マネモブドクターがケルシーに「ヤらせろ」と言ったら説教で夜が明けたんスけど……いいんスかこれ 作:異常長文構築者
今作でついに三万文字超えたんだよね怖くない?シリアスとか回想シーンでケルシー構文挟みたくなって長文になるのは仕方ない本当に仕方ない……平均文字数が徐々に上がってるからバランスは取れてるんだけどね
"異常ケルシー愛者"としてそろそろお墨付きを頂いていいスか師匠……コキ
「……で? そういえば結局のところ、アンタのその頭の悪すぎる喋り方はどこから来てるわけ?」
肘を机につき、退屈そうに人差し指で手榴弾の安全ピンを弄びながら口火を切ったのは、ウィシャデルであった。赤黒いフードの隙間から覗く琥珀色の瞳には、あからさまな嘲弄と、それ以上に純粋な不審の色が浮かんでいる。
「ドクターを救出したばかりの頃は、今のように不思議な言葉を使われることはありませんでした。チェルノボーグの石棺から目覚めた当初は、もっと寡黙で、思慮深く……とても頼りになる指揮官だったんです。それが、いつの間にか……」
アーミヤが眉を八の字に曲げ、困惑を隠せない様子で両耳をペタリと伏せる。彼女の手元にある記録簿には、初期のドクターの理知的な発言ログと、「語録」で埋め尽くされた奇妙怪烈な日報が並んでおり、その落差はもはや別の生命体の記録としか思えない代物だった。
「確かに石棺から出た辺りや、バベルで活動していた頃までは普通だった気がするっスね。どうして言語野が猿に支配されてるの? 本当になぜ……?起源はどこなんスかね……?」
当の本人であるドクターは、自らの顎に手を当て、他人事のように首を傾げた。己の口から滑り出る「〜っス」「〜ヤンケ」「猿」といった語彙の数々に、もはや何の違和感も抱いていない。完全に脳のシナプスが不可逆の変質を遂げている証拠であった。
「自分で覚えてないの? ホントにバカね……」
「いつの間にか自分の中で自然と定着してて、忘れてるのかもしれないね。気づいたら『タフって言葉は俺のためにある』って信じて疑わなくなってたし」
「完全に洗脳されてるじゃないの。……ねぇ、ケルシー。アンタなら、このバカの脳内で何が起きたか知ってるんじゃないの?」
ウィシャデルが呆れ返ったように視線を投げた先。
部屋の最も深い影の中に直立し、手元のクリップボードにペンを走らせていたロドスの医療統括者――ケルシーが、ゆっくりと顔を上げた。
そのエメラルドの双眸は、いつものように感情を削ぎ落とした氷点下の静けさを湛えながらも、どこか測り知れない疲労と諦念の光を帯びていた。
「……自分で覚えてないのか」
「いつの間にか自分の中で自然と定着してて忘れてるのかもしれないね」
ドクターが呑気に肩をすくめると、ケルシーは小さく、だが執務室の空気を微震させるほどの深いため息を一つ零した。彼女は手にしていたカルテを机上に置き、白衣のポケットに両手を差し入れながら、静かに、そして圧倒的な情報量を伴う「講義」の態勢へと移行した。
「……彼の言語野の変異については、明確な発生時期と原因が特定されている――テラ歴1096年、12月23日。君がチェルノボーグの石棺から救出され、ロドス本艦へと帰還して間もない頃の話だ」
「おっ、年表通りの正確な導入やんケ」
「茶化すな。当時の君は、記憶喪失という重度の精神的ブランクを抱えながらも、ロドスの指揮官としての責務を果たすべく、連日連夜にわたり戦術シミュレーションを繰り返していた。……その結果、何が起きたか覚えているか?」
「え……? まさか、過労でぶっ倒れたとか……?」
「へぇ? 何があったって言うのよ」
「数週間が経過したある日、彼は連日の激務と記憶喪失によるストレスで、いわゆる『理性ゼロ』と呼ばれる深刻な精神的枯渇状態に陥っていた。その深夜、あろうことかPRTSの深層ネットワークに不正アクセスを行い、テラにおける通信網のファイアウォールを偶然にも突破し……未知の次元、別の概念宇宙の電子掲示板群、その中の『TOUGH』という局地的なカテゴリーへと接続してしまったのだ」
「電子掲示板……ですか?」
アーミヤが目を丸くする。
「そうだ。そして彼は、そこで交わされていた『タフ語録』という極めて特異で感染力の高いミーム言語と、『高校鉄拳伝タフ』『TOUGH』という劇画群の電子データを一晩で読み込み大量に摂取してしまった。結果として、疲労で脆弱になっていた彼の大脳皮質は、その粗暴だがどこか人間臭い『マネモブ』たちの語彙力によって完全に上書きされてしまったというわけだ」
「俺のこの『タフ語録』のルーツが、深夜のネットサーフィンによる異世界からの電波受信だったなんて哀しき過去……」
「哀しくもなんともないわよ、ただのアホじゃないの!」
ウィシャデルが腹を抱えて笑い出した。
「深夜のネットで変な漫画の言葉に被れて、そのまま治らなくなりましたって、中二病をこじらせたガキ以下じゃない! はぁーっ、傑作ね!『悪霊』の成れの果てが、ネット掲示板の猿のモノマネだなんて!」
「ククク……」
「で、ケルシー。アンタはそれが原因だって分かってて、なんで放置してたのよ。アンタの得意な『脳の物理的切除』とやらで治せばよかったじゃない」
ウィシャデルが涙を拭いながら尋ねると、ケルシーの指先が、ほんの一瞬だけピクリと止まった。
そして、彼女はわざとらしく喉を鳴らし、ファイルを閉じた。
「放置したわけではない。当然、彼の大脳の異常状態を解消するためのアプローチは試みた」
「へえ?」
「だが……未知のミーム言語によって構築された彼の新たな思考ロジックを解析するためには、私自身もその『語録』の体系と、発信源である掲示板の構造を理解する必要があった。敵を知らねば、適切な治療プロトコルは組めないからな。これは医療従事者としての当然のアプローチだ」
ケルシーの語り口はいつも通り流暢で、論理的であった。
しかし、付き合いの長いドクターの『マネモブの直感』は、彼女の言葉の端々に微かな不自然な揺らぎを感知していた。
「……いや、ちょっと待てよ」
ドクターは目を細め、ケルシーをじっと見つめた。
「そういえば、ケルシー。お前、たまに俺のタフ語録に対して、めちゃくちゃ完璧なカウンターや改変語録を使ってくる時があるっスよね」
「……何の話だ」
「この前の俺への説教の時、『忌憚のない意見ってやつだ』とか、タフカテに現れた時『はっきり言ってそれは病気だから、放置すれば組織が死ぬよ』とか、明らかにタフ語録の用法・用量を完璧に理解して使ってたヤンケ」
ウィシャデルが、面白すぎる獲物を見つけた狩人のような顔でケルシーににじり寄った。
「ちょっとケルシー……アンタ、まさか……」
「…………」
ケルシーは無言のまま、視線を窓の外の雲に向けた。だが、そのエメラルドの瞳の奥が、かつてないほど激しく動揺しているのを、ドクターは見逃さなかった。
「まさかお前……俺の思考を理解するとかいう名目で、自分も『TOUGH』全巻読破して、さらにはあの『タフカテ』にどっぷり入り浸ってるんじゃないスか……!?」
「……」
「しかも、あそこによく湧く『異常長文愛者』とか『野生のケルシー』って呼ばれてる、無駄にクオリティの高い長文お気持ち表明レスをしてる奴……あれ、ケルシー本人なんじゃないのか教えてくれよ!」
ドクターの追及に、空気がピタリと凍りついた。
ウィシャデルは腹を抱えて爆笑する一歩手前で肩を震わせ、アーミヤは「先生が、ネットの掲示板で……?」と信じられないものを見る目を向けている。
沈黙が三秒続いた後。
ケルシーはゆっくりとドクターの方に向き直り、どこか早口なアルトボイスで捲し立て始めた。
「……ドクター。君は事象の因果関係を根本的に誤認している。私がその『タフカテ』なる外部情報ネットワークにアクセスしたのは、あくまで君という個体の深刻な精神汚染の進行度を客観的かつ定量的に測定するためであり、決して私自身がその粗悪なミーム文化に傾倒・あるいは娯楽として消費しているわけではない。私が匿名のアカウントを用いて彼らの掲示板に特定の言語出力を投下したのは、君が頻繁に使用する『タフ語録』という極めてコンテクストの狭い言語体系において、彼ら――いわゆる『マネモブ』と呼ばれる観測群が、いかなる論理的負荷を与えれば自己崩壊、あるいは自己組織化の修正を図るのかという社会実験のサンプルを収集するためだ。私が『野生のケルシー』などという俗称で呼ばれている事実についても、それは彼らが勝手に私という強大な概念を模倣し、あるいは畏怖の対象として祭り上げた結果に過ぎず、私が彼らと馴れ合っているわけでは断じてない。ましてや、私が『この掲示板の混沌とした語録の応酬は、案外テラの政治闘争よりも知的で興味深い現象かもしれないな』などと内心で好感を抱き、日々の業務の合間に密かにリロードボタンを押してレスの反応を楽しみにしているなどという事実は、断じて、絶対に、一ミリグラムも存在しないのだからな」
「語るに落ちてるヤンケーーーーッ!!」
ドクターは盛大にツッコミを入れた。
「完全にタフカテの住人になっとるやないか! しかも『レスの反応を楽しみにしている』って自分で言っちゃってるし!お前、絶対深夜に『ククク……ひどい言われようだな、まぁ事実だからしょうがないけど』とか書き込んでニヤニヤしてるタイプやろ!!」
「アハハハハハハッ!!」
ウィシャデルがついにこらえきれず、腹を抱えて大爆笑し始めた。
「サイッコーね!あの冷徹無比なロドスの大黒柱様が、夜な夜な地球のネット掲示板で顔の見えないオタクたち相手に長文でレスバして、承認欲求満たしてるとか!傑作すぎるわ!なにが『悪魔を超えた悪魔』よ、ただの『ネット廃人のババア』じゃない!!」
「……ウィシャデル。君のその無礼な発言を、今の私はMon3trによる『背骨の完全な摘出』という形で回答する準備ができているが、それでも続けるか?」
