マネモブドクターがケルシーに「ヤらせろ」と言ったら説教で夜が明けたんスけど……いいんスかこれ 作:異常長文構築者
しゃあ!ついにケルシーが墓から蘇る!ケルシー・エスペランサーご実装だぁ!!
ケルシー…本当に待ってたよ待ってたよ待ってたよ待ってたよ待ってたよ待ってたよ 時が経つのは早えなあ
脇が見えそうな服装で相変わらず脚を出し続けるケルシーには勲章を与えたいよ
実装記念でデレたケルシーを書いてみたのが俺なんだよね
"ケルシコ"をやります
ロドス・アイランド本艦、医療部門・第一診察室。
無機質な白い壁と、微かに鼻を突く消毒液の匂い。静寂を支配する空間の中で、電子カルテをスクロールする硬質なタップ音だけが規則的に響いていた。
「……肌の乾燥。ええ、肩の凝り、目の乾燥、抜け毛、脱力感……。なるほど、いつもの症状ですから特に問題はありません」
この日は忙しいケルシーに代わり、白衣を纏ったフェリーンの医療オペレーター――フォリニックが、手元のタブレットから視線を上げることなく、酷薄とも取れる冷ややかな声音でそう告げた。
診察台に腰掛けたドクターは、気まずそうに視線を泳がせる。
「いや、問題がないって言われても……最近どうも朝起きるのがしんどいのが俺なんだ!こう、身体の芯から疲労が抜けないというか……」
「それはそうでしょうね」
フォリニックが、ぴしゃりと遮った。ようやくタブレットから上げられた彼女の瞳には、医療従事者としての呆れと、隠しきれない苛立ちが混在している。
「あなたが運動するようになれば、すぐ改善します。……ドクター、私が前回提出した健康管理プログラムの進捗は、どうなっていますか?」
「あー、あれな。いや、やろうとは思ってたんスよ。でも最近は各国の情勢が不安定で、書類仕事が山積みだったから……」
「言い訳は聞きたくありません!」
フォリニックはため息をつき、カルテをパタンと閉じた。
「夜更かしも、暴飲暴食もダメだと何度も言ったでしょう!支給したサプリメントも全く減っていませんし、食堂での夜食の摂取記録はむしろ増えています。……私の言葉には、一切聞く耳を持たないということですか!?」
「ち、違うんスよ。これはその……頭脳労働には糖分が必要不可欠という医学的見地に基づく、戦略的なカロリー摂取であって……」
「──じゃあ、何のための健康管理なのよ!!」
ドンッ!と、フォリニックの手がデスクを強く叩いた。
普段は冷静な彼女が見せた感情の爆発に、ドクターの肩がビクッと跳ねる。
「私たちがどれだけあなたの体調を気遣って、スケジュールを調整していると思っているんですか! あなたが倒れたら、ロドスの指揮系統にどれだけの損害が出るか……! それなのに、当の本人がこんな自堕落な生活を続けているなんて……一生椅子に寝てればいいじゃないっ!!」
怒涛の勢いで言い放った後、フォリニックはハッと我に返ったように口元を押さえた。
感情を露わにしすぎたことに気づいたのだろう。彼女は深く深呼吸をし、乱れた白衣の襟を正す。
「……すみません。少し、言い過ぎました。ちょっと頭を冷やしてきます……ごめんなさい」
それだけを言い残し、フォリニックは逃げるように診察室を後にした。
パタン、と閉ざされたドアを見つめながら、ドクターは頭を掻いた。
(……やっちまった。フォリニックをあそこまで怒らせるとは思わなかったのが俺なんだよね)
彼女の言う通りだ。記憶を失って以来、指揮という名の頭脳労働にかまけ、肉体を動かすことを極端に避けてきた自覚はある。
このままでは、本当に「椅子から立ち上がれない」身体になってしまうかもしれない。
「……どないする?まぁ あれだけ心配掛けてるのは事実だし運動するしかないやろ。健康な身体を手に入れてやねぇ、ケルシー達をギャフンと言わせるのもウマイで!」
ドクターは診察台から立ち上がり、決意を胸に医務室を後にした。
ロドス艦内のメイン通路。
運動を始めると決意したものの、具体的に何をすればいいのか分からないドクターは、とりあえず艦内を宛もなく歩いていた。
自室で腕立て伏せ? 甲板でランニング? 恐らくこのなまった身体では、五分で肺が破裂して猿空間送りになるだろう。
誰か、専門的な知識を持っていて、かつ自分を適度に指導してくれる都合のいい存在はいないだろうか。
そう都合よく人材が見つかるわけが……と思いながら角を曲がったその時。
ドクターの視界に、恵まれた体躯を持つ一人の女性オペレーターの姿が飛び込んできた。
黒を基調とした機能的なウェア。豊満な胸部と、そこから引き締まったウエストへの完璧な曲線美。頭部に生える立派な角は、彼女が屈強なフォルテ族であることを示している。
ミノス出身の経験豊富な傭兵にして、ロドスきっての筋トレ・マニア――シデロカだ。
「あっ、ドクター」
書類の束を抱えて歩いていたシデロカが、ドクターに気づいて足を止めた。
彼女は真面目で世話焼きな性格であり、ドクターのことも何かと気にかけてくれる存在だ。
「おっ、シデロカやんけ! ちょうどいい所に!」
「ちょうどいい所……ですか?」
ドクターは、文字通り「カモがネギしょってやってきたぜェ」と言わんばかりの満面の笑みで彼女に駆け寄った。
「そう、お前に頼みたい事があるのが俺なんだよね!」
「えっ、私にですか?」
シデロカは少し不思議そうに小首を傾げた。
作戦のブリーフィングでもないこの時間に、ドクターが自分を名指しで頼ってくるのは珍しい。
「ああ。実はな……俺と、付き合って欲しいんや」
――ピタ、と。
シデロカの動きが完全に静止した。
「……えっ?」
彼女のフォルテ特有の大きな瞳が、限界まで見開かれる。
『付き合って欲しい』。
その単語が、真面目すぎる彼女の脳内で、いとも容易く別の文脈――ロマンチックな意味合いへと直結してしまったのだ。
「つ、付き合うって……そ、そんな……!?い、いきなりですか!?」
シデロカの顔が、みるみるうちに沸騰したように赤く染まっていく。
抱えていた書類の束が、パラパラと床に落ちそうになるのを慌てて抱え直す。
「い、いや、ドクターのことは尊敬していますし、立派な方だとは……思いますが……! ま、まだ心の準備が、その……! 私、傭兵上がりですし、そういう……お付き合いの経験とか、なくて……!」
「あぁ、俺の身体を鍛錬して欲しいのが俺なんだよね」
「…………」
沈黙。
ドクターの口から放たれた極めて実務的な要求に、シデロカの脳内で暴走していたピンク色のロマンス回路が、物理的に電源を引き抜かれたかのように強制シャットダウンした。
「……鍛錬、ですか」
「そうなんスよ! いや実はね……フォリニックに運動不足をこってり絞られたんだよね怖くない?シデロカなら筋トレの知識も豊富だし、最高のインストラクターになってくれるんじゃないかと思ったのが俺なんだよね!」
ドクターが呑気に笑いながら言うと、シデロカの顔から急速に赤みが引き、代わりに絶対零度の冷気が漂い始めた。
「な、なんでそんな不機嫌になってるんや……?」
「……私の純情を弄ぶからです」
「理不尽を超えた理不尽!それがシデロカです。今のは俺が悪いんスか……?」
ドクターは理不尽な怒りを向けられ、タフ語録で内心の不満を漏らした。
シデロカは落ちた書類を拾い集めながら、冷ややかな視線をドクターに向ける。
「はぁ……別に、鍛錬の指導をすること自体は構いませんが。……本気ですか?」
「おう! 今回はマジや!」
「……信用できませんね。以前も私が『ドクターの体調管理のために鍛錬メニューを組みました』と提案した時、真っ先に逃げ出したじゃないですか」
シデロカの指摘に、ドクターはギクッと肩を揺らした。
確かに以前、彼女の熱意あふれるトレーニングメニューを見せられ、生命の危機を感じたドクターは、執務室に三日間立て篭もって逃亡した前科がある。
「お、終わった事だ……もう忘れたよ」
「随分都合のいい記憶ですね。だいたい、ドクターは運動に対する基礎的なモチベーションが足りていません」
シデロカはジト目でドクターを見据える。
「はぁ……なら、シュヴァルツに頼もうと思うのん。あいつなら優しく手取り足取り教えてくれるかもしれんし……迷惑かけてごめんなぁ」
ドクターがわざとらしく肩を落とし、背を向けようとした瞬間。
「――待ち、なさい」
シデロカの手が、ガシッ!とドクターの肩を掴んだ。
万力のようなフォルテの握力に、ドクターの肩の骨が悲鳴を上げる。
「あだだだっ!い 痛いッス!」
「……シュヴァルツさんに頼む? あの『格闘術どころか護身術の心得すらないから、私が教える』と言われて、三日で音を上げたドクターがですか?」
「な、なんでそんな事まで知ってんスか……?」
シデロカの目が、据わっていた。
彼女も世話焼きであると同時に、自分が目をかけた相手が他の人間に頼ることを良しとしない、妙に生真面目な独占欲を持っているらしい。
「分かりました。私が責任を持って、ドクターの身体を叩き直してあげます。……ただし、一度引き受けたからには、途中で逃げ出すことは許しませんよ。良いですね?」
「お、おう……お手柔らかにお願いしたいっス」
こうして、ドクターの地獄の特訓の日々が幕を開けたのである。
◆
ロドス本艦、第三トレーニングルーム。
各種ウェイト器具やランニングマシンが並ぶその空間は、汗と熱気に満ちていた。
