建安七年(西暦二〇二年)。
パミールの頂を、九度目の冬が白銀に染め上げていた。
寒氷観の奥座敷で、徐庶はもはや呼吸の音すら立てぬほどに静まり返っていた。一分に数回という極低速の鼓動。それは、天の気(大気)と己の血液の周波数を完全に同期させ、外気との摩擦を消失させた『冬眠瞑想』の極致であった。
「……徐庶よ。九年の月日が満ちた」
ストレイツォの声が、凍てついた静寂を微かに揺らした。
徐庶は静かに目を開けた。その瞳には、かつての復讐の火は消え、代わりに万物を包み込む太陽のような、深淵なる慈悲を湛えた黄金の光が宿っていた。
「……師よ。長きにわたる御指導、感謝いたします」
徐庶が立ち上がると、その身体から放たれる生命の熱量が、周囲の氷をパキパキと音を立てて弾かせた。九年。青年は二十七歳の壮年へと至り、そのこめかみには苦難の証である白髪が混じりつつも、肉体は一点の不純物もない、純度百パーセントの『波紋の導体』へと昇華されていた。
「言葉は不要だ。……来い。最後の門を、お前自身の手で開け」
案内されたのは、天を突く断崖から垂直に落ちる、巨大な氷の柱――『氷瀑(ひょうばく)』の前であった。厚さは数丈(数メートル)に及び、象が体当たりしても揺るぎすらしない、物理的な絶壁。
「この氷壁に、お前の『九年』を叩き込め。……力で割るのではない。お前の血潮に宿る太陽を、水の理(ことわり)に伝播させ、その結合を内側から解(ほど)くのだ」
徐庶は氷瀑の前に立ち、肺の奥底、拡張された『過給肺』へと最後の一息を吸い込んだ。
全ての記憶が、一筋の光となって指先の一点に収束する。
「吾心震動(ごしんしんどう)! 熱焰焚身(ねつえんふんしん)!!」
黄金太陽波紋疾走(おうごんたいよう はもんしっそう)――ッ!!
徐庶の掌が、静かに、しかし絶対的な重圧を伴って氷壁を打った。
ドォォォォンッ!!
物理的な衝撃波ではない。拳から放たれた高密度の波紋の振動が、氷の分子を直接揺さぶり、瞬時にして数千度の「摩擦熱」へと変換された。
凄まじい水蒸気が爆発的に吹き上がる。
巨大な氷壁は、一瞬にして黄金色の光に包まれ、次の瞬間、まるで熱したナイフで断たれた蜜蝋のごとく、中央から鏡のように滑らかな断面を見せて左右に割れた。
「……見事だ。……免許皆伝である」
ストレイツォは、古びた、しかし独特の光沢を放つ外套を徐庶に授けた。
(……この時代、もちろん電気という概念はない。だが、現代において電線に用いられる『銅』でさえ、その伝導率は約九十数パーセントである。
しかし、この極高地に生息する聖甲虫(サティポロジア・ビートル)の腸から精製された繊維は、波紋エネルギーの伝導率が「百パーセント」――すなわち、一切の減衰なしに生命エネルギーを伝える、オーバーテクノロジーの産物であった。
波紋の師父たちは、数千年の修行の歴史の中で、この天然の導体を発見し、秘伝の防具として受け継いできたのであるッ!!)
「……行け。中原を包む大気の震えが、今までになく不穏に波立っておる。……もはや、一刻の猶予もないようだ」
ストレイツォは、去りゆく弟子の背中を見つめた。その瞳には、使命を果たした安堵と、自分には到達できなかった「若き太陽」への、隠しきれぬ一滴の毒――老いの羨望が混じり合っていた。
「……お前の呼吸が、その澱んだ風を焼き払う灯火(ともしび)となることを願っているぞ」
徐庶は、一度だけ師に深く拝礼し、パミールの峻険を下り始めた。
一歩、踏み出すごとに高度が下がり、中原の濃密な大気が彼の肺を力強く満たしていく。
建安七年(西暦二〇二年)。
中原で今、何が起きているのか。あの廃観で瓦礫の下に沈んだはずの「石の仮面」が、どうなっているのか。
徐庶はまだ、何も知らない。
ただ、自らの血肉に宿る「太陽」の重みだけを道標に、彼は戦乱の大陸へと再び足を踏み入れたのである。
(第二章・完)