ケルシーの背後で、物理的に空間が歪むほどの殺気が膨れ上がった。
しかし、ウィシャデルは涙を拭いながら全く怯む様子はない。
「やってみなさいよ! あたしが死ぬ前に、全ロドスの通信ネットワークに『ケルシーのIPアドレス履歴一覧』を大拡散してやるから!」
「君という女は……ッ!」
ケルシーの頬が、珍しく、本当に珍しく、僅かに朱に染まっていた。
数万年を生きてきた彼女の『完璧な知性』という装甲が、ネット掲示板でのレスバという極めて俗物的な恥部を暴かれたことで、完全にメルトダウンを起こしかけているのだ。
「ケルシー先生……」
アーミヤが、なんとも言えない生温かい目でケルシーを見つめている。
「別に、趣味を持つのは良いことだと思います。……ただ、あまり夜更かしして掲示板に入り浸るのは、お肌にも良くないですし、ほどほどにしてくださいね?」
「ア、アーミヤ、違う。これは趣味ではなく、あくまで学術的な……」
「いいえ、分かっています。ドクターの言葉を理解しようと、そこまで身を削ってくださっていたんですよね。先生はやっぱり、不器用で優しいです」
アーミヤのトドメの『純真な気遣い』が、ケルシーの精神的防壁を完全に貫通した。
ケルシーはクリップボードで自身の顔の下半分を覆い隠し、深く、深いため息を吐き出してそっぽを向いた。
「……もういい。君たちとこれ以上非論理的な会話を続けるのは、私の時間の浪費だ」
「マネモブ達と付き合ってケルシーが明るくなった!俺も嬉しいぜ!」
「ドクター。次その口を開いたら、今後の君の点滴の成分を純度100%のタバスコ抽出液にすり替えるぞ」
ドクターは即座に口にチャックをした。
ケルシーは依然として顔を隠したまま、足早に扉へと向かう。
だが、扉を開けて出て行く直前、彼女は立ち止まり、背中越しながらもドクターたちに向けて言い放った。
「言っておくが、ドクター。私が君のその『猿の言語』を理解しているということは、君が今後、いかなるスラングを用いて己の怠慢やセクハラを誤魔化そうとも、私には全ての文脈が正確に翻訳され、逃げ道を塞ぐための完璧な『反論語録』を用意できるということだ。……今日から、君の逃げ場はテラにも、あの掲示板にも存在しないと思え」
「俺の唯一のオアシスが、完全に制圧されてるけど……いいんスかこれ」
「はぁ……ドクター。私が払ったその膨大な時間的機会損失の責任を、君は自覚すべきだ。それに本日のスケジュールにおいて、君にはこれから二つの極めて重大な戦略会議が控えているはずだ。第一に、ブラックスチール・ワールドワイドとの定期安全保障協定の見直し会議。第二に、ライン生命との合同科学研究プロジェクトの進捗確認カンファレンスだ。……言っておくが、どちらの陣営も我がロドスにとって極めて重要なパートナーであり、かつ極めて優秀で真面目な人材が揃っている。君のその言語的退行が、両社との外交的軋轢を生むトリガーとならぬよう、最低限の自制を求める」
「マイ・ペンライ! これでも私は慎重派でね。相手に合わせて会話を合わせる芸を見せてやるよ」
「……その根拠のない自信こそが最大の不確定要素だと、何度言えば理解するのか」
ため息を吐き、ケルシーはパタンと扉を閉めて去っていった。
「……でもまぁ、これで少しはアンタのそのバカみたいな口調も、マシになるんじゃないの?」
「どないする?まあケルシーがタフカテの住人になったってことは、いつかあいつと『語録縛り』でチェスみたいな高度なレスバができる日が来るかもしれないからええやろ」
「……本当に、ドクターは懲りませんね」
△ ▼ △ ▼
ロドス・アイランド本艦、第三作戦会議室。
無機質な金属の壁に囲まれたその空間は、冷徹なLED照明によって隅々まで照らし出されていた。中央に鎮座する巨大なホログラム・テーブルには、直近の作戦地域であるクルビア辺境の立体地図が投影され、赤と青の光点がせわしなく点滅を繰り返している。
空気は重く、そして極めて真面目であった。
テーブルを挟んでドクターの対面に座っているのは、ブラックスチール・ワールドワイド──BSWから派遣された精鋭たちである。
「――以上が、B.P.R.S.が担当したセクターDにおける感染生物群の掃討および、現地民間人の避難誘導プロセスに関する最終報告です。事前のシミュレーションと比較し、作戦遂行時間の遅滞はわずか三パーセント以内に収まりました。ですが、敵性ユニットの想定外の増援に対し、戦線の維持に一時的な負荷がかかったことは否めません。次回の協同作戦においては、予備兵力の拡充を提案します」
背筋をピンと伸ばし、手元のデータパッドから一切視線を逸らさずに淀みなく報告を読み上げたのは、BSWの哨戒衛士・リスカムだった。
彼女の生真面目な性格は、その一挙手一投足に表れている。制服にシワ一つなく、角の先まで神経が行き届いたような隙のなさ。彼女が放つ「仕事人」としてのオーラは、この部屋の空気をピリッと引き締めていた。
そんなリスカムの完璧な報告に対し、ロドス・アイランドの作戦指揮官たるドクターは、深く頷き、両手を顎の下で組んだ。
彼もまた、数々の戦場をくぐり抜けてきた伝説の指揮官。その口から放たれるのは、本来なら戦術の深淵を突く鋭いフィードバック――のはずであるが。
「ウム……見事やな……」
「…………はい?」
リスカムが、データパッドから顔を上げ、きょとんとした表情を浮かべた。
「いやぁ、リスカムの盾が前線を完全に支えきってくれたおかげで、被害は最小限に抑えられた。ハッキリ言って、あの状況で戦線を維持できたのはBSWの練度の高さあってのものだ。お見事ですリスカムボー、やはり私がにらんだ通りあなたは強い重装だ」
「……ドクター。その『ボー』というのは何ですか?
……いえ、今はそれはいいでしょう。評価していただき光栄ですが、あくまでこれは私の職務ですから」
リスカムは小さくため息をつきつつ、ドクターの奇妙な言語センス――いわゆる『タフ語録』を華麗にスルーした。ロドスに駐在してそれなりの時間が経つ彼女にとって、ドクターのこの謎の口調はもはや日常茶飯事である。
最初は本気で心配して医療部に掛け合おうとしたリスカムだったが、今では「こういう話し方をする人なのだ」と適応しているらしい。
「ククク……リスカムは相変わらず真面目ッスね。でもね、俺、そういう融通の利かない堅物なところ……嫌いじゃないんだよね、可愛くて」
「なっ……か、可愛いだなんて、仕事中に不適切な発言は控えてください! 私はBSWのプロとしてここに――」
「あははっ、リスカム、耳まで真っ赤になってるわよ? ドクターにからかわれて余裕がないんじゃないの?」
隣でクスクスと笑い声を漏らしたのは、リスカムの長年の相棒であり、自由奔放なヴァルポの剣士・フランカだった。
彼女は椅子の背もたれに寄りかかり、足を組みながら、ドクターに向かってウインクを飛ばした。
「でも、ドクターの言う通りよ。あたしがテルミットレイピアで敵の装甲を紙切れみたいに切り裂けたのも、リスカムがしっかりヘイトを買ってくれたからだもんね。まぁ、ドクターの指示のタイミングも『刺激的でファンタスティック』だったわ。さすがはロドスの頭脳ね」
「フランカにそう言ってもらえると、俺の戦術指揮も報われるってもんや。敵の装甲を防御無視でブチ抜くあの剣技……まさに“斬るッ”と言うより“溶かすッ”と言う感覚。人間の骨なんて一太刀で切断する熱量の斬撃……ホントに頼りになるっス」
「ふふっ、褒めても何も出ないわよ? でも、ドクターがそう言ってくれるなら、次も特別に頑張ってあげてもいいかな」
「フランカ! ドクターに対して馴れ馴れしすぎます。それにドクターも、あまりフランカを甘やかさないでください。彼女はすぐ調子に乗るんですから」
リスカムが慌てて二人の間に割って入ろうとするが、そのやり取りを静かに見守っていたもう一人のBSWオペレーターが、控えめに口を開いた。
「あの……リスカム先輩、フランカ先輩。お二人とも、あまりドクターを困らせてはダメですよ」
かつての気弱な少女の面影を残しつつも、過酷な開拓地での経験を経て、逞しさと落ち着きを身につけたフェリーンの女性――ジェシカであった。
彼女は『滌火』の名を冠するほどの成長を遂げ、今では立派な哨戒衛士として戦線を支える存在となっている。
「ジェシカ……お前は本当に立派になったよな。昔はいつも『私が足を引っ張ってごめんなさい』って泣きそうになってたのに、今じゃ機動防盾を駆使して敵の砲火を真っ向から受け止めるタフな女に成長した。見事やな……」
ドクターが感慨深げに目を細めると、ジェシカは照れくさそうに、しかし嬉しそうに微笑んだ。
「そ、そんな……タフだなんて。私はただ、皆さんが後ろにいる限り、一歩も引きたくないって思えるようになっただけです。それに、ドクターがいつも私を信じて、的確な指示をくださるから。私は、迷わずに引き金を引けるんです」
ジェシカの瞳には、ドクターに対する絶対的な信頼と、隠しきれない深い好意が宿っていた。
かつて彼女が自己評価の低さに押し潰されそうになっていた時、「弱いって事は、もっと強くなれるって事やん」と励まし続けてくれたのは、他でもないドクターだったのだ。
「ジェシカ、お前は光のある所へ行けっ。お前はもっと広い世界で生きて行く人間なんだ!BSWの枠に囚われず、お前の信じる正義を貫け……俺はいつでもお前をサポートするからな」
「はいっ……! ありがとうございます、ドクター!」
ジェシカの背筋がピンと伸び、その顔には誇らしげな笑みが浮かぶ。
その光景を見て、リスカムは小さくため息をつきながらも、どこか安堵したように目尻を下げた。
