「……孔明。すまないが、数日の旅に付き合ってはもらえぬか」
隆中の庵に、徐庶の重く切迫した声が響いた。孔明はその瞳の奥に宿る、かつての「単福」とは似ても似つかぬ、底知れぬ危うさを敏感に察知した。徐庶の身体から発せられる異常な熱量――それが単なる激情ではなく、制御された「生命の律動」であることも。
「……行きましょう。貴殿のその顔を見る限り、私の言葉だけでは拭えぬ『何か』があるようですな」
二人は馬を二頭引き連れ、隆中を後にした。
北へ向かう道中、徐庶はほとんど口を開かなかった。九年ぶりに再会した親友。語り合いたいことは山ほどあったはずだ。だが、徐庶の心は「徐州大虐殺」という孔明の言葉、そして「干からびた死体」という断片的な情報に、氷のように凍りついていた。
(……間違いであってくれ。私の見立てが、ストレイツォから学んだ『闇の三原則』が、単なる思い過ごしであってくれ……ッ!)
徐庶の祈りは、一歩ごとに蹄の音にかき消されていく。孔明もまた、無理に問いを重ねることはしなかった。ただ、隣を走る徐庶の呼吸が、時折、周囲の大気を震わせるほどに鋭く、黄金色の残響を残すのを黙って見届けていた。
数日の強行軍の果て。二人の前に現れたのは、森を無慈悲に切り開き、地平の彼方まで真っ直ぐに伸びる、冷徹な軍事道路であった。
「……な、ない!……やはり、跡形もないのかッ!」
徐庶は馬を止め、呆然とその光景を見つめた。そこには、かつて自分が友と隠れ、吸血鬼と化した石忠を灰に変え、そして崩れた屋根の下に石仮面を置き去りにした「廃観」の面影は微塵もなかった。巨木は根こそぎにされ、地面は硬く踏み固められ、曹操の軍隊が物資を運ぶための石畳が敷き詰められている。
「……初平四年。当時、この地に逗留していた曹操は、大規模な造船と兵站の確保を名目に、この『禁忌の森』を徹底的に開墾させました」
孔明が、馬上で静かに告げた。
「地元の民が恐れて近づかなかったこの地を、曹操は迷信に過ぎぬと一蹴し、自らの手勢を投じて数ヶ月で更地にしたのです。……ちなみに、例の頭痛持ちの権力者とは、当時この地に逗留していた曹操その人のことです」
徐庶の身体が、怒りと恐怖で小刻みに震え始めた。
「……適合したのだ、あの男は…」
徐庶の声が戦慄に震える。
「石仮面は、被った者の脳に骨の針を突き立てる。……並の人間ならそのまま怪物と化して理性を失うが、曹操のような強靭な野心と精神を持つ者が適合すれば、知性を保ったまま『吸血鬼』へと進化を遂げる。そしてその地位を利用し、増やしているのだ、自らの眷属をッ!」
徐庶は、孔明が隆中で語った徐州の惨状を、脳内で「石仮面の理」に当てはめていく。
「これで繋がった。十万の屠殺……。それは単なる報復ではない。適合した曹操が、自らの新しい肉体を維持し、さらに眷属を増やすための『収穫』だったのだ。……孔明、貴殿が見た干からびた遺体。あれこそが、血を吸い尽くされた『食事』の後の残骸。そして、官渡で消えた捕虜たち。……奴らは殺されたのではなく、曹操の死血(エキス)を注がれ、知性なき『屍生人(アンデッド)』として組織化されたのだッ!」
「……石仮面という原因。……そして、大虐殺という結果。……それらを繋ぐ論理の糸が、今、私の前で一本の鎖となった」
孔明の羽扇が、冷徹に空を薙ぐ。
「……十万の……家畜。……帝国という名の……人間牧場……」
夕闇の中、二人の軍師の視線が交錯した。そこにあるのは、人類の敵を絶対に見逃さぬという、鋼の決意であった。