音を響かせて消えていく二人を見送っていた。
ドクターがこれほどまでに命知らずなセクハラや軽口を叩ける相手は、ロドス広しといえどもウィシャデルくらいのものである。
彼女は怒って爆弾を投げつけてくるが、その実、本気でドクターを憎んでいるわけではない。むしろ、過去の『冷徹で計算高い悪霊』であった姿を知ってるからこそ、今の「アホで図太く、欲望に忠実だが人間くさい男」の姿を、誰よりも面白がり、好意的に受け入れているらしい。
ドクター自身も「まぁだぶちになら何しても適当に許してくれるやろ」というマネモブ特有の謎の信頼感がある。
彼は彼女に対して日常的にセクハラや煽りを行い、彼女もそれに爆発で応えるという、奇妙な『プロレス的スキンシップ』が成立しているのである。
「待てって言ってんでしょこのバカ! 次の角を曲がったらレヴァナントを三体けしかけるわよ!!」
「ご先祖ランチャーはルールで禁止っスよね!?さっきのはただの出来心というか、フルコンタクトなコミュニケーションの一環やろがいッ!」
「あっそう!ならその両手を木っ端微塵にして、二度とセクハラできないようにしてやるわよ!!」
背後からは爆風と熱気、そしてウィシャデルの怒声が容赦なく迫ってくる。
このままでは、文字通り肉片となって猿空間送りにされてしまう。ドクターが角を曲がり、手近な隠れ場所を探そうと視線を巡らせた、その時だった。
「わっ……!」
「なにっ!」
角の先を歩いていた小柄な人影と、危うく正面衝突しそうになった。 ドクターが咄嗟に身を翻してブレーキをかけると、そこに立っていたのはアーミヤだ。
「ド、ドクター? そんなに慌てて、一体どうしたんですか?」
「ア、アーミヤ! ちょうどいい所に! 頼む、俺を匿ってくれ! 命をいただきますされそうなんや!」
ドクターはアーミヤの背後に滑り込み、彼女の小さな肩越しに身を隠すようにしゃがみ込んだ。
その直後、けたたましい足音と共に、起爆装置を握りしめたウィシャデルが角を曲がって現れた。
「アーミヤ! あんた、あのバカドクターがどっちに行ったか見てない!?」
ウィシャデルの息は荒く、瞳には人殺しの目が宿っている。
だが、アーミヤは背後にドクターを隠しつつも、一切顔色を変えずに、静かに、そして極めて自然な動作で廊下の反対側、ドクターの進行方向とは全く逆の通路を指差した。
「あ、あっちに行きましたよ? 何かすごく急いでいるみたいでしたけど」
「チッ、逃げ足だけは速いんだから……! 待ちなさいこのクソボケがァァーーッ!!」
ウィシャデルはアーミヤの言葉を微塵も疑うことなく、指示された方向へと猛然と走り去っていった。その足音が完全に聞こえなくなるまで、ドクターは息を潜めて待ち続けた。
静寂が戻った廊下で、アーミヤが小さくため息を吐いた。
「……もう行きましたよ、ドクター。大丈夫ですか?」
「あざーす、アーミヤ。マジで助かったっス」
「ウィシャデルさんを揶揄うのはいいですけど、あまり他の人にまで迷惑かけちゃダメですよ。ドクターが少し調子に乗りすぎるから、あんなに怒るんですよ」
アーミヤは少しだけ頬を膨らませて、呆れの中に微かな嫉妬が混じったような眼差しを向けた。
「気をつけておくのん。これでも私は慎重派でね、彼女の怒りの沸点を徹底的に研究・分析させてもらった結果、まだまだ俺のチキンレース・スキルが足りなかったと反省してるんだ」
「もう、ドクターったら……」
アーミヤが小さくため息をつき、抱えていたファイルを直そうとした――その時である。
「……あっ」
彼女の身体が、ふらり、と不自然に揺らいだ。手からタブレット端末が滑り落ちそうになり、アーミヤは咄嗟に壁に手をついて、なんとか己の身体を支えた。
「えっ……アーミヤ!?」
ドクターは即座に冗談めかした態度を捨て、彼女の肩を支えた。その時、至近距離で彼女の顔を見たドクターの目に、ある異常が飛び込んできた。
「アーミヤ、お前……よく見たら目の下のクマ、めちゃくちゃ酷いけど大丈夫っスか!?」
