建安十二年(二〇七年)、臘月(ろうげつ/十二月)。
新野の城門前には、鈍色の雲から零れ落ちる微かな冬の陽光が、旅立つ一人の男の背中を、寒々しくも神々しく照らしていた。吹き抜ける北風は容赦なく体温を奪い、大地を白く凍てつかせていたが、その男の肺から漏れる吐息だけは、波紋の熱を帯びて黄金色に微かに揺らめいていた。
「……主公。……行かねばなりませぬ。母が、司空府の檻に囚われました。……これは罠です。ですが、分かっていても、私は行かねばならんのです」
徐庶は、深々と頭を垂れた。劉備元徳は、かける言葉も見つからぬまま、ただ震える手で徐庶の肩を掴んだ。その瞬間、徐庶は驚愕した。
(……温かい。……なんという温もりだ。……修行も、理(ことわり)も知らぬこのお方の『徳』が、私の波紋と、これほどまでに激しく、悲しく共鳴している……ッ!)
劉備の瞳から溢れる涙は、単なる惜別ではない。それは、友を死地へ送る痛みを、自らの心に刻み込む「共振」そのものであった。
「……元直よ。……行け。母を救え。……この備は、そなたを信じ、ここで待ち続ける」
「……主公。……私に代わる光の杖は、隆中にあります。……名は諸葛孔明。……ただ、あの男は自ら会いに行かねば、その真価を現しませぬ。……どうか、彼と共に、この闇の帝国を討つための『太陽の国』を築いてください」
徐庶は腰の撃剣を解き、あえて軽やかな微笑を浮かべて、それを劉備へと差し出した。
「主公。……これは、私が初めて軍師として指揮を執り、曹仁を打ち破った際の縁起物にございます。……これを私だと思い、常に御身に帯びてはいただけませぬか。……不肖・徐庶、離れていても、この剣と共に主公をお守りいたしましょう」
「……おお、元直。……かたじけない。……肌身離さず、共に戦おうぞ」
劉備は、それが「戦利品の形見」であると信じ、大切にその腰へと帯びた。
だが、劉備はまだ知らない。その剣の柄には、徐庶が九年間の修行で練り上げた黄金の波紋が、「主君に危機が迫った時にのみ発動する」よう、密かに、かつ高純度に充填されていることを。
去り行く徐庶の、言葉にせぬ究極の献身が、その鋼には宿っていたのである。
新野を後にした徐庶は、北へと続く街道の途上、一人の男と出会った。
羽扇を手に、静かに風を待つ男――諸葛孔明。
「……母上が、囚われたか」
「……左様。……だが孔明、私は絶望してはいない。……これは、司空府という巨大な『捕食の理(ことわり)』の胎内に、内側から食い破るための『毒』として潜り込む好機だ」
徐庶の瞳に、不敵な光が宿る。
「……貴公は外から、劉備という『器』に民の波紋を束ね、光の国を育ててくれ。……私は内から、吸血鬼帝国の中枢へ手を伸ばす。……いつか、我らの準備が整った刻。……内と外、呼吸を合わせてこの歴史の悪夢を焼き尽くそう」
「……承知した。……貴殿の放つ内側からの『響き』、私はこの隆中の大気を通じて必ず聴き取ってみせる」
二人の軍師は、拳を合わせることもなく、ただ視線だけで究極の誓いを交わした。
徐庶は馬を駆り、北の地平――闇の都へと消えていく。
孔明は、去りゆくその背中を、羽扇を静かに掲げて見送った。
(……自ら死地へ飛び込むか、徐庶元直! ……その名の通り、己の根源に、正義の理(ことわり)に、どこまでも真っ直ぐな男よ……ッ!)
風が、新野の草原を揺らす。
二人の軍師が、いつ、どこで、どのような形であの「闇」を討ち果たすのか。
それはまだ、誰の目にも見えぬ、黄金の霧の向こう側にあった。
(第四章・完)