二人の馬は、再び隆中の庵の門を潜った。
月光の下、静まり返った庵の庭。数日にわたる「絶望の確認」という旅路を終え、二人の軍師は今、一服の茶も啜らずに向かい合っていた。
「……始めましょう、徐庶。貴殿がチベットで手に入れたという、その『太陽の理(ことわり)』に私を導いてください。……勝てる形を作るために、その鍵が必要なのです」
孔明の言葉は、教えを請う弟子のそれではない。己の知略という巨大な盤面に、最後の一駒を嵌め込もうとする設計者の響きであった。
「……覚悟はいいか、孔明。これから貴殿の呼吸を、私が一度、物理的に破壊する。……死の淵で、肺の奥底に眠る『黄金の種』を叩き起こすのだ。肺の一つや二つ、焼けるかもしれんぞ」
「……望むところです。司空府という巨大な『人間牧場』を解き明かすために必要ならば、この身の痛みなど、安い代価に過ぎません」
月の光が差し込む庵。
徐庶は孔明の対面に座り、その細く、しかし意志の宿った指先を、親友の横隔膜へと深く当てた。
「吸えッ! 孔明ッ!!」
ドォォォォォンッ!!
徐庶の掌から、黄金の燐光と共に、高密度の波紋エネルギーが孔明の胸腔へと直接叩き込まれた。
「……が……はあ……っ!!」
孔明の身体が大きくのけ反る。常人ならば心停止を引き起こし、即死するほどの衝撃。
だが、孔明の並外れた知性は、劇痛に悶えながらも、驚くべき冷徹さで自らの肉体の「変異」を観察し、その構造を解析し始めていた。
(……これか。……これが、生命の『共鳴』。……血液の摩擦熱、肺胞の強制拡張……。なるほど、理屈は分かった……ッ!)
肺胞が、今まで知らなかった深度までこじ開けられる。
血液が、摩擦熱を帯びて沸騰し始める。
孔明の脳裏には、数式や兵法書が舞うのではなく、「大気の流れ」と「血液の鼓動」が、一つの奇妙な旋律として重なり合う光景が浮かんでいた。
徐庶のように、岩を砕き、油の上を歩む「剛」の波紋ではない。
孔明が掴み取ったのは、あたかも秋の夜風のように、静かに、しかし確かに自らの周囲の大気を揺らす、微細な『震え』であった。
「……ふう……。……なるほど、これが……」
孔明は喘ぎながらも、自らの呼吸を整え、手にした羽扇を見つめた。
「……徐庶。貴殿が培ったのが『剣』であるなら、私は別の道を探る必要がありそうです。……この大気、この風。……万物が震えているのであれば、それを統べる理(ことわり)もまた、この呼吸の先にあるはずだ」
「……孔明?」
「勝ちを望むのではない。……勝てる形を作る。……そのための『一助』として、この呼吸を使いこなしてみせましょう。……まずは、この五年間で読み解いてきた奇門遁甲(きもんとんこう)の書、あれを……もう一度、初めから読み直す必要がありそうだ」
孔明の瞳に、静かな、しかし底知れぬ探求の火が灯った。
それがどのような結実を見せるのか。この時、波紋の達人である徐庶ですら、想像することはできなかった。