「まずは基礎体力の測定から始めます。ドクターの現在の心肺機能と筋持久力を把握しなければ、適切なメニューは組めませんからね」
シデロカはスポーツ用のタイトなウェアに着替え、クリップボードを手にドクターの前に立った。
その身体にピタリと張り付くウェアは、彼女の豊満なバストと引き締まった腹筋、そしてしなやかな太もものラインを強調しており、マネモブ的思考を持つドクターにとっては非常に目に毒であった。
(ムフフ……シデロカのタイツ姿……エロいというより芸術的ッと言う感覚。これだけでモチベーション上がるっスね)
「ドクター? 何をニヤニヤしているんですか。始めますよ」
「あっ、はい! よろしく頼むっス!」
シデロカの指示により、ドクターはランニングマシンに乗せられた。
まずは軽いジョギングから始まり、徐々にスピードと傾斜が上がっていく。
「まず、目標は心拍数130の維持ですね。苦しくなったら言ってください。ドクターの体力なら、おそらく五分程度で息が上がるはずですから」
シデロカはストップウォッチを見ながら、早々にドクターが音を上げるのを予想していた。
なにせ、彼は普段から「歩くより椅子に座って移動したい」と公言するほどの完全なるインドア派である。
しかし。
五分経過。十分経過。十五分経過――。
「ハァ……ハァ……」
ドクターの額には汗が浮かんでいるものの、その足取りは一向に鈍る気配がない。
ランニングマシンの設定は、すでに中距離走のアスリートがこなすレベルのペースに達している。
「ど、ドクター? 大丈夫ですか? 無理はしないでくださいね?」
「ふぅ……いや、意外とイケるっスね。知らぬ間に体力付いてるんだよね怖くない?」
走りながら、ドクターは余裕すら感じさせる笑みを浮かべた。
シデロカは目を丸くする。
「不思議です……ドクターがあまり日頃から鍛えてるように見えないのですが。隠れて何か運動でもしていたんですか?」
「運動してたら不健康じゃないんだよね酷くない?まぁ気にしないで。弱いってことは、もっと強くなれるって事やん」
ドクター自身もヘラヘラと笑っているが、実のところ自覚はあまりなかった。
だが、ロドスの日常を客観的に振り返れば、その理由は自明であったが。
週に二回は起きるウィシャデルとのじゃれ合い――手榴弾とご先祖ランチャーの爆風を掻い潜りながら艦内をパルクールで全力疾走する命懸けの鬼ごっこ。
あるいは、過労やサボりが露見した際、怒り狂ったケルシーの放つMon3trから逃れるため、階段や手摺りを垂直跳びで駆け上がる決死のチェイス。
知らず知らずのうちに、ドクターはテラ屈指の危険生物たちから逃げ延びるための、常軌を逸した「実戦的スタミナ」を肉体に叩き込まれていたのである。──もっとも、これほどの運動量を軽々と相殺する自堕落な生活習慣ゆえに、体調不良に陥っているのが実情なのだが。
「ランニングはこれくらいにしましょう。次は心肺機能と全身運動のテストです。バーピー・ジャンプを連続で行います」
シデロカの指示で、ドクターは床に手をつき、足を後方に蹴り出し、腕立て伏せの姿勢から一気に立ち上がってジャンプする動作を繰り返す。
これもまた、本来ならば数回で息が上がるほどの高負荷トレーニングだ。
だが、ドクターは黙々と、そしてリズミカルにバーピーをこなし続ける。
(バーピーなんて、だぶちの爆発を躱して起き上がる動作に比べりゃ、余裕を超えた余裕だぜ……!)
三十回、四十回、五十回……。
シデロカの持つクリップボードを持つ手が、微かに震え始めた。
「……予想外です。スタミナに関しては、一般のオペレーター並……いや、それ以上の数値が出ています。申し分ないですね」
「へへっ、どんなもんスか。俺もやればできる子なんだよね、凄くない?」
汗を拭いながらドヤ顔を決めるドクター。
しかし、シデロカの瞳の奥に、闘志の炎がボワッと燃え上がったのを見逃していた。
「なるほど。ドクターのスタミナがこれほどあるのなら、心肺機能を苛め抜くメニューではなく、純粋な『筋力』を鍛える方向にシフトしましょうか。トレーニング方式を変えないといけませんね」
「……えっ」
「ドクターは持久力はありますが、それを支える基礎筋力が圧倒的に不足しています。これからは、徹底的に筋肉の繊維を破壊し、超回復を促すウェイトトレーニングを中心に行います。安心してください、私が補助につきますから、限界の一歩先まで追い込めますよ」
「い、いや、ちょっと待てよ!俺は別にゴリマッチョになりたいわけじゃ……!?」
「さあ、まずはベンチプレスからです。ドクター風に言うなら、ゴングを鳴らせ! ジムで運動開始だ!ですっ!さぁ!頑張ってください!」
「なんでシデロカが語録使ってんだよえーー!?うああああ!」
シデロカの声が、トレーニングルームに高らかに響き渡った。
それが、ドクターにとっての真の地獄の始まりであった。
◆
「ひ、ひぃぃぃっ! 死ぬ! もう上がらんッス!!」
「甘えないでくださいドクター! あと三回! ここからが筋肉との対話ですよ!」
ベンチプレス台で、ドクターは自重に近いバーベルを持ち上げようと必死に顔を歪めていた。
彼の背後にはシデロカが立ち、絶妙な力加減でバーベルを支えながら、ドクターの限界を引き出している。
「あ、あかん……大胸筋が悲鳴を上げとる……! 筋肉の繊維が一太刀で切断されるバルディッシュの斬撃ッて感覚……!」
「声を出して! 息を吐きながら上げる!そうです、その調子です!」
シデロカの指導は的確であり、かつ容赦がなかった。
彼女はドクターの「もう無理」という限界点を正確に見極め、そこからさらに「あと一回」を強制的に絞り出させる術を熟知している。
「よし、次はスクワットです。下半身は人体の土台。ここを鍛えれば、逃げ足……いえ、戦場での機動力も上がりますよ!さあ、バーを担いで。深くしゃがんで……はい、上がる!」
ドクターの太ももが、焼けつくような痛みを訴え始める。
普段は頭脳労働しかしていない彼にとって、これほどの筋負荷は未知の領域だ。
「うあああああ! 脚が! 俺の脚が生まれたての小鹿みたいにプルプル震えるんやけど!」
「姿勢が崩れていますよドクター! 背筋を伸ばして!」
シデロカの手が、ドクターの腰から背中にかけてピシャリと触れる。
その感触にドキッとする暇もなく、凄まじい筋疲労がドクターの意識を白濁させていく。
(ク、クソボケがーーーーっ! なんで俺はこんな目に遭ってんのや! フォリニックとケルシーの説教から逃れるためとはいえ、やり過ぎだろうがえーーー!?)
ドクターの心の中でタフ語録が乱舞するが、シデロカの熱血指導は止まらない。
「次はラットプルダウン! 背中を鍛えて、立派な逆三角形のフォルムを作りましょう!」
「も、もう勘弁して欲しいのは俺なんだよねぇ……!」
一時間のトレーニングが終わる頃には、ドクターは文字通り床に這いつくばるスライムと化していた。
全身の筋肉が軋みを上げ、指一本動かすのすら億劫だ。
「お疲れ様でした、ドクター。初日にしては、よく頑張ったと思います」
シデロカはタオルで汗を拭きながら、満足げに微笑んだ。
その健康的な汗と、運動によって紅潮した頬は非常に魅力的であったが、今のドクターにはそれを鑑賞する余裕すら残されていない。
「……あ、あざーす……もう、死神医療チームを、呼んでくれ……」
「大袈裟ですね。プロテインを作ってきますから、三十分以内に飲んでください。筋肉の分解を防ぐためです。……明日も同じ時間にここに来てくださいね」
「あ……明日も……!?」
「はい、当たり前ですよ?筋肉は一日にして成らず、です」
シデロカの爽やかな笑顔が、今のドクターには死刑宣告にしか見えなかった。
◆
それからの1週間は、ドクターにとってまさに地獄の責め苦であった。
朝はシデロカによる鬼のモーニングコールで叩き起こされ、プロテインとバランスの取れた朝食はシデロカお手製だ。味は絶品だが、カロリーと栄養素が完全に管理されている物を詰め込まれる。
日中の業務中も、筋肉痛で全身が悲鳴を上げ、書類にサインをするペンすら重く感じた。
『ドクター、らしくないわねどうしたのよ。動きがぎこちないわよ。まさか……寄る年波ってやつ?ざまぁないわね!』
ウィシャデルにからかわれようとも、反撃のタフ語録を返す気力すら湧かない。
『ドクター。君のその不自然な歩行動作は、明らかな筋繊維の断裂と炎症を示唆しているが。ロドスの指揮官が己の身体管理すらできないとは……』
ケルシーの冷ややかな視線を浴びても、ただ「まぁ気にしないで。ただの筋肉痛ですから……」と弱々しく答えることしかできなかった。
しかし、シデロカの指導は的確だった。
彼女はただ闇雲にドクターを追い込むだけでなく、十分な休息と栄養管理、そして入念なストレッチを取り入れることで、彼の身体が壊れないギリギリのラインを見極めていたのだ。
「ドクター、今日は大胸筋を中心に追い込みますよ。準備はいいですか?」
「……しゃあっ! やったるで!」
三日目あたりから、ドクターの中にある謎の『マネモブ精神』が、この筋肉の苦痛を一種の快楽へと変換し始めていた。
筋肉が張る感覚。持ち上がらなかった重量が、少しずつ上がるようになる達成感。
(弱いって事は、もっと強くなれるって事やん! 俺の身体に眠る“人間兵器”としてのポテンシャルが、今まさに目覚めようとしているんだ!)
