建安七年(西暦二〇二年)。
パミールの峻険を下り、数ヶ月の旅を経て辿り着いた中原の空気は、徐庶が記憶していたものとは似て非なる、澱んだ重圧に満ちていた。
九年。それは一人の人間を新生させるに十分な時であったが、同時に大陸の版図を塗り替えるにも十分な年月であった。徐庶は、かつて自身が「単福」として暴れ回った潁川の地を避け、今は亡き親友・広元の縁者を頼り、荊州の隆中へと足を向けていた。
「……久しいな、諸葛孔明」
竹林の奥、静謐(せいひつ)を湛えた庵の庭で、徐庶は一人の青年と対峙していた。二十一歳となった孔明は、羽扇を手に、底知れぬ知性を宿した瞳で旧友を見つめ返した。
「……久しいな、単福。いや、その面構え……もはやかつての侠客のそれではないな。その身に纏う気配、まるで静かなる太陽を背負っているかのようだ」
「今は単福の名を捨てた。……徐庶、徐庶元直と名乗っている」
「やはり、あの仇討ちのせいか?」
徐庶は肯定も否定もせず、ただ目を伏せ、微かに微笑んだ。その口角の動き一つに、九年間の極寒の修行で練り上げられた静かな威厳が宿っている。
「……ふむ。あの仇討ちが理由であれば、名を変えずとも済んだものを。貴殿が追っていた強欲な薬商・王猛だが、あの事件の直後、頭痛に悩む『某権力者』へ秘伝の丸薬を献上した。だが、それが全く効かぬどころか、却って症状を悪化させたとして、店は取り潰され、一族郎党ことごとく誅殺されたと聞く。……天の報い、というやつだろうな」
徐庶の眉がピクリと動いた。王猛の死。それは復讐の終わりを意味したが、同時に彼の中に奇妙な胸騒ぎを呼び起こした。
「……ときに、孔明。今、この中原は誰が支配しているのだ?」
徐庶は急に、鋭い眼光で話題を切り替えた。
「曹操だ。北の覇者・袁紹を官渡で粉砕し、今や華北一帯をその掌中に収めている。何より、天子様を擁して大義を握っているのが大きい。……だが、あの男はあまりに苛烈で残忍だ。民を憐れみ、慈しむという王者の資質に欠けている」
「残忍……? というと?」
「貴殿はチベットの奥地に籠もっていたから、耳に入らなかっただろう。初平四年(西暦一九三年)から翌年にかけて、曹操は徐州を攻め、無辜の民数十万人を虐殺した。……だが、その死に様が異常なのだ。……川を埋め尽くした遺体は、どれも骨と皮ばかりの、異様に干からびた姿であったという。まるで、内側からすべての生気を吸い取られたかのような……」
「骨と……皮……だと…?」
徐庶の顔色が、みるみるうちに青ざめていった。脳裏に閃くのは、ストレイツォが語った吸血鬼の『食事』の定義。血を吸い尽くされ、抜け殻となった人間の姿。
「……孔明、まずは聞いてくれ。私が九年前にこの地を去った、真の理由を」
徐庶は、自身の鼻梁に刻まれた歪んだ傷跡を指でなぞりながら、静かに語り始めた。
あの泥濘の廃観で、親友・広元の従兄弟である石忠が、観に無造作に置かれていた「石仮面」によって人ならざる怪物へと変貌したこと。太陽の光のみがその肉体を灰に還したこと。そして、自らがその「太陽の力」を求めてチベットへ渡ったこと。吸血鬼、半吸血鬼、屍生人の理のこと…。
「……石仮面。人の脳を貫き、潜在的な生命力を暴走させる魔の装置……。貴殿は、その実在を主張されるのか」
孔明の瞳に、深い思索の光が宿る。彼は友の言葉を疑わず、その「定義」を脳内の書架に並べていた。
「そうだ。だが……その仮面を、私は瓦礫の中に埋めたままにしてきた。あまりの恐ろしさに、人の目に触れぬことを祈りながら、逃げるように西へ向かったのだ」
「……間違いであってくれ。……間違いでなければ、この大陸は既に『魔の胃袋』の中に半分飲み込まれている。……孔明。すまないが、数日の旅に付き合ってはもらえぬか。あの廃観が今どうなっているか、確かめねばならん」