【三国志×ジョジョ】徐庶(ジョショ)の奇妙な冒険   作:券王

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博望の誘引、不眠の行軍

建安十三年(二〇八年)、六月。

 

深夜、博望坡の入口に立つ趙雲の視界を埋め尽くしたのは、夏の夜特有の湿り気ではなく、肌を刺すような冷徹な「死の風」であった。月光を吸い込み、どす黒く変色したかのように揺らめく大気。その向こう側から、曹操軍、十万の影が音もなく迫っていた。

この軍勢には、これまでの戦では感じたことのない、生理的な嫌悪感を伴う「異様な速度」があった。

(……早すぎる。日が沈んだというのに、これほどの物量が、一睡もしていないかのような鋭さでここまで到達するとは……ッ!)

 

趙雲の疑念は、曹操軍が完成させた「不眠不休の行軍システム」に由来していた。

曹操軍の行軍には、厳格な昼夜の入れ替え制が導入されている。日中、街道を行くのは人間で編成された通常部隊である。彼らは陽光の下、整然と進軍し、日没と共に営を張り、休息を取る。

だが、真の恐怖はそこから始まる。

日が沈むと同時に、後方で待機していた「本隊」――曹操の死血に適合した半吸血鬼の将軍が指揮し、痛みを知らぬ屍生人(アンデッド)を中核とした精鋭部隊が動き出すのだ。

彼らは夜の闇を友とし、人間では不可能な速度で荒野を駆け抜ける。休息中の通常部隊を軽々と追い越し、夜間のうちに数里先の拠点を確保し、夜明けと共に通常部隊と交代して再び後方へと隠れる。

敵対する側から見れば、曹操軍は「一切の休みを取らず、一日中行動し続ける怪物」のように映る。この二十四時間に及ぶ絶え間ない圧迫こそが、数多の諸侯を戦う前に絶望させてきた、帝国の物理的な暴力であった。

 

「……来おったか」

趙雲は愛馬の鬣(たてがみ)を静かに撫で、己の肺を深く鳴らした。

月明かりに照らされた博望坡。ひと際巨大な馬に跨り、山のような威圧感を放っているのが、曹操の従弟にして猛将・夏侯惇である。

長年、数多の死線を潜り抜けてきた趙雲の戦士としての本能が、全身に警鐘を鳴らしていた。

徐庶から「風変わりな日課」として教わった呼吸法により、無意識に研ぎ澄まされていた彼の知覚は、目の前の男から放たれる「人間ではない異質な殺気」を、理由もわからず激しく拒絶していた。

(……これまで戦ってきた人間とは、何かが決定的に違う。……あの男の周囲だけ、夜の風が死んでいる……ッ!)

 

「……全軍、構えろッ! 敵は十万、我らは数千! だが、我らにはこの地があるッ!」

趙雲の声が響く。だが、その直後、戦場に不吉な音が鳴り響いた。

 

パキィィィィン!

水晶が砕けるような、硬質で冷徹な破砕音。

夜の闇の中で、夏侯惇が眼帯を跳ね上げ、その黄金の縦瞳を「ギュッ」と収縮させたことに由来する、死を告げる音であった。

 

シュパァァァンッ!!

趙雲のすぐ隣にいた旗振りの兵が、何が起きたのかを悟る間もなく、その肉体を「斜めにスパッ」と断ち切られた。防壁となるべき盾も、厚手の革鎧も、一切の抵抗を許されず、ただ滑らかな断面を晒して上半身が地面へと滑り落ちる。

 

「な……ッ!? 矢も、投石も、何も見えなかったぞッ!?」

新野の兵たちが動揺に包まれる。目に見えぬ一閃。音速を超えて放たれる高圧の流体カッターは、彼らには悪魔の呪いにしか見えなかった。趙雲自身、頬を冷たい何かが掠めた瞬間、背後の大樹が音もなく切り倒されるのを見て、背筋に冷たいものを感じていた。

(……軍師の言った通りだ。……まともに受けては、息を整える隙すら与えられぬ!)

 

「……衆寡(しゅうか)敵せずッ! 退け、全軍退けッ!!」

孔明の命に従い、趙雲は断腸の思いで馬の首を返した。

常勝の士としての矜持を泥に塗れさせ、無様に背中を見せて逃げる。

 

「……逃がさんッ! 追え、一兵たりとも生かして帰すなッ!」

夏侯惇が咆哮し、十万の黒い軍勢が雪崩のように博望の狭間へと流れ込んでいく。

趙雲は、逃げる背中を襲う「パキィィィィン」という音に怯えながらも、執拗に立ち止まっては応戦し、再び「退け」と命じては逃げるという、屈辱の「誘引」を繰り返した。

 

一里、二里……。

新野軍が逃げるたびに、曹操軍の縦列は細長く、蛇のように博望の谷間に伸び切っていく。

軍の後方を守る李典と于禁が、その「伸び切った陣」の危うさに気づき、馬を並べて夏侯惇の元へ駆け寄ったのは、月がいよいよ高く昇り、深い静寂が辺りを支配し始めた深夜の事であった。

 

「……元譲殿ッ! 待たれよ、追撃が過ぎまするッ!」

李典が、月光に浮かび上がる予山と安林を指差して叫んだ。

「『難道行くに従って狭く、山川あい迫って草木の茂れるは火計の恐れあり』と兵法の初歩にもありまするッ! 夜の山林は敵の隠れ場。一度軍を止め、地形を確かめるべきですッ!」

だが、夏侯惇は止まらない。彼の黄金の瞳は、はるか前方に翻る趙雲の白銀の鎧だけを、飢えた獣のように捉え続けていた。

「……火計だと? 笑わせるな、李典。……わが魔眼がある限り、伏兵など一瞥で塵に等しくなる。……龍を捕らえる機会は、今しかないのだッ!!」

夏侯惇の全能感。それは、自らの肉体が「人を超えた」という絶対的な確信から来る傲慢であった。

曹操軍の先鋒、中軍が、次々と博望の深淵へと吸い込まれていく。

 

その光景を、はるか高台から、羽扇を動かさず見つめる男がいた。諸葛孔明である。

「……趙子龍という獲物を前に、追わずにはおれますまい、夏侯元譲。……貴殿のその『傲慢』こそが、この地を焼き尽くす最上の火薬となるでしょう」

孔明の瞳には、月光よりも鋭い、冷徹なまでの勝利の確信が宿っていた。

彼が羽扇をゆっくりと振り下ろした瞬間、博望の森が、意志を持ったかのように咆哮を上げた。

 

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