建安十三年(二〇八年)、八月。
荊州を覆う湿った風が、一人の男の命の灯火を静かに吹き消そうとしていた。
襄陽の奥御殿。重苦しい香の匂いが立ち込める中、劉表は誰にも看取られることなく、孤独な最期を迎えようとしていた。かつて「江夏の八俊」と謳われた面影はなく、その頬は削げ落ち、瞳は虚空を彷徨っている。
「……琦(き)よ……。玄徳よ……。この……荊州を……」
かすかな掠れ声が、喉の奥で潰えた。それが、この地を長年治めてきた太守の、最期の言葉であった。
その枕元に、音もなく影が歩み寄った。蔡瑁である。彼は主君の死を確認すると、悲しみの色一つ見せず、懐から一巻の白絹を取り出した。
「……案ずるな、劉表。貴様が可愛がっていた嫡子・劉琦も、いずれ同じ道へ連れて行ってやる。……新しい時代は、曹丞相のものだ」
蔡瑁の口角が、どす黒く歪んだ。彼は手慣れた手つきで劉表の筆跡を完璧に模し、遺言状を書き換えていく。そこには「長子の劉琦を廃し、次子の劉琮を後継とする。そして、速やかに曹丞相に降り、荊州の安寧を願う」という、程昱の描いたシナリオが寸分違わぬ文言で綴られた。
数日後。襄陽の広間に集まった諸将の前に、蔡瑁は慇懃な面持ちで姿を現した。
「……劉太守の遺言である! ……後継は次子、劉琮様! そして我ら荊州は、天命に逆らわず、曹丞相の軍門に降るものとするッ!!」
広間は水を打ったような静寂に包まれ、次いで激しい動揺が走った。
「馬鹿なッ! 劉太守がそのようなことを仰るはずがないッ!」
「戦わずして、あの簒奪者に国を差し出すというのかッ!?」
忠義に篤い将や官たちの叫びを、蔡瑁は鼻で笑った。
「……文句がある者は、北から迫る五十万の軍勢を前に言うがいい。……劉琮様、ご決断を」
蔡瑁の甥である若き劉琮は、叔父の放つ異様なまでの威圧感に抗う術を持たなかった。震える手で降伏の書状に印を押し、ここに荊州という広大な大地は、一矢も報いることなく曹操の軍門へと下ったのである。
一方、新野。
この最悪の報せが届いたとき、劉備の幕舎には凍りつくような緊張が走った。
「……劉琮が降伏し、曹操の五十万が既に宛まで迫っているだとッ!?」
張飛が机を叩き割り、関羽の青龍偃月刀が怒りに震える。劉備は拳を握りしめ、苦渋に満ちた表情で孔明を見た。
「……先生。……もはや、新野は守れまい。……だが、私を信じてついてきた数万の民を、曹操の無慈悲な刃の前に見捨てるわけにはいかぬのだ。……どうすれば……?」
孔明は羽扇を静かに動かし、その瞳に底知れぬ沈黙を宿らせた。
「……新野を捨てます。……ですが、ただ捨てはしません」
孔明は、幕舎の隅に山と積まれた「鉄の杭」の山を指差した。鈍い金属光沢を放つその表面には、何らかの奇怪な模様が刻み込まれている。
「……子龍殿、翼徳殿。……兵を出し、この杭を城内の指定の座標に、寸分違わず穿ちなさい。……なぜか、とは聞かぬことです」
孔明はそう告げると、懐から懐紙を取り出し、広げた。そこには新野の城の見取り図が描かれ、数多の地点に、針の先で突いたような緻密な「印」が付けられていた。
「これをお持ちなさい。印のある箇所すべてに、一本残らずです」
図面を受け取った二人は、そこに記された、陣形とも呪術ともつかぬ異様な配置に目を見開いた。
「……曹操の先遣隊がこの城に足を踏み入れた瞬間、新野は彼らの墓標となるでしょう。……準備を急ぎなさい。民を連れての撤退は、一刻を争います」
意味の分からぬ杭の山と図面を前に、諸将は戸惑いながらも、軍師の瞳に宿る不気味なほどの「確信」に押され、各々の持場へと散っていった。孔明は独り、闇に沈む城を見つめ、静かに呼吸を整えた。
すべてを捨て、すべてを焼き尽くす。
その背後で蠢く巨大な「理(ことわり)」の実験が、今、静かに始まろうとしていた。