第七章:長坂の地獄、民を背負いし覇道
建安十三年(二〇八年)、夏。
博望坡を焼き尽くした火は消えたが、中原を覆う暗雲はいよいよ厚く、不吉な鳴動を伴って南へと動き出していた。
許都、司空府の本陣。
かつてない重苦しい沈黙が、謁見の間を支配していた。その中心で、一人の猛将が、自らを太い縄で縛り上げ、冷たい石畳に額を擦り付けていた。
――夏侯元譲である。
「……丞相。……この元譲、万死に値する醜態を晒しました。……十万の精鋭を失い、あまつさえ……あまつさえ、丞相から賜った至宝、わが黄金の魔眼を……。……もはや、死を以てお詫びする以外、道はございませぬッ!」
夏侯惇の声は、慟哭に近い震えを帯びていた。かつての傲慢なまでの威容は失われ、眼帯の下からは、波紋によって内側から焼けただれた眼窩が、不気味などす黒い変色を晒している。吸血鬼の再生能力をもってしても癒えぬ「波紋傷」が、彼に刻まれた消えぬ屈辱の証であった。
壇上、漆黒の帳の奥に座す曹操は、長い間、一言も発しなかった。その静寂は、雷鳴よりも激しい圧となって、居並ぶ将たちの心臓を握り潰さんばかりに迫る。
「……面を上げよ、元譲」
曹操の声は、驚くほど静かであった。怒りも、失望も、あるいは憐れみさえも感じさせぬ、氷のような無機質な響き。
夏侯惇が恐る恐る顔を上げると、曹操は帳を払い、その鋭すぎる双眸で従弟の無惨な姿を射抜いた。
「……よもや、貴様のその眼の理(ことわり)を、わずか数日で解き明かす人間が現れるとは……。……諸葛孔明、やはりただの儒学生ではなかったということか」
曹操はゆっくりと立ち上がり、夏侯惇の傍らまで歩み寄った。
「……丞相、お斬りくださいッ! この元譲、もはや丞相の剣として戦う資格は……ッ!」
「……案ずるな。……お前なら、片目で十分だ」
曹操の手が、夏侯惇の肩を静かに、しかし抗えぬ力で叩いた。
「……魔眼という『異能』に溺れ、自らの武の本質を見失っていたのは、貴様だけではない。……我ら吸血鬼帝国そのものの、慢心であった。……元譲よ、眼を失った今こそ、貴様の『武』を研ぎ澄ませ。……孔明の首を獲るまで、死ぬことすら許さぬ。……再びその背を見せるようなことがあれば、その時は我が手で、その首を跳ねてやろう」
「――ははッ!! 命に、代えてもッ!!」
夏侯惇は石畳に頭を叩きつけた。その額から滲む血は、もはや恐怖によるものではない。自分を捨て駒とせず、再び戦場へと解き放った魔王への、狂気じみた忠誠心であった。復讐の隻眼となった夏侯惇の内に、魔眼を失う前よりも遥かに苛烈な執念が宿った瞬間であった。
時を同じくして、荊州・襄陽。
病床に伏せる劉表を見舞うため、新野から劉備が駆けつけていた。
廊下を進む劉備の背中を、物陰から射抜くような憎悪を持って見つめる男がいた。
――蔡瑁である。
(……あの野郎、まだ生きてやがるのか。しぶとい小虫め……。一刻も早く殺さねば、劉表が血迷ってあの男を後継に選んでしまう……)
劉備の姿が消えた後も、蔡瑁の指先は微かに震えていた。その震えは、憎悪だけではない。自らの魂を売った「あの日」の、骨の髄まで凍りつくような記憶が呼び覚まされたせいだった。
それは数年前、襄陽の会が開かれるよりさらに前の、深夜の出来事であった。
蔡瑁が何かの気配に目を覚ますと、寝室の闇の中に、見知らぬ老人が一人の下男を連れて立っていた。
「……深夜の訪問を許せ。……某(それがし)は司空府の使い、程昱と申すもの。……貴君の軍才を見込んで、推挙に参った」
「……司空府の、程昱だと……? 狂ったか、ここは劉表様の寝所も近いのだぞッ!」
(出会えッ!!)
蔡瑁が叫ぼうとした瞬間、程昱の眼が紅く発光し、蔡瑁の声を喉の奥で氷つかせた。
「……いずれ司空府は大水軍を作り上げる。その水軍大都督の座を、すべて貴殿にお任せしてもよいのだが……」
「……断る。劉表様を裏切るなど……」
「……では、依頼の方法を変えるとしよう。……これは『命令』だ」
程昱の指先が、隣でおびえていた下男の首筋に、音もなく突き立てられた。
「……な、……何をッ……!?」
蔡瑁の眼の前で、下男の体からみるみるうちに血の気が引き、豊かな肉が削げ落ちていく。絶叫すら許されぬまま、下男は一瞬にして、命の滴り一つ残さぬ骨と皮の塊へと変貌し、絶命した。
「……ひっ、……あ、ああ……ッ!!」
「……貴様と貴様の妻子、こうなりたくなかったら、某の命に従うのだ。やりおおせれば、我らの水軍の大都督の座を約束しよう。……まずは近く開かれる襄陽の会。……そこで、劉備を暗殺するのだ」
程昱の、人間のものではない冷徹な声。
蔡瑁はその夜、吸血鬼という「異形」の暴力に屈し、家畜の管理職として生きる道を選んだ。
(……今度こそ、今度こそ仕留めてやる。吸血鬼帝国の力に抗える人間など、この世にいてはならんのだ……!)
劉表の死期が迫る中、蔡瑁のどす黒い野心と、背後に控える五十万の南征軍の影が、荊州の平穏を完全に塗り潰そうとしていた。