第六章:博望坡の業火! 孔明の初陣!
建安十三年(二〇八年)、六月。
中原を平定し、北方の憂いを断った曹操は、ついにその野望を公(おおやけ)のものとした。彼は長年務めた「司空」の官職を自ら廃し、漢室の最高権力である「丞相」へと就任。同時に三公の官位を廃止することで、帝国の全権をその掌中に掌握したのである。
これに伴い、許都に置かれた彼の政治拠点は「司空府」から「丞相府」へとその名を変えた。それは単なる呼称の変更ではない。漢室という旧時代の殻を脱ぎ捨て、不老不死の怪物を頂点に戴く「吸血鬼帝国」が、名実ともに完成を見た瞬間であった。
許都の陽光は、もはや春の柔和さを脱ぎ捨て、地表を焼き焦がすような苛烈さを帯び始めていた。だが、その眩い光が満ちる外界とは対照的に、丞相府の広場に設えられた巨大な漆黒の天幕の下には、一切の光を拒絶し、時間を停滞させたかのような「不浄の永夜」が澱んでいた。
天幕の支柱は巨大な獣の骨のように白く、その天幕を縫い合わせる糸には、魔除けの呪いを逆用した死血の染み込んだ麻糸が使われている。内部に足を踏み入れる者は、まず肌を刺すような、腐った鉄錆の臭いと、冷気とも熱気ともつかぬ異様な粘り気のある大気に、肺を鷲掴みにされるような圧迫感を覚える。
「……来たか。徐元直」
天幕の最奥。十重に重ねられた黒い御簾の向こう側から、曹操の低く、地を這うような声が響いた。
その声は、かつての中原の覇者としての力強さを保ちつつも、その響きの中に「人間としての揺らぎ」を一切排した、冷徹な機械のような響きを孕んでいた。
「……はッ。拝謁いたします」
徐庶は、九年間に及ぶパミールでの修行で研ぎ澄まされた感覚を、今は極限まで「内側」へと閉ざしていた。波紋の呼吸を微弱な脈動に変え、曹操の鋭敏な知覚から、自らの生命の輝きを隠蔽する。それは、一歩間違えれば、この不浄の繭の中で即座に消化されることを意味していた。
彼の傍らには、数えで六十七歳となった老策士・程昱が、幽霊のように音もなく立っていた。その瞳は、もはや知識を求める人間のそれではなく、死血のネットワークを通じて、帝国の端々で起きている「事象」を監視する、冷たいレンズと化していた。
「……元譲。新野に潜む『伏龍』とやら、その正体を見極めてこい。……余の永遠の帝国に仇なす存在なら、貴様の眼で断ち切ってこい」
曹操の視線の先に、一人の巨漢が立っていた。
曹操が最も信頼を寄せ、その一族の中でも随一の剛勇を誇る武将、夏侯惇である。
彼の纏う漆黒の鎧は、数多の戦場を潜り抜けてきた傷跡が刻まれているが、その下にある肉体は、吸血鬼としての異常な変質を遂げていた。筋肉の繊維一つ一つが太い鉄条のように編み上げられ、皮膚の下を流れる血液は、もはや赤ではなく、どす黒い水銀のような粘度を持って脈動している。
「……御意。……聞けば二十を少々過ぎた若造、ましてやこれが初陣とあらば、この十万の軍勢の前に震え上がることでしょう。少々小利口程度の男など恐るるに足らず。……伏龍か。その龍、首を撥ねてここに持参いたしましょう」
夏侯惇が重々しく歩を進めるたびに、石畳に敷かれた絨毯が、その重圧で沈み込む。
徐庶は、夏侯惇の全身から放たれる不浄な殺気に呼吸が乱れそうになるのを、必死に抑えていた。そして、その強靭な肉体の中でも最も異質な「部位」――左目を覆う漆黒の眼帯に、徐庶の心眼は釘付けになった。
「……徐庶よ。貴様は新野にいた頃、その軍師とやらに会ったことがあるな?……奴はどんな男だ?」
曹操の冷たい問いが、徐庶の鼓動を試すように投げかけられる。徐庶は一度、ゆっくりと目蓋を閉じ、新野の風の中に立っていた友、諸葛孔明の姿を脳裏に浮かべた。