「……まったく。ドクターのその口調には未だに慣れませんが、あなたがジェシカをここまで引き上げてくれたことには、心から感謝しています。……もちろん、私とフランカに対する配慮についても」
「当然やろ。BSWの協力なしにロドスの未来は語れないっスから。これからもよろしく頼むッス」
「ええ。安保条約の期間内はもちろん、それ以降も……私たちにできることがあれば、いつでも頼ってください。ドクター」
リスカムは深く頭を下げた。フランカも「いつでも呼んでよね」とヒラヒラと手を振り、ジェシカは名残惜しそうにドクターを振り返りながら、三人は会議室を後にした。
パタン、と気密扉が閉まる。
BSWという「極めて真面目でプロフェッショナルな陣営」との会議を、タフ語録の連発という荒業で乗り切ったドクターは、大きく伸びをした。
「ふぅ……なんとか終わったな。さて、次はライン生命組との共同プロジェクトの進捗会議か……これもまた、一筋縄じゃいかない相手ばかりだからな」
ドクターが端末のスケジュールを確認していると、間髪入れずに再び扉が開いた。
「待たせたな、ドクター」
入室してきたのは、ライン生命の元警備課主任にして、圧倒的な防御力と物理・アーツ双方の格闘能力を併せ持つヴイーヴルの女傑――サリアだった。
彼女の歩みは静かだが、その存在感は重厚な岩山のように部屋の空気を制圧する。彼女の後ろからは、二人の女性が続いて入ってきた。
「こんにちは、ドクター。今日もいいお天気ね。なんだかラボにいるのがもったいないくらい」
一人目は、ライン生命アーツ応用課主任のドロシー。
彼女は柔和な笑みを浮かべ、ザラック特有の大きな耳をパタパタと揺らしながらドクターに手を振った。彼女の身にまとう空気は非常に優しく、母性的ですらあるが、その裏に潜む「すべての人を幸せにしたい」という狂気じみた理想主義を、ドクターはよく知っていた。
「やっほー、ドクター! 」
そして二人目。 軽やかな足取りで、まるで水面を滑るようにドクターのそばに寄ってきたのは、ライン生命生態課主任のミュルジスだった。
エルフという稀少な種族である彼女は、透き通るような肌と瑞々しい緑の髪を持ち、その美貌は見る者を息を呑ませるほどだ。しかし彼女のドクターに対する距離感は、他の誰よりも――異常なまでに近かった。
「おっ、ライン生命の三大主任揃い踏みか」
ドクターがいつもの調子で出迎えると、サリアは呆れたように腕を組んだ。
「……相変わらず、意味不明な言語体系を用いているな、ドクター。君のその口調がストレスに起因する大脳の器質的バグなのか、それとも意図的な暗号化プロトコルなのか、未だに判断に迷うところだ。だが、仕事に支障がない限りは目をつぶろう」
「ククク……ひどい言われようだな。まぁ事実だからしょうがないけど。で、今日の議題は?」
「ドロシー主導の『共振装置』を用いた、防衛ラインの自律化プロジェクトについての進捗報告だ」
サリアの言葉を受け、ドロシーが嬉しそうにデータパッドをホログラム・テーブルに接続した。
「ええ、聞いてちょうだいドクター。私の開発した罠の指向性爆発とバインド効果を、ロドスの自動防衛システムに組み込むテストが最終段階に入ったの。これが完成すれば、オペレーターを危険な前線に配置しなくても、多くの敵を無力化できるようになるわ。誰も傷つかず、みんなが安全に、幸せになれる……素晴らしいと思わない?」
ドロシーの瞳が、純粋すぎる熱意でキラキラと輝いている。彼女の根底にある「サバイバーズ・ギルト」から来る善意は、時として倫理の壁を容易く越えようとする危うさを持っていた。
「なるほど……流砂生成によるバインドと、高周波共振による連鎖爆発か。確かにこれは戦術的にめちゃくちゃ有用だ。罠を敷き詰めて敵を完封する……想像してみろ、敵の軍勢が一瞬で消え去る姿を。エグいなんてもんじゃない」
「ふふっ、でしょ? ドクターならわかってくれると思ったわ!」
ドロシーが顔を綻ばせると、サリアが低く厳しい声で割り込んだ。
「待て。ドクター、安易に承認するな。彼女の罠の出力は、現在ロドスが定めている安全基準を二〇パーセント超過している。無人防衛システムとはいえ、誤作動時の被害半径を考慮すれば、現状のまま実戦投入するのは倫理的にも戦術的にもリスクが大きすぎる」
「でも、安全性はちゃんと担保してるわよ? ドクター、あなたはどう思う?」
ドロシーがすがるような目でドクターを見つめる。サリアもまた、厳しい眼差しでドクターの決断を待っている。
「まぁ細かいことは気にしないで」
ドクターはバンッ、とテーブルを叩き、二人の視線を受け止めた。
「出力が強すぎるなら、設置エリアをレッドゾーンに限定し、味方の侵入禁止プロトコルと連動させればいい。ドロシーの技術力は俺が一番信用してる。そして、それを制御するための安全装置の設計は、サリア、お前に一任するっスよ。お前たちの才能が合わされば、リスクなんてチャラに出来るし圧倒的な技術力は倫理の壁を越えた最適解を生み出せるはずやろ?」
サリアは一瞬目を見開いた後、小さく息を吐いた。
「……相変わらず、無茶苦茶な采配だ。だが、理にはかなっているな。ドロシーの技術を否定せず、安全性の担保を私に委ねるというのなら、やってみせよう。私がいかなる暴走も抑え込んでみせる」
「本当!? ありがとうドクター! やっぱりあなたは、私の夢を理解してくれるのね……! 私、あなたのためにもっともっと頑張るわ!」
ドロシーは感極まったようにドクターの手をぎゅっと握りしめた。その温かく柔らかい手の感触に、ドクターは「あざーす!」と内心でガッツポーズを決めた。
「……さて。報告事項は以上だ。私はすぐに安全装置の設計に入る。行くぞ、ドロシー」
「ええ、わかったわ。じゃあねドクター、また後で……ふふっ」
サリアは足早に会議室を去り、ドロシーも名残惜しそうに手を振りながらその後を追った。
扉が閉まり、会議室には再び静寂が訪れる――はずだった。
「……はい、お仕事終わりーっ!」
パチン、と。
ドクターの真横で、心地よい水の弾けるような音がした。
いつの間にか、いや、会議の最初からずっとドクターの真横のパーソナルスペースに陣取っていたミュルジスが、背伸びをしながらドクターの肩にコテンと頭を乗せてきたのだ。
「ミュルジス……隣を陣取ってくるのはやめて欲しいのが俺なんだよね」
ドクターは、肩から伝わる柔らかな重みと、瑞々しい清流のような彼女の体香に内心ドキドキしながらも、あえてタフ語録で苦言を呈した。
「えー? なんで? あたしとドクターの仲じゃない?」
ミュルジスはドクターの肩に顔を擦り付けながら、悪戯っぽく上目遣いで彼を見つめた。
エルフという長命種でありながら、彼女の表情は年相応の少女のようにコロコロと変わり、その瞳にはドクターに対する底知れぬ親愛と、少しの独占欲が渦巻いている。
「それはそうなんスけど……会議中ずっと俺の横に張り付いて、サリアやドロシーが喋ってる間も俺の袖を引っ張ったり、指を絡ませてきたり……ハッキリ言って集中力が削がれてヤバかったんだよね」
「ふふっ、ごめんね? でも、ドクターが真面目な顔してサリアたちと話してるのを見てたら、なんだか無性に触りたくなっちゃったの。だって、あたしのドクターなんだもん」
『あたしのドクター』。
その言葉の重みに、ドクターはゴクリと唾を飲み込んだ。
ミュルジスとドクターの関係は、ライン生命の他のどのオペレーターとも異なっている。
孤星と呼ばれるトリマウンツでの大事件。親友であったクリステンを宇宙へと見送り、星の庭から落下していく絶望の中で、全てを諦めかけていたミュルジス。
その彼女に対し、「生きろ」と手を差し伸べ、彼女を『泡沫』の孤独から引っ張り出したのは、他でもないドクターだったのだ。
あの日以来、ミュルジスのドクターに対する感情は、単なる協力者や友人という枠を大きく逸脱していた。
『ドクターはあたし達の希望だけど……そういう繋がりがなくても、あなたはあたしを泡沫から引っ張り出してくれた人なの。まだ繋がれているっていうのに、どうしてこの手を離せるかしら?』
そう言って、彼女から手を繋いできたあの日の体温を、ドクターは今でも鮮明に覚えている。
それからの彼女の猛アタックは、まさに怒涛であった。
オフの日に「ファッションに詳しくないから洋服買うの手伝って欲しい」と誘われ、ドクターが「俺も服には無頓着だから役に立たないスよ」と断ろうとすれば、「それならお互いに相談できるからちょうどいいわ。あなたが他の格好をしているところも見れるしね」と余裕のカウンターでデートに連れ出された。
ドクターがプレゼントを贈れば、「お返しに映画に行きましょう」と薄暗いシアタールームで肩を寄せ合った。
彼女のスケジュール管理すらも「全部ドクターにお任せするわ。あなたが書いたメモの通りに行動するんだからね」と、文字通り己の時間を全てドクターに預けてくる始末。
「ねえ、ドクター」
ミュルジスの冷たくて柔らかい指先が、ドクターの顎に触れた。
「唇、乾燥してるわよ。皮が剥けちゃってる」
「えっ? ああ……最近、書類仕事ばっかりで水分補給を怠ってたから……」
「ダメよ。普段からお水をたくさん飲まなきゃ。……ん〜、はい、これ。あたしのリップクリームをあげる」
ミュルジスはポケットから、使いかけのミントの香りがするリップクリームを取り出し、ドクターの唇に直接、優しく塗り始めた。
指先が触れるたびに、彼女の体温と甘い吐息が至近距離でドクターの理性を揺さぶる。
「あ、あざーっス……」
「ふふっ。後で同じものを買って返してくれればいいからね。そうそう、あたしはこのブランドのしか使わないの。間違えないでね?」
「わかってるっス。お前のお気に入りのミントのやつやろ? 買い出しの時に買っておくよ」