謎のポジティブシンキングを発揮し、ドクターはシデロカの厳しいメニューに食らいついていった。
シデロカもまた、ドクターのその意外な根性に驚きつつも、教え甲斐を感じているようだった。
「ドクター、フォームが綺麗になってきましたね。その調子です!」
「俺はスポンジなんだよ……シデロカの教えをどんどん吸収していくんや!」
二人三脚の地獄のトレーニングは、いつしか奇妙な連帯感を生み出していた。
そして、一週間後の定期健診の日。
第一診察室。
フォリニックは、手元の端末に表示されたドクターの検査データを前に、完全に言葉を失っていた。
「…………」
「どうしたんスか、フォリニック先生。そんなに食い入るように画面を見つめて」
ドクターは、診察台の上で余裕の笑みを浮かべていた。
一週間前のような気怠さは消え失せ、姿勢も良くなり、シャツの上からでも微かに筋肉の張りが感じられるようになっている。
「驚きました……」
フォリニックが、信じられないものを見るような声で呟いた。
「ドクターが、健康体だなんて……これって検査機器の誤作動? 何かの間違いじゃ……もう一度、血液検査からやり直して精密検査を……」
「信用無さすぎだろうがえーーー!? 完璧な数値叩き出してるんやから素直に褒めんかい!」
ドクターが抗議の声を上げた、その時。
――プシュッ。
診察室のドアが開き、クリップボードを手にしたケルシーが入室してきた。
彼女はフォリニックの端末を一瞥すると、微かに目を細めた。
「ドクターが最近、シデロカと連日トレーニングルームで激しい鍛錬を行っていたのが、大きな要因だろう」
「ケルシー先生……!」
フォリニックが驚いたように振り返る。
「シデロカがドクターのパーソナルトレーナーを買って出たという報告は受けていた。だが……」
ケルシーは、ドクターの方へと向き直り、その冷徹なエメラルドの瞳で彼を上から下まで値踏みするように見つめた。
「……すぐに根を上げて、以前のように三日坊主で終わると想定していたのだがな。どうやら、よっぽどフォリニックからの『一生椅子に寝ていればいい』という発言が効いたらしい。あるいは、シデロカの指導法がよほど君の怠惰な精神に適合したか、だ」
「ククク……酷い言われようだな。まぁ事実だからしょうがないけど」
ドクターは肩をすくめた。
ケルシーの言葉には相変わらず棘があるが、その響きには普段の「完全な呆れ」とは違う、微かな評価の色が混じっている。
「動機はなんであれ、身体が正常な機能を取り戻しているのは良い事だ。……よくやったな、ドクター」
「……えっ?」
ドクターは耳を疑った。
今、あのケルシーが。自分をゴミ虫を見るような目でしか見ないあの氷の賢者が、はっきりと「よくやった」と口にしたのだ。
「ケ、ケルシーが素直に褒めたんだよね、怖くない!? 恐らく明日は天災が来ると思われるが……!」
――カチリ。
室内のどこかで、決定的なスイッチが入る音がした。
ケルシーのエメラルドの瞳から、先ほどの微かな温もりが瞬時に蒸発した。
代わりに立ち込めたのは、絶対零度をも下回る、完全なる論理的断罪の暗雲であった。
「……天災、だと?」
「あ、これいつものパターンっス……」
低く、地を這うようなアルトボイス。フォリニックがサッと一歩後退し、診察室の隅へ退避した。
「ドクター。君は今、己の生理学的数値の改善という極めて個人的かつミクロな事象に対する私の正当な評価を、テラの大地において無数の生命と都市を無差別に粉砕し、数千年にわたり文明の存続を脅かし続けてきた超常現象――すなわち『天災』と同列のメタファーとして配置し、あまつさえ因果関係の予測モデルとして口頭出力したな?」
「そ、それは単なる比喩というか、冗談で……」
「私の言葉を遮るな」
ケルシーは静かに腕を組み、立ったままドクターを見下ろした。怒涛の『ケルシー構文』が、容赦なく解き放たれる。
「言語とは、思考の輪郭を形作るためのプロトコルだ。君がそのように軽々しく天災という言葉を濫用する行為は、過去にリターニアの沃野を飲み込んだ大裂溝や、ウルサスの凍原を徘徊する吹雪の惨禍、そしてシエスタを幾度となく脅かした火山の脈動といった歴史的事実に対し、著しい不敬と無知を露呈しているに他ならない。そもそも天災の発生メカニズムは、大気中の源石微粒子の密度勾配、地殻変動に伴うエネルギーの蓄積、ならびに空間のエントロピー増大が臨界点に達した際に引き起こされる物理的・空間的カタストロフであり、一個人の健康状態の好転や、他者からの肯定的なフィードバックの受容といった内分泌系の揺らぎとは、物理学的にも統計学的にも一切の相関性を持たない。それをあたかも『珍しい事象が起きたから災厄が訪れる』などという、古代サルゴンの未開部族が日食を前にして生贄を捧げていた時代と同レベルの原始的な迷信的思考へと退行させ、知性を持った指導者としての責務を放棄するその態度はどうなんだ、ドクター。私が君を評価したのは、君がロドスの作戦指揮官として、己の生命活動を維持し、アーミヤや他のオペレーターたちに対する責任を果たすための基盤を整えたという客観的成果に対してだ。にもかかわらず、君はその成果の価値を自ら貶め、私の発言を茶化すことで、精神的な優位性を確保しようと試みた。これは心理学における古典的な防衛機制――自己の脆弱性を直視することを恐れた道化の逃避行動に過ぎない。君が健康を手に入れたからといって、その大脳皮質に巣食う軽薄さと責任逃れの悪癖までが治癒したわけではないということを、私は今、極めて遺憾ながら再認識せざるを得ないのだ。……理解したか?」
「な、なげーよ!褒められたことへの感謝を伝えたかっただけなんだよね長くない!?」
「そもそも、テラの大地において、天災とは単なる気象の乱れではない。古代より地表を塗り替え、数多の移動都市を難民へと叩き落とし、源石という名の災禍を大地に刻み込んできた根源的な悲劇だ。かつてウルサスの北部凍原を襲った大規模な天災群、あるいはカジミエーシュの肥沃な大地を砂漠化させた嵐の歴史を鑑みるに、それらは常に無数の生命の断絶と、文明の強制的な後退を意味してきた。それを、私が君の生理学的恒常性の回復という極めて局所的かつ個人的な事象に対して下した客観的な医学的評価と等価に並べ、『天災が来る』などと短絡的な言語化を試みる。その知的怠慢、そして歴史的文脈に対する無自覚な冒涜は、ロドスの最高指揮官として看過できるものではない」
「怒らないでくださいね、ケルシーって冗談が通じないから困るじゃないですか……!」
「最後まで聞け。君のその思考停止した言語反射こそが、君の前頭葉の脆弱性を物語っている。さらに言えばだ、私が他者を肯定的に評価する行為を『異常事態』と捉える君の認知の歪みについてだが。そもそも賞賛とは、対象が適切なタスクを遂行し、生存確率を向上させたことに対する論理的フィードバックの一環に過ぎない。君が日頃から無計画な徹夜と不規則な生活習慣を繰り返し、自らを緩慢な自殺へと追い込んでいるからこそ、私の指摘が必然的に是正命令へと偏っていたまでのこと。それを棚に上げ、私がたまに見せた評価の出力に対して天変地異の予兆などと騒ぎ立てる行為は、自身のこれまでの不摂生と不誠実さを完全に忘却した愚行であると断ぜざるを得ない。理解したか? 君に必要なのは、筋肉の増量だけでなく、自らの発言が周囲に及ぼす影響をマクロの視点から俯瞰し、論理的な整合性を保つための――」
「あ──何言ってるかわかんねぇよ!!いい加減にしてくれって思ったね!」
怒涛の勢いで展開されるケルシーの講義に対し、ドクターの脳内リミッターが再びカチリと音を立てて外れた。
「そもそも、そういうケルシーこそ自分の体調管理しっかりしてるんスか!無茶ばかりしてるのはおどれやないケーっ!!」
ドクターの指先が、ビシッと白衣の胸元へ突きつけられた。
一瞬、ケルシーの論理展開の歯車が噛み合わなくなり、彼女はわずかに眉をひそめた。
「……いきなり何の話だ。私は君と違って自己管理はしている」
「嘘つけッ! 薬品でドーピングしながら不眠でぶっ通しで七十二時間連続で手術台の側で執刀を担当してた奴が言える立場なのかよえーーー!?自分の肝機能と副腎皮質ホルモンの値を見てから言えって思ったね!!」
「……それはそれだ」
「『それはそれ』で済むかいっ! 完全なダブルスタンダードやんケ!!」
「医師としての職務執行と、君の怠惰に起因する生活習慣病予備軍の乱脈ぶりを同列に語るな。あれは緊急性の高い複数の感染者に対するトリアージの結果であり、私の生理学的限界と代謝速度を極限まで計算した上での計画的負荷だ。……君の短絡的な徹夜とは次元が違う」
