【三国志×ジョジョ】徐庶(ジョショ)の奇妙な冒険   作:券王

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母の涙、不戦の誓い

第五章:三顧の礼、魂の共鳴

 

建安十三年(二〇八年)、正月(正旦)。

 

徐庶が辿り着いた許都は、新年を祝う爆竹の音と、朝賀に向かう百官の喧騒に包まれていた。だが、その華やかな祝祭の合間を縫うように吹き抜ける風は、凍てつくような冷たさと、陽光を拒むような「死の臭い」を帯びていた。

十五年ぶりに踏む中原の地。だが、かつての活気はどこか形を変え、街の随所に「監視」の目が光っているのを、波紋の心眼が捉えていた。

 

「……徐庶殿。母堂は、こちらの屋敷でお健やかにお過ごしだ。……司空の慈悲に感謝されるがいい」

案内する程昱の横顔は、冷徹な仮面のようであった。六十七歳となったその老練な策士は、一歩ごとに雪を踏みしめ、徐庶を司空府の奥深くに建つ石造りの離れへと導いていく。

そこは窓の一つもなく、ただ蝋燭の火だけが揺れる、音も光も遮断された「庇護」という名の牢獄であった。

 

部屋の隅で、一人の老いた女性が背を丸め、微かな呟きを漏らしていた。

「……天行健、君子以自強不息(てんこうはけんなり、くんじはもってじきょうしてやまず)……」

それは『易経』の乾為天(けんいてん)の卦辞であった。名士の妻として、そして行方知れぬ子の無事を祈る母として、彼女は十余年もの間、この宇宙の不変の理を説く聖典を、魂の錨として唱え続けてきたのである。

 

「……母上ッ!」

徐庶の声が、嗚咽と共に静寂を破った。

老いた背中が激しく震え、ゆっくりと振り返る。そこには、かつての「単福」の面影を、九年間に及ぶ地獄の修行で研ぎ澄ませた息子の姿があった。

「……おお……福……。……福なのか……?」

母の瞳から、大粒の涙が溢れ出した。彼女はふらつく足取りで立ち上がり、徐庶の頬を、その震える指先で何度も確かめるように撫でた。

「……あの老軍師から、お前が生きて新野の劉備様の下にいると聞かされた時は、奴の作り事かと疑う心もあったが……。……ああ、天よ。本当にお前は、生きて……こうして母の前に立ってくれているのだね」

 

再会の喜び。それは、理屈や義理を一切超えた、肉親としての本能的な救いであった。徐庶もまた、母の手の温もりに、九年間の極寒修行で凍りついた心が溶け出すのを感じ、その膝元に崩れ落ちた。

「……母上。……申し訳ありませぬ。……不肖の身でありながら、こうして……」

 

だが。一時の抱擁の後、母は徐庶の肩を強く突き放した。その瞳に宿ったのは、先ほどの慈愛を塗り潰すような、氷のように冷たく鋭い拒絶の光であった。

「……だが、福。……なぜ、お前はここにいる。……生きて劉備様を助けていると聞いたときは、母としてこれ以上の誇りはないと、易の神々に感謝したものを。……なぜ、あの程昱に唆かされ、この『闇の檻』へ自ら足を踏み入れたのだッ!」

母は、涙を拭い、徐庶を射抜くような眼光で見つめた。

 

「……ここへ来る道中、お前も見たはずだ。……今の司空府を包む、あの不吉な影を。……曹操という男が、どれほど残虐で、どれほど恐ろしい邪心を抱いているかを……世間では、曹操は漢の守護者と言われている。だが、悪逆非道の限りを尽くすあの男は、もはや人の道におらぬ。……正体は分からぬが、何か、おぞましい魔性と契約し、この世を地獄に変えようとしているのではなかろうか……そのような邪悪の軍門に、なぜ、お前は降ったのだッ!」

母の詰問は、徐庶の肺を鋭く突いた。

「……母上。……私は、貴女からの手紙を読み、居ても立ってもいられず……」

「手紙だと?」

母は、徐庶が懐から取り出した自らの書状を一瞥すると、徐庶の顔に叩きつけるように投げ捨てた。

 

「……そこに落ちた『涙の跡』を、お前はどう読んだ。……私が助けを求めていると、醜く命乞いをしていると、そう読んだのかッ!」

「……違うというのですか」

「……愚か者がッ! その涙は、お前に来いと言ったのではない。……『お前は来なくていい、これが二度と会うことのない決別の印だ』という、母としての最後の覚悟だったのだッ! なぜ、これしきの親の心が分からぬ。……お前をそんな、道理も分からぬ大人に育てた覚えはないッ!!」

母の叱咤は、波紋を練り上げた徐庶の精神を真っ向から打ち砕いた。

 

「……返せッ! 私のために売ったというその『義』を、今すぐあの程昱から奪い返してこいッ! お前がそのためにこの悪鬼の軍門に降ったというのなら、私は今この場で自らの不徳を呪い、果てるのみだッ!!」

「……母上ッ! お聞きください……ッ!」

徐庶は立ち上がり、周囲の大気を激しく震わせた。高密度の波紋の熱量が、程昱の監視を完全に遮断する「沈黙の結界」を形成する。

 

「……母上。……私は、裏切っておりません。……今は徐庶、徐庶元直と名乗っております。……かつての血塗られた単福という名は、十五年前、あの潁川の地で捨て去りました。……劉備様の下を去ったのは、母上を救うためだけではありませぬ」

「……徐庶……。過去を捨て、光ある世を築くための名か」

「……左様です。だからこそ、私はあえてこの司空府の胎内へ潜り込みました。……わが友・孔明が外から、私が内から。……二つの呼吸を合わせて、この邪悪なる存在を根絶やしにするためです。……母上、誓いましょう。私はたとえ殺されようとも、曹操という怪物に、一言たりとも知略を授けることはありませぬ。……私は、戦わぬことで、この司空府を内側から食い破る『毒』となるのですッ!」

 

母は、息子の瞳の中に宿る「黄金の覚悟」を読み取った。彼女は再び涙を流したが、それは先ほどとは違う、子の「真の再誕」を慈しむ涙であった。

「……元直よ。……ならば、お行きなさい。……母の命を、お前の歩みを止める鎖にしてはなりませぬ。……お前が信じる『太陽』を、決して絶やしてはなりませぬよ」

 

その夜。

徐庶の元に、冷徹な一報が届けられた。

「……司空が、参内せよと仰せだ。……貴殿の『忠義』を試す、格好の場を用意されたとのことだぞ」

徐庶は、静かに立ち上がった。

易経を唱え続けた母の呼吸が、今や彼の背中を力強く押していた。

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