普段は可愛らしく澄んでいる彼女の瞳の下には、濃い青紫色のクマが深く刻み込まれていた。肌の色も抜けるように白く、いや、血の気が引いて蒼白になっていると言った方が正しい。触れた肩越しの体温も、どこか微熱を帯びているように不規則だ。
「だ、大丈夫ですよ、これくらい……。少し、昨晩の書類仕事が長引いてしまっただけで……」
アーミヤは気丈に振る舞おうと、弱々しい笑みを浮かべて見せた。だが、その声は掠れており、呼吸も浅い。
「いやちょっと待てよ、フラついてるヤンケ! 大丈夫なわけないやろ! 無理してたんじゃないのか!?」
「えっと……各支部からの月次報告の確認が……どうしても今日中に終わらせないといけなくて……」
アーミヤの言葉に、ドクターはギリッと奥歯を噛み締めた。
彼女はロドス・アイランドのCEOだ。その小さな肩には、テラ全土に散らばる感染者たちの命と、各国の思惑が複雑に絡み合う政治的プレッシャーが重くのしかかっている。
ドクターやケルシーがどれほど分担しようとも、彼女自身が『自分がやらなければ』と抱え込んでしまう部分がどうしても存在するのだ。
「アーミヤ、流石に休んだ方がいいと思うのが俺なんだよね。こんな状態じゃ、まともな判断も下せないやろ」
「でも、まだやる事が……。私がここで立ち止まったら、救えるはずの命が……」
アーミヤは必死に壁から身を離し、再び歩み出そうとした。――しかし、限界を迎えていた彼女の細い脚は、もはや彼女の意志に追従しなかった。
「あっ……」
崩れ落ちそうになるアーミヤの身体を、ドクターは咄嗟に抱きとめた。軽すぎる。
過酷な戦場を駆け抜け、強大なアーツを操る『魔王』の器でありながら、その腕の中に収まる質量のあまりの脆さに、ドクターの心臓がギュッと締め付けられた。
「……無理すんなって」
ドクターは、普段とは違う低く、しかし絶対に反論を許さない指揮官の声で告げた。
「アーミヤが倒れたら元も子も無いっスよ。ロドスの心臓はお前なんだ。お前が無理して壊れちまったら、俺たちは何を道標に進めばいいんや」
「ドクター……」
「仕事なら、俺とケルシーでなんとかしておくから。あいつの小言なら、俺がなんぼでもこの大胸筋で受け止めたる。ワシめっちゃタフやし。だから……今は休め」
ドクターの真摯な言葉と、彼から伝わる温かい体温に、アーミヤの張り詰めていた緊張の糸が、プツンと切れたようだった。
「ありがとうございます、ドクター……」
アーミヤはドクターの胸に顔を埋め、小さく、本当に小さく嗚咽を漏らした。その涙の熱さに、ドクターは改めて自分が守るべきものの尊さを噛み締めた。
「よし、とりあえず部屋まで送るっス。歩けるか?」
「はい……なんとか……」
ドクターはアーミヤの腰に腕を回し、彼女の体重を半分以上支えながら、ゆっくりと彼女の私室へと歩き出した。
◆ ◆ ◆
ロドス本艦、居住区画。
アーミヤの私室は、彼女の年齢相応の可愛らしい装飾と、CEOとしての膨大な業務を物語る無数のファイルや専門書が混在する、いびつで、それでいて彼女らしい空間だった。
「ほら、ベッドに横になれ。靴は脱がせてやるから」
「す、すみません……ドクターにこんなことまで……」
「まぁ気にしないで。どっちみち俺はお前の保護者みたいなもんだってことですから」
ドクターはアーミヤをベッドに座らせ、丁寧に彼女のブーツを脱がせた。そして、彼女の身体を柔らかいマットレスの上に横たわらせ、掛布団を肩口までしっかりと掛けてやる。
「よし。空調の温度も適温やな。暗くするぞ」
ドクターが部屋の照明を落とし、小さな間接照明だけを残してドアへ向かおうとした――その時だった。
「……あの、ドクター……」
背後から、ひどく弱々しい、消え入りそうな声が呼び止めた。
「ん? どうした? 水でも飲むっスか?」
ドクターが振り返ると、ベッドの中からアーミヤが細い腕を伸ばし、ドクターのコートの裾をきゅっと、本当に消えそうな力で握りしめていた。
「一つお願いが……いいですか?」
「うん。なんだ? 言ってみろ」