「……諸葛孔明。……上は天文に通じ、下は地理人情をよく悟り、六韜三略(りくとうさんりゃく)をすら諳(そら)んじる、並みの兵家ではございませぬ」
「ほぉ。……貴様も曹仁を手玉に取った名軍師であったな……貴様と比べると?」
「拙者などとは比べものになりませぬ。……拙者を蛍とすれば、孔明は月のようなもの。……彼なら軍を自在に操るばかりか、大気の呼吸を読み、天の理(ことわり)を自在に導くことでしょう。彼が羽扇を一振りすれば、新野の風は刃となり、火は意志を持って貴殿らを焼き尽くす。……ゆめゆめ、軽んじられぬことです」
「……ふん。風だの火だの、所詮は生存に縋(すが)る人間の知恵に過ぎぬ。……見せてやろう、徐庶」
夏侯惇が鼻で笑い、ゆっくりとその指を眼帯にかけた。
「……俺のこの『眼』が、奴の策などよりも遥かに速く、鋭く、世界を断ち切るということをな」
夏侯惇が左目を覆う眼帯を額に上げ、眼窩を露出させる。
その瞬間、天幕の闇の中で、黄金の宝玉が輝きを見せたように思えた。
否、かつて矢を受け、自ら喰らったはずの左目――その虚(うろ)であったはずの眼窩には、死血の力が夏侯惇の「誇り高き闘争本能」と異常なまでの適合を見せた結果生まれた、人外の視覚器官が再生していたのである。
それは、爬虫類の如き「黄金の縦瞳」。
その瞳孔は、周囲の僅かな大気の動きを捉えるたびに、機械のシャッターのように「ぎゅっ」と収縮し、一点に焦点を結ぶ。
「……見よ」
夏侯惇が一点を見据えた。
パキィィィィン!
水晶が割れるが如き、透き通った音。その刹那。
シュパァァァンッ!!
真空を切り裂くような鋭い音が一度だけ響いた。
吸血鬼の体液を、超高圧で眼球裏の房水(ぼうすい)へと凝縮させ、瞳孔を極限まで絞り込み、その極小の「噴射口」から、硬化した水晶体を内部から打ち破って音速を超える速度で射出する――。
次の瞬間、天幕の隅に置かれた、大人が三人掛かりでも動かせぬ巨大な花崗岩の石柱が、何の衝撃音も立てずに「斜めにスパッ」と切り裂かれた。
切り離された柱の上半分が、自重によって自身の断面を滑り、鏡のように滑らかな石の肌を晒しながら崩れ落ちる。石柱の切断面は、熱による焦げ跡も、衝撃による亀裂も一切なく、ただ恐ろしいほどの精密さで「切断」されていた。
(……なんという恐るべき流体だ。……目に見えぬほどの細い線が、岩を紙のように断ち切った。……あれは波紋による破壊ではない。これは物理的な圧力の極致……。あの瞳孔が『絞り』を効かせるたびに、あらゆる装甲も、盾も、その無力な肉体も、ただの薄紙へと成り下がる……ッ!)
徐庶の背筋を、冷たい戦慄が駆け抜け、呼吸がわずかに凍りつく。
この「一点集中」による超高圧噴射は、波紋の防御すら突き破りかねない。もしこれに狙われれば、関羽の青龍偃月刀といえど、触れることすら叶わずに両断されるだろう。
「……出陣だ。新野を、あの伏龍とやらごと、わが魔眼で切り刻んでくれるわッ!」
夏侯惇の咆哮が、地下の天幕を震わせた。外では、十万の軍勢――その半数が死血を注がれ、痛みも恐怖も忘れた人外の兵たちが、漆黒の旗を掲げて大地を震わせ、南へと進軍を開始した。
建安十三年、六月。
新野の平原に、後に伝説となる「火計」の煙が立ち昇るまで、あと僅か。
孔明の知略が、この「物理的圧力の怪物」に対し、いかなる『知略の深淵』あるいは『理(ことわり)の回答』を用意するのか。
光と闇、そして「瞳孔」を巡る壮絶な知略戦の幕が、今、静かに、そして苛烈に上がったのである。