「屁理屈をこねるなァッ! お前が倒れたら俺と同じだろうがよえーーーっ!!」
狭い診察室の中で、ロドスの最高幹部二人が仁王立ちでギャーギャーと言い争う地獄絵図。
その猛烈な風圧の隙を突き、フォリニックは自身のバインダーを抱え込むと、音もなく後ずさりした。彼女の顔には「これ以上ここにいたら巻き添えを食らう」という野生の危機感がアリアリと浮かんでいる。
スッと扉が開き、フォリニックは滑るように廊下へ逃亡。そのまま静かにカチャリとドアを閉めて去っていった。
しかし、残された二人の舌戦は留まることを知らない。
「大体だなドクター、君は前回の件についての反省は――」
「お前のその長広舌こそが俺の血圧を急上昇させてる原因なんやろ!少しは可愛げってもんを──」
まさに泥沼のレスバが第二ラウンドに突入しようとした、その時であった。
「あれー? 二人ともまた喧嘩してるの? 相変わらず仲良いね〜!」
ガラリと勢いよく扉が開き、トレーニングウェア姿のブレイズがひょっこりと顔を覗かせた。肩にタオルをかけ、上機嫌で尻尾を揺らしている。
「ぶ、ブレイズ……どうしたんスか?」
「いやさ、フォリニックが廊下をすごい形相でダッシュしていくのを見かけてさ。何事かと思って覗いてみたら、ドクターの検査結果が出たんでしょ?さっき通りがかりに見たけど、オールグリーンじゃん! めっちゃ健康体じゃんか!」
ブレイズはドクターの肩をバンバンと豪快に叩いた。
「お祝いに一緒にお酒飲まない? 最近ずっと『鍛錬があるから』とか『筋肉痛で動けない』とか言って断ってたし、今日くらいパーッと行こうよ!ほら、飲みに行こ!」
ドクターは痛む肩を押さえながら、目の前で腕を組み、いまだ不機嫌そうにエメラルドの瞳を尖らせている白衣の賢者を見つめた。
逃げ道はない。このままここに残れば、マンツーマンによる歴史的説教の続きを食らうのは確定的に明らかであった。
――ならば、どうするか。
ドクターの灰色の脳細胞に、マネモブ特有の起死回生の閃きが走った。
「……そこでだ。企画を変更してケルシーも連れていくことにした」
「……はぁ?」
ケルシーの眉がピクリと跳ねた。
「何を馬鹿なことを言っている。私がそのような非生産的かつ中枢神経を麻痺させるだけのアルコール摂取の場に赴く道理がない。それに私にはやるべき未処理のカルテが――」
「逃げるんかいっ!このやぶ医者! 自分の自己管理に絶対の自信があるなら、酒の一杯や二杯付き合ってもピンピンしていられるはずやろ!実はケルシー先生は下戸で、お酒の席でボロが出るのが怖くてビビってるタイプ?」
「……挑発が稚拙すぎるな、ドクター」
「いいじゃんいいじゃん! ケルシー先生も行こーよ!」
ブレイズが満面の笑みでケルシーの背中をグイグイと押し始めた。炎を操るエリートオペレーターの怪力に対し、長命者とて物理的に逆らうのは至難の業である。
「ブレイズ、やめろ、私は……おい、腕を引っ張るな……!」
冷徹な医師の威厳も形無しに、二人に挟まれたケルシーは、引きずられるようにして医務室から連れ出されてしまったのだった。
◆
ロドス本艦3F、バー『ワン・モア・グラス』。
午後九時を回り、照明がやや落とされた店内は、任務を終えたオペレーターたちの談笑と、グラスが触れ合う澄んだ音で満たされていた。
ボックス席のテーブルには、琥珀色の液体が入ったボトルと、塩、カットされたライム、そして小さなショットグラスが幾つも並べられている。
「……ボリバル産のアガベを原料とした蒸留酒……テキーラか。アルコール度数は四十度を超過している。このような劇物を、空腹に近い胃粘膜へ流し込む行為は、胃炎および急性膵炎のリスクを跳ね上げる自殺行為に等しいがな」
ケルシーは運ばれてきたグラスを指先で弄びながら、チビチビと舐めるように唇を湿らせるだけで、一向に飲み干そうとはしなかった。隣ではブレイズがジョッキのビールを「ぷはーっ!」と喉を鳴らして干している。
「うーん、美味しい! やっぱ運動の後はこれだよね! ケルシー先生ももっとグッといきなよ!」
「断る。私は味覚の刺激と肝臓の解毒酵素の許容量を計算しながら摂取している。君のようにアルコールをガソリン代わりに消費する愚者と同列に扱ってもらっては困る」
「チビチビ舐めてるだけで飲んだ気になってんじゃねぇぞ!コラ!」
すっかりビールの勢いで勢いづいたドクターが、テーブルをバンと叩いて啖呵を切った。
「場の空気を楽しむという文化人類学的な情緒がまるで分かってないと思われるが……飲めないなら飲めないって素直に白旗を上げたらどうなんスか?負けたんスね」
ドクターの煽りに、ケルシーのエメラルドの瞳がスッと細められた。
冷えた炎のような、危険な光がその奥に灯る。
「……君は私が酒に弱いと、そう決めつけているわけか」
「当たり前や! 薬品ばっかり弄ってる奴が泥臭い酒の味なんて分かるわけないヤンケ!なら勝負や!どっちが先に潰れるか、テキーラショット対決受けて立たんかいっ!!」
「ど、ドクター?それは流石に自滅行為じゃ……」と苦笑いするブレイズを他所に、ケルシーは静かにグラスを置いた。
彼女の纏う空気が、診察室のそれから、戦場でMon3trを解き放つ直前の冷厳なものへと切り替わる。
「……いいだろう。君がそこまで自発的に急性アルコール中毒の境界線へ突進したいと望むのならば、生命の尊厳と自己過信の代償を、その鈍重な肉体で直接学習させてやる必要があるようだな」
「しゃあっ! 言うたな! 後で泣き言言っても許さんぞ!」
「あはは、なんか急に面白い事になったね!よーし、二人とも準備はいーい!?」
ブレイズが面白がりながら、二人の前のショットグラスに黄金色のテキーラを並々と注いだ。まずは一杯目。
「ゴングを鳴らせ! 試合開始だっ!」
ドクターがグラスを煽る。カッと喉が焼けるような強烈な刺激。ライムをかじり、塩を舐める。
「ぐぅーっ! 効くっ! 胃袋に直接火炎放射器を叩き込まれたッと言う感覚!」
対するケルシー。彼女は何の躊躇もなく、極めて滑らかな手つきでグラスを傾け、喉仏をわずかに上下させて一息に飲み干した。眉一つ動かさない。
「……アルコールによる局所的な脱水症状と交感神経の刺激を、塩分のナトリウムイオンで誤魔化すだけの旧時代的な飲酒法だな。次だ」
「な……なにっ!?」
二杯、三杯、四杯──。
テーブルの上に、空になったショットグラスが積み重なっていく。
「まだまだぁ! ワシは南京町のブタマンと同じくらい酒が好きやねんで! ぐびっ、ぐびっ……ぷはっ!」
「五杯目。君の血中アルコール濃度は既に〇・一五パーセントを突破していると推計される。前頭葉の抑制機能は完全に麻痺し、運動失調の兆候が眼球運動に現れ始めているぞ……」
言いながら、ケルシーは六杯目を事も無げに喉の奥へ流し込んだ。
だが――変化は、確実に彼女の側にも訪れていた。
「……あれ?」
ブレイズがニヤニヤしながら身を乗り出す。
普段は雪のように白いケルシーの頬に、ほんのりと、だが明確に桜色の朱が差していたのだ。耳の先端がピクリと跳ね、伏し目がちになったエメラルドの瞳には、普段の鋭利な焦点の代わりに、微かな潤みと熱っぽさが宿り始めている。
「おいケルシー……お前、顔が赤くなっとるぞ……! 効いてる、効いてるぞぉ!」
「……戯言を。これは末梢血管の拡張に伴う単なる生理的紅潮反応だ。私の意識清明度は何ら損なわれていない。……そもそもだ、ドクター」
ケルシーが七杯目をグイと干し、ドクターをジト目で睨み据えた。
その口調は、普段の冷徹さを保とうとしているものの、明らかに回転速度が上がり、かつ感情のブレーキがバグり始めていた。
「君のその無軌道なアルコール分解酵素への過負荷はだな……古代サルゴンの遊牧民が馬乳酒を過剰摂取して戦場で落馬した歴史的愚行の再現に過ぎないのだ。紀元前四百年の記録において、酩酊した戦士の生存率は平時の三分の一以下にまで低下したというエビデンスがあるんだぞ。にもかかわらず、君は……んっ、ライムの酸味が足りないな、もう一つ寄越せ……君は、なぜそうやって自らの生命維持機構を危機に晒してまで、私に挑みかかろうとするのか。その無駄な闘争本能の出処を医学的に弁証するべきで……」
「長っ……! 酔っ払っても口が減らないどころか、増えてるんだよね怖くない!?」
ドクターも負けじと八杯目を胃に流し込む。視界がグラグラと揺れ、脳髄がカーニバル状態だ。