「ありがと。……でも、本当はね」
ミュルジスの顔が、さらに近づく。彼女の潤んだ唇が、ドクターの顔のすぐ数センチ手前で止まった。
「リップクリームなんて塗らなくても、あたしの『水』で潤してあげてもいいのよ?」
「なっ……なんだあっ!?」
ドクターの心臓が早鐘のように鳴り始めた。
エルフである彼女の身体は、その多くが水で構成されている。彼女の言う『水で潤す』というのが、文字通りのアーツによる水分補給なのか、それとも───唇と唇を重ねるという『物理的な水分補給』を意味しているのか。
「お、怒らないでくださいね。俺、そういう展開には免疫がなくて……」
「ふふっ、冗談よ。ドクターってば、すぐに顔が赤くなるんだから可愛いわね」
ミュルジスはコロコロと笑いながら身体を離したが、その瞳の奥には明らかな熱が宿っていた。
彼女はドクターの隣の椅子に座り直し、彼の手に自分の手をそっと重ねた。
「ねえ、ドクター。最近、あたし本当に幸せなの。ライン生命の仕事も順調だし、こうして毎日ドクターの顔を見られるし……。クリステンがいなくなって、あたしは一人ぼっちになっちゃうかと思ったけど……あなたがいてくれたから、あたしは枯れずに済んだわ」
「ミュルジス……」
「だからね、ドクター。もしあなたが疲れた時は、いつでもあたしに頼ってね?」
彼女の言葉は、自己犠牲すら厭わないほどに重く、そして甘かった。 ドクターは彼女の手をギュッと握り返し、精一杯のタフ語録で応えた。
「ああ、頼りにしてるぜ。お前がいれば、どんな困難も乗り越えられる。お前は俺にとって、ただの協力者じゃない。……俺の大切な相棒なんだからな」
「相棒……か。ふふっ、今はそれで我慢してあげるわ」
ミュルジスが幸せそうに微笑み、再びドクターの肩に頭を乗せようとした――その時であった。
――プシュッ。
気密扉が開く音が、甘い空気を切り裂いた。
「ドクター、先ほどの資料の中に一つサインが漏れているものが……あら?」
扉の前に立っていたのは、先ほど退室したはずのドロシーだった。
彼女の手にはバインダーが握られていたが、その視線は、ドクターの手をしっかりと握り、彼に寄り添っているミュルジスの姿に釘付けになっていた。
「あ……ドロシー! いや、これはその、違うんスよ!」
ドクターは慌てて手を離そうとしたが、ミュルジスは逆にキュッと指を絡ませ、絶対に離そうとしなかった。
「何が違うの、ドクター? あたしたち、ただ『お話し』してただけじゃない」
ミュルジスはドロシーに向かって、余裕たっぷりの――しかし、明確な『女としてのマウント』を含んだ笑みを向けた。
「ごめんなさいね、ドロシー。ドクターは今、あたしとの大事なミーティング中なの。サインなら後で彼に届けさせるから、今は邪魔しないでくれるかしら?」
「…………」
ドロシーの表情から、いつもの柔和な笑みが消えた。 彼女の大きなザラックの耳がピクリと動き、その瞳の奥に、暗く、重たい感情が渦巻くのが見えた。
「……ミュルジス。あなたこそ、ドクターの業務の邪魔をしているんじゃないかしら? 彼はロドスの最高指揮官なのよ。あなた一人が独占していい存在じゃないわ」
「あら、あたしは彼をサポートしてるのよ? 彼のスケジュールはあたしが管理してるし、彼の唇のケアだってあたしがしてあげてるんだから。ねえ、ドクター?」
ミュルジスがドクターの顔を覗き込み、先ほど塗ったばかりのリップクリームで艶めく彼の唇を指差す。
それを見たドロシーの目が、カッと見開かれた。
「り、リップクリーム……? ドクター、あなたミュルジスと間接……」
「誤解や!これは純粋な医療的処置であって、決して邪な意味は……!」
ドクターの弁明も虚しく、ドロシーはバインダーを抱きしめ、ズカズカとドクターの反対側の隣へと歩み寄ってきた。
「私だって……私だってドクターに、支えてあげるって言われたわ。ねぇドクター?」
ドロシーの声は震えていたが、その言葉の重さはミュルジスに引けを取らなかった。
「私が夜中にラボで孤独に震えていた時、ドクターは『私が支えになる』って言ってくれたじゃない!みんなを幸せにしたいっていう私の夢を、一番理解してくれたのはドクターよ! それなのに……どうしてミュルジスとそんなに仲良くしてるの……?」
「ドクターは優しいから、誰にでもそう言うのよ。でもね、ドロシー。あたしたちの間には、誰にも入り込めない特別な繋がりがあるのよ」
「そんなの……関係ないわ! ドクターは私と似た者同士なんだから! 私の『夢』には、ドクターが必要なの!!」
右からはミュルジスがドクターの右腕を抱え込み、左からはドロシーがドクターの左腕をガッチリと掴んだ。。
「いやちょっと待てよドロシー! ミュルジス! 板挟みヤンケ!!」
ドクターの悲鳴が、会議室に虚しく響き渡る。
「ドクターはあたしがスケジュール管理してるんだから、リップクリームくらい塗ってあげるのは当然でしょ?」
ミュルジスはドクターの腕を豊満な胸元に押し当てながら、勝ち誇ったようにドロシーを見据えた。エルフ特有の美貌に浮かぶ挑発的な笑みは、女としての余裕とマウントの意思で満ち溢れている。
「……リップクリームを塗ったくらいで、彼の全てを理解した気にならないでちょうだい」
だが、ドロシーも負けてはいなかった。
普段の柔和で慈愛に満ちた表情の裏に隠された、研究者特有の偏執的な一面。それが今、ドクターという『唯一の理解者』を巡って完全に火を噴いていた。
「映画なら一緒に見た事あるし、私もドクターには良くしてもらってるわ」
ドロシーは、ミュルジスの視線を真っ向から受け止め、静かに、だが確固たる自信を込めて言い放った。
「……へぇ?」
ミュルジスのエメラルドの瞳が、スッと細められる。
彼女の周囲の空気が、微かに湿気を帯びて冷たくなった。室内の水分がアーツの波動に呼応して微小な揺らぎを見せている。
「映画に行ったくらいで?それって単に、ドクターが誰にでも優しいから付き合ってくれただけじゃないかしら。あたしなんて、お休みの日に服選びまで手伝ってもらって、お互いに相談し合う仲なのよ?……で、具体的にはどんな風に『良くしてもらった』って言うのよ?」
「ふふっ、それじゃ話してあげるわ」
ドロシーはドクターの左腕を抱きしめる力をさらに強め、その温もりを自らの心に刻み込むように目を閉じた。 彼女の脳裏に、鮮明に蘇る記憶の欠片。
――それは、ロドス本艦がトリマウンツの郊外を離れ、荒野を航行していたある深夜の出来事であった。
◇ ◇ ◇
深夜三時。
ロドス・アイランドの艦内は深い静寂に包まれ、大半のオペレーターが眠りについている時間帯。非常灯の青白い光だけが、無機質な金属の廊下をぼんやりと照らし出していた。
その廊下を、足を引きずるようにして歩く人影があった。
ドロシー・フランクス。
彼女はライン生命アーツ応用課の主任として、ロドスとの共同プロジェクトの責任者を任されていた。彼女の優秀さは誰もが認めるところであったが、同時に彼女には『自身を顧みない』という致命的な欠陥があった。
彼女の頭の中は、常に『皆をどうやって幸せにするか』という思考で埋め尽くされている。
新型のアーツユニットの開発、伝達物質の応用による痛覚の緩和、鉱石病の症状進行を遅らせるための生態フィードバック・システムの構築。そのどれもが、誰かを救うための研究だ。
だが、その理想を追求するあまり、彼女は食事をとることも、睡眠をとることも忘れてしまう。三日三晩ラボに立てこもり、水すらろくに飲まずにシミュレーションを回し続けることなど日常茶飯事だった。
その日も、ドロシーは自身の限界をとうに超えていることに気づいていなかった。
ふと、視界がぐらりと揺れた。
足元の床が波打っているように見える。耳の奥で、キーンという不快な耳鳴りが響き、心臓が不規則なリズムで早鐘を打ち始めた。
(おかしいわね……少し、休んだ方がいいのかしら……でも、あの計算式の再構築を終わらせないと……皆が、待っているのに……)
朦朧とする意識の中で、彼女は壁に手を突こうとした。 しかし、指先は虚空を掻き、彼女の身体は糸の切れた人形のように前方へと崩れ落ちそうになった。
「ドロシーやん。元気しとん?」
不意に、能天気で、深夜の静寂にはまったくそぐわない明るい声が廊下に響いた。
ドロシーは虚ろな目で声の方向を見たが、視界が白く霞んでうまく焦点が合わない。
「……」
「ドロシー?」
返事をしないドロシーの異変に気付いたのか、その足音が急いで近づいてくる。
ドロシーの身体が冷たい床に叩きつけられる寸前、力強い腕が彼女の肩と腰をガシッと受け止めた。
「きゃっ、今引っ張ったのはあなた?」
ドロシーは驚いて身をすくませたが、自分を支えるその腕の温もりに、少しだけ安堵の息を吐いた。
「そう、ならよかった。ろくにご飯も食べてないせいで、幻触でも起こったのかと思ったわ」
彼女の口から出たのは、自分の命の危機よりも、極度の空腹による幻覚を疑うという、あまりにもズレた感想であった。
「いやちょっと待てよ……」
ドクターは、腕の中に崩れ落ちたドロシーのあまりの軽さと、尋常ではない冷や汗の量に戦慄を覚えた。
彼女の顔色は紙のように白く、息は荒い。明らかに重度の低血糖と過労による虚脱状態だ。
「心配掛けてごめんなさい。このくらい平気よ。いつもの事だから……少し、ここで壁に寄りかからせてくれれば、すぐにラボに戻るわ……」
ドロシーが弱々しい笑みを浮かべ、ドクターの腕から抜け出ようとした。
しかし、ドクターは彼女の肩をしっかりとホールドしたまま、普段のヘラヘラした態度を完全に捨て去り、ドスの効いた低い声で言い放った。
「博愛主義なのはいいけど、まずは自己愛しろよえーー!?」
「えっ?」
唐突な大声――しかも独特すぎる語彙の叫びに、ドロシーは目を丸くした。
