「……馬鹿な。我が八門金鎖の陣が、これほど容易く打ち破られるとは」
樊城の奥深く。曹仁は、自らの指先から不浄な冷気が蒸発し、皮膚が粟立つような戦慄に身を震わせていた。適合者として曹操の血を分け与えられた彼にとって、陣を焼いた「黄金の衝撃」は、魂の根源を揺さぶる未知の恐怖であった。
「……落ち着かれよ、子孝殿。敵は単なる兵法者ではない。……あの輝き、あの熱量。かつて司空殿が、廃観の地で掘り起こされたあの『石の貌(かたち)』に対し、対極にある光として……生命の爆発そのものに相違ありません」
傍らに立つ、深い皺を刻んだ老軍師・程昱が、冷徹な声で言った。
六十六歳。乱世を生き抜き、曹操の覇道を支え続けてきたその知性は、敗北への動揺など微塵も見せず、ただ淡々と「敵」の正体を暴こうとしていた。
「……程昱よ、あの男をどう見る。……あの徐庶なる男。……わが死血の将軍たちを一瞬で灰に還した、あの拳の正体は何だ」
「……名は徐庶と名乗っておりますが。……かつて頴川の地で、私の耳目に触れた一人の撃剣使い。……名は、単福。私は奴の『声』と、あの不敵な『立ち居振る舞い』に見覚えがございます」
程昱の羽扇が、冷たく止まった。
「……鼻の形こそ歪み、面構えも別人に見えますが、あの臓腑を射抜くような声の響き、そして敵を見据える際の独特の運身……。頴川出身という素性と合わせれば、あの凶状持ちの単福が化けた姿と見て間違いありませぬ」
程昱の瞳に、獲物を追い詰める冷酷な光が宿った。
「……幸いなことに、奴には頴川に老いた母がおります。……孝心に厚きあの男にとって、母の命は己の拳よりも重い。……司空府という国家の檻に、その母を幽閉し、偽りの手紙を送り届ければ……あの黄金の如き輝きを放つ戦士とて、自ら首を差し出しにやってくることでしょう。……これこそが、人の情という、石仮面でも断ち切れぬ鎖にございます」
その頃、新野の陣中では、勝利の歓声が止まぬ中にあった。
だが、徐庶の心は、晴れ渡る空の下にあっても、一抹の不吉な予感に震えていた。九年間、パミールの極寒で研ぎ澄ませた「心眼」が、大気の震えの中に、自分を狙い撃つ「陰湿な悪意」を感知していたのである。
(……この不快な空気の揺らぎ……。……曹仁の放った刺客ではない。……もっと、地を這う蛇のような、冷たくねっとりとした殺気……)
その直後であった。徐庶の元に、一通の書状が届けられた。
差出人は、頴川に残してきた、最愛の母。
文字は震え、ところどころに涙の跡がある。
『元直よ……。私は今、司空府の庇護下にあります。……貴方の活躍を、曹操様から伺いました。……一度、母に会いに来てはもらえぬか……』
「……母上ッ!」
徐庶の肺が、激しく、不規則に脈動した。
十四年前、廃観で友を救えず、その従兄弟を化け物へと変えてしまったあの夜の記憶。自分が、石仮面を瓦礫の下に置き去りにした。その慢心が、結果として曹操という怪物を産み落とし、今、その牙が自らの母に向けられている。
(……分かっている。……これは罠だ。……曹操が、私を波紋の使い手と見抜き、その封印を解くために仕掛けた、これ以上ないほどに陰湿な罠だ……ッ!)
だが、分かっていても、徐庶には退くという選択肢はなかった。
「黄金の精神」とは、大切な者を守るために、あえて暗闇の荒野に道を切り拓くこと。
「……主公。……孔明。……すまない。……私は、行かねばならぬ。だが……」
徐庶は、新野の門を一人で見つめ、悲壮なる決意を固めていた。
それは、自らの命を「内側からの崩壊」という名の、究極の賭けに投じるための第一歩であった。