アーミヤは少し躊躇うように視線を泳がせ、やがて、熱を帯びた潤んだ瞳でドクターを真っ直ぐに見上げた。
「眠りにつくまで……添い寝して貰えませんか?」
「………えっ」
ドクターの思考が、一瞬だけ停止した。
「そ、添い寝……って、俺がここに一緒に寝るってことっスか?」
ドクターが冷や汗を流しながら確認すると、アーミヤは恥ずかしそうに頬を赤らめながらも、しっかりと頷いた。
「……最近、寝ようとしても中々深く眠れなくて。目を閉じると、色んな人の声が頭の中で響いて、胸が苦しくなるんです。……私、弱いですね」
哀しき過去――。彼女の抱える重圧とトラウマは、彼女の持つアーツの性質上、他者の感情を吸収してしまうがゆえに、常人の想像を絶する深さで彼女の魂を蝕んでいる。
一人きりの暗い部屋で、彼女は毎夜、テラの残酷な運命と戦い続けていたのだ。
「ドクターの匂いと、温もりがそばにあると……すごく、安心するんです。だから……ダメ、ですか?」
上目遣いで、捨てられた子犬のような瞳で懇願してくるアーミヤ。
その破壊力は、タフカテで言うところの「うーっやらせろはやくやらせろ」「兄貴おかしくなりそうだ」などという下劣なリビドーを「やかましいわ!」と完全に粉砕し、純粋な父性と「絶対にこの子を守り抜かなければならない」という聖騎士のような使命感へとドクターの精神を昇華させた。
「……分かった。分かったから、とにかく早く休んで欲しいのが俺なんだ!」
ドクターはコートを脱ぎ捨てると、ベッドの端に腰を下ろし、アーミヤの隣へとそっと身を横たえた。
「えへへ、ありがとうございます……」
アーミヤは嬉しそうに微笑むと、ドクターの胸元にすり寄るように顔を埋め、彼の腕の中にすっぽりと収まった。
ドクターは少し緊張しながらも、彼女の華奢な背中に腕を回し、トントンと一定のリズムで優しく叩き始めた。
「……どうだ? 苦しくないか?」
「はい……とっても、温かいです」
アーミヤの体温が、薄い衣服越しに伝わってくる。彼女の髪から香る、甘く優しいシャンプーの匂いがドクターの鼻腔をくすぐった。
ドクターの胸に顔を押し当てているアーミヤの呼吸が、次第に深く、規則的なものへと変わっていく。
ドクターは、天井の薄暗い模様をぼんやりと眺めながら、自らの心境の変化に驚いていた。
(禅を学ぶ前、アーミヤはただの『可愛いヒロイン』であり、ロドスはただの『職場』であった。ロドスを指揮するようになると、アーミヤはただのヒロインでなくなり『重責を背負う魔王』になり、ロドスはただの職場ではなく『世界を救う方舟』になった。しかし、こうして彼女の寝顔を見ている今。やはりアーミヤはただの『守るべき一人の普通の女の子』であり、俺の居場所はただの『彼女の隣』なのだと悟った俺なんだよね……)
ドクターの脳内に、謎の悟りを開いた長文ポエムがよぎる。だが、それは彼の偽らざる本心だった。
このテラという世界は、あまりにも残酷だ。
感染者というだけで迫害され、理不尽な暴力に晒され、命を奪い合うことが日常となっている。
そんな世界で、この小さな少女は、誰よりも優しく、誰よりも強い意志で、絶望に立ち向かおうとしている。
(アーミヤ、お前はもっと広い光のある所へ行け……血と硝煙の匂いじゃない、陽だまりのような温かい場所で、普通の女の子として笑ってほしいっス)
「ドクター……」
不意に、アーミヤが寝言のように小さく呟いた。
「ん?」
「ずっと……、一緒にいてくださいね……」
無意識の、しかし心の奥底からの願い。
その言葉にドクターの胸の奥が熱く締め付けられた。
「……もうねんねや」
ドクターは、アーミヤの頭を優しく撫でた。彼女のウサギの耳が、安心したようにパタリと垂れ下がる。
やがて、アーミヤの呼吸は完全に寝息へと変わり、彼女は深い眠りへと落ちていった。
ドクターは、彼女を起こさないようにそっと身体を離そうとした。
ケルシーに仕事の引き継ぎの連絡を入れなければならない。これ以上ここに長居すれば、本気で『事案』として処理されかねない。