「他人の世話好きのくせに、自分の世話はやらないなんて酷いと言ってるんですよドロシー先生。まさかフラついて倒れる直前まで仕事してるなんて、びっくりしましたよ!」
ドクターの言葉は乱暴だったが、その奥にある真剣な怒りと心配が、ドロシーの胸の奥をチクりと刺した。
「でも……私には、時間が無いの。早く成果を出さなきゃ……みんなが……」
「いいから黙って俺に運ばれるんや。今のお前は思考能力ゼロのポンコツだ。ポンコツの言うことなんか聞く耳持たねぇのが俺なんだよね」
言うが早いか、ドクターはドロシーの身体を軽々と抱き上げ――いわゆるお姫様抱っこの体勢でズカズカと自分の執務室の方向へと歩き出した。
「ど、ドクター!? 降ろして、私、重いでしょう……!?」
「アホか、お前みたいな痩せっぽちのザラック一人、大胸筋でなんぼでも受け止めたるわ。ワシめっちゃタフやし。それに、こんな深夜に医療部の隔離病室にお前を放り込んだら、ケルシーが飛んできて『自己管理能力の欠如による組織論的崩壊』について三時間の長文説教が始まるぞ。お前、今それ耐えられるんすか?」
「……無理、ね」
ケルシーの説教を想像し、ドロシーは身震いして大人しくドクターの腕の中に収まることを選んだ。
執務室に到着すると、ドクターはドロシーをふかふかのソファに丁寧に寝かせた。そして、部屋の隅にある給湯室のスペースでゴソゴソと何かを作り始めた。
数分後、ジャンクフード特有の強烈に食欲をそそる匂いが部屋に充満する。
「ほら、食え」
ドクターがドロシーの目の前のローテーブルに置いたのは、湯気を立てる熱々の『シーフード味のカップ麺』であった。
「ちょうど夜食食べようとしてたのが俺なんだよね。カップ麺で悪かったっス。でも、低血糖で倒れかけてる今のドロシーには、この人工的な塩分と炭水化物の塊が一番効くハズや」
「……ドクター」
ドロシーは起き上がり、湯気を立てるカップ麺を両手で包み込んだ。じんわりとした温かさが、冷え切っていた掌から身体中へと染み渡っていく。
「ううん、ありがとう……ドクターは食べないの?」
ドロシーがふと顔を上げると、ドクターは自分の分がないことに気づかないふりをして、腕を組んでそっぽを向いていた。
「人の事を気遣う前に、まずは自分を気遣え……鬼龍のように」
「き、きりゅう……?」
「いいから、伸びる前に食え。食わなきゃ治らん。うまいから食うんやない、生きるために食うんや」
ドクターの無茶苦茶だが温かい言葉に押され、ドロシーはフォークを手に取り、ゆっくりと麺をすすった。
温かいスープが胃の腑に落ちていく感覚。強烈な旨味調味料の味が、麻痺していた彼女の味覚と脳細胞を強制的に再起動させていく。
それは、高級なレストランのフルコースよりも、どんな栄養剤よりも、今の彼女にとっては五臓六腑に染み渡る極上のご馳走であった。
「……美味しい……」
ドロシーの瞳から、ふわりと一粒の涙がこぼれ落ちた。
自分でもなぜ泣いているのか分からなかった。ただ、張り詰めていた緊張の糸が、ドクターの淹れてくれたたった一杯のカップ麺によって、プツリと切れてしまったのだ。
「……ゆっくり食えばええ。時間はなんぼでもあるからな」
ドクターは急かすことなく、ただ静かに彼女が食べ終わるのを待っていた。
やがて、スープの最後の一滴まで飲み干したドロシーは、「ふぅ……」と深く息を吐き出し、ソファの背もたれに身体を預けた。顔色には少し赤みが戻り、瞳にも生気が蘇っている。
「ごちそうさまでした。……なんだか、すごく生き返った気分」
「ムフフ……それはよかった。栄養が回って脳が正常に動くようになった証拠だ」
ドクターは空になったカップを片付けると、ドロシーの対面のソファに腰を下ろした。 深夜の執務室。聞こえるのは空調の微かな音と、二人の呼吸音だけ。
ふと、ドロシーが静かに口を開いた。
「ドクターは、私の事……嫌い?」
「いきなりっスね……どうしたんスか急に」
ドクターは面食らったように目を丸くした。
「時々、夜中にラボで目を覚ますと、なんだか……怖くなっちゃうの」
ドロシーは自らの膝を抱え、小さく震える声で告白し始めた。
彼女の脳裏に浮かぶのは、トリマウンツで起こしたあの大規模な実験――『ライン生命アーツ応用課による、伝達物質を用いた人造の集合意識構築プロジェクト』の記憶だ。
「あんなに必死で頑張ってきたのに、最後はみんな、憎しみを抱いて私から離れて行くんじゃないかって……。私がやろうとしたことは、結果的にみんなを傷つけてしまった。個人の尊厳を奪い、夢という名の牢獄に閉じ込めようとした……」
彼女の指が、強く自身の腕を握りしめる。
「一体、どうしたらいいのかな?私はただ、みんなにもっと幸せになってほしいだけなのに……。貧困も、差別も、苦しみもない、みんなが笑って過ごせる世界を作りたかっただけなのに……私のやり方は、間違っていたの?」
サバイバーズ・ギルト。かつて開拓地で母や仲間たちを天災で失い、自分だけが都市で生き残ってしまったという罪悪感。それが彼女を異常なまでの『博愛主義』へと駆り立て、暴走させていた根源であった。
ドクターは、俯くドロシーの姿をじっと見つめた後、深く静かに息を吐き出した。
「……みんなの幸せ、かぁ。それを実現するのは至難の技だ」
ドクターの口から紡がれた言葉は、いつものふざけたタフ語録でありながら、その響きには深い哲学的な重みがあった。
「幸せなんて、人それぞれなんスよ。客観的に見て『この人は恵まれて幸福』だと思っても、当事者からだと違う場合もあるし、逆もある。だから余計に悩むんだよね、難しくない?」
「……」
「この世に完璧な物はない。盲信は危険や。それは宗教においても武闘においても、そして科学においても同じだ。……師の教えを学び模倣するだけでは成長しないように、一つの理想の形を全ての人間に当てはめようとすること自体が、自然の摂理に反してるんや」
ドクターは身を乗り出し、ドロシーの目を真っ直ぐに見据えた。
「ドロシー、大事なのは皆が一つになることじゃない――皆それぞれ違ってもいいと、寛容に受け入れることっスよ。皆が皆、同じ方を見て同じように思い、同じように感じるなんて……怖いと感じるのが俺なんだよね」
「……みんな、違って……?」
ドクターの言葉は、ドロシーがかつてローキャン水槽の事件や、自身の実験の中で見失いかけていた『生命の本質』を鋭く突いていた。
「”平和を守るために戦争をする”なんて言う人がいるけれど、それって平和や正義のためなら、殺戮をしてもいいってことでしょう。そんなのあり得ない。それと同じように、『みんなを幸せにするために、個人の自由や苦痛を強制的に排除する』というのも、本末転倒なんだよ。ドロシー、善意は時に悪意より恐ろしくなるんや。一方的な善意の押し付けは、ただの独善や傲慢になるんだ。虚しさが深まるんだよ」
「私の善意は……ただの傲慢だった……」
ドロシーの目から、再び涙が溢れ出した。今度は空腹からくるものではない。自らの罪と向き合い、それを肯定も否定もせず、ただ事実として受け止めてくれたドクターの言葉に対する魂の涙だった。
「人間はね、何も持たず生まれてきて、何も持たず一人で死んでいく。いくらお金を稼いでも、持っていく事は出来ない。だけどね、必ず残っていく物があるんですよ。お金も……築いた文化も……育てた人間も……与えた物だけは、みんな残っていく。どうせなら、与える人生を送って生きたい。ただそれだけです」
「ドクター……」
「お前、今まで辛い思いばっかりしてきたんやろ。開拓地の仲間を失って、自分だけが生き残った罪悪感に押し潰されそうになりながら、ずっと一人で戦ってきた。……けどな、ワシらの人生はこれからや。これからええことが一杯あるんやで」
ドクターの大きく温かい手が、ドロシーの頭を優しく撫でた。
「悪いな……俺はほら、"未来"しか見てないから。過去にはこだわらないから。以前みたいな伝達物質で繋いで集合意識を構築するのは、間違ってるっス。でも、自分を削ってまで誰かを幸せにしたいと想うその気持ち。そんな博愛精神を持つ君には、勲章をあげたいよ。だから、ドロシーの事は嫌いになったりしない……それがボクです」
「うああぁん……!」
ドロシーは、ドクターの胸に顔を埋め、声を出して泣き崩れた。
これまで彼女が抱え込んできた『誰も理解してくれない』という孤独。『自分のやり方は間違っていたのか』という恐怖。そのすべてを、ドクターはタフ語録という不器用で独特なフィルターを通しながらも、完璧な論理と優しさで解きほぐしてくれたのだ。
「ドクター……ありがとう……」
「まぁ、今言ったことは大半、ケルシーからの受け売りでもあるからバランスは取れてるんだけどね」
「えっ……ケルシー先生の?」
涙ぐんだ目を丸くするドロシーに、ドクターは苦笑しながら頷いた。
それは、トリマウンツでの『ライン生命』を巡る一連の事件――ドロシーの関わった『翠玉の夢』、そしてクリステンが天の彼方へと去った『孤星』の任務からロドスへ帰還した直後のことである。
あの時、ドクターの心には、ある種の拭いきれない徒労感と、形のない疑問が重くのしかかっていた。
△ ▼ △ ▼
ある日の深夜のメインコントロール室。
いつものように山積みの書類を前に、PRTSの青白い光に照らされながら、ドクターとケルシーは向かい合ってデスクワークをこなしていた。
沈黙を破ったのは、ドクターの方だった。
「……みんなが幸せになるにはどうしたらいいんスかね。ケルシーはどう思うか教えてくれよ」
ペンを動かしていたケルシーの手がピタリと止まり、エメラルドの瞳がゆっくりとドクターへ向けられた。その冷徹な視線が、男の真意を探るように細められる。
「……らしくないな。どうしたんだ急に」
