廃観の屋根が崩落し、漆黒だった空間を鋭い陽光が切り裂いた。
瓦礫の山に半身を埋め、動けぬまま朝日を仰ぐ単福の瞳に、黄金色の光が焼き付く。その眩い輝きの中で、彼の脳裏をよぎったのは、数日前の、あの穏やかな朝の光景だった。
潁川の路地裏。
そこには、常に得も言われぬ、しかし清涼な「香り」が漂っていた。
親友・石広元の叔父、石徳が営む小さな薬舗である。
「……いいかい、広元。単福。薬というのはな、ただ病を治すものではない。病に怯える人の心を、静かに鎮めるためのものなんだよ」
石徳は、薬研を回す手を休め、皺の刻まれた顔を綻ばせてそう語った。
彼が生涯をかけて完成させた秘伝の丸薬――『霊犀清心丸(れいさいせいしんがん)』。
高価な犀角(さいかく)を使い、さらに心臓の鼓動を安定させ、精神の混濁を払う薬草『徐長卿(じょちょうけい)』を絶妙な比率で配合したその特効薬は、本来ならば黄金にも等しい価値を持つはずだった。
だが、石徳という男は、商売人としては致命的なほどに「甘い」男だった。
「叔父上、またですか。あの一家、もう三度も代金を踏み倒していますよ。このままじゃ店が傾くと言っているのに」
広元が呆れたように帳簿を叩く。単福もまた、傍らで苦笑いしながら頷いた。
「広元の言う通りですよ、石徳様。あなたの善意に甘える不逞の輩が増えるばかりだ」
石徳は、白髪の混じった頭をかき、無邪気に笑った。
「いいんだよ。情けは人のためならず、というだろう。俺の薬で、今まさに消えようとしている命が救われるなら、俺がこの世に生を受けた意味はそこにある。代金なんて、彼らが生活を立て直した後に、気が向いたら払ってくれればそれでいいのさ」
その言葉を裏切るように、店の奥には未払いのツケが山積していた。
単福は、この世間知らずで、しかし誰よりも気高い「友の叔父」を密かに尊敬していた。だからこそ、剣の腕を磨く自分の力が、いつかこの穏やかな日常を守る楯になればいいと、漠然と考えていたのだ。
だが。
その石徳の「徳」は、ある者たちにとっては、己の利権を土足で荒らす「猛毒」に他ならなかった。
ゴゴゴゴ……。
町一番の威容を誇る薬問屋『萬金堂(ばんきんどう)』。
その主、王猛(おうもう)は、脂ぎった指で算盤を弾きながら、窓の外を睨みつけていた。
「……目障りな。あの老いぼれのせいで、我が店の丸薬の売れ行きが落ちている。役人どもへの付け届けも滞るではないか」
王猛は、粗悪な薬を安く仕入れ、法外な値で売りさばくことで富を築いた男だ。石徳が安価で、あるいは後払いで配る本物の薬は、彼の商売の根幹を揺るがす「障害」であった。
「……製法を売れという提案を、あの強情な老いぼれは三度も蹴った。……ならば、力ずくで奪い取るしかなかろう」
王猛の傍らで、退屈そうに短刀を弄んでいたのは、息子の王景(おうけい)だった。
父親の金で役人を抱き込み、どんな暴力も揉み消してきた放蕩息子。
「……親父、まどろっこしい交渉はやめようぜ。あのジジイの首根っこを掴んで、薬の配合を吐かせれば済むことだ。逆らうなら、そのまま消しちまえばいい」
王景の瞳には、石徳が守り続けてきた「命への敬意」など微塵もなかった。
あるのは、手に入らないものに対する、幼稚で凶暴な所有欲だけ。
社会の理(ことわり)と、人間のどろりとした強欲。
単福たちが信じていた平穏な日々は、音もなく忍び寄る暗雲に覆われようとしていた。