しかし。ドクターが身を起こそうとした瞬間、彼のシャツの袖を掴んでいるアーミヤの手が、ギュッと力強く握り締められた。
「……なにっ」
ドクターがそっと手を解こうとするが、アーミヤは無意識のうちにさらに強く握り締め、彼の身体をベッドに縫い留めてしまった。
「ウッソ〜ん……いや、マジか。これ、動けないヤンケ……」
ドクターは天を仰いだ。
力ずくで振り解けば彼女を起こしてしまう。かといって、このまま添い寝を続ければ、後で部屋に様子を見に来たケルシーによって、彼は間違いなく『社会的な死』と『物理的な死』のダブルパンチを喰らうことになるだろう。
(想像してみろ……アーミヤのベッドで寝ている俺を発見したケルシーの、絶対零度の瞳を……エグいなんてもんじゃない)
「どないする? まあアーミヤの為やし……ええやろ」
ドクターは諦めたようにため息をつき、再びアーミヤの隣へと身体を沈めた。
明日の事は、明日の自分に任せよう。
今はただ、この尊い少女の安眠を守るためだけに、己の命を懸ける。それが、ロドス・アイランドの作戦指揮官としての、最も重要な任務なのだから。
△ ▼ △ ▼
――ふんわりとした、シーツの温もり。そして、耳元で聞こえる規則的な、少しだけいびき混じりの呼吸音。
アーミヤがゆっくりと重い瞼を開けると、視界のすぐ隣に、見慣れた黒いコートの生地があった。
ぼんやりとした頭で状況を理解するまでに、数秒の時間を要した。自分の私室のベッド。かすかに差し込む窓の光。そして、自分を大きな腕で包み込むようにして眠っている、ロドス・アイランドの作戦指揮官の姿。
「……あ……」
記憶が、ゆっくりと蘇ってくる。
激務とプレッシャーに押し潰されそうになっていた自分は、執務室から私室へ送ってくれた彼に、情けなくも「添い寝してほしい」と懇願してしまったのだ。
彼は少し戸惑いながらも、文句一つ言わずにずっと背中をトントンと叩いてくれて───いつの間にか、自分は深い眠りに落ちていたらしい。
アーミヤはそっと身体を動かし、ドクターの顔を見上げた。 彼はアーミヤの小さな手を自分のシャツの袖に握らせたまま、完全に無防備な姿で熟睡していた。
「……まだ、寝てますね」
アーミヤは小さな声で呟き、彼を起こさないようにそっと微笑んだ。
激務に次ぐ激務。本来であれば、彼もまた限界まで疲労していたはずだ。それなのに、自分のわがままに付き合って、こんな窮屈な姿勢で朝まで一緒にいてくれたのだ。
『……しゃあぁ……これで事務処理はマイ・ペンライ……』
不意に、ドクターの口からくぐもった寝言が漏れた。アーミヤはクスッと笑みをこぼした。
「ふふっ……ドクターも、本当にお疲れだったんですね。夢の中でもお仕事してるみたいです」
それにしても――と、アーミヤはドクターの胸元に寄り添いながら、不思議に思うことがあった。
(最近のドクター、なんだかとても『変な言葉遣い』をするんですよね……)
以前の彼は、静かで思慮深く、どこか達観したような口調の人物だった。
しかし、今の彼の口からは、アーミヤの知らない奇妙な単語が次々と飛び出すようになっていた。
『アーミヤ、今日の作戦も俺が指揮するから安心感が深まるんだ』
『ケルシーの長文説教は異常〇〇愛者の悲哀を感じますね……忌憚のない意見ってやつッス』
『俺が一番アーミヤを大切に思ってるんだよね、凄くない?』
……正直に言って、意味は全く分からなかった。
クロージャさんに聞いても「ネットの変な掲示板のミームに被れちゃったんじゃない?」と首を傾げるばかり。最初の頃、ケルシー先生は、「大脳皮質がサルのレベルまで退行したか、あるいは下劣なサルカズのスラングに脳を汚染されたとしか考えられない。……Mon3tr、彼の言語野を物理的に切除しろ」と、真顔で医療的処置を提案していたほどだ。
しかし最近、ケルシー先生も慣れてきたのか理由は分からないが口を出さなくなったが。
(ドクターの頭の中には、私の知らない世界があるんでしょうか……?)