「なんスかその反応! 俺だってたまには真面目な話するっスよ!?」
「冗談だ。どうしてそんな話をする気になったんだ?」
「前に、ミュルジスとかドロシーのライン生命の件があったっスよね。それで色々考えてみたけど、思いつかないんスよね。ロドスだって『感染者を救う』って大義名分掲げて色々頑張ってるっスけど、色んな勢力から警戒されたり噛み付かれたりするし……各国の思惑と糸で雁字搦めになったりするんだよね酷くない?」
ケルシーがペンを置き、完全に彼に向き直ったのを見て、ドクターは深く息を吐き出して思考を言語化した。
「……幸せも個人によって違うし、主観や客観性によって変わってしまうんや。アーミヤみたいなアーツ抜きだと、他人が本当に『幸福』って思ってるのか証明すら出来ないっスよね。人々全員が真に幸福になるなんて、まさにエデンというか……夢物語なんスかね……」
ドクターの言葉には、テラという過酷な大地で無数の命のやり取りをしてきた指揮官としての、切実な疲弊と無力感が滲んでいた。
ケルシーは静かに目を伏せ、数十秒の沈黙の後、ゆっくりと口を開いた。
「君の問いに答える前にまずは『心』という定義を話す必要がある。少し長くなるぞ」
「……哲学の時間っスね……」
ドクターが身構えるのも無理はない。テラ最長寿とも言われる賢者の『講義』は、時に精神をすり減らす拷問に等しい情報量を持つからだ。しかし、今回のケルシーの声には、いつものような棘や刺々しい説教の響きはなく、どこか遥か遠い過去の書物を紐解くような、静謐な響きがあった。
「ドクター、君が言う『幸福』を論ずる前に、我々はこの『心』と『肉体』の関係性――古代から続く『心身問題』と呼ばれる哲学命題に立ち返らねばならない」
ケルシーは両手を胸の前で組み、理路整然と語り始めた。
「一般に、心というものが非物質的な存在でありながら、いかにして物質的な肉体に影響を与えることができるのか。あるいはその逆がいかにして可能なのか。テラの歴史において、この問題に対するアプローチは大きく『二元論』と『一元論』に分けられてきた。極東の古い宗教や、イェラグの信仰、サルカズの古き儀式などに見られるのは、心と体を別の実体とする『実体二元論』に近い。心あるいは魂は肉体とは独立して存在するという考えだ」
「魂……まぁ、アーツとか見てると、そういうのもある気はするっスね」
「君が直面している疑問は、人類が知性を獲得して以来、無数の哲学者が延々と検討を重ねてきた難問だ。いわゆる『心身問題』――すなわち、一般的に非物質的であると考えられている『心』というものが、どうして物質的な肉体や現実に影響を与えることができるのか、という問いに帰結する。心は脳の電気化学的な反応に過ぎないとする『物理主義』と、心は物質とは独立した実体であるとする『二元論』の対立だ」
ケルシーの澄んだアルトボイスが、静謐な執務室に響く。
「このテラという世界において、この問題はさらに複雑な様相を呈している。源石とアーツの存在だ。非物質的であるはずの精神や思考が、アーツユニットを介して物理法則に直接的な因果をもたらす。ある者の怒りが炎を生み、ある者の願いが傷を癒やす。テラにおいては、心と体は物理的に相互作用していると言える」
「じゃあ、心は完全に物理的なものとして解明できるってことっスか?」
「否だ」
ケルシーは即座に否定し、ドクターの目を真っ直ぐに見据えた。
「脳科学や神経生物学がいかに発展しようと、他者の心は、我々にとって認知的に閉じている。これを『説明のギャップ』と呼ぶ者もいる。アーミヤの精神干渉アーツや、ドロシーが企図した伝達物質による集合意識でさえも例外ではない。あれは他者の感情の波長を読み取り、あるいは神経ネットワークを物理的に同期させて情報処理を共有しているに過ぎない。個人の内に秘められたそのものを完全に同一化し、融合させることは不可能なのだ。もしそれを強行すれば、待っているのは自我の境界線の崩壊――自己同一性の死でしかない」
ケルシーの言葉に、ドクターはハッとした。
ドロシーの計画が本質的に孕んでいた危険性。それは単なる肉体の喪失ではなく、個人の『心』そのものを塗り潰してしまうことだったのだ。
「テラには多種多様な種族が生きている。サルカズ、サンクタ、エラフィア、フォルテ……彼らはそれぞれ異なる進化の系統樹を辿り、異なる生理的耐性を持ち、全く異なる歴史と文化という『客観的精神』を形成してきた。彼らが抱く『幸福』の定義は、その種族の数、いや、個体の数だけ存在する。が寸分違わず同じ形の幸福を共有する世界など、君の言う通り幻想であり、論理的に成立し得ないディストピアだ。それを無理に統一しようとすれば、必ず誰かのクオリアを否定し、弾圧することになる。過去の帝国が、そして現在のヴィクトリアやカズデルが陥っている悲劇の根源もそこにある。一方で、現代の科学的合理主義を重んじる国家――とりわけライン生命の尖鋭的な研究者たちが陥りやすいのが、一元論の一種である『還元的物理主義』だ。彼らは、心的な状態というのも結局は脳内の生理学的なプロセスや、神経伝達物質、源石の電気化学的な反応に過ぎず、全ては物理法則の言語によって説明可能であると考える。……ドロシー・フランクスが企図した、伝達物質による記憶と意識の統合実験も、まさにこの極致だ」
ドロシーの顔が思い浮かび、ドクターは黙って相槌を打つ。
「彼女は、人々の脳神経を物理的・化学的にネットワーク化し、苦痛という電気信号を遮断して、安寧という同一の出力を与えれば、全員が等しく『幸福』になれると信じた。だが、その手法には二つの決定的な説明のギャップが存在する。一つは『クオリア』だ」
「クオリア……?」
「そうだ。例えば、君が熱いコーヒーを飲んで『苦い』と感じる。晴れた空を見て『青い』と感じる。その時、主観的に立ち現れる『生の感覚』のことだ。これを第三者の量的な神経科学の言葉だけで完全に説明することはできない。脳の海馬や偏桃体がどう発火したかを記述できても、『なぜその物理的反応が、君にとってそのように感じられるのか』という主観の壁は越えられないのだ。アーミヤの精神干渉アーツで他者の感情を読み取れたとしても、それは他者のクオリアを模倣して追体験しているだけであり、他者そのものになることはできない」
ケルシーの目が、鋭く細められる。
「幸福もまた、このクオリアの最たるものだ。人によって何に幸福を感じるかという『質的体験』は完全に異なる。それを一つのネットワークで画一化し、全員に同じパッチを当てて『これが幸せだ』と定義することは、生命の多様性に対する暴逆だ」
「……確かに。ラーメンは麻薬ですねって言う奴もいれば、辛い火鍋に生きがいを感じるニェンみたいな奴もいる。みんな同じ味のペースト食わされて『これが最高の美味や』って言われても、地獄でしかないっスね」
「極端な比喩だが、概ねその通りだ。そしてもう一つの問題が『志向性』だ」
ケルシーは立ち上がり、巨大なテラの地図が映し出されたモニターへと歩み寄った。
「心は常に、外部の何かへ向かって対象化する性質を持つ。誰かを愛する、何かを憎む、ある現象に驚く。心は常に外界との『関係性』の中で意味を持つのだ。だが、ドロシーが構築しようとしたエデン――全ての他者との境界線が消失し、全てが共有された無菌の精神世界では、心は向かうべき『外部』を失う。他者との差異が消滅した空間では、命題は真でも偽でもなくなり、ただ意味を喪失した電気信号のループだけが残る」
「……それって、生きてるって言えるんスか?」
「言えない。それは『死』の別名だ」
ケルシーは冷酷なまでに断言した。
「ドロシー・フランクスが行おうとした試み――伝達物質によって神経系を直結させ、全個体の知覚と感情を均質化する集合意識の構築。これは哲学的観点から言えば、心身問題を極端な物理主義、あるいは機能主義の暴力によって強引に解消しようとした試行に他ならない。主観性の差異こそが争いと孤立を生むという前提に立ち、それならば『他我の壁』そのものを生体工学的に融解させてしまえばよい、と彼女は考えたのだ。……だが、ドクター。テラの過去を振り返るがいい。個の主観をすり潰し、一つの巨大な意志へと統合しようとした試みは、彼女が初めてではない」
彼女のエメラルドの瞳が、深く、昏い色を帯びた。
「かつてカズデルの大地を血で染め上げたサルカズの歴史……『魔王の王冠』が内包する数多の死者たちの残留思念や、精神のみで存在を維持するレヴァナントの群れ。あるいは、南の海の深淵で蠢く海の怪物――シーボーンの生態系を見ろ。彼らは個体の苦痛や恐怖を排し、一つの巨大なネットワークの中で完全な合意と調和を保って存在している。彼らに個の迷いはなく、疑念もなく、ある意味では完璧な『エデン』を実現していると言えるだろう。――だが、そこに存在するものを、君は真に『幸福』と呼べるか?主観性の差異を消滅させ、すべての構成員が同じ方向を向き、同じ痛覚を共有する世界――それは幸福の極致などではない。ただの均質化された生体パーツの集合体、エントロピーの増大を止めるためだけに固定された『停滞した死』に過ぎないのだ」
ケルシーの言葉は、冷酷なメスの如く、偽りの理想を切り裂いていく。
