運命の日は、重く湿った雨と共に訪れた。
潁川の街を濡らす雨脚は、路地裏の小さな薬舗に漂う、あの清廉な薫りさえも押し潰そうとしていた。
石徳は、いつものように薬研の前に静かに座っていた。その背後に、数人の男たちを引き連れた王景が、泥塗れの靴で土足のまま踏み込んだ。
「……じいさん。今日こそ、あの『れい……れいさい何とか』の配合を教えてもらおうか。……親父も俺も、もう我慢の限界なんだよ」
王景の腰には、趣味の悪い金細工を施した短刀が、主の品性を象徴するように下卑た光を放って揺れている。石徳は、静かに薬を擂(す)る手を止めた。
「……若旦那。何度お越しいただいても、答えは同じだ。……この薬は、弱った心に寄り添うためのもの。……金儲けの道具にされたなら、その効能は毒に変わる。……人の命を算盤の玉にする者には、渡せぬよ」
石徳の言葉は、穏やかだが、鍛え抜かれた鋼のように硬かった。それが、王景の稚拙な自尊心を逆なでした。
「……毒だと? ……俺たちを、見下しているのかッ!」
ドガッ!!
王景の無造作な蹴りが、石徳の痩せた胸を捉えた。
老いた肉体が紙屑のように吹き飛び、棚に並んでいた薬壺が音を立てて砕け散る。床に散らばった薬草の清々しい香りと、王景が撒き散らす暴力の脂臭さが混じり合い、吐き気を催すような異臭を放つ。
「……書けッ! 配合をここに書けッ!!」
王景は石徳の白髪を乱暴に掴み上げ、床に叩きつけた。だが、石徳の瞳には、死の恐怖ではなく、ただ王景の魂の貧しさを憐れむような、深い慈悲だけが宿っていた。その眼差しが、王景を狂わせた。
「……その目だ! その目が、俺を苛つかせるんだよッ!!」
ズシュッ……!!
王景は、反射的に短刀を抜き放ち、石徳の胸を深々と貫いた。
「……あ……が……」
石徳の口から、鮮血が溢れる。自分が何をしたのか、王景はその瞬間まで理解していなかった。血の不気味な温かさ。指先を通じて伝わる、生命が急速に逃げていくあの嫌な感覚。
「……し、死んでねえよな……おい……ッ!」
王景は己の仕業に怯えるように店を飛び出した。
後に残されたのは、血の海の中で、愛弟子の如く慈しんでいた二人の若者の名を呼びながら、静かに息を引き取る老人の骸だけだった。
その夜。
変わり果てた石徳の遺体と対面した単福と石広元は、一言も発さなかった。広元の喉の奥から漏れる嗚咽さえ、単福の心には遠い鳴動のようにしか聞こえない。単福の視界には、ただ石徳の白い衣を赤く染めた、あの「不条理な血」だけが、網膜に焼き付いて離れなかった。
「……広元。……役人に訴えても、萬金堂の金で揉み消されるだけだ」
単福は、棚から一本の撃剣を手に取った。
それは石徳が、かつて武芸を志す単福のために「これで自分の身を守りなさい」と、生活を切り詰めて贈ってくれたものだった。
「……法の外側へ行く。……あいつを、この手で裁く」
広元は、震える手で涙を拭い、単福の横に立った。
「……俺も行く。……叔父上が守ろうとしたこの薬の香りを、あんな奴らに汚させはしない」
雨がさらに強くなる。
二人の若者は、夜の街を疾走した。向かったのは、華やかな灯りが漏れる王家の牙城『萬金堂』。
シュンッ!
暗闇の中、単福の撃剣が閃いた。
王景を護衛していた二人の手下が、声を上げる間もなく喉元を射抜かれ、泥の中に沈む。
「……誰だッ!」
奥座敷で酒を酌み交わしていた王景が、真っ青な顔で立ち上がった。その目の前には、全身を雨に濡らし、氷のような殺気を放つ単福が立っていた。
「……単……福……。ま、待て……! 金なら出す……ッ!」
「……金で命が買えると、本気で思っているのか」
単福の言葉は、王景の首筋に突き立てられた刃よりも冷たかった。
電光石火。
単福の撃剣が、王景の心臓を、一寸の狂いもなく貫いた。
「……石徳様は、お前のような男にさえ情けを説いた。……その尊さを、冥府で思い知るがいい」
王景の絶命を見届けた単福は、感情を殺したまま、静かに剣を引いた。
降りしきる雨は、剣の血を洗い流したが、単福の心に刻まれた「闇」は、二度と消えることはなかった。彼らはその夜、石徳の仇を討ち果たした。だが、その代償として、彼らは「法」という光の世界を自ら捨て、暗い暗い運命の淵へと足を踏み入れたのである。