「うるせぇんだよ! 理屈はどうでもええんや! 賢いだけの女が真っ赤な顔して講釈垂れてる姿、めちゃくちゃ可愛いじゃないですか! 忌憚のない意見ってやつっス!」
「か……可愛い、だと?」
ケルシーの眉が跳ね上がり、グラスをテーブルにコトンと強めに置いた。
少し据わった瞳が、至近距離からドクターをじっと見つめる。
「君は、数万年の時を歩み、文明の黄昏を見届けてきたこの私に対して……そのような、安直で表層的な審美眼に基づく情緒的ラベルを貼り付けるのか。……傲慢だ。言語道断の不敬と言わざるを得ない。だが……ふっ、面白いな。泥酔した猿がどこまでその大言壮語を吐き続けられるか、徹底的に見届けてやる」
「舐めてんじゃねぇぞコラ! しゃあ!九杯目!」
「望むところだ。持ってこい、ボトルごと空にしてやる」
「あはははは! いいぞいいぞーっ! どっちも負けるなーっ!」
そしてブレイズの手拍子が響く中、二人の泥仕合は留まることを知らずに加速していく。
互いに呂律がわずかに怪しくなり、身体をグラつかせながらも、絶対に相手より先に倒れるものかとショットグラスを煽り続けるドクターとケルシー。
しかし、テキーラのアルコール度数は四十度を超える。それをストレートで十杯以上も空きっ腹に流し込めば、いかなる屈強な戦士であろうと無事では済まない。
アルコールがもたらす最大の副作用――「普段なら絶対に口にしない本音が、堰を切ったように溢れ出す」という現象が、ついに最悪のタイミングで発動した始めた。
ドクターは、空になったショットグラスをテーブルに叩きつけるように置くと、真っ赤な顔をして対面に座るケルシーを指差した。
「ケルシー先生……前々から一つ言いたい事があるんです。あなたは痴女だ」
――ピタッ。 バーの空気が、文字通り凍りついた。
隣で囃し立てていたブレイズの目玉が、飛び出さんばかりに見開かれた。
周囲で飲んでいた他のオペレーターたちは、「ついにドクターが言ってしまった」とばかりに一斉に息を呑み、明日の朝にはロドスから彼の存在が消滅している未来を幻視した。
「……なんだと……?」
ケルシーは手にしていたグラスを止め、ドクターを睨みつけた。
その声は低く、地を這うような冷たさを帯びていたが……彼女自身の顔もまた、アルコールによってほんのりと桜色に染まっていた。そのため、普段の絶対零度の威圧感に、どこか人間らしい『動揺』が混ざり込んでしまっている。
なお、理性を失ったマネモブドクターに、相手の地雷を回避するというそんな概念はない。彼は勢いよくテーブルに身を乗り出し、日頃から蓄積していた『男としての純粋な疑問と欲望』を爆発させた。
「前々からずーっと思ってたけど、肩が丸出し、背中ガバ出しの服でミニスカはなんなんだよえーー!? 病院の統括者が着る服じゃねぇやろ!一番は背中と太もも周りの露出がおかしいんや!」
「……っ!」
「脊髄からモンちゃんを出す必要があるから、背中の露出は理解出来るしいいんだよ……問題は、ミニスカ履いてる事や、白衣に謎のスケスケ素材を採用して全体的に露出度高めな事だ!なんで医療従事者がそんな防護力ゼロのえっちな服を着てるんや!異常露出愛者の悲哀を感じますね……!」
言ってしまった。
テラ最長寿の賢者であり、ロドスの最高権力者の一人であるケルシーの服装を、「スケスケのえっちな服」と公衆の面前で断言してしまったのだ。
「ぷっ……あははははははッ!!」
ブレイズがこらえきれずにテーブルに突っ伏して大爆笑し始めた。
「前から私たちも『ケルシー先生のあの服、どういう意図なんだろ?』って裏でコソコソ言ってたけど、まさか本人に直接『痴女』って言うなんて!勇気あるね!」
「怒らないでくださいね、あんな格好で艦内をうろうろされたら、男のオペレーターたちが目のやり場に困って業務効率が下がるじゃないですか! 俺を誘ってるとしか思えないんだよねエロくない?」
「だ、誰が誰を誘っているなどと……!!?」
ガタンッ!と音を立てて、ケルシーが立ち上がった。
数万年を生き、あらゆる国家の興亡を冷徹に見届けてきた女傑の顔が、今や茹でダコのように真っ赤に染まっている。それは怒りだけではない。明白な『羞恥』が、彼女の鉄壁の論理を激しく揺さぶっていた。
「ドクター……アルコールの過剰摂取により、ついに君の前頭葉は視覚的情報を論理的に処理する機能を完全に喪失したようだな。私のこの衣服は極めて機能的なデザインだ!」
出た。酔っ払い特有の、早口な自己弁護である。
「Mon3trを体外へ放出する際の瞬間的な高熱と物理的な干渉を避けるため、背部の開放は必須条件。そして大腿部の露出や、君が『スケスケ素材』と呼称した透明な防護フィルムは、気化熱を利用した急速冷却システムと、軽量化による戦場機動性の確保を両立するための最適解に過ぎない!けっ、決して、君のような低俗な哺乳類の発情を誘発するための視覚的ギミックなどでは……!!」
「嘘つけッ!!」
ドクターがグラスをドンと叩きつけて反論する。
「じゃあ、なんで太ももにピッタリフィットする絶対領域アピールのニーハイソックスなんて履いてるんや!冷却したいなら短パンでも履いとけばええやろがい! あんなの男の目線を太ももに誘導する為ヤンケ!本当は自分がスタイル良いの分かってて、わざと見せつけてハッピーハッピーヤンケって思ってるんやろ!」
「なっ……ぜ、絶対領域……だと!?」
ケルシーは言葉を失い、自分の太ももとドクターの顔を交互に見比べた。
彼女の計算領域に、『己の太ももと靴下の間の空間が、ドクターに特有のフェティシズム的呼称で認識されている』というデータは存在していなかったらしい。
「き、君は……私の服装を、常にそのような淫猥な視点で観察していたのか……?」
声が震えている。
いつもなら「……不潔だ。冗談はやめろ」と冷徹に言い放つ場面である。しかし、十数杯のテキーラが彼女の冷静な判断力を奪い──代わりに『一人の女性としての恥じらい』を強制的に表出させていた。
「あたりまえなことを抜かすな!男なんてのは悲しい生き物なんや……目の前にスケスケの白衣を着て、肩から背中、太ももまで露出してる美女がいたら、自然と目が行くのが大地の理やろがい!俺はお前のその服を見るたびに、『今日は空色のパンツ見えんかな』って思ってるんや!」
「な、何考えてるんだ……!?や、やめろ、ジロジロ見るな……!」
あまりの直球すぎるセクハラ発言に、ケルシーは思わず羞恥心を煽られ両腕で自身の胸元と肩を隠すように抱き、後ずさった。数万年を生きた彼女が、ただの酔っ払いの男の目線に防戦一方に追い込まれているのだ。
「だ、大体……私のような永い時を生きる存在に対して、そのような生物学的な劣情を抱くこと自体が、歴史に対する冒涜だ。私は君たちの母親よりも、祖先よりも古い存在なのだぞ。それを……ち、痴女などと……」
「数万年生きてるからって、女を捨てたわけじゃねぇやろがい!」
ドクターは立ち上がり、フラつく足取りでケルシーの目の前まで歩み寄った。
そして、彼女の肩を両手でガシッと掴んだ。
「ひ、ひゃっ……!?」
ケルシーの口から、およそ彼女らしからぬ、可愛らしい悲鳴が漏れた。
「……年齢なんか関係ない。お前は美しくて、エロくて、最高に魅力的な女なんだ。その服も、はっきり言ってめちゃくちゃ似合ってるし俺はお前のその格好、最高に好感が持てる」
「……えっ」
突然の、ド直球の褒め言葉。
論理による否定や怒りの反発を予想していたケルシーの脳髄に、甘く、ストレートな『男からの賛美』がクリティカルヒットした。
「う、美しい……私が……?」
「お前がどんなに理屈をこね回そうと、俺から見たらお前は『めちゃくちゃいい女』なんだ。こっちはそんな服着てウロウロされたら、俺の理性が持たなくなるって言ってるやもうちょっと俺の気持ちも少しは察してくれや」
ドクターの真剣な──酔ってトロンとした眼差しに見つめられ、ケルシーの顔の赤さはついに限界を突破した。
耳の先から首筋までが茹で上がったように朱に染まり、エメラルドの瞳がグルグルと泳ぎ始める。
「わ、私は……き、……君を誘惑する意図など……、そんなつもりは、なくて……その……」
「わかってるよ。でも、見えちゃうものは仕方ない。本当に仕方ない」
ドクターはニヤリと笑い、ケルシーの耳元へ顔を寄せた。
「でもね、俺……お前のそういう無自覚にエロいところ、キライじゃないんだよね。美形なビジュアルと性格がデレた時のギャップを支える……ある意味“最萌え”だ」
「~~~~~ッ!!」
プシューッ、と。
ケルシーの頭頂部から、幻の蒸気が噴き出したかのように見えた。
数万年分の知性と理性が、一人の男の酔った甘言によって完全にショートし、メルトダウンを引き起こしたらしい。
