建安十三年(二〇八年)、正月(正旦)。
南の隆中は、すべてを白く染め上げるような、深々とした大雪の中にあった。
「……関羽、張飛。……ここからは、静かに行かねばならぬ。……私の呼吸の乱れが、この山の静寂を汚さぬようにな」
新野から馬を駆ってきた劉備は、雪に埋もれた山道の途上で、二人の弟を制した。
かつて徐庶が、あの日、苦渋の決断と共に新野を去る間際に遺した言葉。「私に代わる光の杖は、隆中にあり」。その言葉を信じ、劉備は凍てつく寒さを厭わず、この静謐な山へと足を踏み入れたのである。
「……兄者、何もこんな元日の雪の日にまで。……その若造、そんなに偉いのですか」
不服そうに鼻を鳴らす張飛の言葉を、劉備は穏やかな、しかし拒絶を許さぬ微笑で遮った。
「……徐元直が命を賭して薦めた男だ。……それに、見てみろ。……この雪の中に、妙な『気』が漂っているとは思わぬか」
劉備の鋭い感性が、大気の震えを捉えていた。
通常の雪山であれば、風の音や枝の折れる音が響くはず。だが、この隆中の庵へと続く道は、まるで巨大な真綿に包まれたかのように、物音一つしない。……それは、自然の静寂ではなく、誰かの強力な意志によって、この場にあるすべての「呼吸」が整えられた結果であった。
庵の門を潜ると、そこには一人の若者が、縁側に腰を下ろして待っていた。
諸葛孔明。
二十八歳。手に持つ羽扇は動かず、ただ一点、降る雪の軌跡を見つめている。
彼が一度、深く息を吸い込むたびに、周囲の雪片が規則正しい螺旋を描いて舞い落ちる。……それは、徐庶から「理(ことわり)」を託されて以来五年間、大気の流れと自らの血液を同期させ続けた、研鑽の極致であった。
「……よく来られた、新野の左将軍」
孔明は立ち上がることもなく、静かに声を放った。
「……徐庶からは聞いております。……貴殿が、この暗闇の荒野に、一筋の道を切り拓く『器』であると」
「……伏龍先生。……この備、貴殿の知略を拝借し、天下の乱れを払い、漢室を再興したいと願い、参りました」
劉備が雪の上に膝を突こうとした時、孔明の羽扇が鋭くそれを制した。
「……待たれよ。……徐庶は貴殿を信じましたが、私はまだ、貴殿を主君とは認めておりません。……私の練り上げたこの『理』を預けるに足る御仁か、この目で見極めさせていただきたい」
孔明の瞳には、かつての友・徐庶のような熱い義理はなかった。
あるのは、静かに燃える青い炎のような、知性の塊としての厳格な光。
「……三つの課題を、貴殿に課しましょう。……それを解かぬ限り、私はここを動きません」
「……何なりと」
「……第一の試練です」
孔明は、庵の庭に積もった雪を一掴みし、それを宙に放った。
「……現在、新野の街は曹軍の脅威に怯え、民の心は殺気立ち、日々の暮らしに安らぎを欠いています。……貴殿は新野に戻り、その市場の真ん中で、三日三晩、喧嘩一つ起きぬ『完全なる調和』を保ってみせなさい」
「……調和、ですか」
「……然り。武力による鎮圧ではなく、厳罰による統治でもない。……貴殿という男が、ただそこに居るだけで、数千の民の乱れた心と呼吸を鎮め、穏やかに繋ぎ合わせられるかどうか。……天下を統べるというのであれば、まず己の周囲一里を、呼吸の乱れぬ安寧の地へと変えてみせることです」
孔明の突きつけた課題。
それは、劉備の放つ「徳」が、周囲の生命エネルギーを整え、攻撃性を中和し得る「太陽の力」であるかどうかを試す、静かなる試験であった。
「……分かりました。……正月明け、その静寂……お見せしましょう」
劉備は深く一礼し、再び雪の中へと消えていった。
孔明はその背中を見送りながら、自らの肺を静かに鳴らした。
(……劉備元徳。……貴殿の『響き』が、この雪の結晶よりも清らかなものか。……私のすべてを賭けるに値するのか。……見せてもらおう、徐庶の信じたその魂の真贋を……ッ!)