アーミヤは小首を傾げた。
言葉の響きだけを聞けば、少し乱暴で、ふざけていて、ロドスの指揮官としては相応しくないと思われるかもしれない。
――けれど。アーミヤは知っている。彼がどんなに変な口調で、どんなに冗談めかした態度を取っていても。
『アーミヤが倒れたら元も子も無いっスよ。お前が無理して壊れちまったら、俺たちは何を道標に進めばいいんや』
『仕事なら、俺とケルシーでなんとかしておくから。あいつの小言なら、俺がなんぼでもこの大胸筋で受け止めたる。ワシめっちゃタフやし。だから……今は休め』
あの言葉の奥にある、確かな温もりと、不器用なほどの優しさを。
(言葉遣いがどれだけ変わっても、ドクターの根底にあるものは何も変わっていません。いつも私のことを一番に考えてくれて、自分の身を削ってでも皆を守ろうとしてくれる……私の、大好きなドクターです)
彼が変な言葉を使うのは、過酷な現実から少しでも自分や皆を笑わせようとする、彼なりの『照れ隠し』なのかもしれない。そう考えると、あの変な口調すらも愛おしく思えてくるから不思議だ。
「……ドクター」
アーミヤはそっと身体を起こし、熟睡しているドクターの顔を覗き込んだ。
彼は寝ている間も、ロドスの制服である重厚なコートを着込み、顔の下半分を覆う黒いマスクと、目深に被ったフードを身に着けたままであった。
防護と身分秘匿のためとはいえ、こんな窮屈な格好で寝ていては疲れも取れないだろう。
(……息苦しそうですね)
アーミヤの手が、無意識にドクターの顔へと伸びた。
普段は絶対に他人の前で素顔を晒さない彼。記憶を失う前の『バベルの悪霊』と呼ばれていた頃から、彼はその素顔を深い影の中に隠し続けてきた。
触れてはいけない領域。しかし、今この部屋には二人きり。そして彼は、自分に対して完全に無防備な状態で眠っている。
(ごめんなさい、ドクター。少しだけ……少しだけですから)
アーミヤは息を潜め、震える指先で、そっとドクターのフードを後ろへとずらした。
黒い布地が滑り落ち、乱れた前髪が露わになる。いつもフードに押し込められているせいで、少し癖がついた柔らかそうな髪。
続けて、彼女の指先は彼の口元を覆う防護マスクのフックへと触れた。 カチッ、という小さな音がして、ロックが外れる。
アーミヤは心臓が高鳴るのを抑えながら、ゆっくりと、そのマスクを顎の下へと引き下げた。
「………あっ」
露わになったドクターの素顔は青白い肌だった。目の下には、ケルシー先生に怒られるのも当然なほどに深く刻まれた隈。頬は少しこけ、唇はカサカサに乾燥している。
常に眉間に皺を寄せ、テラの理不尽な運命と戦い続けてきた男の、疲労と苦悩がそのまま刻み込まれたような、生々しい『一人の人間』の顔だった。
「……こんなに、疲れたお顔をして……」
アーミヤの胸が、ギュッと締め付けられた。
彼はいつも「マイ・ペンライ!」と笑って見せる。どんな激務も「余裕を超えた余裕」だと言って引き受ける。
けれど、その言葉の裏で、彼はどれほどの重圧を一人で背負い込んでいるのだろうか。自分を、ロドスの皆を守るために、どれだけの睡眠と安らぎを犠牲にしているのだろう。
(ドクターは、私の前では絶対に弱音を吐きません。私が心配しないように、いつも強い大人でいようとしてくれている)
アーミヤはそっと手を伸ばし、ドクターの頬に触れた。少しひんやりとした肌。けれど、その奥には確かな命の鼓動が脈打っている。
「……ずるいです、ドクター。私には『無理をするな』って言うのに、自分ばかり無理をして」
