建安十三年(二〇八年)、九月初旬。
新野の城内のいたるところに、一文の高札が掲げられた。
『領下の者、悉(ことごと)く避難にかかれ。領主に従いて難を避けよ。遅るる者、曹操がため必ずや皆殺しにならん』
民が家財を抱え、泣き叫びながら街を去って三日後。
新野の城門は、不気味なほど無防備に開け放たれていた。
北門から、地響きを伴って押し寄せた曹操軍の先遣隊、十万。その先頭に立つ曹仁は、漆黒の馬上で眉を顰(ひそ)め、静まり返った無人の街並みを睨みつけた。
「……鼠どもめ、逃げおったか。一矢も報いず捨てるとは、口先だけの腰抜けに過ぎぬな」
曹仁の嘲笑に合わせ、屍生人たちが声を上げず、城内へと雪崩れ込んでいく。彼らにとって、放棄された城は単なる通過点に過ぎないはずだった。
だが、曹仁が城内の壁に目をやった瞬間、その戦士としての本能が、未知の恐怖を察知して激しく脈打った。
「……何だ、これは?」
城壁沿いの地面のそこかしこに、奇怪な幾何学模様が刻まれた「鉄の杭」が深く穿(うが)たれている。
模様は見たこともない緻密な図形であった。さらに視線を巡らせれば、それらの杭は複雑な物理的位置関係を保ち、城全体を網の目のように繋いでいるように思える。
キィィィィィィィン……。
人の耳には聞こえぬはずの、鋭い高周波の音。そして、目の錯覚だろうか。それぞれの杭に刻まれた幾何学模様の部分が、何やら青白く発光しているように見える。
「……呪い(まじない)か? いや、それにしては大がかりすぎる。……総員、止まれッ! 何かがおかしいッ!!」
曹仁の叫びは、遅すぎた。
一方、そのほんの少し前。
騒乱の渦中にある北門とは対照的に、人影の絶えた南門の外、十七丈(約五十メートル)ほど離れた静寂の中に、孔明と趙雲が二人だけで立っていた。
「……子龍殿。ここから、あの鉄杭に当てることはできますか?」
「軍師殿、私を侮られましたな。通常の矢で的があの太さなら、まず外しません」
「では、これを」
孔明は一度深く、長く深呼吸をした。肺を鳴らすその波紋の律動は、指先から一本の矢へと静かに注ぎ込まれた。
趙雲が放った矢は放物線を描き、南門の梁(はり)に打たれた鉄杭の幾何学模様へと吸い込まれた。
カキィィィィィィィン!!
硬質な接触音。刹那、闇の中で幾何学模様の中に青白い光が走り、その光は次の杭を求めて城内を駆け巡り始めた。
光は幾重にも、何周も回路を回り続けるうちに、鉄杭は次第に熱を持ち始めた。その熱が発火点を超え、杭の根元に巧妙に隠された火薬、さりげなく偽装して置かれていた藁や枯れ木へと次々に引火していく。
「な……火計かッ! 退け、全軍退けッ!!」
曹仁が叫ぶが、そこかしこで火の手が上がり、退路を塞ぐように炎の壁が立ちふさがる。
しかも、逃げようとする兵たちの足元では、連鎖する波紋の伝導が「見えない檻」となって空間を歪めていた。
キィィィィィィィィィィン!!
今や耳を劈(つんざ)くような高周波の音が、新野の城壁を駆け巡る。
「な……ッ! 身体が……熱いッ! 焼けるッ!!」
爆炎が広がる以上に早く、屍生人たちの肉体が内側から白光を放ち、蒸発を始めた。
「……これは、理(ことわり)だッ!!」
絶望的な焦熱の中、曹仁は死に物狂いで、土に穿たれた杭の一本を力任せに叩き折った。
バキィィィィン!!
一箇所の欠落。それにより黄金の回路が遮断された瞬間、波紋の連鎖が止まった。
「……今だッ、活路を開けッ!」
曹仁は全身を焼き、顔半分をただれさせながらも、生き残った数名の部下と共に、燃え盛る地獄図絵と化した城から命からがら脱出した。
(雪の舞い散る新野で行われた、孔明が劉備に課した第二の試練。それを見届けた孔明が、劉備に対し『二ヶ月後』を指定したのを覚えておられるだろうか。……あの二ヶ月こそ、出廬すれば研究に割く時間は一刻もなくなると予見した孔明が、寝食を忘れて研究を重ねていた、修行なき者が大軍を滅ぼすための『広域波紋増幅理論』を完成させるために要した時間だったのである。今、孔明の探求と執念がここに結実したのであったッ!)
「……実験は、成功ですね」
新野の城が黄金の火葬場と化し、夜空を焦がす様を背に、趙雲と共に馬を駆る孔明が、はるか遠くに民を引き連れて撤退する本隊を追って呟いた。
その瞳には、次なる戦場への冷徹な予感だけが宿っていた。