ケルシーはパクパクと金魚のように口を動かした後、
「……バ、バカっ!!」
ドンッ!! と、彼女の頭突きがドクターの額にクリーンヒットした。
アーツもMon3trも使わない、ただの『照れ隠しの物理攻撃』である。
「あだっ!!おっ反応があった!やっぱ事実を言われるとケルシーも照れるんやな!」
額を押さえて後ろにのけぞるドクター。
その隙に、ケルシーはテーブルの上に残っていたテキーラのボトルをひったくり、そのままラッパ飲みでゴクゴクと煽り始めた。
「プハァッ!! ……うるさいうるさいうるさい! 私の服装の構造的意義を理解できない愚か者は、アルコールの海に沈んでしまえ! こうなったらまだまだ飲むぞドクター!!」
「しゃあっ! 望むところや!!」
そしてその後も二人は飲み続けた結果───。
「十三杯目。……アルコールという名の液体毒素が、私の小脳における運動制御機能に干渉を開始したのを感知している。だが、きみの顔色はすでに致死レベルの蒼白と紅潮が入り混じった、きわめて危険なモザイク状を呈しているぞ、ドクター……?」
「ひっく……まだまだぁっ! ワシはタフやねん……! ちょっと視界が四重くらいにブレて、目の前にケルシーが四人いるように見えるけど、マイペンライや……!」
テーブルの上には、すでに空になったアガベのボトルが二本転がっている。周囲のオペレーターたちは、「あのケルシー先生が泥酔してドクターと飲み比べをしている」という、テラの崩壊よりも信じがたい光景を前に、遠巻きから息を呑んで見守っていた。
ドクターは十四杯目のグラスを手に取ろうとして、盛大に空振りした。
指先がテーブルを虚しく撫でるのを見て、ケルシーがふっと、冷ややかな――だが明らかに焦点の定まっていない、艶やかな笑みをこぼした。
「……フッ。神経伝達速度の明らかな遅延。きみの空間把握能力はすでに猿以下の水準にまで退行している。多少筋肉繊維を肥大化させたようだが、そんなものは表層的な虚飾にすぎない。結局のところ、鍛えたといっても、きみの基礎的な体力はたかが知れてるだろう……」
「な……なにっ!?」
ケルシーの挑発に、ドクターの泥酔した脳髄が激しく反応した。
男のプライド、そしてこの一週間の筋肉痛と筋肉飯に耐え抜いた『シデロカ・ブートキャンプ』の成果を愚弄されたのだ。
「ひっく……な、舐めてんじゃねぇぞコラぁ……!!」
ドクターは、グラつく両足に気合いとアドレナリンを叩き込み、バンッ! とテーブルを叩いて立ち上がった。
そして、ふらふらと立ち上がろうとしたケルシーの正面へと回り込む。
「俺の筋肉が虚飾かどうか、その身で味わわせてやるわ! 俺なんて……お前みたいな小うるさい女を軽々とお姫様抱っこする芸を見せてやるよ!」
「は……?」
ケルシーが状況を理解するよりも早く。
ドクターは彼女の膝裏と背中に腕を差し込むと、腰の回転と大腿四頭筋の力をフルに使い、「しゃあっ!」という気合いと共に、ケルシーの身体を一気に宙へと抱え上げた。
「――っ!?」
周囲から「おおおぉっ!?」というどよめきが上がる。 審判役のブレイズも「うっそ、マジで上がりやがった!」と目を見張った。
かつてのドクターであれば、重装オペレーターでもない成人女性を抱え上げることなど、腕の筋繊維が断裂して「アガガッ」と膝から崩れ落ちるのがオチだった。だが、シデロカによる地獄の体幹トレーニングと栄養管理の賜物か、今のドクターはフラつきながらも、見事にケルシーの身体を空中でホールドし切っていた。
「ど、ドクター……! な、なにをしている! はやくわたしを下ろせ……!」
ケルシーは慌ててドクターの胸板を叩き、逃れようとジタバタと足を動かした。
だが、アルコールによって感覚が麻痺しているためか、その抵抗は驚くほど力弱く、ただ彼の胸にすり寄っているようにしか見えない。普段の絶対零度の威圧感は完全に霧散し、そこにいるのは、突然の男の力強さに戸惑い、頬を真っ赤にして狼狽える『一人の女性』でしかない。
「ククク……どうやケルシー。俺の腕の中の居心地は。俺の筋肉はただの飾りではなく、お前を抱きとめるための実用的なサスペンションなんや」
ドクターは酔いでトロンとした目を向けながら、抱きしめたケルシーの顔を至近距離で覗き込んだ。
「こうして近くで見ると、いつも小難しい顔してるお前も……年相応の……いや、普通の女の子みたいで、たまらなく愛おしく感じるっスね。……こうして抱いてる今、ケルシーは俺の物なんだよね、可愛くない……?」
ド直球の所有宣言。
『俺の物』。その言葉が耳から脳髄へと到達した瞬間、ケルシーの思考領域に致死量の糖分と恥じらいのウイルスがばら撒かれた。
「なっ……な、な、な……ッ!?」
数万年の歴史の中で、彼女を『自分の物』などと所有物扱いで、かつこれほどまでに甘く囁いた男がかつて存在しただろうか。
いや、いない。
あまりの恥辱──それに相反して胸の奥から湧き上がってくる抗いがたい『熱』に、ケルシーのエメラルドの瞳は涙目になり、完全に視線が泳ぎ始めた。
「き、きみのものになったつもりは!ない……!」
ケルシーは必死に顔を背け、震える声で反論を試みた。だが、その語尾はアルコールと羞恥によって限界まで弱々しくなっている。
「そ、それに……順序というものがある。いくら酔った上での戯言とはいえ、公衆の面前でそのような……き、気が早い……」
「……なにっ?」
沈黙。
『気が早い』。
つまりそれは、「絶対にあり得ない」という拒絶ではなく、「順序を踏めば、いずれは……」という可能性を肯定してしまったに等しい失言であった。
ドクターの灰色の脳細胞が、その言葉の裏に隠された致命的な『デレ』のシグナルを完全に捕捉した。
「おっ、反応があった……!」
ドクターの口角が、ニヤァッとマネモブ特有の邪悪でタフな弧を描く。
「───やっぱケルシーって、俺の事大好きなんやな!! 忌憚のない意見ってやつっス! 俺も愛してるぜ、この可愛いお姫様ァ!!」
「~~~~~~ッ!!!」
ケルシーの頭の中で、原子爆弾が爆発した。
顔面から首筋、さらには露出した背中や肩に至るまで、彼女の全身が瞬時に茹でダコのように真っ赤に染め上がった。
「い、いいかドクター! 『気が早い』という言葉はだな、きみがロドスの最高指揮官として、公私混同の極みとも言える関係性の固定化を性急に迫ることへの、手続き上の不備を指摘したに過ぎないのだ! 決して、わたしが将来的にきみの所有物となることを容認、あるいは期待しているなどという、れ、恋愛感情の萌芽を示唆したものでは断じて……!!」
「必死に長文で言い訳して図星だって認めてるようにしか聞こえないけど……いいんスかこれ」
「ち、ちが……っ!!私はただ、論理的な手順の飛躍を指摘しただけで……! あ、愛だの恋だのという化学的バグにわたしが屈するはずが……っ!」
「今更取り繕っても遅いんや! お前、俺の腕の中で心臓バクバク言わせとるやんケ! これが愛じゃなかったら何が『愛』か教えてくれよ!?」
「わ、わ、私を下ろせ! Mon3tr!は、 早くっ!い、今すぐ彼を……!な、なぜでてこない……!」
二人のやり取りを見ていたブレイズが、ついに堪えきれずに腹を抱えてテーブルに突っ伏した。
「あはははは! ケルシー先生がドクターにお姫様抱っこされて真っ赤になってる! 世紀の大スクープだねこれ! 明日の艦内報のトップ記事決定ーっ!!」
「やめろ、やめるんだブレイズ……! 私の尊厳が……ロドスの医療統括としての威厳が、光の速度で消滅していく……っ!」
「そんなものは荼毘に付したよ……あなたを尊厳破壊するつもりはありません!ただ愛でてるだけですよ!」
ケルシーは恥ずかしさのあまり、ついにドクターの首筋に両腕をぎゅっと回し、その胸元に顔を完全に埋めてしまった。
逃げ場を失った彼女が選んだのは、一番近くて、一番隠れやすい場所――ドクターの身体そのものだったのだ。
(う、ウソやろ……)
ドクターの背筋に、アルコールの酔いとは全く別の、甘く痺れるような悪寒が走った。
首筋に当たるケルシーの温かい吐息。耳元で聞こえる、心臓の早鐘のような鼓動。彼女の柔らかい身体が、ぎゅっと自分にしがみついて離れない。
普段の「氷の賢者」が、完全に熱を帯びた「ただの女の子」になって、自分の腕の中で震えているのだ。
(想像してみろ……普段あれだけ長文説教で俺をフルボッコにしてくるケルシーが、酒に酔っ払ってお姫様抱っこされたまま、照れて胸に顔を埋めて縮こまってる姿を……エグいなんてもんじゃない……!!)
