「……立て。そして、この上を歩め」
ストレイツォが指し示したのは、極寒の屋外に置かれた、漆黒の石鉢であった。そこには、パミールの寒気の中でも凍ることのない、粘り気のある菜種油が並々と湛えられていた。
徐庶は、その黒い水面を見つめ、唾を飲み込んだ。水豆腐の試練で「吸着」と「反発」の基礎は学んだ。だが、油は水よりも密度が低く、かつ波紋の伝導を拒む難敵である。
「お前がこれから戦うのは、平坦な戦場ばかりではない。血の海、凍てついた床、あるいは策士が仕掛けた油の罠……。いかなる足場であっても、呼吸を乱さず、大地と一体化せねば死を待つのみだ」
徐庶が右足を油面に踏み出した、その瞬間――。
ズブッ!!
波紋の吸着が間に合わず、足は無残にも底なしの油沼へと引きずり込まれた。
「ぐわっ……!?」
「遅いッ! 表面張力を波紋で補強し、足裏と油の間に微細な『反発の膜』を張り続けろ。沈めば冷気が体温を奪い、呼吸は止まるぞ!」
油塗れになりながら這い上がる徐庶。
一九九年。修行はさらなる過酷さを増していた。
しかし、水豆腐との三年に及ぶ、あの日々があったからであろうか。徐庶の感覚は、周囲の予想を裏切る速度で適応を始めていた。吸着しすぎれば足は離れず、反発しすぎれば滑り落ちる。この矛盾する二つの波紋を、歩行の律動に合わせて切り替え続ける精密な制御を、彼はわずか三ヶ月の歳月で己のものとしたのである。
(……現代の物理学で見れば、これは極めて高度な摩擦係数の制御であったッ!
足裏と流体の間に、高周波の波紋振動によって擬似的な『固体層』を形成する。
常人には滑って立つことすら不可能な油の上を、徐庶は波紋の力で『不沈の足場』へと変えていったのであるッ!!)
修行の仕上げは、さらに静かな、しかし神経を削るものへと移った。
一切の光を遮断した石室。徐庶はそこで、壁の向こう側にいるストレイツォが弾く、一本の細い生糸の音に神経を研ぎ澄ませていた。
「……波紋を放つな。波紋を受け取れ。世界は、微細な振動の連なりに過ぎん」
壁の向こうで、師が指先で生糸を弾く。
ピン。
常人には聞き取ることすら不可能な、空気の微かな震え。
徐庶は自らの血液を「受容器」として共鳴させ、その微震を脳内で増幅させた。基礎五年、豆腐三年の練成が徐庶の肉体を「感度の高い避雷針」へと変えていたのであろうか。この高度な「心眼」の開眼にも、もはや長い歳月は不要であった。彼は続く三ヶ月の対話で、生糸の震えから世界の理(ことわり)を聞き取る術を完全に掴み取ったのである。
(……波紋を自ら発するのではなく、周囲のわずかな波長を『拾う』技術。
かつて中原の仙道において、水を入れた器の震えから遠方の軍勢の足音を察知したという『聴勁(ちょうけい)』の極致が、今、波紋の理と融合した。
闇夜の戦場、あるいは姿を隠した暗殺者の殺気。それらを皮膚で、血液で、直接『視る』ための感覚。徐庶の覚醒は、もはや厚い石壁をも透過するまでに至っていたッ!)
「……徐庶よ。技を磨くほどに、お前は気づくはずだ。……己の肉体が放つ輝きに対し、その影にある『老い』という残酷な真実に」
不意にストレイツォが、自らの手の甲に浮かび上がった、わずかな「皺(しわ)」を見つめた。
波紋の師父として君臨しながらも、彼は逃れようのない「老い」という冷酷な時間に晒されていた。
「……行け。これより半年、言葉を捨て、ただ座して己の血の音を聴け。その果てにこそ、最終試練の門は開かれる」
ストレイツォは、弟子の成長を喜ぶ反面、自分には到達できなかった「若き太陽」への、隠しきれぬ一滴の毒――羨望を瞳に宿し、再び氷の静寂の中へと沈んでいった。