指先で、彼の眉間に寄ったシワを優しく撫でて伸ばしてあげる。 すると、ドクターの表情が少しだけ緩み、穏やかな寝息へと変わった。
『……アーミヤ……』
微かな寝言。自分の名前を呼び、守ると誓ってくれるその言葉に、アーミヤの瞳からぽろりと一粒の涙が零れ落ちた。
「……はい。知っています。ドクターは、いつもそう言ってくれますよね」
彼女はドクターの顔にそっと顔を近づけた。彼が起きないように、本当に静かに。
――チュッ。
アーミヤは、ドクターの少し荒れた額に、柔らかな誓いのキスを落とした。
「ありがとうございます、ドクター。……でも、これからは私にも、ドクターを守らせてくださいね。ドクターが苦しい時は、私が支えますから」
それは、彼が父親のように自分を守ってくれることへの感謝であり。
同時に、いつか彼の隣に並び立つ一人の女性として、彼を支えたいという静かなる決意の表れでもあった。
「……んん……」
不意に、ドクターが小さく身じろぎをした。アーミヤはハッとして、慌てて彼のマスクを元の位置に引き上げ、フードを被せ直した。
直後、ドクターのまぶたがゆっくりと開き、ぼんやりとした視線がアーミヤを捉えた。
「……ん? あれ……アーミヤ……?」
寝起きのしゃがれた声。ドクターは目を瞬かせ、自分がどこにいるのかを把握しようと周囲を見回した。そして、自分がアーミヤのベッドで、彼女と一緒に寝ているという事実に気づき、一瞬で顔面を蒼白にさせた。
「な、なんだあっ!? し、しまった! 添い寝してたら俺までガッツリ寝落ちしちまった! う、ウソやろ、こ……こんなことが許されていいのか!? 今何時や!?」
ドクターはパニックを起こし、バネ仕掛けのように跳ね起きた。
そのいつもの慌てふためく姿に、アーミヤはさっきまでのしんみりとした感情が吹き飛び、クスッと笑ってしまった。
「ふふっ。おはようございます、ドクター。安心してください、まだ数時間しか経ってませんよ」
「よ、よかった……! マジで肝が冷えたっス……! いや、俺としたことが、お前の寝顔見てたらすっかり安心して……」
ドクターは誤魔化すように頭を掻いた。
その時、彼はふとアーミヤの顔を見て、ホッとしたように目を細めた。
「……よく眠れたみたいやな、アーミヤ。最初よりずっといい顔しててリラックス出来ますね」
その優しい眼差しに、アーミヤの胸がトクンと鳴る。
マスクの奥の素顔を知っているのは、今は自分だけ。そう思うと、なんだか彼との距離がさらに縮まったような気がして、アーミヤの頬にほんのりと朱が差した。
「はい。ドクターがそばにいてくれたおかげです」
「ムフフ……それなら良かった」
ドクターは立ち上がり、大きく伸びをした。
「じゃあ俺はそろそろ戻るけど、アーミヤはまだ休んでていいっスよ」
「……ドクター、あの」
部屋を出て行こうとするドクターの背中に、アーミヤは声をかけた。
「ん?」
「あまり、無理はしないでくださいね。ドクターが倒れたら、私が……私たちが、悲しみますから」
その言葉に、ドクターは一瞬立ち止まり、振り返ってニカッと笑った。マスク越しでもわかる、いつもの頼もしい笑顔。
「マイ・ペンライ! タフって言葉は俺のためにある。俺なんてお前たちの未来を守るためなら、何度でも立ち上がってやる芸を見せてやるよ」
そう言って、ドクターはひらひらと手を振りながら部屋を出て行った。
パタン、とドアが閉まる。アーミヤは自分の唇にそっと指を当て、彼が寝ていたシーツの温もりを撫でた。
「やっぱり今のドクターって、少し変ですけど……でも、大好きです」
少女の小さな決意は、彼女の心をほんの少しだけ大人へと成長させていた。
