建安十三年(二〇八年)、元日の夜。司空府の地下一百尺に穿たれた石牢は、鉄錆の臭いと、黄金の輝きが火花を散らす異形の戦場と化していた。
「……まずは動けなくしてから……始末してやるわッ!!」
孔融の絶叫と共に、徐庶の視界が一瞬にして真紅に染まった。
先ほどまで『鋼鉄の揺籃』が穿ち続けた孔融の全身の傷口――再生能力で塞がっているように見えた傷口を、内圧によって再び開き、そこから無数の血の雨粒として徐庶めがけて噴出したのだ。
血の雨粒は、冷たい床に触れた瞬間、波紋の「生命の熱」を拒絶するように黒く硬化し、鋭利な棘となって徐庶の足を絡め取ろうと迫る。人間のものとは異なる、吸血鬼の血液中のタンパク質と異能が融合し、空気に触れて瞬時に重合、ベークライトのような樹脂状の拘束具へと変質していく――それは、孔子の二十代目の子孫としての誇りと理性を焼き切った孔融が、自らの命を削って放つ執念の結界であった。
(……来るかッ! だが、私の呼吸は乱れぬ!)
徐庶の思考は、氷のように冷徹であった。
彼は一歩、地を蹴った。パミールで培った、肺の隅々まで酸素を循環させる「跳躍の呼吸」。
徐庶の肉体は、物理的な重力を嘲笑うかのように石壁を垂直に駆け上がり、天井の梁を支点にして円を描くように飛翔した。まさにワイヤーに吊られた演者の如き、人智を超えた滞空。
「――『緋色の波紋疾走』!!」
徐庶の四肢から放たれた高熱の波紋が、孔融から放たれた無数の血液の粒を、まだ液体であるうちに瞬時に蒸発させた。石室は、むせ返るような赤い霧に包まれ、曹操の冷徹な眼差しを一時的に遮断する。
その霧の帳の向こう側で、二人の超常の存在が激突した。
孔融は壁を蹴り、弾丸のような速度で徐庶へと肉薄する。その手には、自らの肋骨を抜き取り、硬化した血液でコーティングした「血の短剣」が握られていた。
キィィィィィィンッ!!
金属音。徐庶は、孔融が放った刺突を、あえて避けない。
彼は右手の「人差し指一本」を、吸い込まれるように短剣の尖端へと突き出した。
指先に集中させた高密度の吸着波紋が、磁石のように短剣を捉え、孔融の怪力を一点で封じ込める。
(……文挙殿。……もう、十分です)
徐庶の瞳が、至近距離で孔融と重なる。
孔融の瞳の奥、吸血の飢えに濁った光の下で、一人の学者が、一人の父が、今まさに自らの魂を燃やし尽くそうとしていた。
孔融は、徐庶の指を強引に引き剥がそうとせず、その指に短剣を残したまま手放すと、向き合った徐庶とは反対方向に跳躍し、赤い霧に紛れて背後の妻子へと駆け寄った。
「……逃げられぬ。……曹操という男を、私は知っている」
孔融の脳裏に、かつて曹操が逃亡中に恩人を皆殺しにした「呂伯奢(りょはくしゃ)一族の惨劇」が過る。
「……あやつは、自分が疑えば、善意で包丁を研ぐ者すら惨殺し、その非を認める代わりに目撃者をすべて消す男だ。……生かしておくはずがない。……私に妻子を喰らわせ、或いは聖人の末裔を泥に塗れさせた後で、必ず皆殺しにする。……それが、あの男の『本性』だ」
孔融は、自らのどす黒く尖った爪を、震える妻子の胸元へと向けた。
「……闇に堕ちる前に、……天の理(ことわり)へと還れ」
(……止めてくれ……私の手を止めてくれ、元直ッ!)
孔融の心根が叫んでいた。だが、彼の爪は、愛する者の心臓を的確に貫いた。
それは殺生ではない。吸血鬼の呪いが完成し、知性なき屍生人(アンデッド)として永遠に曹操の玩具にされる前に、魂を救い出すための、父としての究極の「義」であった。
妻子の絶命を見届けた孔融が、再び徐庶と対峙する。
霧が晴れ、曹操の視界が開けたとき。
そこには、愛する者を手にかけ、自らもまた絶望の淵で「浄化」を待つ、一人の聖人の抜け殻があった。
徐庶は、肺の底から黄金の熱を絞り出した。
曹操への屈服でも、孔融への処罰でもない。これは、友を地獄から引き上げるための、最初で最後の救済。
「――『黄金太陽波紋疾走』!!」
徐庶の拳が、孔融の胸板を貫いた。
ドォォォォォォォンッ!!
物理的な打撃を超えた、生命エネルギーの爆発。高密度の波紋が孔融の体内の不浄な血を瞬時に蒸発させ、細胞一つ一つを太陽の光で焼き切っていく。
「……ああ……温かい……。……これが、……自強不息(じきょうふそく)の、熱か……」
孔融は微かに微笑み、妻子の傍らに、一筋の清らかな灰となって石畳に崩れ去った。
曹操はそれを見届け、満足げに鼻を鳴らした。
「……ふん。孔子の末裔ともあろう者が、最後は己の手を血で染めて果てたか。……徐庶、貴様の『処刑人』としての忠誠、確かに受け取ったぞ」
建安十三年、正月の夜。
孔融の死は、国家機密として半年間伏せられた。曹操の威光に傷をつけぬよう、彼は「病気療養」の名目で隠蔽され、その年の夏、名目上は不孝の罪によって、既にこの世にいない妻子共々処刑されたと天下に公表された。
歴史の表舞台に、あの地下での「黄金の浄化」が語られることは、ついになかったのである。