「……お、おい、ケルシー、流石にやり過ぎたっスか……?」
「……もう、しゃべるな」
胸元から、くぐもった、ひどく弱々しい声が返ってきた。
「頼むから、もうなにもいうな……頭が痛いし、身体が熱い……。全部、ぜんぶ……きみのせいだ、ドクター……」
「ククク……全部俺のせいか。まぁ事実だからしょうがないけど」
「最高! ドクター最高だよ!! ケルシー先生がこんなにたじたじになってるの、ロドス始まって以来の歴史的瞬間じゃない!? あーお腹痛い!!」
「わ、わらいごとではないブレイズ! こ、こうなったら、ドクターをいますぐベッドにねかせろ! めいれいだ!」
「えーっ? 夫婦喧嘩は犬も食わないって言うし、あたしは審判だから手出し無用だよ! ほらドクター、そのままお持ち帰りしちゃえ!」
「おっしゃ任せろ! ツンデレケルシーを極楽仕事室へご案内だGOーーー!」
「だれがツンデレだ! い、いますぐおろせぇ!はなせぇぇっーーー! 」
腕の中でジタバタと暴れるが泥酔しているため力は弱いケルシーを抱えながら、ドクターは勝利の凱歌を上げるようにバーを後にした。
彼らを見送るオペレーターたちの目には、尊敬と、そして「ドクターの命日はあと何時間あるだろうか」という純粋な哀悼の意が浮かんでいた。
◆ ◆ ◆
翌朝。
朝日が網膜を焼くように痛い。
テラの大地において、天災や鉱石病は抗いがたい脅威であるが、現在のドクターにとって、今この瞬間最大の脅威は己の体内を蹂躙するアセトアルデヒドであった。
「頭が割れるように痛いっス……うう……」
ドクターは壁に手をつきながら、鉛のように重い足を引きずって本艦の廊下を歩いていた。
昨晩の記憶は、ところどころ虫食いのように欠落している。確かなのは、バー『ワン・モア・グラス』にてケルシーとテキーラのショット対決を繰り広げたこと。そして、泥酔した勢いで彼女を愚弄し『お姫様抱っこ』をして廊下を練り歩いたことまでは、おぼろげに覚えている。
だが、その後の帰路の道程や、自分がどうやって自室のベッドに潜り込んだのかは、完全に猿空間送りになっていた。
「しゃあけど、あの鉄面皮のケルシーが顔を真っ赤にして『気が早い』なんてデレたのは現実なんだよね凄くない?あの瞬間、俺の男としての威厳は完全に頂点に達していたと自負している……それがボクです」
胃から込み上げる吐き気と闘いながらも、ドクターの口元にはマネモブ特有の不敵な笑みが浮かんでいた。
何はともあれ、今日の業務をこなさなければならない。彼は這うようにして、自身の作戦指揮室の重い気密扉を開けた。
「あ……ドクター。お、おはよう、ございます」
「あ、アーミヤおはようっス……」
既にアーミヤが待機していた。
彼女はいつもなら、ドクターの遅刻や不健康な顔色を見るなり「ドクター、また徹夜ですか? お仕事が溜まってますよ!」と小言を並べてくるはずである。
しかし、今日のアーミヤは様子が違った。
彼女は手元の書類から顔を上げることなく、モジモジと長いウサギの耳を揺らし、どこかそわそわとした落ち着きのない態度をとっていた。
「その、昨日は……大丈夫でしたか?」
「何とか……。まぁ、頭痛薬と胃薬のダブル・コンボでギリギリ命を繋ぎ止めてる状態ッスけどね。それより……」
ドクターは目を瞬かせた。
「……」
「アーミヤ……? 顔が赤いけど、どうしたんや? もしかして熱でもあるのか? それとも、俺の酒臭さが移ってしまったとか……」
「ひゃっ! な、なんでもないですよ!?」
ドクターが顔を近づけようとすると、アーミヤはビクッと肩を震わせて慌てて後ずさった。その頬は、熟れた林檎のように真っ赤に染まっており、視線はドクターの顔を直視できずに床のあたりを猛烈な勢いで彷徨っている。
(ど、どうしたんや……? まるで、恋する乙女みたいな反応やんケ……!)
ドクターが不思議に思うのも無理はない。彼は、昨晩の『帰路』における重大なインシデントを、完全に忘却していたのだから。
――アーミヤの脳裏には、昨晩の出来事が鮮明な熱を帯びてフラッシュバックしていた。
* * *
昨夜の深夜。
アーミヤは残業を終え、自室へ戻るために静まり返った廊下を歩いていた。
すると、前方から明らかに尋常ではない足音と、意味不明な奇声が近づいてきた。
「うぉぉぉーっ! 俺はタフだ! タフって言葉は俺のためにある! どんな困難もこの大胸筋で受け止めてやるんやーっ!」
「ド、ドクター……!?」
ケルシーを彼女の部屋へ放り投げた後の帰り道、千鳥足で壁にぶつかりながら歩いてくるドクター。その顔は茹でダコのように赤く、全身からアルコールの刺激臭が漂っていた。
アーミヤは慌てて駆け寄り、彼の身体を支えようとした。
「ドクター! 一体どれだけ飲んだんですか!? こんなに酔っ払って……しっかりしてください!」
「んんっ……? おおっ! この声は……俺の、俺の可愛いアーミヤやんけ!」
「ひゃっ!?」
次の瞬間、ドクターはアーミヤの小さな身体を、力強く、そして壊れ物を扱うかのように優しく抱きしめたのだ。
アルコールの熱気と、彼特有の微かな埃っぽいコートの匂いがアーミヤを包み込む。
「アーミヤ……お前は本当に、いつもよく頑張ってるっスね。こんな理不尽な世界で、俺たちの希望として……立派なリーダーとして、小さな肩に全部背負い込んで……」
「ど、ドクター……?」
ドクターの大きな手が、アーミヤの頭をポンポンと、優しく、そして何度も撫で回した。
酔っているとはいえ、その手のひらから伝わってくるのは、紛れもない純粋な慈愛と、親のような、あるいはそれ以上の強烈な情愛だった。
「俺はな……お前が一番愛おしいんだよね可愛くない? 毎日毎日、お前の寝顔を見るたびに、この子を守るためなら俺はどんな地獄にだって落ちてやるって誓ってるんや……」
「ド、ド、ドクター……!? 何を言ってるんですか、突然……っ!」
アーミヤの顔は、一瞬にして沸騰したように赤くなった。普段は冷静な指揮官が、深夜の廊下で自分を抱きしめながら、甘く、ストレートな愛の言葉を囁いている。
「……俺は、世界で一番お前を愛してるんや。アーミヤは尊いんだ、愛情が深まるんだよ。俺はお前の笑顔を守るためなら、命だって惜しくないんや……だから、もっと俺に甘えてええんやで、アーミヤ……」
──そして、ドクターの唇が、アーミヤのおでこに軽く、しかし確かに触れたのである。
「~~~~~~ッ!!!」
その瞬間、アーミヤの体温は急上昇し、脳内のヒューズが完全に焼き切れた。
魔王の因子を持つ彼女の強靭な精神力をもってしても、好意を寄せる相手からの不意打ちの『よしよし&愛の囁き&おでこキス』のトリプルコンボには耐えられなかった。
* * *
――という、甘くも恥ずかしすぎる出来事があったのだ。
アーミヤは今でも、ドクターのあの体温と、力強い腕の感触、そして耳元で囁かれた言葉を思い出すだけで、心臓が爆発しそうになるらしい。
「……あ、あの、ドクター」
アーミヤは上目遣いで、もじもじしながらドクターを見つめた。
「昨日の事……覚えてないんですか?」
「ううん、どういう事だ。もしかして、俺……アーミヤに何か迷惑掛けたっスか……?」
ドクターは心底不思議そうな顔をして首を傾げた。その表情には、一切の記憶がないことがアリアリと見て取れた。
(覚えて……ない……!)