「ガリアが滅び、リターニアが双子の女帝による統治へ移行し、クルビアが開拓の名のもとに新たな資本の神話を築き上げようと、国家やイデオロギーが提示する『万人の幸福』という青写真は、例外なく特定の規格化された快楽を民衆へ押し付ける専制へと堕落してきた。幸福とは、静止した水面のような定常状態ではない。個々の生命が、異なる肉体を持ち、異なる記憶を抱え、異なる主観的クオリアの痛みに耐えながら――それでも他者という『決して完全には理解し得ない存在』と摩擦を繰り返し、その境界線の狭間で自己の意志を選択し続ける……その動的平衡のプロセスの中にしか、幸福という概念は生起し得ないのだ。万人が等しく同じように満たされる世界など、最初から生命の設計図には存在しない。他者の心を不可侵の領域として尊重し、その『違い』を抱えたまま共存の解を模索し続けること。……それこそが、この過酷なテラにおいて我々が唯一歩むべき、険しくも尊い道なのだよ。完全なる幸福、闘争も苦痛も存在しないユートピアの創造。それは、生命が環境へ適応し、摩擦と痛みを伴いながら変容していくという生物の定義そのものを否定する行為だ。かつてのガリア帝国が、あるいは古いカズデルが、自らの正義と幸福の定義を絶対のものとして他者に押し付けようとした結果、何が起きた?摩擦を恐れ、画一化を強要した文明は、例外なく自己矛盾と腐敗に吞み込まれて崩壊した。善意であろうと悪意であろうと、己の考える『完璧な幸福』を他者にインストールしようとする行為は、最も醜悪な独善に過ぎないのだ」
圧倒的な論理と、数万年の歴史を俯瞰してきた者だけが持つ説得力。ドクターは圧倒されながらも、なんとか己の言葉を紡ぎ出した。
「……じゃあ、結局俺たちは、本当の意味で誰も幸せにできないってことスか? 誰も他人の心を完全に理解できないなら……ロドスのやってる事も、いつか限界が来るんじゃ……」
ドクターの声が微かに沈む。
だが、ケルシーは首を横に振った。その瞳には、冷徹な論理の奥に潜む、確かな『熱』があった。
「だからといって、悲観し、歩みを止める理由にはならない。心の哲学には『志向性』という概念がある。それは、心がある外部の対象へと直接に向かう性質のことだ」
「志向性……っスか」
ケルシーは振り返り、その瞳に微かな、しかし確かな熱を帯びてドクターを見つめた。
「私達は、他者のクオリアを完全に理解することはできない。他人の幸福を客観的かつ完璧に証明することもできない。しかし――相手の幸福を願い、己の心を相手へ向けることはできる。完全な理解を諦めた上で、それでもなお他者という『未知』を尊重し、手を差し伸べること。全く異なる価値観を持つ者同士が、違いを許容したまま共存の道を模索し続けること。完全に理解できないからこそ、我々は言葉を交わし、手を探り合う。外界との摩擦……苦痛が存在するからこそ、心は『志向性』を持ち、他者を思いやり、未来を変えようと意志を持つことができる。自由意志に関する哲学の議論に『両立主義』というものがある。我々は自然法則や運命に縛られているかもしれないが、それでも『強制されず、自らの内なる意志で他者と関わり、何かを選択する』という行為の中にこそ、真の自由と生きる意味が存在するのだ」
彼女はゆっくりと歩み寄り、ドクターのデスクに手をついた。
「ドクター。君は君のままでいい。全ての人間を画一的に幸福にする神になる必要はない。君はただ、目の前にいる感染者やオペレーターたちが、理不尽に命を奪われず、それぞれの『異なるクオリア』を抱えたまま、自由に生きるための選択肢を与えてやればいい。……希望という名の『志向性の連鎖』だけは、この大地に確かに残っていくのだから」
「……」
ドクターは目を閉じ、ケルシーの言葉を大脳皮質の奥底へと刻み込んだ。
その説教は長く、難解で、いつも通り小難しかった。だが、その言葉の中には、紛れもなくドクターという一人の男に対する、彼女なりの深い慈愛と信頼が込められていたのだ。
「要約すると、他人の頭の中を勝手に弄くり回して『これが君の幸せだよ』って押し付けるのは、どんなに善意から出たものでもただの暴力だってことっスよね。人はみんな違うからこそ、傷つきもするけど、自分の足で立って笑えるんだって」
「相変わらず粗野で乱暴な要約だが……結論の着地点としては、概ね的外れではないな」
◇ ◇ ◇
「……って、前にケルシー先生から長々とお説教交じりの講義を喰らったんやけどな」
執務室のソファで、ドクターは照れ隠しのように笑いながらドロシーに語りかけた。
「……だから、ドロシーのやろうとしてた事も、その根本にある『みんなを幸せにしたい』って想い自体は分かるけど、やり方が間違ってたってことスよ」
ドクターの言葉に、ドロシーは静かに目を見開いていた。
彼女の偏執的なまでの博愛主義と、ローキャン水槽の事件から引きずっていた「実験倫理」に対する罪悪感。それを、ドクターは頭ごなしに否定するのではなく、哲学と生命の本質という視点から、見事に解体し、再定義してくれたのだ。
「完璧なエデンなんて無い。みんながみんな、同じように感じて、同じように幸せになるなんて、逆に怖いっスよ。人間は”死”や”苦痛”があるから、今、この瞬間を精いっぱい生きようとするんだ」
ドロシーの目から、ポロポロと涙がこぼれ落ちる。
それは彼女の胸の奥底で凝り固まっていた『サバイバーズ・ギルト』が、ドクターの言葉によって溶かされ、洗い流されていく涙だった。
「……ドクター。私……、わかった気がする。私がみんなの痛みを奪うんじゃなくて、痛みを抱えたまま生きるみんなを、支えてあげればよかったのね」
「そうそう。その気持ちだけで十分尊いんだ、絆が深まるんだよ」
ドクターは笑って、ドロシーの頭を優しく撫でた。
「お前、今まで辛い思いばっかりしてきたんやろ。けどな、ワシらの人生これからや。これからええことが一杯あるんやで。……まっ、流石に倫理観は治して欲しいから、そこはバランスは取れてるんだけどね」
ドクターが照れ隠しに笑った、その時だった。
――きゅるるるぅぅぅ……。
静かな執務室に、間の抜けた盛大な腹の虫の音が響き渡った。
ドクターの腹からである。
「あ」
「ふふっ……」
涙で顔をぐしゃぐしゃにしたドロシーが、思わず吹き出した。
「ドクター……そういえば、カップ麺、最後の一個だったのね。私に全部くれちゃったから、お腹空いてるんじゃない?」
「俺の消化器官が勝手に鳴っただけや! 別に空腹なわけじゃ……」
「ふふっ、ドクターも人の事言えないんじゃない? 他人の世話焼きなくせに、自分の世話は全然できてないんだから」
ドロシーが涙を拭いながら、悪戯っぽく笑う。
「ククク……ひどい言われようだな。やっぱり俺たち、似た者同士っスね」
ドクターも力なく笑いながら腹を押さえた。
ドロシーは立ち上がると、「少し待ってて」と言い残し、どこからか隠し持っていた栄養ブロックや予備のカロリーメイト的な固形食を引っ張り出してきた。
「はい、これ。半分こしましょう」
「おっ、マジか! カモがネギしょってやってきたぜェって感じだ! いただくっス!」
深夜の執務室で、二人で並んで乾いた固形食をかじる。高級なレストランのフルコースとは程遠い、味気ない食事。だが、二人の間にはどんなご馳走よりも温かく、満たされた時間が流れていた。
△ ▼ △ ▼
「……ドクターは、私の夢も、罪も、全てを受け入れてくれた上で、私の隣に座って背中を叩いてくれた。私たちは、あの夜に魂の深い部分で『共鳴』したの。あなたみたいに、ただ甘えたり、上辺だけでじゃれ合っているのとは、次元が違うのよ」
ドロシーの語り終えた回想録は、会議室の空気を完全に支配していた。
彼女の言葉には、自らの罪と向き合い、それをドクターと共に乗り越えたという絶対的な自信と、揺るぎないマウントが込められていた。
「どうかしら、ミュルジス。あなたが『ドクターはあたしを泡沫から救い出してくれた』と誇っているように、私にとってもドクターは、冷たい研究室の闇から救い出してくれた唯一無二の存在なの。……だから、彼を独占できるなんて思わないことね」
ドロシーがドクターの左腕を抱きしめる力をさらに強める。
「…………」
ミュルジスは奥歯を噛み締めた。
しかし、彼女もまたライン生命の主任であり、ドクターに命を救われた女である。ここで大人しく引き下がるようなタマではなかった。
「……へぇ。素晴らしいお話ね、ドロシー」
ミュルジスはふわりと微笑み、ドクターの右腕にさらに己の身体を密着させた。
「あなたがドクターに精神的に救われたのはよく分かったわ。でもね……精神的な繋がりだけなら、あたしだって負けてないのよ。それに、あたしたちにはもっと『物理的』で『日常的』な繋がりがあるわ。ねえドクター?今度のお休みも、あたしとお洋服を買いに行く約束、忘れてないわよね?」
「えっ!? い、いや、それは……!」
「あら? 私だって、今週末の夜はドクターと映画鑑賞会をする約束をしているわ。ドクター、もちろん空けてくれているわよね?」
「ちょ、ちょっと待てよ! お前ら、いつの間に俺のスケジュールを勝手に埋めて……!」
「「ドクターは、どっちを選ぶの?」」
左右から、全く異なるベクトルの――しかし重さと圧力においては同等クラスの――究極の選択を迫る瞳が、ドクターを射貫いた。
「いやちょっと待てよ! 板挟みヤンケ!! これ完全に逃げ場のないデッド・エンドだろえーーーっ!!」
ドクターの悲鳴が、会議室に響き渡る。 水と罠。エルフとザラック。二人のライン生命主任による苛烈極まる包囲戦。右からはミュルジスのアーツによる冷たくも甘い水圧が。 左からはドロシーの執念と慈愛に満ちた、逃げ場のない重圧が。
「さあ、ドクター。答えてちょうだい。週末の映画鑑賞と、お洋服の買い物。……どっちの約束が『先』だったかしら?」
「ドクターは私と一緒に、映画の中で『誰も傷つかない理想の世界』について語り合う約束をしてくれたのよ。ミュルジス、あなたの個人的な買い物なんかよりも、ずっと崇高な予定だわ」
ライン生命が誇る二人の主任研究員による、一人の男を巡る凄絶な綱引き。
(ウ・ウソやろ、こ……こんなことが許されていいのか!? なんでライン生命の内部抗争の火種になっとんのや!誰か……誰か助ケテクレーッ!!)
