【三国志×ジョジョ】徐庶(ジョショ)の奇妙な冒険   作:券王

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第一の課題、静寂の市場

建安十三年(二〇八年)、正月。

 

新野の街を包む空気は、刺すような冬の冷気だけではなかった。北の許都の方角から漂い来る、言語化し得ぬ不吉な気配。曹操軍への怯えもあったがそれ以上に、正体こそ分からぬが、何か「得体の知れない邪悪なもの」が蠢いているという微かな悪寒が、民の心を内側から凍えさせていた。

 

市場の喧騒は、活気ではなく「焦燥」であった。人々の呼吸は浅く、肩は怒り、些細な接触が即座に罵声と殴り合いに発展する。そんな一触即発の、淀んだ負の波動が街を支配していたのである。

 

「……兄者。あの若造に言われた通り、本当にあんな場所で筵を編むつもりか?」

新野城の門前。出発しようとする劉備を、張飛が不服そうに呼び止めた。

「市場の連中は、得体の知れねえ不安に怯えて殺気立ってやがる。……俺と関羽兄者で、少し睨みを利かせようか? 兵を百人も出せば、喧嘩の一つも起きやしねえ。それが一番手っ取り早い『静寂』ってもんだ」

劉備は、自らの古びた、ひび割れた手をじっと見つめた。

「……いや、翼徳。お前たちは来なくていい。これは、私が一人で行わねばならぬことなのだ」

「だがよ、兄者ッ!」

「孔明先生は仰った。『武力による鎮圧ではなく、厳罰による統治でもない』と。……力で押さえつけた静寂は、蓋をした煮え湯と同じだ。いつか必ず爆発する。……私が行くのは、火を消すためではない。……彼らの心の芯を、温めるためなのだ」

劉備は、張飛の肩を優しく叩き、一人で市場へと歩み出した。

 

だが、その背中は、決して自信に満ち溢れた英雄のそれではない。

(……これで、いいのだろうか。……徐元直は私を信じてくれたが、私には何もない。元直が時折見せた、あのみなぎるような不思議な力があるわけでもなく、曹操のような圧倒的な武威もない。……ただ、軍師と約束した通り、藁を編み、教えられたリズムで呼吸を整える。……そんなことで、この荒んだ人々の心が救えるのか?)

劉備の心の内は、不安という名の冷たい泥にまみれていた。

(……だが、自分にはこれしかないのだ。……もし、この泥臭い誠実さだけで人々を繋げられぬのであれば、私は天下を語る資格などない。……自分は、それまでの男なのだ)

市場の片隅。吹き荒ぶ北風を背に受け、劉備は冷たい石畳の上に筵を広げた。

周囲の民は、最初は彼を狂人か、あるいは没落した浮浪者を見るような目で遠巻きに眺めていた。だが、その男が新野の主である左将軍・劉備だと気づくのに、そう時間はかからなかった。

 

「……おい、あそこにいるのは、左将軍様ではないか?」

「嘘だろ、こんな正月早々に、市場の隅で藁仕事か?」

囁き声が広がる。だが、劉備は何も答えない。

彼はただ、凍える指先に息を吹きかけ、一点を見つめて藁を編み続けた。

(吸(スゥ)……吐(ハァ)……)

徐庶から教わった、最も基礎的な、しかし最も重要な呼吸法。

劉備が自らの肺を深く鳴らし、周囲の殺気に惑わされず、ただ「正しいリズム」を刻み続けると、奇妙な現象が起き始めた。

劉備の体温が、波紋の共鳴によって微かに上昇し、それが「人から人へ」と伝播し始めたのである。

 

まず、劉備のすぐ側で足を止めた老人や子供が、その穏やかな呼吸の律動に引き込まれた。彼らの強張った肩が緩み、その安らぎがさらに隣で見守る者へと手渡される。

劉備を囲む人の輪は、二重、三重と幾重にも重なっていった。その重なり合った「人の輪」が、劉備の放つ生命の熱を増幅させる媒体となり、目に見えぬ温かな波長が市場の隅々まで染み渡っていく。

 

「……旦那、何をされているのですか?」

輪の最前列にいた一人の老いた物売りが、恐る恐る声をかけた。

劉備は手を止めず、穏やかな微笑を浮かべて答えた。

「いや、なに……。正月だというのに、民に振る舞う酒も肉も持たぬ、甲斐なき主君でしてね。せめて、皆が新しい一歩を踏み出す時、あるいは遠い春を求めて歩き出す時のために、丈夫な草鞋でも編んでおこうと思いまして」

「……私たちのための、草鞋……」

老人の瞳に、温かな光が灯った。

「左将軍様。……そんな、自分たちのことを……」

 

一人が足を止め、呼吸を合わせると、その平穏は瞬く間に数千の群衆へと伝わった。人々は震える手で炭火を持ち寄り、劉備を囲むように小さな火をいくつも焚いた。

「将軍、手が凍えます。これで温まってください」

「将軍、この干し肉を。……編み終わったら召し上がってください」

人々が劉備を温め、その劉備が放つ徳(天然の波紋)が、さらに輪の外側へと伝わっていく。

市場に充満していた不協和音は、いつしか消えていた。

殺気立った罵声に代わり、聞こえてくるのは「今年の春には、どんな種を撒こうか」「将軍がいれば、きっとまた穏やかな日が来る」という、新年の希望に満ちた会話であった。

(……ああ。……伝わっている。……言葉ではない。……呼吸が、命が、共鳴している……ッ!)

 

劉備の頬を、一筋の涙が伝った。

それは、統治者としての支配の完成ではない。一人の人間として、名もなき万民と「一つの命」として溶け合った、究極の信頼の萌芽であった。

新野の市場は、もはや「得体の知れぬ悪寒」に怯える場所ではなかった。

そこは、劉備という太陽を囲み、全員が同じ呼吸を刻む、巨大な「波紋の揺り籠」へと変貌していたのである。

 

その喧騒と静寂の入り混じる光景を、市場を見下ろす物見櫓の影から、静かに見つめる一人の男がいた。

諸葛孔明である。

(……ふむ。……素晴らしい。理(ことわり)を介さず、これほどまでに純粋な共鳴の鎖を編み上げるとは。……徐元直が惚れ込むのも無理はない)

孔明は羽扇をゆっくりと動かし、自らの肺を鳴らした。

 

(……だが、左将軍。止まっている水を鎮めることと、荒れ狂う奔流を導くことは、全く別の理にございます。……果たして、貴殿のその『徳』は、私の課す次なる試練……『動』の連鎖にまで耐え得るのか。……見せてもらいましょう、貴殿が背負う命の重さを)

孔明の瞳には、冷徹な観察者の光と、未知の可能性に打ち震える隠しきれぬ武者震いが宿っていた。

 

建安十三年。新野に満ちたこの温かな波紋が、歴史の荒波をどう変えていくのか。

物語は、さらなる過酷な試練へと加速していく。

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