アーミヤは、ホッとしたような、それでいて猛烈にガッカリしたような、複雑なため息を心の中で吐いた。
あの熱烈な告白は、ただのアルコールによる出まかせだったのか。それとも本心だったのか。それを確かめる術は、ドクターの記憶と共に猿空間へと消え去ってしまったらしい。
「い、いえ……別に、大したことじゃないです。ただ、少し……本当に少しだけ、ドクターが変なことを言っていたような気がしただけで……」
「変なこと? ……俺、誰かに『クソボケがーーッ!』とか叫んで殴りかかったりしてないスよね……?」
「していませんよ。……ドクターの、バカ」
「えっ、今理不尽にバカって言われた!? 急な罵倒で俺の心が傷ついてるんだよね酷くない?」
ドクターがオーバーに胸を押さえて抗議しようとした、その時であった。
執務室の気密扉が、霜が降りるような冷たさを伴ってスライドした。
そこに立っていたのは、純白の白衣を隙なく着こなし、手には分厚いファイルバインダーを抱えた、ロドス医療統括――ケルシーであった。
彼女の緑銀の髪は完璧に整えられており、エメラルドの瞳には一切の感情の揺らぎが見られない。まさに『冷徹なる氷の賢者』の完全体である。
「……おはよう、ドクター。アーミヤ。本日の作戦スケジュールの承認を取りに来た」
その声は、いつも通り無機質で、アルトの低い響きを帯びていた。
ドクターは、昨日の今日である。お姫様抱っこをして「俺の物なんだよね」と口走った相手が、どんな反応をしてくるのか。殺気を放ってMon3trをけしかけてくるのか、それとも顔を赤らめて照れ隠しの説教をしてくるのか。
ドクターはゴクリと唾を飲み込み、恐る恐る声をかけた。
「おっ、ケルシー……おはよう。その、昨日の夜は、色々あって……悪かったな。俺もちょっと酒が入りすぎて、その……」
ドクターが言葉を濁しながら謝罪の糸口を探ろうとすると。
ケルシーはピタリと動きを止め、氷点下の視線でドクターを見下ろした。
「……昨晩? 何の話だ」
「えっ」
「私は昨夜、二十二時には自室へ戻り、次期医療物資の調達計画の立案を行った後、速やかに就寝したが?」
一切の澱みもない、完璧なシミュレーションをなぞるような解答。
ドクターは目を丸くした。
「い、いやちょっと待てよ! 嘘つけッ! バーで俺とテキーラを十五杯くらい煽り合って、俺にお姫様抱っこされて、『気が早い……っ』とか言って顔真っ赤にしてたヤンケ!!」
「……何の話だ?」
ケルシーの目が、スッと細められた。それは軽蔑でも怒りでもなく、純粋な『狂人を見る哀れみの目』であった。
「君がアルコールの過剰摂取により、何らかの低俗な幻覚を見たというのなら、直ちに精神科の受診を推奨するが。……前頭葉が萎縮し、存在しない事象を捏造してまで私の名誉を毀損しようという意図があるのなら、私は医療統括としての権限をもって、君を独房型の隔離病棟へ移送し、強制的な薬物治療を開始せざるを得ない」
「な……なんだあっ!?」
ドクターは完全に虚を突かれた。
ケルシーの態度は、照れ隠しなどという生易しいものではなかった。彼女は『昨晩の出来事そのものを、この世界の歴史から完全に消去した』らしい。
「う、嘘やろこんな事が許されていいのか!?……アーミヤ! お前も聞いてたよな!? バーにいた連中なら絶対見てたはずや!」
ドクターがアーミヤに助けを求めると、アーミヤは困ったようにウサギの耳をぺたんと伏せ、小声で囁いた。
「……ド、ドクター。実はケルシー先生は、朝からずっと『昨日は何もなかった』と仰っているんです。私が少し探りを入れてみても、完璧な無表情で返されてしまって……」
「じゃ、じゃあ他のオペレーターは!? 同席してたオペレーターも居たやろ!」
「それが……誰も答えてくれないんです。みんな、目を逸らして、『自分は何も見ていない』『昨日の夜の記憶がない』って話してて……」
「えっ」
ドクターの頭の中で、全てのピースがカチリと音を立てて繋がった。
昨晩の醜態。お姫様抱っこ。「気が早い」という決定的なデレ発言。
あの絶対零度の賢者が、自身の数万年の歴史上最大級の失態をもみ消すために、組織の最高権力をフル稼働させて完全な情報統制と記憶の封殺に打って出たのだ。
(昨日の大失態とデレ発言を無かったことにするために言論統制するのはルールで禁止っスよね!)
ドクターの口角が、ニヤリと吊り上がった。
二日酔いの頭痛すら忘れ、マネモブ特有の獰猛な煽りスキルが、喉元から一気に発射される。
「そうか! 君はプライドが高くて素直になれないから、武力で記憶を改竄することでしか自尊心を守ることしかできないんだね。かわいそ……」
空気が、物理的に凍結したような音がした。
カルテをめくっていたケルシーの細い指先が止まる。
「……かわいそう、だと?ドクター。君は、自分のその減らず口が、己の生命維持ラインをどれほど削っているか理解していないようだな」
「いやちょっと待てよ!俺には確たる証人がおるんや! とにかくブレイズを呼べ! アイツがあれば、お前のその見苦しい情報統制なんて一発で粉砕できるんや!」
「……ブレイズか」
ケルシーは冷ややかに、侮蔑すら込めた眼差しでドクターを見下ろした。
「彼女なら、今朝五時の便で極東の僻地への長期巡回任務に出発した。電波状況の極めて劣悪な山岳地帯だ。……しばらく連絡は取れないだろうな」
「島流しの刑にしとるやんケーーー!!」
ドクターの絶叫が執務室に木霊した。
口封じである。あまりにも露骨で、あまりにも強引な左遷人事。
エリートオペレーターを単なる隠蔽工作のために僻地へ飛ばすという、最高幹部ならではの権力濫用だ。
「権力の私物化はルールで禁止ッスよね!? なんなんスかその露骨すぎる人事権の乱用は! 独裁者を超えた独裁者! それがケルシーです!!」
「心外だ。私はロドスの最高幹部として、余剰戦力を適材適所に配置したに過ぎない。そこに個人的な感情は持ち込んでいない。……付け加えるが、君と昨夜のバーに居合わせた非番のオペレーター諸君に対しても、医療機密保持契約および精神衛生管理規約の第十二条に基づき、無用な記憶の反芻による業務効率の低下を防ぐための『厳格な認識の再定義』に全員が自発的に同意している」
「全員買収か脅迫で口止めじゃねえかよえーーーーーっ!?」
完璧すぎる。あまりにも手回しが早すぎる。
さすがは闇の世界で数多の国家を渡り歩いてきた女傑、不都合な真実を闇から闇へ葬り去る手腕にかけてはテラ随一であった。
「な、舐めるなケルシーーッ!本当は俺の事が好きなんだろうが!好きなら好きって相手に好意は素直に伝えるっ!小学生でも分かることよっ!」
「フッ……ドクター。客観的な記録媒体、ならびに信頼に足る第三者の証言が存在しない以上、君の主張する戯言に過ぎない。さて、君の妄言に付き合う時間は無い。本日の午前中に予定されている――」
ケルシーが完全に勝利を確信し、冷酷に話を打ち切ろうとした、まさにその時。
――ピコン♪
ドクターの胸ポケットに入っていた個人端末が、間の抜けた通知音を鳴らした。
画面を覗き込むと、そこにはロドスの情報通であり、普段からカメラ片手に艦内を散策している――カシャからのダイレクトメッセージが表示されていた。
『ドクター、あたしの新作動画だよ、早く見てみて☆』
「……ん? カシャから動画……?」
ドクターが首を傾げた瞬間、ケルシーのエメラルドの瞳が、今日一番の戦慄を帯びて見開かれた。
彼女の脳内で、瞬時に最悪のシナリオが組み上がったのだ。
「──あ、アーミヤ!その端末を見るな!」
普段の冷静沈着な所作をかなぐり捨て、ケルシーがデスクを乗り越えんばかりの勢いで手を伸ばしてきた。
だが、ドクターの指はすでに、画面に表示された動画の再生ボタンをタップしていた。
『あははは! 撮れてる撮れてる! このケルシー先生の顔!』
スピーカーから流れてきたのは、紛れもないブレイズの快活な笑い声。
そして画面に映し出されたのは――顔を林檎のように真っ赤に染め、ドクターの首にしがみつきながら、
『き、君の物になったつもりは……無い……! だ、大体……そ、そんな話は……き、気が早い……っ!!』
と、泣きそうな表情で胸元に顔を埋める、超高画質・完全ノーカットのケルシーの姿であった。
「な……っ!?」
アーミヤが息を呑み、画面を凝視した。
「ケ、ケルシー先生が……ドクターに……お姫様抱っこされて……あんなお顔を……!?」
ケルシーの顔から、完全に血の気が引いた。
いや、引いた直後、彼女の全身の血液が一気に頭頂部へと逆流し、髪の毛の隙間から物理的に湯気が立ち上るのではないかというほどに、真っ赤に、限界を超えて沸騰した。
「しゃあ!お見事ですブレイズボー! やはり私が睨んだ通り、お前は強い前衛だ!動画共有してたなんて見事やな……ニコッ」
ドクターが狂喜乱舞して端末を掲げる。
ブレイズはケルシーから圧力がある事を勘で悟り、隠し撮りしていたこの「歴史的スクープ映像」のデータを、ロドス最高の情報拡散能力を持つカシャの元へリークしておいたらしい。
そしてカシャは、配信者としてのジャーナリズム……という名の好奇心に従い、その動画を綺麗に編集し、テロップまで入れてドクターへと送信してきたのだ。
「見たかケルシー! これが貴様の『何もなかった』の正体や! 証拠映像バッチリ残っとるやないか!!忌憚のない意見って奴っス。それでも文句があるなら何時でも喧嘩上等っス!」
「け、消せ……ッ!!」
ケルシーの声が、低く、地獄の底から響くような唸り声を帯びた。
彼女の背後で、空間がギチギチと軋みを上げ、漆黒の巨獣の影が輪郭を結び始める。
「今すぐその動画を削除しろ、ドクター!! 」
「フン、この動画を消すのを俺が認めるわけがないだろう! これは俺の生涯の家宝や!! アーミヤ、バックアップを取れ!艦内サーバーの全ストレージに分散保存するんや!!しゃあ!ついでにクロージャにもデータ共有だGOーーー!!」
「えっ、ええっ!? ド、ドクター、でもこれは……!」
「Mon3trーーー!!」
轟音と共に顕現する異形の鎌腕。
ドクターは端末を抱え込み、「しゃあっ! 逃げるっ!」と叫びながら、執務室の窓枠を蹴破る勢いで廊下へと飛び出した。鍛えたので以前に増して逃げ足だけは無駄に早い。
「ま、待てッ!このバカドクターぁぁぁぁぁぁっーー!!」
「記憶のすり替えや!現実逃避するために情報統制する そして自己崩壊が始まる!急げッ逃げ遅れるなッ!この動画を拡散するんだッ“デレケルシー・ラッシュ”だッ!!」
白衣を振り乱し、形相を変えて追いすがるケルシー。
その後ろを、「ド、ドクター! ケルシー先生! 落ち着いてくださいーっ!」とアーミヤが必死に追いかけていく。
ロドス本艦の長い長い通路に、怒声と悲鳴、そして絶体絶命の鬼ごっこの足音が、どこまでも響き渡っていった。