建安十三年(二〇八年)、六月。
深夜の博望坡は、月光に照らされた静寂を、十万の軍勢が踏み鳴らす地響きによって粉々に打ち砕かれていた。
「……退け! 全軍、奥へ退けッ!」
趙雲の叫びが、狭隘な谷筋に木霊する。常勝の誇りを捨て、無様に背中を見せて逃げるその姿は、夏侯惇の黄金の瞳に「脆き人間の末路」として映っていた。
「……ハハハッ! 逃げ惑え、小虫どもめ。貴様らの軍師とやらも、今頃は腰を抜かして震えている頃よッ!」
夏侯惇が吼える。その全能感は、もはや制御不能な暴力となって曹操軍を加速させていた。だが、軍の後方を守る于禁と李典の顔面は、蒼白に染まっていた。
「……いかん。もはや引き返せぬ距離だ。……元譲殿、止まれッ! 止まってくれッ!!」
李典の叫びは、夜の風に掻き消された。
その時である。
はるか高台、暗雲の影から月が顔を出した瞬間、諸葛孔明が静かに羽扇を振り下ろした。
ドォォォォォォォンッ!!
天地を揺るがす爆鳴。
博望坡の両脇、予山と安林の茂みに隠されていた火薬の壺が、関平と劉封の手によって一斉に火を吹いた。
乾燥した初夏の草木は、爆炎を喰らって瞬時に猛火へと変貌し、蛇のように伸び切っていた十万の軍勢を、その中ほどから文字通り「断ち切った」のである。
「――今だッ! 義なき闇を焼き尽くせッ!!」
安林の闇から、張飛が千五百の精鋭と共に躍り出た。蛇矛が振るわれるたび、火に巻かれた兵たちが紙細工のように吹き飛ぶ。
時を同じくして、予山からは関羽が降りてきた。彼の青龍偃月刀が大きく弧を描くたび、混乱する曹操軍の後陣が、首と胴を泣き別れさせていく。
関羽は不敵な笑みを浮かべたが、その背筋を、拭い切れぬ「違和感」が撫でた。火に焼かれているはずの敵兵たちが、一切の声を上げず、ただ異様な臭いを発しながら塵となって消えていく。以前、曹仁を破った際の戦いをも上回る、人知を超えた不浄の光景であった。
「……勝ったぞッ! 軍師殿の策が当たったッ!」
伏兵の任務を終え、本陣付近まで戻ってきた趙雲と合流した諸将。
だが、勝閧を上げようとした彼らの言葉は、一瞬にして凍りついた。
パキィィィィン!
水晶が割れるが如き、透き通った破砕音。
その直後、燃え上がる巨木が「斜めにスパッ」と断ち切られ、炎の中から夏侯惇が姿を現した。まるで燃え盛る地獄の扉を、その剛腕でこじ開けて現れた魔神の如き威容であった。
「……諸葛孔明……。……よくも、……よくもこの俺をここまで熱くしてくれたな……ッ!」
夏侯惇が吼える。
「……子龍、どうした。……たかが一将が生き残っただけではないか」
張飛が問うが、趙雲の指先は震えていた。
「……見えなかったのです、雲長殿、翼徳殿。……あの男は、……あの眼を開いた瞬間、何も持たずに、遠くの兵を『切断』したのです」
趙雲の「武人の勘」は、今、目の前にいる存在が、これまでの戦歴で出会ったどの猛将とも違う、説明のつかない戦慄そのものであることを告げていた。
パキィィィィン!
あの、水晶の破砕音。
音がまだ鳴りやまぬ間に、趙雲と夏侯惇を結ぶ直線上にいた、歩兵三人の肩口から胸が斜めに切断され、滑るように落ちていった。
「……ここは一旦、退きましょう。……これ以上は、無用な犠牲を増やすだけです」
陣の奥底、諸将の背後に立っていた孔明が、羽扇を閉じて冷徹に告げた。
「退けだと!? 敵は一人、火の中に孤立しているのだぞッ!」
張飛が激昂するが、孔明はそれを静寂を湛えた瞳で受け流した。
「……見なさい、翼徳殿。……奴の瞳孔を。……あれはもはや、人の営みでは測れぬ『圧力の檻』だ。……今は退きなさい。……奴の底は、既に見えました」
孔明の言葉を背に、劉備軍は孔明の初陣にして、勝利の絶頂から「二次敗走」という名の奈落へと突き落とされた。
逃げる背中を追うのは、燃え盛る森の轟音と、夜の闇を切り裂く不気味な水晶の破砕音。
だが、退却する馬上の孔明は、混乱する将たちとは対照的に、氷のような冷静さを保ちながら、胸中で密かな決意を固めていた。