ドクターが心の中で限界のSOSを発信し、会議室の扉の方へと助けを求める視線を投げた、まさにその時であった。
――プシュッ。
天の助けか、それとも新たなる絶望の使者か。
気密扉が軽い電子音を立てて開いた。
「あれー? ドクター、それにミュルジスにドロシーまで。みんな揃ってここで何してるの?」
ひょっこりと顔を出したのは、片手にレンチを持ち、作業着姿のままの明朗快活な天才エンジニア――ライン生命のラボ・ルトラを一人で切り盛りするアナティの少女、メイヤーであった。
「おっ! ちょうどいいところにみんないるね! ドクター、この前の極北探査のデータ解析が終わったから持ってきたよーっ!」
その後ろから、大きなリュックを背負い、ドローンを頭の上に浮かべたリーベリの少女――ライン生命外勤専門員の探検家、マゼランが元気よく飛び込んできた。
(しゃあっ!! メイヤーとマゼラン! 助かった、お前ら神や! このドロドロの修羅場に爽やかな風を吹き込んで、話題を変えてくれ!)
ドクターは藁にもすがる思いで、「おおっ! お前ら、よく来てくれたっス! ちょうど今、ヴィクトリアの情勢について高度な議論を……」と誤魔化そうとした。
しかし。
ライン生命の人間は、総じて『マイペースかつ己の探求心に極めて忠実』であるという絶対法則を、彼は完全に失念していた。
「議論? ううん、なんか全然そんな空気じゃないけど……。ていうか、二人ともドクターの腕にピッタリくっついて、何張り合ってんのさ?」
メイヤーは首を傾げながら、ミュルジスとドロシーの『バチバチの牽制合い』を面白そうに観察し始めた。
「あっ、もしかして……ドクターの取り合いっこ?」
マゼランが純真無垢な瞳をパチパチと瞬かせながら、最悪の地雷を無邪気に踏み抜く。
「取り合いだなんて、人聞きの悪いこと言わないでちょうだい、マゼラン。あたしたちはただ、ドクターの『今週末のスケジュール』について、どちらの約束を優先すべきか、合理的な話し合いをしているだけよ」
ミュルジスが笑顔のまま、ドクターの右腕にさらに胸を押し当てて答える。
「そうよ。ドクターは私の映画鑑賞の約束を先に受けてくれたんだから。ミュルジスの我儘に付き合っている暇なんてないの」
ドロシーも負けじと左腕をきつくホールドする。
「へえーっ、映画にお買い物……」
メイヤーはレンチを肩にトントンと叩きながら、ニヤリと悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「でもさ、ドクターってそういう『恋人っぽい』こと言うの、別に二人だけじゃないと思うよ?」
「……えっ?」
「どういうこと?」
ミュルジスとドロシーの視線が、一斉にメイヤーへと突き刺さる。
ドクターの背筋に、嫌な汗が滝のように流れ始めた。
「だってさ、私だってドクターに、徹夜でミーボの調整してる時に夜食持ってきてもらったことあるし。その時ね、ドクターに言われたんだよね」
メイヤーは少し頬を染め、わざとらしく咳払いをしてみせた。
「『メイヤーみたいに明るくて発明好きなやつと家族なら、毎日楽しそうだよな。お前のそういう一生懸命なところ、俺は嫌いじゃない……それがボクです』ってね!」
「なっ……!?」
「か、家族……!?」
ミュルジスとドロシーの表情が完全に凍りついた。
『恋人』というプロセスをすっ飛ばし、一気に『家族』という概念を持ち出されたのだ。
「い、いやちょっと待てよメイヤー!! あれはただ、お前のラボがいつも賑やかでアットホームだねって意味で褒めただけであって、俺のプロポーズ的なアレじゃ……!」
ドクターの弁明をかき消すように、今度はマゼランがリュックを下ろしてぴょんぴょんと飛び跳ねた。
「私なんてね、この前ロフトで極北のオーロラの映像を見せてあげた時に、ドクターに言われたよ!」
「マゼラン、お前まで何を……!」
「『マゼランの探検の話を聞くのは最高に面白いっスね。お前と一緒にいると、テラの大地がどれだけ厳しい場所でも、希望に満ちて見える。……マゼランとは、ずっと一緒に居たいくらいだぜ』って!!」
マゼランがえへへと満面の笑みで暴露した瞬間。
会議室の空気が、物理的な音を立てて氷点下まで凍てついた。
ミュルジスの水のアーツが室内の湿度を急激に上昇させ、ドロシーの周囲に目に見えない共振の波紋がビリビリと空間を歪ませ始める。
「へぇ……? ドクター?」
ミュルジスの声が、底知れぬ深海のように低く沈んだ。
「あたしの事が大切って言っておきながら……メイヤーには『家族になりたい』って言って、マゼランには『ずっと一緒に居たい』って言ってたのね?……ねえ、一体どういうことかしら?」
「私の事を支えてくれるって言ってくれたのに……ドクターのその言葉は、誰にでも配る安売りのキャンディみたいなものだったの……?」
ドロシーの瞳からハイライトが消え、完全にヤンデレ特有の『光のない眼差し』へと変貌していた。
「な……な、なめてんじゃねぇぞ! こらァ!!」
ドクターは極限の恐怖から、思わずタフ語録で虚勢を張った。
「ち、違うんスよ!俺はただ、ロドスの優秀なオペレーターたちと親睦を深めるために、それぞれのモチベーションを最大化させるための最適解のコミュニケーションを取っていただけで……決して全方位に色目を使っているわけでは……!!」
「つまり、あたしたちへの言葉は全部『ただの計算』だったってこと?」
「私の気持ちを弄んだのね、ドクター……」
「わーお。ドクター、刺されるよこれ」
「ドクター、最低だーっ!」
メイヤーが面白そうに囃し立て、マゼランが無邪気に非難の声を上げる。
右から水圧、左から高周波、そして正面からは好奇の目。
ライン生命の誇る四人の女性陣に完全に包囲されたドクターは、己の生存確率が天文学的数字を下回ったことを悟った。
限界に達したドクターの脳細胞が、生存のための唯一絶対の最適解を弾き出した。
「これ以上は危険や! 試合を止めるぞ!!」
ドクターは両腕にぶら下がっていたミュルジスとドロシーの意表を突いて、火事場の馬鹿力で強引に腕を引き抜いた。
「えっ!?」
「あっ!」
「俺はほら、"未来"しか見てないから! 過去の失言にはこだわらないから! じゃあな、ライン生命の愉快な仲間たち!! 逃げるっ!!」
叫ぶが早いか、ドクターは弾丸すべりのごとき凄まじいダッシュで会議室の扉に向かって一直線に駆け出した。
四人の女性が、一瞬だけ呆気にとられてその背中を見送る。 しかし、彼女たちはライン生命の誇るエリートたちである。逃げる獲物を見逃すほど甘くはない。
「あ……逃げたわね! 待ちなさい、ドクター!」
「せめて今週末のスケジュールを確定させるまで逃がさないわよ!」
「あははっ! 面白い、ミーボ! ドクターを捕獲して!」
「探査ドローン、発進! ドクターを追跡するよーっ!」
ドタバタと、四人の足音と無数の機械音が会議室から廊下へと溢れ出す。
「ウワァァァァァァァァッ!! なんだよこのクソ展開ィィィッ!! 誰か助ケテクレーーーッ!!」
ロドス本艦の静かな廊下に、作戦指揮官の情けない悲鳴が響き渡る。
マネモブ指揮官は今日もまた、自らの発言のツケを払わされる形で、賑やかに、そして文字通り命懸けで続いていくのであった。