△ ▼ △ ▼
アーミヤの私室を後にしたドクターは、ロドスの静かな廊下を清々しい足取りで歩いていた。
「はーっ、最高に気持ちのいい気分だよ。アーミヤの寝顔も見れたし、数時間とはいえ深い睡眠も取れた。俺の灰色の脳細胞も完全復活や!これで今日も一日、最強の指揮官としてロドスを回せるって寸法よ」
彼はコーヒーを取りに食堂へ向かいながら、首をポキポキと鳴らした。上機嫌でタフ語録を連発し、自画自賛モードに入るドクター。
だが、メインコントロール室が近づくにつれ、彼の大脳皮質の片隅で何かがチカチカとエラー信号を発し始めた。
「……ん?」
ドクターは足を止め、顎に手を当てた。
「なんか……めちゃくちゃ大事なことを忘れてる気がするのが俺なんだよね」
記憶の糸をたぐる。空調が壊れた執務室。三十五度を超える異常な室温。そこに乱入してきたブレイズ、イフリータ、ニェンの『灼熱三銃士』。
耐えきれずに自分がフロストリーフの元へ逃亡したこと。その後、ケルシーに捕まり、ラウンジで説教されたこと……。
『ティフォン! すまん、後で必ず助けを呼ぶから、それまで耐えてくれ!』
「……あっ」
ドクターの顔面から、再び全血液がサーッと引き潮のように消失した。
「ティ、ティフォン!? すっかりティフォンの事忘れてたけど大丈夫っスかね……!?」
そうだ。極寒の地サーミで育ち、暑さに極端に弱い彼女を、空調が壊れた上に火鍋の湯気が充満する密室に置き去りにしたままだった。
「後で必ず助けを呼ぶ」と言い残しておいて、その後ケルシーに捕まり、ウィシャデルに追われ、アーミヤに添い寝している間に完全に彼女の存在を猿空間送りにしてしまっていたのだ。
「ウ、ウソやろ、こ……こんなことが許されていいのか!? ティフォンが干からびてドライフルーツみたいになってまう!!」
ドクターは慌てて踵を返し、弾丸すべりのごとき凄まじいダッシュでメインコントロール室へと駆け戻った。
バンッ! と勢いよく気密扉を開け放つ。
「ティフォン!! 生きてるか!? 今すぐ氷水と塩分を――」
しかし、そこに広がっていたのは、灼熱地獄でも干からびた少女の姿でもなかった。室温は完璧な二十二度に保たれ、快適な冷気が循環している。
そして、執務机には復旧作業を終えたクロージャの手によって修理された空調の下、毛布にくるまり、点滴を打たれながら恨みがましい目でこちらを睨みつけるティフォンの姿があった。
その横には、クリップボードを持ったケルシーが、絶対零度の視線でドクターを待ち構えていたのである。
「あ……」
「……ドクター。遅かったな」
ケルシーの地を這うようなアルトボイスが、快適なはずの室内に極寒のブリザードを吹き荒れさせた。
「君が己の快楽と現実逃避のために逃走し、重篤な熱中症寸前のオペレーターを密室に放置した結果。私が彼女を発見し、緊急の冷却プロトコルと電解質補給を行うハメになったことについて。まさか『すっかり忘れていた』などという、大脳皮質の完全な腐敗を証明するような言い訳を口にするつもりはないだろうな?」
「い、いや! 違うんスよケルシー! これは不可抗力というか、俺もいろいろあって……マジで悪かったっス!
で、でも怒らないでくださいね、俺にも深い事情があったんですよ! あの後だぶちの胸揉んだ後、アーミヤと同衾しただけで……」
「Mon3tr、やれ」
「ギャァァァアァァァァァァーーー!!?」
懲りずに今日も今日とてケルシーにシバかれるドクター。彼が自らの行いを省み、真の意味で「タフ」な指揮官へと成長する道のりは、まだまだ果てしなく遠いようだ。